●週に一度の社員朝礼で、常務のお話のとき、突然名指しで帽子の被り方を褒められた。
正直何か怒られるのかとびびった。
その後、数人の別部署の社員から、すれ違う時に帽子で褒められたなぁ、と声をかけられた。
しかし、そのとき僕は実は帽子を適当に被っていて髪が出放題だったので、怒られると思ったのだし、何故褒められたのか皆目見当がつかない。
という話を同じ部署の社員にしたら、遠くてよく見えんかったんやろ、とのこと。

●僕という人間を理解してもらうには、僕という人間性、僕の障害、僕の性質、これらをしっかり自分で話さない以外にはかなりの確率で誤解を招く、ということは以前からわかりきったことである。
しかし、そういう話をするのは案外に難しい。
別に話すことに抵抗は無い。隠すつもりもないし、もったいぶっているわけでも後生大事にセンチメンタリズムに浸るつもりも無い。
でも、言ったら、少なからずそういう様相を呈してしまう、というかそう受け取ってしまう人もいるかもしれないことが嫌で話しづらいというのもある。
人に歴史あり。誰でも人生は色々あるし、僕の場合もいろいろあったことを話すだけのことなのだが、稀に、痛く哀しい顔で共感を呈してくれる人がいる。その気持ちはすごくありがたいし、実際僕自身も大変だったのだと思っているのだけど、それは相対的に誰々の人生と比較して大変だったというわけではなくて、絶対的な僕の感性で、ああ大変だったな、と思っているだけなのだ。
だからあなたの人生も僕と同様に大変だったのだし僕の知らない大変さも味わってきたのだし、僕の人生があなたの人生よりことさら大変なわけではないんですよ。ということを伝えたいのだが、僕が人生を語ることでその後僕を見る視線の中にある種の憂いを含んだ慈愛が投げかけられるとなると、それは理解とはまた何か違ったもののように感じて嫌なのだ。
つまり、そういう感情が含まれることで、なにかしらの遠慮がうまれ、打ち解けるのに必要な垣根が逆に高くなり、その遠慮や配慮がじゃまをして人間関係に最終的に到来すべきある種の気の置けなさが、センチメンタリズムによって絶望的なまでに遠のいてしまうかも知れないことが恐いのである。

こと職場に関してはそういう思いが強い。
僕が話したところで、特別な感慨も無く、へえ、そんな人生やったんやとカラカラ笑い、あんたも結構大変やったなぁ程度のことで、だけど、あんたがなんで人見知りなんかはよくわかったけん、私も気にせん了解した。あんたもあんま気にせんとリハビリするつもり少しずつでも頑張ってやってき〜って感じで進んでくれるなら、もっと抵抗無く話せるんだろうけどなぁ。
てか、そんな対応されたら一発で心開きそう。
◉僕は自分が強迫性障害だと知ったのは高校を卒業してから。
それまではずっと、自分の奇妙な行動を癖だと言われたし自分もそう思っていた。
どうして周りと同じようにできないのか、奇妙な行動を繰り返してしまうのか。
わからかなったし自分でも止められなかった。
そのせいで酷い迫害を受け続けた。

高校三年の時に強迫の真似を受け続けた時、僕自身も自分を狂人だと思い込まなければやり過ごせなかった。

高校卒業して九大病院で強迫神経症だと言われた時、強迫の真似をしてきた彼らは、果たして僕が障害だと知っていたら、真似をし、迫害したのだろうかと考えて恐ろしくなった。
それは、障害と知って真似をし続けたとしたら恐ろしいことだし、障害と知って真似をすることを止めたとしても、それもまた恐ろしいことだと思った。

障害と知って迫害を止めるとすれば、それはなぜなのか?
人間は特異な個性は自分に無害であっても攻撃し、障害になると攻撃しないとするならそれはなぜか。
障害という社会的体裁が冠された対象を攻撃すると自分の中の道徳心、良心にようやく抵触するからか、それとも、同様に障害を認知した周囲から、障がい者を攻撃することへの非難を受けるかもしれない危険性を回避したい為、つまり自己保身の為か?

いずれにせよ、そこに人間としての善意の欺瞞性を垣間見てしまった気がして恐ろしくなった。

障害という定義自体が差別だという人もいる。
それは、人間が特異な個性であっても迫害しない状況であって初めて実利を伴うものではないか。
人間が、特異な個性は迫害し、障害と冠された人には迫害しないという峻別を行う人が多数だとするならば、つまり、人間の善性が、その程度が限界であるならば、僕は、幼い頃から強迫性障害というレッテルを貼られることを喜んで受け入れただろう。

障がい者という定義の垣根をなくせる。
実際そういう良心を持った人も存在する。
でもそれはマイノリティだ。

障がい者であるという定義をおこうなうことは、僕は実際的には差別ではなく、むしろ障害を持つ人々の差別を防ぐ、尊厳を守る為に存在する、そういう効用の方が大きいのだと思っている。

人間は、対象が変わらなくても対象の定義が変わっただけでその対象に対する扱いを変えるのではないか、その疑問が芽生えてから、そのことを考えると僕は人間が恐ろしくて仕方がなくなる。

●アトピーになった時に学んだけど、医者任せ、他人依存型治療じゃダメだってことね。
僕は学生時代途中から卒業して25歳あたりまでずっとアトピーで苦しんでいたけど、その間、病院にいっても薬をくれるだけだった。
最初はステロイド薬を渡されて、そしたらどんどん酷くなって、ステロイドはダメだったっていったら、顔についてるカビが原因かなぁ?とかいって顔についてるカビを取る薬とか言うのくれたけどそれも全然効果が無くて、死にたいくらいに苦しくて涙ながらに医師に訴えたところ、「いつか良くなりますよ」とかいって、今度はステロイド内服薬を渡されて、またステロイドだし。
それ飲んでるうちはよかったけど、副作用でどんどん顔は丸くなって、恐くなって服用を止めることにしたらリバウンドでより激しいアトピーと蕁麻疹。

最後の最後にその頃最近認可されたというプロトピックという非ステロイドの薬を処方され、それで何とか軽くなった。
最初からこれ渡してくれよ!

医者は日に何人もの患者を診るから私生活についてのアトピーへの対処法とか健康法のようなものを逐一詳しく教えてくれるわけではなかった。
だけど、僕は医師がこれを塗っていれば治るといったのだから、とそれに任せきりで自分から何も調べようとはせず、ただ医師の言葉に従うことがアトピーと戦うことだと思っていた時期がありましたよと。

プロトピックは確かに効いたけど、医者の言うように薬を塗っていればいつかは治るというのは信じられなかった。ずっと塗り続けねばならないような気がしたわけで。

公務員学校をドロップアウトした後のニート期間に僕はアトピーの完治を目指し、ここに来てようやく他者依存型治療から脱却して主体型治療をするようになった。

本を読んで調べたり、ネットで調べたりした治療法を試していく試行錯誤の日々。失敗することも相当あったけど、結果的にこれらの努力が僕のアトピーを完治させたと思っている。


ロレンツォのオイルという映画がある。

http://www.youtube.com/watch?v=CxkylRxJxh8&feature

当時は不治の病とされていた副腎白質ジストロフィーに罹っている子供を医学知識の無い両親が医学図書館に通いつめ、ついには特定のオイルが劇的な治療効果を持つことを発見する。という実話を元にした作品。

