槇原敬之の作った歌の歌詞が、松本零士の漫画の台詞のパクリだとかいうような騒ぎがあってますね。
その騒動をみて、ふと思い出しました。

以前に僕は日記に書きましたが、槇原さんが作った「世界に一つだけの花」っていう歌ありましたが、そこに出てくるナンバーワンじゃなくそれぞれオンリーワンっていうニュアンス、僕の大好きな盲目の神父兼オペラ歌手の新垣勉さんがずっと以前から使っていた言葉なんですね。

そんで、テレビで新垣さんがドキュメント放送され、僕も見ましたが大変感動的で、長島茂雄や一茂なども絶賛し再放送もされ、かなり評判になってそれを機に新垣さんの知名度はぐっと上がり、CD発売や、コンサートの模様などもテレビで見る機会が増えました。
新垣さんが歌ったからか、その頃くらいから「さとうきび畑」の歌もテレビで頻繁に耳にするようになりました。

「世界に一つだけの花」が発売されたのは確かそれから少したってです。僕はその中で使われている「ナンバーワンじゃなくオンリーワン」という台詞に、槙原さんは新垣さんのドキュメントを見たに違いない、と思い日記にも書きました。

今回の件がパクリだとかパクリじゃないとかはよくわかりませんし、あまり興味ありませんが、槇原さんが何らかの影響を受けたという可能性はあるかもなあって、ふと以前のことを思い出してしまいました。
でも槇原さんはクリエイターとしてすばらしい才能を持っているといますよ。好きな歌もたくさんあるし。

ちなみに、アクセスにも「新垣 槇原」で検索をかけている人がいたので、同じように思っていた人は僕のほかにもいたんでしょうね。
驚いた。。。

母親が好きで、漫画も家にあるし、テレビの「お江戸でござる」でついこの間まで元気な姿を見せてくれていたのに。

僕は、あの人のほんわかした話し方と、時代に流されない興味の赴くまま気の向くままの生き方大好きだったし、憧れていた。

お酒が大好きだった杉浦さん、二日酔いにも、当日酔いにもならないのが羨ましくてしょうがなかった。
人生をほんとに楽しんで生きているように感じられた。

まさかガンだったとは。

ご冥福をお祈りします。
天国では、好きなお酒を好きなだけ飲んで、ホンワカふらふら楽しみながら、江戸のご先祖さまと思う存分お話してくださいね。
06月14日付 朝日新聞の報道「同級生が「いじめあった」 任意の事情聴取で証言」へのコメント:光高校で傷害容疑で逮捕された男子生徒の行動は、いわばテロリズムではないか。だが、少年を行動に走らせたのは、モスリムに不具合を与えつづけたアメリカのように、彼の個性に不具合を与えつづけた生徒達である。
アメリカは、武力ではなく、経済的政治的、文化的にモスリムの精神を傷つけた。
生徒たちは、暴力ではなく、言葉や態度によって少年の精神を傷つけた。
アメリカと生徒たちの共通点。彼らは自分がやっている意味合いの認識はできている。からかいとは、相手を傷つけることによって成立するのだから、認識できていないはずはない。しかし、それが相手に対してどの程度の結果をもたらすのかに対して、アメリカも生徒たちも理解に欠けていた。テロリズムは、無関係の国民、生徒を巻き込んだ。武力行使を行ったほうは、有無をいわず裁かれる。
だから、少年は裁かれることになる。
利害によってアメリカに付く各国のように、教師たちは、自己保身をもっともらしい言葉により虚飾する。その他の人たちも、多くは、生徒のケアは述べても少年のケアは述べることをしない。
「(いじめの具体例を)言ってほしくなかった。直接の原因かどうか定かでないのに、その行為をした生徒が自分と考え、苦しむ恐れがある」
という言葉はどうだろう?その言葉によって、生徒は保護されるだろう。しかし少年の苦しみは抹殺される。
少年は、否応なくこれから罪を罰せられる。それは生徒達を傷つけた上での責任、贖罪。だが、彼を傷つけた生徒達は彼に贖罪しないのだろうか?アメリカのように、彼らは、自分の罪を蔑ろにして無実の立場に立つべきか?

