読書 『かもめのジョナサン』
2005年6月12日 読書〔小説・詩〕
ISBN:4102159010 文庫 Richard Bach 新潮社 1977/05 ¥500
読んでいて、手塚治虫の「火の鳥」が頭に浮かんできた。僕の頭がジョナサンと火の鳥の何らかの連関を感じたということなのかもしれないが、よく分からない。まさか同じ鳥だからという理由だけではあるまい。おそらく意識だけになるところとかが、なんとなく、久遠な感じがしたんかな。
高校時代の卒業文集にジョナサンへの憧れを書いたクラスメイトがいた。思い起こせば、彼は確かに孤高な感じだった。
でも人間の生は長いから、ただ早く高くって感じで理想を目指すのみってわけにはいかず、ジョナサンのように全き孤高を完遂することをさせない人との繋がりがあるのだからそれを無視するわけにもいかないけどこういった理想を胸に抱きつづけるのは、美しく好もしいことであると僕は思う。
『かもめのジョナサン』原作。「ほとんどのカモメが、飛ぶことに関して学ぶのは、いちばん単純な事実だけだ。海岸から食べ物のあるところまで到達し、また戻ってくること」。ジョナサン・リビングストン・シーガルという名の風変わりな鳥を描いたこの寓話の中で、著者リチャード・バックは語る。「たいていのカモメにとって、大切なのは飛ぶことではなく、食べることだ。しかし、このカモメにとっては、食べることではなく、飛ぶこと自体が重要だった」。飛行は、まさにこの物語の意義を高める、象徴的行為である。この寓話に込められた究極の意味は、たとえ、群れや仲間あるいは隣人から自分の野心は危険だと思われても、より高尚な人生の目的を探求することは大切だ、ということだ(われらが愛するジョナサンもある時点で、自分の群れから追放される)。妥協せず自分の気高い理想を守ることで、ジョナサンは、超越という究極の報酬を得た。そして最後に愛と思いやりの真の意味を知るのである。ラッセル・マンソンによる幻想的なカモメの写真が、この物語にふさわしいイラストとなっている。ただし全体的なデザインは、多少時代遅れの感があるのは否めない(この作品の初版年度は1970年だった)。しかしながらこの作品に流れる精神は不朽であり、とりわけ、若者の心を惹きつけてやまない。
読んでいて、手塚治虫の「火の鳥」が頭に浮かんできた。僕の頭がジョナサンと火の鳥の何らかの連関を感じたということなのかもしれないが、よく分からない。まさか同じ鳥だからという理由だけではあるまい。おそらく意識だけになるところとかが、なんとなく、久遠な感じがしたんかな。
高校時代の卒業文集にジョナサンへの憧れを書いたクラスメイトがいた。思い起こせば、彼は確かに孤高な感じだった。
でも人間の生は長いから、ただ早く高くって感じで理想を目指すのみってわけにはいかず、ジョナサンのように全き孤高を完遂することをさせない人との繋がりがあるのだからそれを無視するわけにもいかないけどこういった理想を胸に抱きつづけるのは、美しく好もしいことであると僕は思う。
僕はシェルターが好きなんです。
2005年6月11日明日の国税の試験のために福岡にバスで行く。
去年までは、当日の早朝に行っていたのだけど、去年は渋滞でぎりぎりだったので、遅れたらしゃれにならんと、余裕を持って今回から前日に行くことにしたのだ。しっかり酔い止めを飲んだおかげか、着くまで一心不乱に読書してもまったく頭が痛くならなかった。
おかげで150ページくらい読めた^^。
前回の神戸でカプセルホテルに止まってから、すっかりはまってしまって、今回もカプセルホテルにした。今回は少しリッチに個室カプセル。でも、普通のビジネスホテルの半分くらいの値段。
カプセルホテルの形状はどこも似ているらしく、リラックスを第一の目的に立てられているよう。大概温泉があり、寝巻きみたいな身軽な着衣があり、床は絨毯で、裸足で歩く。しかも後で精算なのでレストランに行くのもどこに行くのも財布も何も要らない。これがすごく落ち着く。そしていたるところにタオルや歯磨きも置いてる。しかも、何よりビジネスホテルよりも格段に清潔。唯一劣るところは、寝るとき静かにしなきゃ音が響くことくらい。布団もビジネスホテルのよりふかふかだし気持ちいい。