これを見て、僕は主体型治療の大切さを痛感した。

映画は両親だったけど、愛する我が子は、我が身と変わらんだろうし、医者だけに頼らず、動けない我が子の代わりに調べることは、この場合主体型と捉えて良いと思う。

医師は専門家だが、どうしても他人なんだよね。
自分の体が苦しいとき、誰より治したいと思うのは自分だろうし、自分の体の症状を具体的に感知できるのもやっぱり自分。

一番親身になってやれるのは自分を愛するもの、もしくは自分自身に他ならないんだからさ。一番自分のために努力できるのはやっぱ苦しい自分なんだろうってね。

それ以来僕は、アトピーに限らず、その病気や障害に対しても、僕の場合は抑うつにしても強迫にしても自分でとりあえず調べる、勉強する。治療法を実践してみる。そういう行為をすることを、病院にいくより何より一番重要に考えている。

医学は日々発展しているが、多くの情報はネットや本で調べることができる。例えば皮膚科の医師はアトピーだけではなく多くの皮膚疾患の知識を仕入れないといけない。精神科医についても強迫だけでなく様々な精神疾患に対応しきれないといけない。でも僕達は目下、今自分が苦しんでいる症状に絞って調べることができる。
毎日忙しい医師が得られない知識も、僕達の方が先に知りうることもあるのだ。
ある部分だけに絞れば、その道の専門家よりも専門的知識を持つことは不可能ではないと思っている。

実際、強迫のために心療内科へ言ったとしても、薬をくれて話を聞いてくれるだけ。
しかし、僕は自分で本を読んだり調べたりして、森田療法や、四段階療法など、病院で実地した暴露反応妨害法以外のさらに進んだ治療法を見つけたわけだし、アトピーについても、その構造、また足ツボや半身浴などを知ったのはネットなどで調べた情報だ。

他者(医師)が主体で自己がサブではなくて、自己が主体でサブが他者。
これが治療本来あるべき姿であろうと思うし、それこそが病気と闘う、努力するということだと考えている。

まぁ病気以外のすべてのことにいえるよなぁ。


●失業保険が二ヶ月伸びた。

●先の見えない状況は不安で仕方なくて、何かに縋りたくなる心情も充分過ぎるくらいよくわかる。
何とかなるさと思えるほど楽観的な性格でもないし、現状を捨ててすぐさま違う世界に飛び込んでいけるほどの勇気も持ち合わせていない。
今ある自分を壊したいという気持ちはどんどん肥大していくけれど、今ある自分でなぁなぁとでも過ごしていけている環境という鉄格子を溶かせるほどの熱狂も無く、中途半端なまま僕が望んだ退廃とは違う意味での世捨て人になってしまいそうな空気がそこはかとなく漂っている。

何かを捨てて何かを選び取るということがどれだけ困難なことかを実感する昨今。でも一番悪いのは何も捨てずに何かを選び取ろうとすることなんだよ。
だって僕は今まで捨てきれなかったもののためにそれなりに充実した時間と、それ以上に無意味な時間を過ごしてきたわけだから。
それが僕にとってのデフォルトな人生のありようになってしまっているから。
そこに新しいものが入り込む時間的な余裕なんてありはしない。
この人生が最後まで続けらないなんて子供時分でもう気付いてたのに、働き出してもまだ学生時代のように庇護された感覚のまま過ごしてこれたのは、その生活を脅かされることがなかったからなんだけど、どんな講釈をつけようと結局は僕自身がこの人生をデフォルトとして選択してしまったことに尽きるんだよね。
いつか終りが来ることは誰にだってわかるけど、それがどんな形でどんな風に終わるのかまで想像が出来ないから、出来ないことをいいことに、わからない不安とともに変化することを棚上げにするんだよ。

何かが入り込む時間はない。何かを捨てない限りはね。

●最近、よく思う。どうにかなるさ。
人生、どんな状況でもどうにかなるし、今の自分の状況は、不安を感じることさえおこがましいくらいの恵まれた環境なんだと思う。
単に僕が将来だとか人生だとかに不安を感じているとすれば、それは日本で育った多くの人が歩むべきだと考えている一般的概念に沿った人生を辿っていけるのかどうか、に対する不安なだけで、そういった括りを取っ払ってしまえば、人生いくらでも、なんとでもなっていける。
どうにかなるっていうのは、投げやりなんじゃなくて、もっと前向きな意味でね。

ユーチューブで、「日本人より日本人らしい外国人の旅」という動画をボーっと見てた。


http://www.youtube.com/watch?v=RJdzZ8L37A0&feature


この動画は、海外から来て、日本の伝統文化、芸術に携わっている人たちを紹介してるんだけど、そこに出てくる外国の人たちは、みんな20代後半とか、30代で何も知らないところから、一から出発して職人を目指しているんだよね。

その歳から、言葉のわからない外国に移り住み、誰かの弟子のなって学び、そしてそれを職にしたいと思う。

そこにはもちろん不安もあったのかもしれないけど、それ以上に「これが好き」っていう熱意が勝ったんだよね。

30代超えたらそろそろ将来を見据えて、とか、正社員にならなけりゃ、とか、思ってしまうわけだけど、その30代だとかいった括りってのは、「日本で育った多くの人が歩むべきだと考えている一般的概念に沿った人生を辿っていけるのかどうか」という限界がそこいらの年齢だからという考えがあるからなんだろね。

それも一つの幸福になるべき選択肢だけど、その概念のレールから外れて、外れることを自分で決断できたなら、きっと人生の幸福の道がぐっと多様化するんだと思う。

そして、生きるという意味においても、ずっと逞しくなれるような気がする。

ゾマホンは、44歳の今も月八万で暮らしていて、風呂無しトイレ共同の6畳一間で、それでもさ、自分の好きな勉強して、ベナンの教育水準を上げるという夢を追っかけ、明るく逞しく、やっていってる訳じゃん。

昔は金ないときはご飯に納豆、とかご飯に炒めた玉ねぎたくさん乗せて、それを一日一食。腹減ったら水をたくさん飲む。
日本の水は、きれいでどこでも飲める。それだけで幸せなんだってさ。
公園にある水をしこたま飲むわけさ。んで、腹いっぱいになる。ああ幸せって。

夢に期限もないし、スタート時期に遅いも早いもない。
なんかまとまりのない文章だな。

つまり、俺は何不安感じてるんだって考えたら、すごく狭量な視野でつまらない価値観の枷に苦しんでいるだけなんじゃないかと。


何がいいたいって言うとね。
人生どうにでもなる。
どうにでも生きていける。

●僕は今、この会社で仲が悪い人がいない。
特にうちの部署と隣の部署の人達とは一緒に仕事をするだけあってかなり仲がよくなっている。
のだけど、それゆえに困ることがある。

それは、僕と仲が良い同僚同士が、物凄く嫌いあってるのだ。
んで、双方が僕に双方の悪口を言ってくる。

詳しく言えば、うちの部署のおじちゃんおばちゃんと、隣の部署の比較的最近入った同僚が犬猿の仲なのである。

僕が休みのときに僕の部署にヘルプに入って大喧嘩したらしい。
確かにうちの部署の2人は、うちの会社内でも屈指の難しい人たちなのだけど。。

で、おじちゃんおばちゃん共々、その隣の部署の同僚のことを色々僕に言ってくる。
些細な出来事例に出して、あの女はどうしようもない、だの仕事せん、だのおじちゃんにいたっては露骨に嫌がらせしてるし。
「あんたもそう思わんかえ?」
いや、そう思いませんよ、なんて答えた日には、おばちゃんなんかは一気に目つきや態度が変わる。
僕は黙って受け流しているけど、これもまた不自然っちゃ不自然だよね。


