母の日。

2005年5月8日
ということで、夕食は家族で、レストランへ。
もぷダイエットの事は考えずに、刺身から始まって焼き鳥。寿司、釜飯、ソフトクリーム二個とたんまり食べる。

母親に、「母の日おめでとう!」というと、母の日とは、普段の労をねぎらう日であって、祝福する日ではない!と諭される。

まったく持ってその通り。
僕はいつ頃からテニス雑誌を買い始めたかというと、中学2年ごろから。中学一年〜3年までは、ソフトテニスマガジンも通読してた。

中学2年で、高校になったら硬式をするんだと決めた時点で、僕はテニス雑誌を買いだした。最初は、あらゆるテニス雑誌を買っていた。そう、小遣い全部テニス雑誌。さすがにこれは高くつくし、その量も尋常じゃなくなってきて、しぶしぶ雑誌を絞ることにした。選んだ雑誌はその当時は月に二度出ていた唯一の雑誌、テニスマガジン。
他のやつは、内容によって買ったり買わなかったりすることにした。

僕が持っている一番古いテニス雑誌は93年のやつ。これは軟式も硬式もわからずに初めて買ったやつで、その後ブランクをおいて、本格的にかい出したのは、94年から。

もちろん膨大な量になっているけど。全部保存してある。
当時の雑誌を全部引っ張り出して読み返してみると、かなりいろいろ面白いことがわかる。

94年は、ちょうど伊達公子が快進撃をしだした年だった。日本人として始めて世界ランク10位に入った。
そして、テニス界が個性がないということで、つまらないと危惧されていた時代でもあった。テニス協会はルールを変えようとしたり、色々試行錯誤していた。確かにあの当時のテニスは、今に比べて非常に退屈だった。ウインブルドンなんて、ほとんどサービスエースばっかりだし。
サンプラスを筆頭に強烈な個性というものが薄いキャラが多かった。

でも、今のテニスはものすごく面白くなってる。人気も復活してる。テニス業界の心配は杞憂に終った。
94年に比べて、ラリーが多くなった。ラケット技術が向上して、以前よりも平均サービススピードは上がってるのに、リターン力も選手全体上がっている。94年のときは、200キロのサーブはビックサーブだった。今はそのくらいのスピードで打つ選手はざらにいる。ロディックなんて、249キロのサーブを記録してる。

今のテニスは、あの頃の個性の枯渇が嘘なくらいに個性の宝庫だ。ミスターパーフェクトのフェデラー。脅威のフットワークと精神力のヒューイット。爆裂サーブのロディック。破天荒なサフィン。の四強を筆頭に様々さ個性が噴出してる。
グランドスラムの観客動員数も毎年、記録を塗り替えている。テニスの人気を危惧するものなど、今やいないだろう。

さて、94年あたりは、今のスター選手がジュニアとして可愛い姿で映っていたり、思わぬマイナー大会に出ていたりして面白い。
今、トップ10に入っているティム・ヘンマンが、日本のダンロップマスターズで、本村剛一に負けているのを見たりするにつけ、何かえもいわれぬ感動と驚きがある。

マニアならではの愉楽ではあるが。

実家

2005年5月7日
猛烈な偏頭痛が爆裂しているので、街に出て、まずは、偏頭痛用の薬を買う。ナロンエース。薬局で飲ませてもらう。速攻効く。良い薬だ。最強だ。

実は、まったく眠れていないので、実家に帰省して一番にする事は、睡眠。
とにかく、眠る。といっても、長くは眠れない。夜の10時から、テニスなので、夕食まで眠ることにして、3時間くらい。
起きて、晩飯。プチステーキで久々の牛肉。

テニスの中継が始まるまでに、押入れから昔のテニスマガジンを引っ張り出す。ホコリがまって、くしゃみ鼻水かじおやじ。

夜の10時からテニス。今回は失敗もせずにちゃんと録画できそう。
今夜はオールナイト。

帰省

2005年5月7日
二日ほどテニスのテレビをビデオに写すために帰省します。
ちゃんと勉強もするよ(笑)
DVD 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン 2003/10/24 ¥1,869
物質転送装置の実験中の事故でハエ男と化してしまった科学者セスとその恋人ベロニカの悲恋を描いた『ザ・フライ』の続編。監督もデヴィッド・クローネンバーグからクリス・ウェイラスにバトンタッチされている。
セスの子どもを宿していたベロニカ。しかし、そのおなかから生まれてきたのは、なんとハエの卵であり、その卵の中には男の子が入っていた。マーティンと名付けられ研究所に幽閉されて育てられたその子は、わずか5年で青年(エリック・ストルツ)に成長するが、やがて彼の身体にもハエ男の兆候が現れ始める…。
前作よりもB級SF怪奇映画としてのテイストが強まっているが、おのれの呪われた運命を克服しようともがく若者の青春映画としての側面も一応はあり。