このホテルは、展望露天風呂まで着いていて、前回と同様大満足だった。
去年までは、当日の早朝に行っていたのだけど、去年は渋滞でぎりぎりだったので、遅れたらしゃれにならんと、余裕を持って今回から前日に行くことにしたのだ。しっかり酔い止めを飲んだおかげか、着くまで一心不乱に読書してもまったく頭が痛くならなかった。
おかげで150ページくらい読めた^^。
前回の神戸でカプセルホテルに止まってから、すっかりはまってしまって、今回もカプセルホテルにした。今回は少しリッチに個室カプセル。でも、普通のビジネスホテルの半分くらいの値段。
カプセルホテルの形状はどこも似ているらしく、リラックスを第一の目的に立てられているよう。大概温泉があり、寝巻きみたいな身軽な着衣があり、床は絨毯で、裸足で歩く。しかも後で精算なのでレストランに行くのもどこに行くのも財布も何も要らない。これがすごく落ち着く。そしていたるところにタオルや歯磨きも置いてる。しかも、何よりビジネスホテルよりも格段に清潔。唯一劣るところは、寝るとき静かにしなきゃ音が響くことくらい。布団もビジネスホテルのよりふかふかだし気持ちいい。
このホテルは、展望露天風呂まで着いていて、前回と同様大満足だった。
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読書 『ジーキル博士とハイド氏』
2005年6月11日 読書〔小説・詩〕
ISBN:4102003010 文庫 田中 西二郎 新潮社 1967/02 ¥300
面白く引き込まれて、公務員学校時代に、自習時間に一気に読んでしまった。人間の光と影の部分。その問題はつねにどんな人にも付いて回る。解離性同一障害が、まだ認知されていなかった時代の小説。多重人格者は、恐らく世間では、こういう恐怖の対象として、見られていたのかもしれない。
医師ジーキルは自ら発明した秘薬によって凶悪な人物ハイドに変身するが,くり返し変身を試みるうちにやがて恐るべき破局が…….人間の二重性を描いたこの作には天性の物語作家スティーヴンスン(一八五〇―九四)の手腕が見事に発揮されており,今も変わることなく世界中で愛読されている.映画化されることに実に七十回という.
面白く引き込まれて、公務員学校時代に、自習時間に一気に読んでしまった。人間の光と影の部分。その問題はつねにどんな人にも付いて回る。解離性同一障害が、まだ認知されていなかった時代の小説。多重人格者は、恐らく世間では、こういう恐怖の対象として、見られていたのかもしれない。
蒸し暑くなった
2005年6月10日今週末から三週連続で、公務員試験である。そして一週飛び越えてまた試験だったと思う。確か。
明日から、福岡に行く。来週も福岡。再来週は大分だったと思う。
不思議と生活習慣は戻った。健康思考で昨日からまた走り出した。
今日は振替でテニスクラブだった。珍しく男性しかいなかった。
足が筋肉痛で少し痛かった。
帰り際に行き付けのレストランでミートスパゲッティを食べる。
店を出ると、僕が通っているメンタルクリニックの看護婦さんに合う。しばし立ち話。緊張で若干右ほほがヒクヒクし出す。右ほほが憎くてしょうがない。なぜ立ち話程度で緊張する?
明日から、福岡に行く。来週も福岡。再来週は大分だったと思う。
不思議と生活習慣は戻った。健康思考で昨日からまた走り出した。
今日は振替でテニスクラブだった。珍しく男性しかいなかった。
足が筋肉痛で少し痛かった。
帰り際に行き付けのレストランでミートスパゲッティを食べる。
店を出ると、僕が通っているメンタルクリニックの看護婦さんに合う。しばし立ち話。緊張で若干右ほほがヒクヒクし出す。右ほほが憎くてしょうがない。なぜ立ち話程度で緊張する?