隣の部署の同僚の方も、あの糞婆がああだこうだとか話しかけてくるので、もうヒヤヒヤもので。
こっちも受け流しているわけだけど。。

どっちの勢力に組み込まれるとか、そういうのほんと簡便。
仲たがいするのは仕方ないにしても、僕がどちらと話そうがどちらと仲良くしてようがそれで変な疑りいれたり機嫌悪くなったりせんといてくれぇ。

間に立った俺はどうすりゃええっちゅ話やねん。

折衝能力のない自分も情けないけどさ。

客観的な立場としてはどちらの悪い点も見えているわけで、どちらが自分を正当化しようとも、僕は双方の言い分を聞いているし、事実も知っているので、はっきしいってどっちもどっちなんだよね。
一言で言えば「大人気ない」

今日もなんかやりあってたし。。
ゴミをこっちに飛ばすなとか、くっだらない難癖を。。。

その後で、隣の部署の同僚も、疑心暗鬼のくそばばぁが~と僕に言ってくるし。。

難癖つけるおばちゃんも悪いけど、くそばばぁもないもんだ。。
お互い歩み寄る気無し。。

でもおばちゃんおじちゃんが疑り深くなければ、もうちょっと隣の同僚にフォロー入れてあげたいところなんだけどね。
やっぱ戦争を終わらせるにはどっちかが大人になるしかないんだよ。。
中立国でいるのも難しい。。
ほんとどないせぇちゅうの

●時とともに考え方は変遷していく。
僕の考えも色々と変わってきたけど、一時期の物凄いモラルの縛りみたいなものは比較的緩くなってきたように感じる。

僕には破壊に関する願望がある。
自分を破壊する願望。
別に自分の体を傷つけるとかじゃないよ。

もっと内面的な部分の自分の今までの道徳観とか価値観とかに対する反発、みたいなものかな。

だけど、その一方で、恐怖もある。
そういったものを壊して出来上がる「自分」が果たしてどういった人格を持ちうるのか。

今まで作り上げてきた僕のルールなり価値観が、僕のパーソナリティを形成し成長させてきたのと同時に、僕自身のパーソナリティを一定の枠にはめ、別の方向性への成長を阻害してきたわけでもある。

自分の中で戦争を起こして全てを壊してしまうのも悪くない。
そうすることで僕の中のパラダイムの劇的な転換が訪れるかもしれないから。

だけど、そうならなかったら?
ただ、今までの僕のモラルが崩壊して、ニヒリズム的人間に陥ってしまったら?
それが自分の中の抑圧に対するカタルシスになるか?開放になるのか?
はたまたさらに苦しむことになるだけなのか?

でも、今のままでは僕は頭打ちのような気がして、何か変化を求める声が高まってきている。

昔はいわいる無頼派が嫌いだったし、理解できなかった。
坂口安吾は、給料が入ると、一日で使い切ってしまったり。
それは、報酬に対する反逆、給料という概念に人生を拘束されないために。

でも今の自分の中には、そうしたような反逆の願望があることを感じているし、無頼派に対する憧憬があることをもう否定しない

薀蓄

2010年10月23日 僕の思ったこと
●薀蓄を垂れる人、大好きですな。
とかく敬遠されたり否定的に言われがちだけど、そこに虚栄心や優越感、また劣等感や嫉妬が絡んでくるからなんだろね。

そもそも知らないことは恥じゃない。
知らないんならこれから知ればいいだけの話。
人間は、部分的博学の集合体だから、どんな人でも何か一つは誰かよりも物事に詳しい。

薀蓄を垂れる人、勉強になるよね。
どんどん垂れて。
でもそこに蔑みが入るのは簡便。
こんなのも知らないの?みたいな。

さっきも書いたように人間って部分的博学の集合体だから、誰かが知っている知識を他の誰かが知らないから蔑まれるなら、世の中の人はみんな蔑まれなきゃならない。
そんなことも知らないの?うん、知らない。でもあなたもこんなことは知らないでしょ?
ね、だからそんな掛け合い意味が無い。止めましょう。
学生は、流行に詳しい、すごい。
エコノミストは経済に詳しい、すごい。
みたいなんでいいじゃない。
純粋にお互いの薀蓄を披瀝しあって、披瀝する喜びってよりも、披瀝されて知る喜びで楽しみあいましょう。

自分が誰かより良くなるか悪くなるかとかあんま興味ない。
自分が、今の自分よりもどれだけどう変化できるのか。
自分の中で自分なりに今よりどれだけ知識が深くなれるか、人間性が深くなれるか、人生が豊かになれるか、そういう興味の土台の先に、周りの人との関係性がある。

●修行は厳しく辛いものでなければならぬ。
なんてこれっぽっちも思ってないわけ。
修行は合理的かつ効率的でなければならぬ。
こっちの方がしっくり来るね。
厳しく辛い修行も得るもの多々あるけれど、これは精神が健全でいられる限度においてって前提があって、初めて「うん、そうだろうね」って納得できるものなんじゃないだろうか。

ましてや、笑っている=集中してない、真剣でない。みたいな考えもこれっぽっちもないわけで。

師弟制度のある伝統的な職人世界みたいなところは、旧弊であっても、そうした伝統を尊重しないといけない部分もあるかもしれないけど、僕たち全員がそういった精神を当たり前と受け取るのは、現在の社会のこの閉塞感の原因の一部になっているのかもしれないなと。

面白い記事を見つけたんでね。
『職場は楽しくあらねばならない。驚きの米国職場体験』
http://wisdomofcrowdsjp.wordpress.com/2010/05/05/a074/

要は、モラール(志気)をいかに向上させるかということなんではないか。
大学時代、なんかで勉強した思い出があるけど、職場でなんかの音楽流したり、壁の模様替えたりすることで生産効率が上がったりね。

会社のルールみたいなものあるじゃない。
日本はすごくしっかりしてると思う。
作業的なことに関しては、日本の企業って、すごく合理性や効率性を重要視してるんだと思う。

だけれども、労働者の志気の配慮に対しては、合理性が欠如しているって感じるね。

なんだろう、道?弓道とか、居合い道とかみたいな。
仕事にまで日本独自の宗教性が介入してるってか。

学生が勉強を自ら率先してやったり続けたりするには、先生がいかにその学問に興味を持たせ、面白いと思わせることができるかっての重要だよね。
他からやらされるんじゃなく、自らやりたいと思い楽しんでできたら、続いていくもんだろうし、そう思うことが、即ちモラールってもんじゃないのかな。

仕事だってそうでしょ。ただでさえストレス多いんだから、その上殺伐とした雰囲気や緊迫した状態が常態化してしまったら、労働者のモラールだって向上しようがないじゃない。
ルールを原則化するのもいいけれど、そのルールを守って作業していくのは、生産性を左右するのは根本たる労働者、人間ですよって。

仕事は遊び、なんていうつもりはさらさらないけれど、労働者が生き生きと活力を持って働けるってのは、究極的には、いかに仕事を遊んでいるときのような「楽しさ」、に近づけていけるかなんだと思うんだよ。

現今日本のね、うちの工場でもそうだけどね、すぐに人が辞めたりね、病んだりね、閉塞感が拭えない職場環境ってのは、こういったモラールに対する解釈の履き違えや、改善への軽視に起因する部分も大きいんじゃないでしょうかね。

●大学時代、僕が通っていたある大学病院の医師から、『いやな気分よさようなら』(http://www.seiwa-pb.co.jp/search/bo05/bn168.html)という本を勧められた。
相当な厚さのこの本は、タイトルこそ陳腐だけど、内容は、そこらの精神啓蒙書とは一線を画する。
世界で300万部以上売れ、認知療法のバイブルであり、現在医師が治療で使う「読書療法」においてもっとも使用されている書籍らしい。