子供心に衝撃だったのが、前作のヒロインが、子供産んですぐに死んじゃうこと。
これまた前作同様、恋愛がらみなんだけど、前作とは違いハッピーエンド。ただ、前作以上にグロテスク。
でもこの若い主人公が実にいい青年で、といっても5才なんだけど。
疑問、助かったあとの青年の成長は普通になるのだろうか?
本作も前作にまけず劣らず、良い出来だと思う。

痛い痛い痛い!

2005年5月6日
また偏頭痛に見舞われた。
どうやら僕は強い人口の光に弱いらしい。
ものすごく痛い。勉強もできやしない。頭や目の周りをひたすらマッサージして、全部の電気を消して目をつぶる。眠たくないときにhwん頭痛に見舞われるほど嫌なことはない。僕の場合偏頭痛は眠らないとほとんど治らない。眠るとは熟睡。
だから、眠くないときに偏頭痛に見舞われると、苦しい。
今日は、腹式呼吸したり、とにかく、色んなことしながら、のた打ち回った。
何時間かして、だいぶ収まってくれたので、机の電気だけつけて、テキスト開いたけど、どうにも駄目だ。
今日記書いてるけど、このあと寝なきゃやっぱ駄目だ。
DVD 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン 2002/02/08 ¥2,625
2基の離れた機械を用いて、一方からもう一方へと物質を転送させるという画期的な装置を発明した科学者のセス。しかし、自らの肉体で実験を行ったとき、装置内に入り込んでいた1匹のハエとともに転送されたことから、やがて肉体と精神に異変が起こり始める。
58年の名作ホラー映画『蝿男の恐怖』を、当時最先端のSFXを駆使してリメイクした。アカデミー賞メイクアップ賞を受賞するとともに、その後のホラー映画に多大な影響を与えた意欲的秀作だ。異形のものに執ようにこだわり続けるデヴィッド・クローネンバーグ監督の個性が、最もメジャー的に花開いた作品でもあろう。次第に蝿男と化していく主人公の苦悩と狂気を、実力演技派ジェフ・ゴールドブラムが熱演する。

これ見てから、ゴールドブラムの顔が、強烈に記憶に植え付けられた。名演技してると思う。蝿男にうってつけの濃い顔してるし。
かなりグロテスクだけれど、出来は良いと思うし、ただのホラーではなくて、悲しいお話になってる。
何回も見ました。
眠たいはずなのに、珍しく眠ることが出来ずに、朝まで読書してしまった。勉強に対する軽い逃避だな。

今日はいつもならテニスクラブの日だが、ゴールデンウィーク休み。だけど、ちょっと用事があって、街に出る。ロト6の換金。1000円。んで、また買う。
本屋によって、溜まっている何かを吐き出すかのごとく本を衝動買い。

勉強からの逃避。いかんなあいかん。
帰宅後、床につくも、5時間で目覚める。いつもの平均睡眠時間の半分。不満足で眠たい。でもこれ以上眠れない。
ISBN:4167665034 文庫 吉田 修一 文芸春秋 2004/10 ¥410
停車してしまった日比谷線の中で、間違って話しかけた見知らぬ女性。知り合いのふりをしてくれた彼女は同じ駅で降り…。東京のド真ん中「日比谷公園」を舞台に男と女の「今」をリアルに描く、第127回芥川賞受賞作。

日比谷公園付近に住んでいる人には、親近感沸きそうな作品。文章自体は、上手いのだと思う。比喩を用いた心理描写は、村上春樹よりもくどくなくて好きだ。
表題作のパークライフは、男女というか、人間同士の距離感が上手く表せていたと思う。でも、普遍小説というよりは、まさしく現代小説だなあと。
情景がすんなり頭に浮かんではくるが、その情景が少しリアリティーにかけドラマじみていた。