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読書 『LD(学習障害)とADHD(注意欠陥多動性障害)』
2005年6月10日 読書
ISBN:4062721961 新書 上野 一彦 講談社 2003/05 ¥819
LD・ADHDの困難とは、それが障害とはみなされづらく、ゆえに、なんの対応も取られないことにある。
ある映画で出てくる青年は、知的障害が軽度なために、かえって理解されずに就職実習で困難と挫折を経験する。周りの期待がわかるだけに、厳しい社会の壁を前にふともらすつぶやき・・・。「俺がもっと馬鹿だったら悩まなくていいのに」
この苦悩は実にリアルに胸に響く。僕自身も、学生時代に落ち着きがなく、そして何より、授業の内容がまったく頭に入ってこなかった。ADHDやLDの診断を下されたわけではないが、自分自身の意志ではどうしようもないこの状態にたいして、それらの症状が多少なりとも関与していることは可能性としてありうる。僕は結局、どんなに真剣に聞いても、耳に入らず、理解もできない授業を放棄し、聞くことすらもやめてしまった。だから、学生時代を通して、僕の成績は、最後から指折り数えることができるほどの低さだった。特に数学などは、いつも0点か2点だった。勉強が嫌いなわけではない。ただ授業が頭に入らない、人の話が頭に入らないという辛さ。これは僕にとって切実な問題である。そしてそれは現在においても治っておらず、そのせいで公務員学校もドロップアウトしてしまった。就職したとて、その懸念は常について回る。
大学時代に、僕は学ぶ楽しさを知った。しかしそれは一人で学ぶということだ。一人で興味の赴くままに学ぶことは無理なく学べる。これはADHDの典型的な症例でもあり、ADHDで有名なアインシュタインも、学校では落第生だった。彼の業績は、全て一人で学んだ思考実験の賜物である。
ADHDやLDが苦しむ背景に、理解されないということがあるが、まず現れるのが、学校生活である。
教師とは、自分に定められた教科を教えていれば教師なのであろうか?そもそも教育とはなんなのか?この本には「教育とはサービスである」と書いてある。サービス(奉仕)とは、「献身的に国家・社会のために尽くすこと」、教師の立場で言うなら、尽くす対象は子供たちである。尽くすとは、ただ単に教科を教えることではあるまい。子供たち一人一人の問題に目を向け、取り組むことをいうのではないだろうか。
「特異な学力のつまづきや困難に目を向けたLD概念は、わが国のように勉強の遅れを教師の責任として敏感に受け止めることのない教育風土では問題視されにくいという状況があった。だからこそ、不登校とか学級崩壊といった、子供の行動がある沸点を超えると一気に問題として表面化する」
以前も書いたが、僕は教師というものは、単なる職としてあるものではなく、よりいっそう人格的な素養が備わっていないと勤めてはいけない資格だと思っている。それは、人を育てるという責務が、少なくともその何割かは、教師の双肩にかかっているのだから。勉強ができない生徒に対し、あの子はできないとか、レッテルを貼るのではなく、自分の教え方があの子には合わないのではないかとか、どうすれば、あの子が勉強しやすい環境を形成できるかを自分の責務として考えていくことが教師のプロとして姿勢ではないだろうか。
「出来のいい子供ばかりを相手にするのは“えこひいき”だが、手のかかる子、遅れがちな子、外れがちな子を、ひとりひとり、タイミングよく特別扱いする“ひいき”は、ベテラン教師、今風にいうならスーパー教師なら誰でもすることである。
反対に、やっかい者扱いする目や無視しがちな態度は敏感に子供たちに伝わる。いじめの原因を探っていったら、何気ない教師の言動がそのきっかけだったという例もある」
では、LDやADHDの子供たちに、どのような手段を講じるべきなのか。
「物事を肯定的に捉えるか、否定的に捉えるか、その差は大きい。LD・ADHDにしても同じである。彼ら自身が、まず自分の得意な領域や長所をしっかり知っていること、次に苦手な領域や短所について客観的に見つめること、そのうえで克服する努力を続けるのか、必要な助けを借りるのか、別の手段で代替するのか、まったく別の道を選択するのか、そうした作戦について知恵を集め、冷静に考える経験を積むことが最も効果的な教育といえる」