技術というのは根拠がある。
この本は認知療法の本だけど、多くのメンタル本と違うのは、数多くの臨床による診断や研究から、統計的にデータとして効果が高いと根拠付けられた、精神を向上、または改善させるための合理的なプログラムであるという点だ。

認知療法はまず、「感情が思考を作る」のではなく、「思考が感情を生み出す」という認識に立つことを出発点とする。

状況は状況そのものでしかない、それをどう捉えるかによって人はその状況に対して、「喜び」や「悲しみ」という感情を抱く。

そして、抑鬱傾向にあるような物事を悲観的に見る人には、ある一定の法則(後日記載)が見られるのであり、その結果、自分で自分を攻撃してしまい疲弊し生きる気力を失ってしまうことになる。

しかしながら、それは物事の正しい認識ではなく、状況の認知に「歪み」が生じている。
その歪みを修正していくのが認知療法である。

僕はこの本に出会う前からそれっぽいことをやっていたけど、この本は実に体系的に認知のゆがみから来る思考の矛盾を解き明かしてくれていて、そしてその修正訓練も書かれている。簡単に言えば、内省を行う際の、考える筋道を示してくれる技術だ。
この認知療法は、もともと精神科医が専門的に患者に施す治療法であったのだけど、それを患者自身で改善にあたれるようにと一般書にして販売された。

この本は、抑欝患者のために書かれた本だけど、抑鬱傾向に無い人も、多かれ少なかれ、どこかで歪んだ認知を行っている。

某番組でオリンピック特集で取り上げられたメンタルトレーニング。
どのようなトレーニングをするのかの紹介もあったが、まさにそれは認知療法だった。

つまり、認知療法は、抑うつにない人にとっても精神力を向上させ、より快適な生活を送るため、自分の能力を引き出すための非常に有益なトレーニング技術だといえると思う。

筋肉は、正しいトレーニングをすることで血流が増え、また筋繊維が肥大し、質量も増え、運動能力も高まる。

脳の作用にも面白いデータがある。抑鬱傾向にある人が認知療法、また強迫性障害にあるものが四段階方式(認知療法と似た(基づいた?)強迫患者用のプログラム)を行い症状が改善された人は、脳の使用される部分の血流が変化していたというものである。

つまり、これはメンタルもきちんとした技術でトレーニングすることで、改善や向上が図れるということを意味する。

僕は今まで、本格的にこの認知療法をやっていなかったけど(それでもかなりの改善はみられた)、今後自分の対人不信や対人緊張、社会不安、顔面神経痙攣、強迫性障害などの弊害を克服するために、認知療法のトレーニングを本格的に行っていこうと思っている。
●某番組を見ていたら、オリンピック選手のメンタルトレーニングの特集してて、日本は冬季オリンピックに参加した選手の中で、メンタルトレーニングを受けているのは5人しかいないとのこと。
精神的な分野において、日本は欧米に比べてすごく遅れているという認識を僕も実際持っている。
僕は精神は肉体と同じで鍛えるのにも、治すのにも技術、テクニックがある、という考えだけど、日本は宗教観というか、アニミズム的な観点からも、精神を科学的に捉えることに抵抗を感じているのではないかと思うことがある。
技術ってのはつまり根拠があり合理的であり、論理的であること。
日本人の精神性について考えるとき、日本人の学問や時間、計画などに対する論理的な姿勢とは似ても似つかないある意味、呪術的な信仰を持っているように感じる。
それは武士道などにも繋がるものだけど、今は無くなってきたけど、昔は耐えるということが精神の鍛錬になるという風潮も強かったように思うし、そういうのも呪術的な思い込みによる精神の捉え方の一つの例といえる。
日本人精神はそれゆえに美しく洗練されてもいると感じる部分もあるけど、また愚劣であって偏見に満ちてもいるとも思う。

番組のコメンテーターが言ってたけど、「精神力なんて人に教えられてつくものなのか?」って言葉、オリンピックの日本人選手のうち5人しかメンタルトレーニングを受けていなかったわけだし、それは経済的な理由もあるかもしれないけど、そういう面を(競技の)協会だの国だのが選手をサポートしないことから考えても、日本人はコメンテーターの言っていたような意識が他の多くの人達にも働いているのか無いのかわからないけど、結果としては精神を大切にするはずの日本人が根拠無き偏見によって精神というものを軽視することになってしまっているように思う。

体の故障は手術という医学の技術で治すことができるわけだし、運動能力は確立されたプログラムの訓練によって向上を図ることができる、ならば精神も、実際的に考えれば脳が作り出す作用なわけだから、それは体の器官の働きといえるわけだから、精神だけ別個に考えて、教えられても鍛えられない、治療できないと考えるのはおかしい。

(続く)

政治

2010年1月26日 僕の思ったこと
●各人の価値観や認識、個性のズレが、倫理観や論理をゆがめてしまう。
誰もが、恐れ、不安、怒り、そういった感情、自尊心、虚栄心、矜持、といった意識を持っている。
それらが互いにぶつかり合い交差しあうため、単純な道理が複雑になり、総体的に正しいと認識されうることが実現できない理想の状態へと迫り上げられてしまう。

これが社会の中に現れる弊害であり、しがらみと言われるものだと考えている。
そしてそのしがらみを調整し円滑に営める状態に保つことをコミュニケーションと呼ぶ。

コミュニケーションとはいわば政治である。
この場合、個々人がそれぞれ、首相である。
良心と悪心は与党と野党といえるかもしれない。
自分が生活を営んでいる範囲であるコミュニティーが国家であって社会である。
各々が首相であり、各々が市民という不思議な構図になる。

個人の価値観はいわば世論であり、そのズレの調整を図るという政治を各々が行っているのだ。

人々は意識的にも無意識的にも感情や自尊心という既得権益に固執しがちである。
様々な既得権益の衝突を調整する場合、正義のみを貫くことは正しい方法ではない。
なぜなら、各々の首相が決めた法律は違うわけだし、仮に総体的に正しいと認識されることであっても、既得権益に執着するがために倫理がゆがめられ正論とみなされることが背景となった戦争が引き起こる危険性もある。
戦争は多くの禍根を残す。
だから、政治は極力平和的解決の方法を探ることになる。

マキャべリは『君主論』の中で、政治の善と人倫の善を峻別した。
「支配者はライオンの力と狐の狡知を持たなければならない」
つまり、政治においては正義ばかりを貫ぬくのは逆に有害であり、道徳的に悪である行為も政治的には善として機能する場合がある。
ということである。

しかしこれは国家という規模においてのみ成立している論理ではない。
前述したように個人間のコミュニティーを小規模な国家と考えたなら、僕たちは多少なりとも、マキャべりの提唱した政治の論理をコミュニケーションにおいて用いているし、持ちいらなければ円滑な対人関係を保つことが難しい事に気付く。

つまり、完全に道徳としての人倫の善を貫き機能するのは、完全に価値観が一緒の人間が集うか、全き一人の状態にならない限り不可能であり、コミュニティーを構成し、社会の中で生活を営む我々は個人間で小規模の政治を行わざるを得ないのである。