精神的余裕。

2005年5月4日
試験が近づいている。
プレッシャーに感じているつもりは毛頭ないのだが、実はかなり精神的余裕がないらしい。

ある人格障害の友人から、試験のことを言われて、ムキになってしまった。普段は受け流すことができるのに。う〜ん、自分としては認めたくないが、今の僕の限界はこんなところなのか。

自分も大切にしなきゃならない。最近そう思えてきてるし、そう思えてきている自分の考えが悪いとは思っていない。

自分ができることを精一杯やればいいんだ。

でも果たして自分が精一杯やっているのかいないのか、そこんとこ正確にわからない。

今冷静に考えれば、受け流すことも出来たかなあ。

自分が余裕のあるときに、他人の力になろうと、その余裕の分だけ振り分ければいいんだと思う。
今の自分が余裕がないのかあるのかも正確なとこわからんな。
精一杯やれていないとすれば、どこかに余裕を担保してるということか。いかんいかん。
DVD 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン 2005/04/28 ¥995
人々は快楽のみを追求し、退廃の極みに達していた紀元前のローマ。そんな折り、美少年ジトンを慕いながらも恋破れた学生エンコルピオ(マーティン・ポター)は、絶望の中でトルマルキオの酒池肉林の宴を楽しむが、その後で美少年狩りに遭い、軍船の中で同じく捕らえられた恋敵のアシルト(ハイラム・ケラー)と再会。やがて彼らは、貴族の退廃を目の当たりにしていく…。
古代ローマ詩人ペトロニウスによる原作を、イタリア映画界が生んだ巨匠フェデリコ・フェリーニ監督が壮大なスケールで映画化した問題作。ソドミズムやカニバリズムなどおぞましい要素を豪華絢爛たる映像美で描きつくすことで、現代に通じる痛烈な風刺を醸し出していく。その迫力には圧倒されるのみ。

紀元前のローマや、ギリシアってば、男性は少年を愛人とするのが習いだったようだね。
それにしても、う〜ん、退廃の極み。これを見たときは、なんて悪趣味なって思ったけど、今みても、やっぱりそう思うけど、古代の事は、よくわかりませんな。カニパリズムは、本当なのかしらん。
精神に対する肉体の優位。

快楽犯というものがひところ話題になったね。人を傷つけたり、殺したりすることに快楽を求めるらしい。それが性的な快楽なのかといえば、僕はそれに限定されるものではなく、興奮や、愉快な心地や、優越感など、様々な感情が入り混じったり、主体となったりする快楽のことをさしているんだと思う。
そして僕たちは、こぞって、気持ち悪いとか、信じられない、考えられないなどという非難、軽蔑の言葉を加害者に浴びせたわけだ。

しかし、加害者の行為の本質が、本当にありえないものであるといえるかどうかを、考えてみる。

加害者は、この場合、肉体的物質的な快楽犯となるわけで、自分の欲求や、精神を満たすために、肉体という物質に対して執着し、傷害し、快楽を得た。もちろん他人を傷つけたり、死に至らしめたんだから、紛れもない罪だ。法律上においても、自然法上においても。

では、自分の欲求や精神を満たすために精神的なものへ執着し、傷害し、快楽をえるという行為についてはどうだろう。

人間は、皆、快楽犯だと思う。多くは、精神的快楽犯。誰かを精神的に傷つけて、快楽をえている。中傷、偏見、虐め、迫害。
んで、自分も快楽犯であるのに、それに気づかずに、肉体的快楽犯がニュースに取りざたされたときに、信じられない、とか、気持ち悪いとかいう。いわば、肉体的快楽犯は快楽犯の中のマイノリティー。

肉体的なものに対する快楽犯と精神的なものに対する快楽犯、いったい何が違うのか?なぜ、一方は罪になり、一方は罪にならないのか?

肉体的なものへの加害者の行為はその「目的」が、精神的欲求の充足であり、その「手段」が、肉体の傷害へと向かったわけである。

精神的なものへの加害者は、「目的」は同じで、「手段」が精神的な傷害に向かっている。

つまり、「手段」が違うだけだ。という事は、罪の基準は手段ということになる。肉体と精神に決定的な価値の差異があるということになる。

精神に対する肉体の優位である。

しかし、本当に、精神よりも肉体のほうが重要であるのだろうか?