それを選択しなくてはならないのは、障害を持つ子ら本人である。いずれの道を選んでも、道は険しく、困難である。
「もだえ苦しむ最中の事例は、それを自らの責任とするには熊の胆のように苦い」
だからこそ、教師は、彼らの旅路の杖となり、道標となってやらねばならない。
「障害を個性としてみんなが理解できるならば、障害という概念をあえて使う必要性はない。しかし、その障害の実態が理解されぬまま不適切な対応が存在するのであれば、障害を明確化するのは、必要な作業なのである」
不適切な対応を行っているのは、教師であり、親であり、われわれである。
「その個性が不利をこうむるとき障害となる」
本当なら、LDであるとか、ADHDであるとかはどうでもいいのである。それを個性と理解し、その個性にしっかり向き合っていくことさえ出来れば。
われわれは、そのことを認識することから、はじめなければならないのだと思う。
LD児、ADHD児たちは「障害者」なのか!?彼らが将来、社会で自立するために親や教師がすべき支援とは、障害者ではなく「個性的な人」と認められる教育を求めることだ!子供の心がわかる話題の本。
上野 一彦
1943年、東京都に生まれる。東京大学教育学部、同大学院を修了後、東京大学助手、東京学芸大学講師を経て、東京学芸大学副学長。早くからLD教育の必要性を主張。その支援教育を実践するとともに啓発活動を行い、1990年、全国LD親の会、1992年、日本LD学会設立に関わる。文部科学省「特別支援教育の在り方に関する調査研究」などの協力者会議委員を務める。東京都「心身障害教育改善検討委員会」委員長。日本LD学会会長。学校心理士、LD教育士スーパーバイザー
目次
第1章 LD・ADHDを理解する
第2章 LD・ADHDの歴史をたどる
第3章 LD・ADHDの実態と定義
第4章 なぜLD・ADHDになるのか
第5章 LD・ADHDへの気づきと判断
第6章 LD・ADHDへの対応―個性とのつきあい方
第7章 LD・ADHDよ、世界へ羽ばたけ
資料 LD・ADHDへの気づきのために―教師の目から見たチェックリスト
LD・ADHDの困難とは、それが障害とはみなされづらく、ゆえに、なんの対応も取られないことにある。
ある映画で出てくる青年は、知的障害が軽度なために、かえって理解されずに就職実習で困難と挫折を経験する。周りの期待がわかるだけに、厳しい社会の壁を前にふともらすつぶやき・・・。「俺がもっと馬鹿だったら悩まなくていいのに」
この苦悩は実にリアルに胸に響く。僕自身も、学生時代に落ち着きがなく、そして何より、授業の内容がまったく頭に入ってこなかった。ADHDやLDの診断を下されたわけではないが、自分自身の意志ではどうしようもないこの状態にたいして、それらの症状が多少なりとも関与していることは可能性としてありうる。僕は結局、どんなに真剣に聞いても、耳に入らず、理解もできない授業を放棄し、聞くことすらもやめてしまった。だから、学生時代を通して、僕の成績は、最後から指折り数えることができるほどの低さだった。特に数学などは、いつも0点か2点だった。勉強が嫌いなわけではない。ただ授業が頭に入らない、人の話が頭に入らないという辛さ。これは僕にとって切実な問題である。そしてそれは現在においても治っておらず、そのせいで公務員学校もドロップアウトしてしまった。就職したとて、その懸念は常について回る。
大学時代に、僕は学ぶ楽しさを知った。しかしそれは一人で学ぶということだ。一人で興味の赴くままに学ぶことは無理なく学べる。これはADHDの典型的な症例でもあり、ADHDで有名なアインシュタインも、学校では落第生だった。彼の業績は、全て一人で学んだ思考実験の賜物である。
ADHDやLDが苦しむ背景に、理解されないということがあるが、まず現れるのが、学校生活である。
教師とは、自分に定められた教科を教えていれば教師なのであろうか?そもそも教育とはなんなのか?この本には「教育とはサービスである」と書いてある。サービス(奉仕)とは、「献身的に国家・社会のために尽くすこと」、教師の立場で言うなら、尽くす対象は子供たちである。尽くすとは、ただ単に教科を教えることではあるまい。子供たち一人一人の問題に目を向け、取り組むことをいうのではないだろうか。