先日の僕の件で言うなら、自分に責のない叱責を受けた訳だが、人倫の道で正しいと思われる状況は、僕が自分に責がない旨を社員に述べ、また同僚が自分の過ちである旨を報告し、社員が僕に謝罪する、というものであるが、同僚は自分の自尊心を守るために過ちを報告せず、僕も今後の同僚との関係を考慮して叱責に甘んじるという政治を行った。
しかしそれで同僚との関係は保てても、今度は社員の中で僕に対する一定の評価が下されるわけであり、それは今後において僕の実益に関係してくる危険性がある。
もちろん、ゆえに僕の自尊心という既得権益の執着も安易に捨てられるというものでもない。
その懸念を解決するのであれば再びまた政治を持ちいらなければならなくなる。
それは、まさに狐の狡知。
社員に自分の過ちではないことを報告し、しかしそれを同僚に悟られぬようにすることである。
汚い言葉で言えばそれは裏工作じみたものになる。
しかし、それがうまくいくのであれば、それは全員のコミュニケーションを明確に修正でき、互いの自尊心という既得権益を保つ道でもあるのは確かである。
しかしながら、これは僕の中の道徳的な善の部分に著しく抵触する事柄になる。
政治にどこまで道徳的な善の境界をこしらえるか、そして、どこまで政治的な善を妥協しうるか、これを定めるのは、首相である僕自身であるがゆえ、ときに善意、悪意が与党と野党の立場を買え、野党の側が糾弾してくる。

そこに政治の難しさがある。

現在問題になっている実際の政治上の政治化のごたごたも、政治に大衆の考える人倫の善の境界がどこまで侵食しうるものなのかが明確ではないために、責任問題等含め、喧々諤々の議論となっているように思う。
個人間の政治でさえこれほどに複雑であるので、国家規模の宰相ともなると、その政治の複雑さは実に想像を絶するものなのだろう。

●他人がどんな生活をしていて、どんな考えを持っていて、どんな趣味があって、どんな行動をしているのか、とか人に興味を持つことは、その人を知ることができるだけでなく、そこから自分の生活に役立ったり新たな楽しみとなる情報を取り入れることができ、人生がより豊かに広くなる。
というのが望ましい人への興味の持ち方だと思うわけだけど、仕事をしていると、それ以外の他人に対する興味の示し方もまたちょくちょく見かける。
自分の主観と対比させ不満を持つためだけに他者の行動に興味を持つような人もいるわけで、全く関係ない部署の人が残業が多かろうが少なかろうが関係ないと思うのだが、残業していると「またわざと残業している」などと邪推したり、「作業もせんとおしゃべりが多い」などと腹を立てたり、「自分はこんなきつい仕事をしているのにあの人はあんな仕事しかしてない」と言ったり、とまあ、これはたとえ話だけど、実際にこれに似たシチュエーションにちょくちょく遭遇するわけである。
そんな不満を持つためだけに人の行動を監視しているような生産性のない興味の持ち方をしてもその人自身も楽しくないだろうにと思うのだけど、他者への不満をもつこと自体がフラストレーションのはけ口になるということが矛盾にならない人達も実際にいるようだ。
もちろん自分一人でその不満を溜め込んでいてはフラストレーションのはけ口にはならないわけで、それは発散する相手が存在しなければならなくなるわけだけど、たとえば僕も度々そういうことを聞く立場になるにつけ、自分の身に降りかかったことへの不満ならいざしらず、全く自分に関係ない他人の行動に対してそんなに不満を持ってイライラ怒って何になるのと、そしてその怒りを関係のない人たちにまで向けたりすることも理不尽極まりないわけであって。
もっと前向きな興味の持ち方でする他人の話なら聞いてるこっちも気持ちいいのだけど。
なんだか、意図的に自分を不機嫌な状態へ押しやっていってるような気がして、もっと他者と自分の比較を止めて、受け入れるというか、気にしなければ心も快くいられるだろうに。
とか思うのであった。

●僕はさんまの芸風を好きでも嫌いでもないけれど、すごい人だと思っている。
常に明るいからすごいのじゃなくて、常に明るくいなければいけないという宿命を背負って明るく振舞い続けているからすごい人だと思うのだ。
人間誰しも、どうしようもなく落ち込んでいるときやイライラしているときもある。さんまだって常に無邪気に明るい訳がない。悩みだって苦しみだってあるはずだ。
だけど、テレビ外でのさんまもテレビと一緒で明るいと、多くの芸能人は言う。
しかし、はたしてそれがさんまの本当の姿なのだろうかと思う。
昔の武とのトークで、武が「お互い子供が成長する中で芸風を変えていかなきゃいけない部分も出てくるだろう」と言うと、さんまは、「俺は変えようがないじゃない、このままいかなきゃしゃぁないじゃない。いつまでもひらりんこひらりんこいってなきゃいけませんねん」と言った。

親友の紳助いわく、「さんまには友達がいない。ほんとに誰にも心を開かない」
さんまのまんまで紳助が
「普段のお前でいてほしいわ」
と言ったら、さんまが小さな声で
「あほ、普段の俺でいたら誰が認めてくれんねん」
と返したという。
さんまの素を知っているのは紳助含め数少ない友人達くらいなのじゃないだろうか。

芸能人は、テレビ外でもテレビのキャラを要求される。
それはものすごく辛いことだと思う。
横山やすしも同じような苦悩を抱えていた。
「もうこんな風に振舞うのが辛い、助けてくれや」と、きよしにもらし、あるときは酒に逃げ、あるときは酒をの力を借りてそのキャラを演じ続けた。

さんまは、テレビの前以外でも自分のキャラを壊さない宿命を自ら強いて、今やお笑い界の大御所になった。だけど、その影で犠牲にしたものも沢山あったに違いない。

夜中に紳助が電話をかけ、「お前が哀れでならんのや」と泣く。
同じお笑いに身を置く者、素を知っている親友だけに、その辛さが痛いほどわかるのだろうと思う。

去年だかの27時間テレビのエンディング曲をBEGINが作り披露したとき、おそらくは、さんまをイメージして書かれたんじゃないかと思われるその歌詞に、さんまが普段表わさないような、こみ上げる感情を噛み締めたような表情を見せたように僕には感じられた。その表情に、さんまの明るい顔の下にある懸命さを見たような気がした。
その後、さんまはこの曲を作ってくれたお礼にノーギャラでBEGINのイベントの司会を申し出たりもしてるしね。
この歌に感動し、自分の人生を重ね合わせた部分があったんじゃないだろうか。

http://www.youtube.com/watch?v=quhiMgBds28

そんなさんまの悲哀を、視聴者の中にもわかる人はわかっているんだろうなと思う。
さんまはきっと、辛いしぐさや落ち込んだ姿を見せることをしない覚悟をもうしているんだと思う。だからそういう部分の共感や理解は求めていないのかもしれないけど。

僕はどちらかと言うと、自分の弱さも情けなさもさらけ出せる強さに憧れている人間だけど、さんまのような強さもまた、ひとつの生き方としてすごいと思うし、カッコいい生き様だと思う。




関連日記
『人間関係にキャラはいらない。』
http://37292.diarynote.jp/200501131903190000/

変遷

2009年10月30日 僕の思ったこと
僕は高校時代にある理想を抱いていた。

【エゴは、欲求は、人を諍いの淵に落とす。
世の中で起こる問題はそのほとんどが人間のエゴによる帰結だ。
全ての人間がエゴを放棄し、他者への奉仕の心を持って生きるべきだ。
人が自己を放逐し、無私の人間となっても、無私となった各々が己以外の他者に奉仕することで、その他者の奉仕が一つ一つの断片となって己に集結して、結果的に自我は補填される。しかもそれは、己から発露されたエゴのように攻撃的なものではなく、もっと協調的な、平和的な、穏やかな自我となるはずである】