肉体を傷つけられれば、精神も傷つく。精神を傷つけられれば、肉体は傷つかない。しかしいずれにせよ精神は傷つく。
また、五体不満足であっても、健全な精神があれば、幸せを感じることができる。しかし、健全な体をもっていても、精神が傷ついていれば、幸せは感じられまい。

精神が人間のありようを決める。
だから、僕は肉体に対して精神は優越すると考えている。

法律に書かれたもののみが罪ではない。
肉体的な罪を責めるなら、精神的な罪も同等に目を向けるべきだ。
メディアで取り上げられた、残虐な事件に言及するなら、自分自身が同じ罪を精神的なものに犯していないか、自分自身気をつけておかなければならないだろう。
精神は、客観的に判断しにくいからこそ、さらに脆弱で、無意識に埋没しやすい。だから、蔑ろにしていいのではなく、だからこそ、さらに注意が必要なはずなのである。

他人の悪行をとやかく言う前に、僕たちは、自分自身の行動を振り返り、改善していかなければならないのだと思う。

肉体の快楽殺人犯を責めている自分が、気づかぬうちに、精神の快楽殺人を犯してしまっていたという自体を避けるためにも。

ちなみに、精神は肉体に優越するという僕の考えからすれば、精神的なものを傷つけて快楽を得る人のほうが、よっぽど恐ろしいと思う。
DVD ポニーキャニオン 2001/08/10 ¥5,565
1962年、カストロ政権になり、社会主義国権になったキューバに危機感を抱いた米国は、国交を断絶。キューバはソ連と手を組み、米国を直撃するミサイルを配備する計画を企てる。これを知ったJ・F・ケネディ大統領は、ある決断を迫られ…。
ケネディと側近がホワイトハウスで緊張感あふれるミーティングを繰り広げるという、全編ほとんど話し合いというディスカッション映画。にもかかわらず、下手なアクション映画よりもスリリングなのは、ホワイトハウスの内部に焦点を絞り、この窮地を政府はどう切り抜けたのか…という内部事情をリアルに描いているからだ。K・コスナーが大統領特別補佐官のオドネルを渋い演技で魅了。監督は『追いつめられて』のR・ロナルドソン。

ケビン・コスナー、そんなに好きな俳優ではないのだけれど、この作品では、大変良い仕事をしていると思われます。
緊迫感があり、かつ静かで上質な出来に仕上がっていると思う。あのケネディの歴史的な決断をこうやって、想像してみるのも、映画ならではの楽しみだよね。
法律の勉強なんかしててふと思ったけど、例えば法律に定められたことが罪なのではなくて、罪の中に法律が包含されてるというのが正しいはずだよね。
だから、もちろん、法にかかれていないことでも、罪となることはたくさんあって、よく耳にする、「法には触れてないんだからいいじゃないか」というのは、まったく人間の善の概念を蔑ろにした、まさに、法がすべての罪の根拠であるという考えであり、まったくもっていただけないのは、法の穴を掻い潜ってあらぬことをする輩が瀰漫するこの社会を見るにつけ一目瞭然。

さて、刑法を勉強していて、その制裁の対象が、ほぼ肉体的な侵害で占められているという事実。名誉毀損だとか、精神的なことに対する法規定は、相対的に見て、甚だ少ない(単に僕が勉強してなくて知らないだけかもしれないけど)。

精神的自由とは国がもっとも制約できない自由だけれど、それほどに大事であるはずの精神が侵害されたとき、守られる術が、肉体的侵害よりも少ないというのは、なんだか矛盾であるように思えてならない。

とは言いつつも、国も少しづつ、精神的な部分の法律の充足という必然性に迫られて、受益的な分野の進展は、知る権利だとかなんだとかで、結構進んできていると思われ、今後は、さらに規制的な分野も、具体化されなきゃいけなくなってくるんじゃないかと思う。