「特異な学力のつまづきや困難に目を向けたLD概念は、わが国のように勉強の遅れを教師の責任として敏感に受け止めることのない教育風土では問題視されにくいという状況があった。だからこそ、不登校とか学級崩壊といった、子供の行動がある沸点を超えると一気に問題として表面化する」
以前も書いたが、僕は教師というものは、単なる職としてあるものではなく、よりいっそう人格的な素養が備わっていないと勤めてはいけない資格だと思っている。それは、人を育てるという責務が、少なくともその何割かは、教師の双肩にかかっているのだから。勉強ができない生徒に対し、あの子はできないとか、レッテルを貼るのではなく、自分の教え方があの子には合わないのではないかとか、どうすれば、あの子が勉強しやすい環境を形成できるかを自分の責務として考えていくことが教師のプロとして姿勢ではないだろうか。
「出来のいい子供ばかりを相手にするのは“えこひいき”だが、手のかかる子、遅れがちな子、外れがちな子を、ひとりひとり、タイミングよく特別扱いする“ひいき”は、ベテラン教師、今風にいうならスーパー教師なら誰でもすることである。
反対に、やっかい者扱いする目や無視しがちな態度は敏感に子供たちに伝わる。いじめの原因を探っていったら、何気ない教師の言動がそのきっかけだったという例もある」
では、LDやADHDの子供たちに、どのような手段を講じるべきなのか。
「物事を肯定的に捉えるか、否定的に捉えるか、その差は大きい。LD・ADHDにしても同じである。彼ら自身が、まず自分の得意な領域や長所をしっかり知っていること、次に苦手な領域や短所について客観的に見つめること、そのうえで克服する努力を続けるのか、必要な助けを借りるのか、別の手段で代替するのか、まったく別の道を選択するのか、そうした作戦について知恵を集め、冷静に考える経験を積むことが最も効果的な教育といえる」
それを選択しなくてはならないのは、障害を持つ子ら本人である。いずれの道を選んでも、道は険しく、困難である。
「もだえ苦しむ最中の事例は、それを自らの責任とするには熊の胆のように苦い」
だからこそ、教師は、彼らの旅路の杖となり、道標となってやらねばならない。
「障害を個性としてみんなが理解できるならば、障害という概念をあえて使う必要性はない。しかし、その障害の実態が理解されぬまま不適切な対応が存在するのであれば、障害を明確化するのは、必要な作業なのである」
不適切な対応を行っているのは、教師であり、親であり、われわれである。
「その個性が不利をこうむるとき障害となる」
本当なら、LDであるとか、ADHDであるとかはどうでもいいのである。それを個性と理解し、その個性にしっかり向き合っていくことさえ出来れば。
われわれは、そのことを認識することから、はじめなければならないのだと思う。
ニート
2005年6月9日床屋に行ってきた。床屋というか、美容院というか。ヘヤサロンっていうのかな。
とにかく、僕が通っている床屋は、僕の中学時代の同級生がチーフをやっている。彼の立派な立ち居振舞いを見るにつけ、自分のふがいなさが対比させられて、髪の毛を刈られるだけにとどまらず、焦燥の念に少なからず駆られる。
僕は、所謂ひとつの、ニートっていうのに、分類されるんじゃないのかと思う。というのが、僕は公務員になることにそこまでの情熱を持っているとはどう考えてもいえないのだ。もしかしたら、公務員試験という言葉を隠れ蓑に、働くことから遠ざかっているのかもしれない。
気づかぬうちに。それを意識し出したのは、少し前からだけれど、なぜなら僕は、だいぶ治ったけど根っこに人間不信の目があり、そこから対人恐怖という枝へと連なっている。僕は、ここ二、三年で、その枝をだいぶ剪定してきたけど、そうなると、今度はその根っこの部分が浮き彫りになって、意識の前面に浮上してくる。
その証拠に、僕はいまだに公務員を目指している。情熱があれば、三年もあれば、公務員試験に受かるか受からないかのところ(つまり一次合格)というものを一度や二度経験していてもおかしくないだろう。
でも今年が最後。いつまでもニートじゃいられない。
対人恐怖を脱却するには、頭でっかちじゃどうにもならない実践が必要だ。今は薬も飲んでるし、来年には働いていたい。
公務員になれなくても、自分にあった職種を探していかなければ。
てなことで、床屋の友達に、いい職はないかね〜?と聞いたりなんかしてる。
いずれにせよ、今年来年は、僕のひとつの分岐点、ニートからの脱出を図る勝負の年になることは間違いない。勇気をもて!