というものだ。
今考えればこれは、以前の日記に書いた空想的ロマンチズムの典型といえる。現実を無視した、机上の空論を実際に実現できると信じた幼い熱望である。
しかし、当時の自分にとってはまさに苦しみを除去する一つの希望であり、自己の価値観を一変するひらめきであった。

現在の僕は、「無私」、という立場に懐疑的だ。

「無私の人」とよく形容されるマザーテレサについて、先日鑑賞した映画『精神』の中の患者がいっていた言葉が印象的だ。

マザーテレサの心には、人一倍の煩悩や、欲望、悪の思念が渦巻いていたはずです。自己の心のうちに悪を実感しない限り、人間は善の概念も描けないし、善行を実現しようがありません


無私という言葉(表現)は、人間を救おうとする影で一人の人間(自己)を蔑ろにしている。

僕はこう思う。マザーテレサが、善行に生涯をささげたのは、まさにそれが他者の救済だけではなく、自己の救済でもあったからではないだろうか。
内に沸き起こる悪念に対する呵責を感じればこそ、自己の良心に従った善行に己の魂を浄化する贖いを求めたのかもしれない。

人の力になろうとすることは、「無私」では成し得られない。
完全なる利他主義は存在しない。同様に完全なる利己主義も存在しない。
利他はどこかで利己と必ず結びついている。
ゆえに人間はエゴを放棄できない。
善行もまたひとつのエゴの発露と捉える事ができるのだから。
表面上「無私」と映る行為であってもそれは、どこかで自己に還元されている。

自己の悪を認識するがゆえに、他者の悪を憎む。
他者の苦をともに分かつ苦しみは、自己の苦を他者と分かつ幸福となる。他者の憎しみの浄化に立ち会える喜びは、自己に渦巻く憎しみへの呵責に対する贖罪となる。

これが現時点での僕の立場である。
空想的ロマンチズムから科学的ロマンチズムへの変遷。
そこから導き出される行動が仮に同一のものであったとしても、己もまた救われるべき一人の人間であり、それはエゴを放棄することではなされない、という意味合いにおいて大きく異なっている。




関連日記

『科学的ロマンチズム』
http://37292.diarynote.jp/200910171253439632/
「何も考えていない人の顔が一番気高い」とは、漱石の小説『行人』に出てくる一文である。
この言葉を発した人物は、主人公の兄であり、学問だけを生きがいとしてきた、人を信じることのできない孤独な人物であり、おそらくは漱石自身の投影でもあったのだと思う。

兄の朋友は言う。
兄さんがこの判断に到着したのは、全く考えたおかげです。しかし考えたおかげでこの境涯には入れないのです。兄さんは幸福になりたいと思って、ただ幸福の研究ばかりしたのです。ところがいくら研究を積んでも、幸福は依然として対岸にあったのです


後半、一つの挿話が語られる。
モハメッドは遠くの山を呼び寄せるといい、観衆を募った。彼は群集の前で三度、山を呼び寄せたが、山は彼に寄ってこない。
彼は「自分は山を呼び寄せたが、山の方が来たがらないようなので、自分から行くより仕方がない」と言い、山の方向へ歩いていった。

主人公の兄はこれができない。山を呼び寄せようとして、呼び寄せられなければ悔しがるが、自分から歩み寄ろうとはしないのだ。

歩み寄れば楽になる、歩み寄れば幸福になれるかもしれないのに、それを彼にさせないのはいったいなんなのだろうかと。

実は、兄はすでにその理を得ている。
兄は「絶対」に憧れた。
絶対とは何か。
小説にはこう書かれている。

兄さんは純粋に心の落ち付きを得た人は、求めないでも自然にこの境地に入れるべきだといいます。一度この境界に入れば天地も万有も凡ての対象というものが悉くなくなって、ただ自分だけが存在するのだといいます。そうしてその時の自分は有(ある)とも無いとも片の付かないものだといいます。…即ち絶対だといいます。そうしてその絶対を経験している人が、俄然として半鐘の音を聞くとすると、その半鐘の音は即ち自分だというのです。言葉を換えて同じ意味を表わすと、絶対即相対になるのだというのです。従って自分以外に物を置き他(ひと)を作って、苦しむ必要がなくなるし、また苦しめられる懸念も起こらないのだというのです。


これは、僕が以前『渇愛と慈悲』(http://37292.diarynote.jp/200603280043040000/)というタイトルで書いた日記の内容、仏教やインド哲学に通じるものである。

しかし、ここまで幸福の道を解き明かしている兄はその論理性ゆえに、幸福の道を歩むことができない。

兄は朋友に涙ながらに訴える、「どうしたら、この研究的な僕が、実行的な僕に変化できるだろう。どうぞ教えてくれ」と。

心は、理智とともに歩んではくれない。
歩んでくれる人がいれば、それはとても幸福な人だろうと思う。
理屈でわかっていても、心が、体が言うことをきかないのだ。

そこに主人公の兄の苦しみがあるのである。

そしてまた、これは僕の苦しみでもある。
だから、僕はこの小説に激しく共感せざるを得ない。

もう一つこの小説に出てきた挿話がある。
ある聡明霊利に生まれついた坊さんがいた。その坊さんが高僧に教えを請い悟りを得ようとしたが結局何も得られなかった。次に行った和尚にも、「お前のような意解識想(意識や思索による理解)を振り回して得意がる男はとても駄目だといわれる。
坊さんは、あきらめ、自分が所有していた全ての書物を焼き捨て、それ以後考えることを止めてしまった。善も投げ悪も投げ、一切を放下し尽くしてしまう。
するとあるとき、豁然と悟りを啓いてしまったのだそうだ。

兄は、その坊さんに憧れる。
すなわち漱石はそうなりたかったのだろう。

漱石が晩年に作った言葉「則天去私」
自然に身をゆだねて、なすがままに生きたい、それが漱石の理想の境地であった。

主人公の兄は、何にも拘泥していない自然の顔を見ると感謝したくなるほどうれしいといい、そしてそういう顔のできる人物を尊敬する。

僕が純粋と感じる人物への憧憬(http://37292.diarynote.jp/200706200141020000/)もまた、同じようなことであるのかもしれない。

夏場頃から風呂はもっぱらシャワーなのだけど、秋口に入って風呂に入ることもしばしばになってきた。
昨日、母親が風呂に入ろうといったが、僕は眠くて仕方がなかったのでで、風呂を入れる時間さえも省きたい、ということで、僕がシャワーを浴びてから、風呂を入れて入りよ。という旨を伝えた。
これは、僕なりの配慮だったのだが、母親は何故か怒り出して、私もシャワーでいい、という。
母にしてみれば風呂に入ったほうがあんたの疲れも取れるやろうけんという配慮だったわけで、それを無碍にされたための怒りだったらしい。
自分の意思を伝えようとすると、「もういい」という。
「もういい」ならいいやとそのままシャワーを浴びるとさらに怒るわけである。

お互いの配慮がこういった諍いを起こすこともままあるわけで、ひじょうにめんどくさい。

何がめんどくさいかというと、話し合わず、自分の意思も伝えずに、お互いの思いを相手が汲み取っているものと解釈するからめんどくさい。
だから、起こる必要のないこういったつまらぬ諍いが起こる。

日本という国は、もともと、空気を読むということに重点を置いている国で、KYなどという言葉も跋扈するわけだが僕はこの空気を読む、という行為が、しばしば必要なことは認めつつも、あまり好きではない。
同族意識や、一方通行的な、閉鎖的な感じを受けるからだ。