でも、精神的侵害の罪を規定するって、難しい。肉体的な侵害なら、客観的な判断基準が存在する。多くの人が危険だと思う、もしくは危害が加わったと思う行為は判断できるから。
でも精神的な事は以前も書いたけと、きわめて抽象的であって、どこからどこまでが、精神的侵害かってのは個人の人生も加味されるし、何より、それは個人でしかわからない絶対的なことだから、それを客観化し制裁のための規定を設ける事は限界があろうし、そもそもそれをしてしまったら、精神的自由の抵触につながるわけであって。
精神的侵害に対する対処が、そのまま精神的自由の侵害に当たるというジレンマを抱えるがゆえに、やはり、刑法にしろ他の法律にしろ、精神的な分野に踏み込みづらいんだろうなあ、なんて思った。
かなり前だけど、虐めで被害者を自殺に追い込んだとして、始めて、加害者に賠償命令を命じた判決があったよね。かなり踏み込んだなあ。ちなみに、精神的侵害を法で規制するにしたら、虐めによる自殺とかで、その原因の因果関係を認めたにしても、ほとんどが、過失致死みたいな判決になるだろうね。故意であっても、加害者にしかわかんないし。

だからこそ、法律じゃ縛れない精神的分野を守る術として、道徳や哲学なんかが存在しうるんじゃないかなあ、なんて。
でも、そういったものも今や危機に瀕して、貧すりゃ鈍す(これは違うか)、とにかく、法律だけを一つの道徳と見る向きがあるように感じて、そうすると、精神に対する肉体の優位。

あっ、その事はまた今度にでも書こうかな。
DVD ジェネオン エンタテインメント 2004/01/23 ¥4,935
スリに間違われたチャーリーが警官に追われて逃げ込んだサーカス団には、団長に責められてばかりの娘がいた。チャーリーに道化のセンスを感じた団長は、テストしてサーカスで雇おうとするが…。
『サーカス』は約2年の歳月をかけて製作された「芸」「ギャグ」「ドラマ」の三拍子がそろった傑作。特にタイトルから期待されるように、チャップリンの芸があますところなく披露されている。見世物小屋で人形になって動くパントマイムや、猛獣小屋でのライオンとの珍騒動は必見。猿に邪魔されながらの綱渡りシーンは、実際に安全網なしで綱渡りをしたという。存分に笑ったあと、ラストシーンでは彼の真実の愛に胸が痛くなる。1929年の第1回アカデミー賞授賞式で、製作、監督、脚本、主演を務めたチャップリンに特別賞が贈られた。

いやあ、すごい。チャップリンの捨て身の演技は、初期のジャッキー・チェンを凌駕していますな。
言葉がない分、動作のみで見せる技術は、並大抵の才能と努力では無理だと思われ。そしてそれが、今なお人々を感動させる代物でありつづけるということに僕は感動する。

右目の鈍痛

2005年5月1日
今日は順調に勉強していけてたのに、ちょっと休憩を取ったあたりから、右目が強烈に痛くなってきてこのまま偏頭痛に。

目薬差したり、肩をもんだり、薬を飲んだりしても一向に治らず、眠るしかないとベッドに横になっても、こういうときに限ってなかなか眠れず、タオルを鉢巻みたいに目に巻いて圧力で痛さをごまかしもがくことしばし、ようやく、眠りにつけたのであった。

ああ、苦しかった><
ISBN:4167693011 文庫 長嶋 有 文芸春秋 2005/02 ¥400
文學界新人賞受賞作「サイドカーに犬」と芥川賞受賞作「猛スピードで母は」がカップリングされた長嶋有の第1作品集。
「サイドカーに犬」は、語り手の女性が小学4年生の夏休みに体験した、母親の家出に始まる父親の愛人との共同生活を回顧(懐古)する物語。ムギチョコや500円札、パックマンといったアイテムとともに描かれる1980年代初頭の時代風景が懐かしさをそそる。父の若い愛人である洋子さんの強烈な個性と存在感は、「猛スピードで母は」の母親の姿と相まって、自立的で自由な新しい女性のイメージを提示している。「サイドカーに犬」というタイトルには、大人と子どもの間の微妙な距離感がメタファー(暗喩)として込められている。大人と子どもの相互的なまなざしの交錯が、すぐれて文学的な「間」を演出している。

「猛スピードで母は」は、北海道で暮らす小学5年生の慎と母親の1年あまりの生活を描いた作品。大人の内面にはいっさい立ち入らず、慎の視線に寄り添う三人称体による語りが、子ども独特の皮膚感覚や時間感覚をうまく描き出している。さまざまな問題に直面しながらも、クールに現実に立ち向かう母親の姿を間近で見ることで、自らも自立へと誘われていく慎の姿が感動的だ。先行する車列を愛車シビックで「猛スピード」で追い抜いていく母親の疾走感覚は、この作品のテーマに直結している。物語の結末で示される国道のシーンは、読者の心に強く残るだろう。