とにかく、僕が通っている床屋は、僕の中学時代の同級生がチーフをやっている。彼の立派な立ち居振舞いを見るにつけ、自分のふがいなさが対比させられて、髪の毛を刈られるだけにとどまらず、焦燥の念に少なからず駆られる。
僕は、所謂ひとつの、ニートっていうのに、分類されるんじゃないのかと思う。というのが、僕は公務員になることにそこまでの情熱を持っているとはどう考えてもいえないのだ。もしかしたら、公務員試験という言葉を隠れ蓑に、働くことから遠ざかっているのかもしれない。
気づかぬうちに。それを意識し出したのは、少し前からだけれど、なぜなら僕は、だいぶ治ったけど根っこに人間不信の目があり、そこから対人恐怖という枝へと連なっている。僕は、ここ二、三年で、その枝をだいぶ剪定してきたけど、そうなると、今度はその根っこの部分が浮き彫りになって、意識の前面に浮上してくる。
その証拠に、僕はいまだに公務員を目指している。情熱があれば、三年もあれば、公務員試験に受かるか受からないかのところ(つまり一次合格)というものを一度や二度経験していてもおかしくないだろう。
でも今年が最後。いつまでもニートじゃいられない。
対人恐怖を脱却するには、頭でっかちじゃどうにもならない実践が必要だ。今は薬も飲んでるし、来年には働いていたい。
公務員になれなくても、自分にあった職種を探していかなければ。
てなことで、床屋の友達に、いい職はないかね〜?と聞いたりなんかしてる。
いずれにせよ、今年来年は、僕のひとつの分岐点、ニートからの脱出を図る勝負の年になることは間違いない。勇気をもて!
ISBN:4101187045 文庫 島田 雅彦 新潮社 1995/05 ¥660
先生は、自分の欲望を自由にするために何かと理屈付けをするが、欲望に従属することが、自分自身に素直であるということであるわけがない。この社会に生きている限り、完全に自分に忠実でいるなど不可能だし、この社会の中で常識を覆し、人生のエピキュリアンたらんとすることが小説家の使命だと考えるのもお門違いだ。エピキュリアンが迫害されるとすればそれはマイノリティであるからではない。他人を傷つけて平然としているからだ。すべてはこの脆弱な先生の欲望に打ち勝てないことへの言い逃れの理屈であり、それは理屈ではなく屁理屈だ。本当に自分に忠実になりたいのであれば、人里はなれた、社会と切り離された自然に回帰すればいい。それをせずにただこの社会で、自我のみを押し付け他人を傷つけ、踏みにじり、そんな自分に哀れみをこうている先生は、ただ単に責任を回避している逃亡者に過ぎない。
自分の性欲にドンファンを持ち出し、正当化しようとしたところで、正当化されるはずもない。またそういった弱さを許しあうことが大人なのではあるまい。欲望に従属している時点で、大人としての覚悟が欠落しているのである。
理屈とは、自分の過ちを正当化するためにあるのではなく、自分の過ちを暴き、矯正するためにこそ意味を持ちうるはずだ。
ではなぜ、こんな先生に、菊人は私淑したのか。それは、何らかの意図があったのかもしれないが、僕には、語り部としての機能としか思われなかった。
以下、印象に残った文章
「正直さに勝る青二才の知恵はない」
「恋愛は運命的な一対一の出会いだと信じている者にはドン・ファンの嘲笑は聞こえないだろうが、道ですれ違う相手にいちいち発情する者にはドン・ファンの囁きが聞こえる」
「蟻の身になってものを考えられない人は結局、蟻以下のものになっちゃうのよ」
「自分の常識では理解できないこと、存在すべきでないものの方がこの世の中には多い。ひとつでも多く自分の常識を覆すことがことができれば、その人は人生のエピキュリアンといえるのではないか?そしてそういう人種は数が少なく、迫害される。しばしば、自分の生活に満足している平凡人は誰もが似たり寄ったりの悟りに到達している。いわく則天去私・・・その悟りを土足で踏みにじるのが人生のエピキュリアンだ。世界は自分のために犠牲になるべきだと考える不遜な奴。そういう人は若さで裏打ちされている。体力と知性に任せてごり押しする。そして、ある日、プツンと切れるのだ。こちら側にその人をつなぎ留めていたひもが」