以前にも書いたが、こと人と人の齟齬、諍いの大半は話し合おうとしない、自分の意思を伝え齟齬を解消しようとしない、この空気を読むという行為に重きを置いた風土のために発生する、お互いの相手の思惑の推量の思い違いに起因すると思っている。

だから、お互いが適切な言葉で話し合い、意思を伝え合えば回避できる問題も、お互いが勝手に互いの思いを邪推しそれを相手の考えだと断定してしまうことにより引き起こされる。

自分がこう思ったことは相手がその思いを汲み取ってしかるべきである、という思い込みが蔓延している。

あまりにも非常識なことなら、この空気を読むという行為が必要であることはわかるが、日本の場合ひじょうに微妙であいまいな状況においてもこの空気を読むという行為を要請されるため厄介だ。

僕はずっと前から、このことに懐疑の念を抱いていたので、できるだけ相手の言うことをそのまま信じるようにしている。
空気を読んで何かをしてあげたとして、それが正しく空気を読めていないときには、お世話したつもりが、「大きなお世話」だったりすることがままあるからだ。だから自分の相手の感情の推量よりも、相手の発した言葉の方を重視する。

空気を読むという能力は人それぞれで能力差がある。
アスペルガー気質の人などはそういう能力に長けていない。
長けていないものがそういう風土の社会に溶け込むのは、ひじょうに難しい。ゆえにこの空気を読むという行為に重点をおく文化は、閉鎖的、鎖国的な感を否めない。
つまり差別の源泉も、この風土に起因している部分が大きいだろう。

もちろん、空気を読むという行為が、相手の思惑と一致したときには、深い感情や人のぬくもり、絆を惹起させることも否定はしないが。

そもそも、阿吽の呼吸やツーカーの仲などは、長い時間の話し合いや付き合いの末に構築できるもので、さらに家族間でも最初に述べたような誤解が生じるのであれば、それを他者との間にいきなり求めることじたいに無理があるのだ。

自分の意思を伝え、齟齬が生じたなら話し合う、どちらかというと欧米型の風土を僕は好む。

意思を伝える際、日本語は表現が多岐に渡るため、伝える言葉の中にまた「空気を読む」ことを求めたりして、それは美しく響いたりもするが、意思や考えを伝えるという本来の言葉の役割をぼかし、あいまいにする。
結局意思を伝える言葉の中にまで「空気を読む」という行為を強く要請しすぎるのだ。
もちろん、相手に自分の意思を伝わりやすく、かつ相手に悪感情を起こさせない言葉を使うことは必要だが、それは技術の部分が大きく、空気を読むという感性の部分とはまた違うものだと思う。
日本人は、言葉や感情の感性を大切にしすぎ、技術をおろそかにしすぎた、といえるのかもしれない。いや、日本の言葉の技術は豊富だが、その技術もまた「感情を介して伝えるという技術」ばかりに傾斜しすぎた、というべきか。

心を重視することは美しく、また洗練されている、と映るのは確かだとしても、そういった風土にはどういった危険性があるのかも認識しておかなければ、美しさの中に棘を持つ薔薇である。

真に空気を読む、心を解するためには、一旦心から離れる、客観的な視座を持つことが大切なのだと思う。

僕は、テニスオタクで、文学オタク(まではまだいってないかな?)、筋トレオタクで、映画オタクだ。
他にもオタク的要素の強い部分が沢山ある。
ノスタルジーオタクと言ってもいいかもしれない。
このオタクという言葉、否定的に使われがちで、それはこのオタクという言葉自体に自明性の暴力が潜んでいるからなのだが。

http://37292.diarynote.jp/200408300329140000/

オタクという言葉のそういった暴力性がなんなのかといえば、僕が考えるに「社会性の欠如」という部分に集約されているのだと思う。
これは、かの宮崎勤事件に端を発しているといわれているけど、メディアがオタクというものの定義を暴力的なものへと画一化させてしまった傾向が強いと思う。
僕はそういった暴力性を排除して、オタクという言葉を再定義して認識しているわけだけど、僕にとってのオタクとは、何かに夢中になっている人、没頭している人、程度の意味。
僕のように認識している人は、かなり増えてきていると思う。オタクという言葉の中で自明であったはずの暴力性が段々薄れてきているのだろう。
だから、昔は隠れオタクなどという言葉もあったけど、最近はオタクを公言する人が増えている。オタクであることがある種のステイタスに変容してきているのかもしれない(まだ萌芽期に過ぎないが)。

そもそもオタクの特性はこうだなどと一般化できるほどオタクは単純に括れるものではないと思う。社会性のあるオタクもいれば、無いオタクもいる。僕はやや欠如したオタクだけど。
僕の認識からすれば、オタクであることは人間として素晴らしいことではないかと思う。
何かに没頭できる、熱中できる、これは人間が発展してきた「知りたい」という好奇心が源泉なのだから、いたって人間的な感情だろう。
勿論、何事も行き過ぎれば毒となるが毒となるほどというのはパラノイアと定義できるくらいにならないと当てはまらないと思う。
普通に社会で生活できる程度にオタクであることは素晴らしいのだ。

今日、会社の同僚に一昨日「サマーウォーズ」というアニメ映画を見に行ったけど観れなかった、というと「アニメオタク?」と聞かれて、はて、自分ははたしてアニメオタクだろうかと思ってこんなことを考えた。
僕は現在テレビをほとんど見ない、だから一般の人が見てるナルトやコナン、クレヨンしんちゃんなども通して見たことは一度もない。見だしたら面白いかもしれないけど。
だけど映画のアニメは結構観るし、昔の、子供の頃熱中したアニメは最近よく観る。
前者は、僕はアニメという区別無しに映画の範疇で観ているし、後者はノスタルジーに起因する部分が大きい。
だけど、内因はどうあれ、僕はアニメを楽しんでいるという事実に変わりなく、アニメが好きだという事実に偽りない。
ということは僕はやはりアニメオタクということになるのかもしれない。とか何とか考えたけど、実際どうでもいい。
結論を言えば、いいものはいい。ということであり、そこに人道的なことや物を除けばジャンルの境などは無きに等しい。
僕は映画も小説も音楽も、ジャンルや年代を問わずに観たり読んだりするが、アニメもそう、面白ければ、自分が気に入ればSFであろうが美少女物であろうが萌え系であろうが熱中するのだと思う。熱中すれば知りたくなる、そして詳しくなる。そんな感じで、熱中したアニメもいくつかあるし、監督にしてもそう、ジブリも一時期ハマったし、押井守や今敏、そして今注目しているのがこのサマーウォーズの監督である細田氏なのである。

さて、こんなことを書いてはいるが、同僚に問われた「アニメオタク?」という問いにとっさに出た一言は「違いますよ」だった。
やれやれ、どうやら僕のなかにも「アニメオタク」に対してのネガティブなイメージという自明性の暴力が燻っているらしい。
これは由々しき問題である。
悪しき偏見である。つまり、再定義しきれていない。

とうことを自覚した問答であった。

『オネスティ』ビリージョエル
http://www.youtube.com/watch?v=mwIZreVcl34&eurl

訳詞、一部抜粋
あなたが求めているのが優しさなら
見つけるのは難しくない。
生きて行く上に必要な愛を得ることも出来よう。
しかしこの世で正直さを求めると、
むしろ盲目になった方が良いくらい、
見つけるのは本当に難しい。

誠実とはまことに淋しい言葉だ、
誰もがあまりにも不誠実だから、
誠実という言葉を耳にすることは少ないが、
しかしそれこそあなたから欲しいものなのだ。


誠実っていうものには、他者に対する誠実と、自分の生き方に対する誠実っていう捉え方があると思う。
誠実の解釈もまあそれぞれだけど、僕にとって誠実の前提条件は、一貫性みたいなものかな。