からかいは、生身の体にジャブをうちこむようなものだ。親しい間柄なら、遊びとみなされるジャブも、親しい間柄ではない相手からされればそれは暴力だ。しかも一人ではなく、大勢からジャブを一度に受けるなら、受けた体はどうなることか。
いじめはやるほうが図るものではなく、やられた側が図ることだ。いじめているつもりはなかったという言葉は、なんのいい訳にもなるまい。少年が、爆弾を投げ込んだことを、人を傷つけているつもりはないといったところで、罪は免れないのと同様。
からかいを行ったものは、それが少年にとっていじめであったかを明らかにすべきだし、そのことで苦しみ苦悩することがあっても、それはその少年を傷つけた責任、少年への贖罪である。
生徒のケアを述べるなら、少年の擁護もするべきであるし、少年が責められるのであれば、からかいを行なった生徒も責められるべきである。少年が罪を購うのなら、からかいを行なった生徒も少年に対して罪を購うべきは当然である。
05月18日付 朝日新聞の報道:
・働いている人を診断する際、本当は「うつ病」なのに、診断書に「抑うつ状態」「心身疲弊」などと軽い症状に書き換えている医師が約9割に上ることが、労災病院の医師らによる医師の意識調査で明らかになった。うつ病と診断されると職場復帰が難しくなるのではないか、と考える患者の立場を考慮しているという。「心の病」の実態の把握がぶれ、本人の治療や企業・周囲の理解を妨げる危険もある。・・・「あいまいな表現が広がれば、病気に対する職場の理解が進まず、適した仕事量を話し合うことも難しくなる。
74%の医師は、会社側から、「完全治癒」を求められていた。ただ、うつ病は再発しないと断言することが難しく、「完治」の判断がしにくい。・・・・「復職を望んでも会社側が拒み、休職状態を長引かせて解雇に追い込むケースがここ2,3年目立っている」。
・医者が、「うつ病」を「うつ状態」などと表現するのは、そうせざるを得ない患者に対する根強い偏見があるからだ。・・・・状況を変えるには、会社のトップ上司がメンタルヘルス教育を受け、病気の理解と働き方の改善策を考えること。・・・

せめて自分の周りからでも、漸進的に。
男子ハンマー投げ金メダリストのアヌシュの金メダル剥奪が決まった。

アヌシュがドーピングの再検査を拒んだためだ。開催前に摂取された尿が別人のものだったというのも決定的な証拠となった。同じコーチについてもらっていた男子円盤投げの金メダリストもドーピング検査に応じなかったため金を剥奪された。

今回オリンピックでドーピングに引っかかった選手は過去最多だったらしい。多くは元共産圏の選手だったそうだが、地元ギリシャの英雄も、その中に含まれていた。

なぜ危険を冒してまでドーピングを使うのか。それこそがオリンピックという大会の重さを表している。特にプロ競技ではない多くの競技は、オリンピックこそが、その成果の見せ場であり、人生の成功への足がかりである。名声、金、国の威信。特に共産圏の選手は、メダルを取るか取るか取らないかで将来の自分の待遇が天と地とも違ってくる。キューバの選手が金メダルを取れば、一等地の最高級のマンションでの生涯の生活が保証される。
こういった誘惑は、ものすごいものなのだろう。
そして、また、独裁国家、専制国家、北朝鮮のような国では、国家の威信を示すという重責が選手の肩に重くのしかかる。
現在の日本は、どちらかといえば自分の四年間の努力の成果という意味あいのほうが強いが、以前の日本、マラソンの円谷の自殺を思い起こしてほしい。国家の名誉という重責はかくもすさまじいのである。

アヌシュは、室伏とも私的に仲がよく、また人間的にもけして卑劣であるわけではないだろう。競技のときにきていた娘の写真入のティーシャツは、家族思いのよい夫であることを想像させる。
そんな男を、ドーピングへと走らせる。また平然と発言を詐称させる。
その先に人生の破綻の危険を予想できながらも、とどまることができないのだ。四年に一度の重みである。

ドーピングに走るものは、常に天国と地獄。振り子にはそのどちらかしかない。そして多くは場合、振り子は地獄で動きをやめる。
04月16日付 朝日新聞の報道「漫画家の横山光輝さんが死亡 ぼやで全身にやけど」へのコメント:

横山さんまでが亡くなった。
彼の漫画は必ず学校の図書館にあった。
「項羽と劉邦」「三国志」

母親も「三国志」を全巻持っていたそうだ。
僕にとっては、鉄人28号かな。
小さい頃よく歌を歌ってた。
トキワ壮に集ってきた漫画家も今やみんな大御所。
手塚治虫のあとを追うように、ひとり、またひとり。

僕は横山さんの漫画を読んだことないから、読んでみようかな。

天国でも、手塚さんや、不二子さんとともに、漫画を、素晴らしい漫画を書きつづけてくださいね。

ご冥福をお祈り致します。
04月15日付 朝日新聞の報道「作家の鷺沢萠さんが死去」へのコメント:

彼女の作品は「葉桜の日」しか読んだことありませんが、清清しく好感の持てる作品だったように記憶しています。

まだ35歳、将来が嘱望されていただけに、悔やまれます。
謹んで、ご冥福をお祈り致します。。。
03月10日付 日経新聞の報道「神戸連続児童殺傷事件・加害男性が医療少年院仮退院」へのコメント:

少年が、退院した。
あれからもう6年も経つのか。月日の早さに愕然とした。
しかし、少年にとって、この時間は、長かったのか、短かったのか。おそらくはその両方であったろう。彼のうちで起きた心的変化を、僕が知る術はない。だが、僕はあの犯行が単なる性的サディズムに帰するものだとは考えていない。すべてのものが持ちうる生理の一つ、それも、ごく原始的、動物的なものだと考えている。
その原始的な衝動が露見した結果であるとしよう。ではなぜ露見するにいたったか。その根はさらに深く、煩雑なはずである、少年にもおそらくはわからないほどに。
彼が社会に出るということは、即ち、更正したという判断が下された訳である。少年院で試みられた擬似家族。擬似社会のなかで、彼が学び取ったものが、今度は実社会のなかで試される。
しかしながら、それはわれわれが考える社会のことではない。彼の場合に意味される実社会。そこは、罪という枷をはめられ、身動きするたびに苦痛を伴う地獄となろう。彼は、社会という牢獄で、生涯苦しみもがき生きることで、被害者への贖罪を遂行するのだ。
「夢を持ってもいけない。一生苦しみながら生きていく」
この言葉は、彼が、自ら死することは、贖罪への逃亡とみなしているとは考えられないか。彼は、死と苦しみ、2つの選択肢のうち、後者を選択したのだとは取れないか。だとしたら、彼は生き続けねばならない。
苦しみながら。罪を背負いながら。死すらも許されない贖罪のみの生涯。それは牢獄で生を負える終身囚となんの違いがあろうか。
だがしかし、それが彼の侵した罪の重さなのだ。彼は、生きなければならないのだ。
社会への適応。判断の成否は、彼がその状況下で、自己の精神を保ちえるかどうかにかかっている。

彼は、自分の犯した罪の重さによって、エゴの放棄を余儀なくされたということである。そして、人の命を殺めるということは、彼は、人生を自己のものとするという人間としての当然のエゴをもすべて放棄することでしか贖えないと判断したということである。

以前も述べたが、自己の罪を自覚しえない限り、贖罪の観念は生まれない。
人を殺めたものは自覚しないわけにはいかない。人間である限りは。つまりは、彼が少年院の過程でそのことを自覚した時、始めて彼は普通の人間へと戻った。現在の彼の意味する更正とは、即ち我々の住む現実ではなく、彼個人の現実、社会なのであり。彼に求められる適用。そして精神力とは、常人のそれをはるかに凌いだ、無私に近い精神なのだ。