表題作と、「サイドカーに犬」、両篇とも繊細で、好感が持てた。
両作とも子供から見た親、子供と親の関係を扱っている。
大人の事情に直面するときの子供ごころ、その戸惑いや落ち着き、寂しさや逞しさを作者は上手く描いていて、僕の幼い頃を思い返しても、そんな感じだった、と感情に心地よく響いてくる。
「サイドカーに犬」は、幾分ノスタルジックでもあり、その分表題作よりも、好きかもしれない。
僕は生粋のロングスリーパーである。

1日平均10時間が寝ているし、寝なきゃ眠い。今日に至っては、日記を書く以外は眠っていたといっても言い過ぎではなく(これを書いているのは一日の昼^^;)、僕は異常なのか?っとネットで調べてみた。

アインシュタインも平均睡眠時間10時間と聞いていたので、アインシュタイン、睡眠時間、で検索してみると、面白い事がわかった。

以下引用
睡眠時間が6時間以内の人をショートスリーパーと呼び、一般に順応的、外交的、自信家の傾向があり、実業家タイプ。9時間以上の人はロングスリーパーで、内向的、苦労症、非順応的で、芸術や科学など繊細で創造的な仕事に向いているようです。

ショートスリーパーでは、3時間睡眠のナポレオン、4時間睡眠のエジソンがいます。アインシュタインはロングスリーパー派だったといわれています。ですから、頭がいい悪いは単純に睡眠時間と関係付けることはできないようです。

性格の違いと関係があるのは、その脳の使い方と関係しています。試行錯誤の必要だったアインシュタインは、脳を酷使していたといえます。疲れた脳を休めるためには、長い休息が必要なのです。逆に、ショートスリーパーは失敗に対してくよくよしない、悩みも少ないので脳を必要以上に使わないから睡眠が短くても平気というわけです。

実際には、これほど両極端な睡眠時間をとっている人は少なく、バリアブルスリーパーと呼ばれる型の人が大部分です。悩みがなく順調な時は、比較的睡眠時間が短く、落ち込んだ時は長くなるといった具合です。


なるほどなあ、当たってるかも。。。
DVD ソニー・ピクチャーズエンタテインメント 2004/06/23 ¥2,625
仕事の理想に燃えるスポーツ専門のエージェントをトム・クルーズが好演した、ロマンティックなヒューマン・エンタテインメント。提言書を出したばかりにエージェント会社をクビになったジェリージは、彼に賛同するドロシーとともに独自のエージェント活動を開始しようとする。しかし、そもそも彼が抱えていたスポーツ選手はほとんど元の同僚に奪われ、残ったのは落ち目のアメフト選手ロッドだけだった…。
ビリー・ワイルダー作品を敬愛するキャメロン・クロウ監督作品ならではの、理想と正義を追い求める主人公の姿がすがすがしい。ドロシー役レニー・ゼルウィガーとの甘いロマンスのくだりも嫌みなく、またロッド役のキューバ・グッディングJr.は本作で見事アカデミー賞助演男優賞を受賞した。

絵にかいたような逆転劇。人間の描き方が紋切り型で、悪い人間はとことん悪くて、んで最期には泣きを見る。と。

エゴ

2005年4月29日 僕の思ったこと
夏目漱石は、エゴイズムをどうやって倫理的に解決していけるかを模索しつづけていたらしいね。

目下僕の悩みもほぼ同じようなこと。

漱石は、晩年、則天去私という造語で到達点をみいだしたけど、結局自身の神経衰弱は治ることもなかったんだよなあ。彼ほどの人物でも悟りは啓けなったのか。
でも悟りを形を想像するまでにいたったのだとしたら、それはそれで凄い救いになったろうな。理想とは希望で、希望とは生きる上で、意味性を付与してくれるから。

エゴに苦しむのは、自分の人生や歴史というもの大半がエゴの物語だから。
記憶が桎梏となり苦しみつづけるのが人の生だし、一方で記憶があるから人間は人生の素晴らしさをかみ締められる。
記憶を捨てたいという欲求と持ち続けたいという欲求に、人は身動きが取れなくなり、苦悩してきたし、苦悩しつづける。

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