つまり、自分の生き方(たとえそれがどんなものであろうと)、に対して姿勢を貫いて正直に思う道を、周りからどう映ろうと実行できるのは、自分の人生に対して誠実な生き方だと思う。
また逆に、自分の望む人生に対して、「それはあくまで夢だ」と現実と区別し、夢を捨てる姿勢。
これも自分の気持ちに対してきっちりとけじめをつけているという点で、周りからどう映ろうとやはり人生に対して誠実な対応といえると思う。

他者に対する誠実というのは、実は自分のことにも繋がっていて、他者に対して、いいことであれ悪いことであれ、何かを行ったとき、それを自分に対しても当てはめることができないのであれば、他者に対して、また自分に対してどちらかに不誠実な対応だという結論に導かれる。

誠実とは、責任を伴うものだと思う。
他者にはああして欲しい、でも自分はしていない、もしくは、他者にはしていない、でも自分にはしている、という状態を自分が選んだなら、自分はそのことに対して、他者が自分に同様の扱いをしたとしても、なんの不満を抱く権利はないし、他者から不満を持たれることに対して甘受しなければならない。

そういった責任を負わずに、一貫性を放棄し自分の気持ちに対して矛盾を胚胎するのをよしとするのは、他者に対しても、自分に対しても、また自分が選んだ自分の姿勢に対しても甚だ不誠実ということになる。

ある部分で誠実であろうとすると、ある部分不誠実になってしまうこともある。
無私の人は、その善行を自分にも適応しない限り、自分を不遜に扱っているという自分に対する不誠実を免れられないだろうし、ビリージョエルの歌にあるように、まことに誠実というのは難しいものだ。


僕は理不尽が嫌いだ。
だから、自分が他者の理不尽に対して、時として反論する権利を放棄しないためにも、自分の中の理不尽を極力減らしていきたいと思っている。
自分はやっている、もしくはやっていい。だけど他者がやっていたら不満を持つ、というのは僕の「理不尽が嫌い」という気持ちに対して甚だ不誠実な態度だから。
僕は嫌いな現象に対する自分の感情に対して、誠実な姿勢でいたい。
剣道をしている外国の子供達の道場にはるばる日本からやってきた剣道家が講習を開いたわけだが、一人の少女が泣き出した。
聞いてみると、一生懸命やっているのに怒られてばかりで一つも褒めてくれない、とのこと。
そこにいた他の日本人が、「怒られるということはそれだけ腕を見込まれているということなのだよ」と言い聞かせたというエピソードを、以前剣道マガジン(僕も幼い頃剣道をやっていて、今でも剣道を見るのがすき)か何かで読んだ。
そこに、日本と他の国々との文化というか精神の捉え方の違いを感じた。

日本は、褒めるということをあまりしないように思う。
厳しさが美徳、耐え忍び努力することこそ鍛錬だというふうにも取れる。

僕は幼い頃、両親から褒められたという記憶がほとんどない。
これは、母親が同じように褒められてこなかったことで、うまく褒めるということをできないのだと、母親が言っていた。

日本では、褒めるということがなにか偽善めいた、またはお世辞めいたことのように感じられて抵抗があるのだろうか。
褒めること以外にも、何かいいことを言ったりやったりすることに対して、否定的な見方や反抗を示す傾向も少なくないように思う。
「くさいことを言う」みたいに。いったい何がどうくさいというのだろう。

美の捉え方は様々で、どれが正しいとかは言えることではないが、僕はどちらかというと日本的な考え方ではない。
阿吽の呼吸だとか、ツーカーの仲だとか、日本人は、心や状況を察するということに重点を置きすぎている様な感がある。
確かに、言わずとも相手の心がわかることはいいことだと思うし、美しくもあるとは思う。
しかし、完全に相手の心を状況ややり取りのみで判断できる人間などそうそういるはずもないし、そんな関係性も早々あるはずがない。いるはずもない、あるはずがないからこそ、それを理想や美に置きたがる心理もあるのだろう。

だけど実際は、それを実践することによる弊害もまた目だってわかる。
言葉で伝えないことによる感情の相互間の読み違え、それによる関係性のこじれ、起こる必要性のない問題まで引き起こしてしまう。
それにより、いずれは阿吽の呼吸まで辿りつけるであろう関係性や、尊敬しあえるはずの関係性が途中で破綻し修復のできないところまで陥ってしまったりもする。
師が才能を見込んで、手塩をかけて育て、誰よりかわいがっていたつもりが、弟子は師にたいする尊敬の念をとっくに無くし、あまつさえ憎しみを募らせていたりすることだって起こりえる。

日本の精神は、心を見つめているようで、実は心を見落としているのではないか、とすら思える部分もあるのだ。
心の医学、精神の医学みたいなものの発達は、実は欧米の方が進んでいる。
自分の経験則のみで行動するのはうまくいけば強い絆を結べもしようが、非情に主観的で独善的な判断といわざるをえない。
メジャーリーグのコーチたちは、選手をあまり怒らないと聞いたことがある。どんなことでも諭すように、励ますように伝えるし、評価する部分は、しっかりと言葉で褒める。
専門的なカウンセラーなども専属でいたりする。

心も体も、厳しさだけではいつしか磨り減って卑屈になってしまう。
水泳の強化選手が、毎日数10キロ泳がされていて、その練習を一日おきにしたら、飛躍的に記録が伸びたという話もある。

厳しさを乗り越えたものだけが強い絆で結ばれるというのは、美しく感じる部分もあるが、多くの絆を結べる機会を自ずから潰してしまっているという意味では愚劣でもある。

今は、自分の親が自分を愛していると思えるようになったが、そう思えるまでに長い年月がかかった。
幼い頃にもっと褒められていたなら、自分の存在に自信が持てるようになっていたのかもしれないとも思う。
子供に以心伝心を求めるのは酷な話だ、たとえそれが親子であろうと。

自分の存在になかなか価値を見出せないというのは、苦しくもあるが良い面もある、周りの人間が自分に足りないものをたくさん持っている、立派に見える。周りの人たちを尊敬のまなざしで見ることができるようになるのだ。
もちろん、すべてがすべてというわけではないのだが。
自分が成長したい、学びたい、価値のある存在になっていきたいという好奇心や希求の想いが相手の良い部分、自分の持っていない部分を敏感に発見し、純粋に尊敬の念を引き起こしてくれる。
もちろん、自分に価値がないと思うことでひねくれ、人を妬むことだけしかなかった時期もあったにはあったが、そういう時期を経て、人に希望を持とうと思った現在は、その自己の価値を見出せないことが、相手を褒めることへの障害を取り除く鍵となってくれているのである。

僕は、今は相手を褒める言葉を躊躇なく言えるし、ひねくれていた昔と比べて、人をよく褒めるようになったと思う。
そこだけは、自分が成長できた、自負できる長所だと思っている。
相手を褒めるとき、そこにけれんも照れ隠しもなく、真正面から自分の思っている正直な賛美を伝える、完全にかどうかはわからないけど、今は昔に比べてそういうことを素直に簡単にできるようになったと感じている。

心を正確に伝えるために言葉がある。
そして、心には、厳しさと共に、それ以上に賛美が必要だ。
僕はこれからもっともっと人の良いところは褒めていきたいと思うし、それを言葉で伝えていきたいと思う。
そして僕に子供ができる日がもしくるのなら、母が、自分がしてこられなかった分だけ真正面からその子を褒めて、自分が存在することに自信を持たせてやりたいと思っている。

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