僕は、犯罪を犯していないと考えられる自分たちに思いをめぐらせてみる。我々は、直接的に、物理的に人を殺めたわけではない。だか、はたして、間接的に、精神的に人を殺めていないと断言できようか?もしかしたら、自分は、自覚せずして、そのような状況の一加害者となっていたことがあるのかもしれない。しかし我々はそのことを自覚していない。
さて、あの少年は、周りが感知しうるやり方で、罪を犯した。ニュースにもなり、彼は今、贖罪を行っている。
もしかしたら、僕はまわりの感知しえないやり方で罪を犯しているかもしれないのに、そのことを自覚せず、ニュースにもならず。ゆえに贖罪も行わない。そしてそんな僕が、ニュースに出てくる犯罪に対しては、傍観者を気取り悲嘆に暮れていたりする。
悪と善の境がただの人間の判断によって成り立つのであれば、その無意識下に淘汰される弱者に対しての罪はいったい誰が背負うのか?
本来なら、それは、加害者である我々の誰かが背負うべきものであるはずではないのか?我々は気づかずして行われる罪に対して、無関心でいられようか?善と悪の区別ほど、あいまいなものはない、なぜなら人間はみな善であり、悪である。しかるに、それが表面にでるか否かで、人間の価値は下されているのだ。
偽善なる言葉はすべてのものに当てはまる。善なる言葉も、悪なる言葉も同様である。
我々は欺瞞の中で、罪をわすれ、弱者を死に至らしめている。
そうであるならば、自分が弱者となったときには、おそらく、それまで自分が葬ってきた弱者と同様に、抹殺されてしまうであろう。
それが、人間の良心の限界であるといってしまうのはたやすい。だが、僕は自分が弱者となった場合に、もがくであろう。そのもがきの先に。一条の光を見出せるとしたら、それはきっと、ひとりひとりの罪に対する自覚と贖罪の行為なのである。
僕はもがきに意味を持たせるためにも、そして、善なる人間の実現の可能性をあきらめたくないからこそ、問いかけたい。

あなたは、誰かを傷つけていませんか?

罪を、背負うことは辛い、だが、背負うからこそ、そのものへの贖罪が完遂された時にそのものと再び笑い合えることができるのだ。人を死に至らしめるまで無自覚では、贖罪は、あの少年のように取り返しのつかないほどの重みとなる。我々は、みな罪を犯している。ならば、罪を背負わなければならないはずだ。人を死なせてからではおそい。我々は、もっとはやくに、自分の行動に留意し、自覚し、贖罪を果たしていかなければならない。

自分のためにも。
そして、過去人間の無意識のうちに葬られていった者たちのためにも。
昨日あんなことを書いときながら、あいも変わらず睡眠時間は10時間を有に越すこの有様。でも、2日寝て2日起きてた、かまとばあさんはあんなに長寿だったしなあ。。

麻原ショウコウが死刑判決。って、死刑以外だったら収拾がつかなかっただろうなあ。控訴、上告。結局最終判決まであとどれだけかかるんだろうかあ。

押井守の映画『イノセンス』が、スピルバーグの会社ドリームワークスによって世界配給決定\(◎o◎)/ !!
イノセンスとは、前作、かのマトリックスの元ネタ『攻殻機動隊〜ゴースト・イン・ザ・シェル』の続編。前作の世界的な影響力と、評価を鑑みての決定だろうが、作品のラッシュをドリームワークスの関係者が見ていないはずはないので、内容にもかなりの期待(((o(^。^")o))) ワクワク

世界の長者番付、相変わらず、マイクロソフトのビルゲイツが1位。んなこたあ、どうでもいいけど、その総資産額をみて、こし抜けた〜ミ(ノ;_ _)ノ =3 バタン 
なんと5兆円(゜□゜;) ギョェ
3億くらい恵んでくださいよ〜o(´○`)o
この度、調査で、わが国においても、睡眠時間が7時間の人が一番死亡率が低いとの結果がでたそうな。
この調査、外国でも以前行われていて、同様の結果が出ていたのを、僕は知っていた。
ちなみに、これよりも短くても長くても、死亡率は高くなる。
ただ、僕が驚いたのは、短い睡眠時間の人よりも、長く睡眠をとる人の方が死亡率が高いという結果だったことだ。
4時間いない睡眠をとらない人よりも、1日10時間眠る人のほうが死亡率が高いのだ。ちなみに、4時間の人は、7時間に比べて60%くらい死亡率が高く、10時間の人は、なんと、90%とな(゜□゜;) ギョェ
この何%ってのは、よくわかんないんだけど、恐らく、10時間の人は7時間の人よりも倍近く死亡率が高いってことなのだろうか( ̄□ ̄;;)

ちなみに、僕の平均睡眠時間は10時間。。。7時間は無理でも、せめて8時間くらいにはしたいなあ、いや、しなくては・・・ヾ(;´▽`A``アセアセ

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