「今まで通りじっと退屈に耐えろという私ともっと大胆で自由な生活を楽しめという私の戦争、過去の方から私を未来へ押し出す力と未来の方から前進を阻む力の拮抗、自分を内側に押し込めておく意志と外側へ駆り立てる意志のスクラム、他人に救いを求める誘惑と他人を拒絶する覚悟の格闘、重苦しさと軽快さのレスリングが際限もなく繰り返される」
「ストレートがゲイになろうと躍起になったり、人種偏見にさらされたマイノリティが民族主義者になったり、エコロジストが地球環境保護を掲げて、テロ活動を行ったり、寿司バーの皿洗いがアーティストを気取ったり・・・そういった生き方は全て片意地張ったフィクションではないだろうか。何らかの圧力に対抗したり、ある雰囲気に染まっているうちに、好きでもないフォルムに押し込められてしまった、そんな不幸を私は感じてしまう」
ポルノなんだか、SFなんだか、政治小説なのか、ミステリーなのかわからない不思議な恋愛小説を書いている小説家の先生は川の向う岸に住んでいる。だから…彼岸先生。東京、ニューヨークで女性遍歴を重ねたドン・ファンで、プロの嘘つきである先生を、ぼくは人生の師と見立てたのだった。ロシア語を学ぶ十九歳のぼくと三十七歳の先生の奇妙な師弟関係を描いた平成版「こころ」。泉鏡花文学賞受賞作。
先生は、自分の欲望を自由にするために何かと理屈付けをするが、欲望に従属することが、自分自身に素直であるということであるわけがない。この社会に生きている限り、完全に自分に忠実でいるなど不可能だし、この社会の中で常識を覆し、人生のエピキュリアンたらんとすることが小説家の使命だと考えるのもお門違いだ。エピキュリアンが迫害されるとすればそれはマイノリティであるからではない。他人を傷つけて平然としているからだ。すべてはこの脆弱な先生の欲望に打ち勝てないことへの言い逃れの理屈であり、それは理屈ではなく屁理屈だ。本当に自分に忠実になりたいのであれば、人里はなれた、社会と切り離された自然に回帰すればいい。それをせずにただこの社会で、自我のみを押し付け他人を傷つけ、踏みにじり、そんな自分に哀れみをこうている先生は、ただ単に責任を回避している逃亡者に過ぎない。
自分の性欲にドンファンを持ち出し、正当化しようとしたところで、正当化されるはずもない。またそういった弱さを許しあうことが大人なのではあるまい。欲望に従属している時点で、大人としての覚悟が欠落しているのである。
理屈とは、自分の過ちを正当化するためにあるのではなく、自分の過ちを暴き、矯正するためにこそ意味を持ちうるはずだ。
ではなぜ、こんな先生に、菊人は私淑したのか。それは、何らかの意図があったのかもしれないが、僕には、語り部としての機能としか思われなかった。
以下、印象に残った文章
「正直さに勝る青二才の知恵はない」
「恋愛は運命的な一対一の出会いだと信じている者にはドン・ファンの嘲笑は聞こえないだろうが、道ですれ違う相手にいちいち発情する者にはドン・ファンの囁きが聞こえる」
「蟻の身になってものを考えられない人は結局、蟻以下のものになっちゃうのよ」
「自分の常識では理解できないこと、存在すべきでないものの方がこの世の中には多い。ひとつでも多く自分の常識を覆すことがことができれば、その人は人生のエピキュリアンといえるのではないか?そしてそういう人種は数が少なく、迫害される。しばしば、自分の生活に満足している平凡人は誰もが似たり寄ったりの悟りに到達している。いわく則天去私・・・その悟りを土足で踏みにじるのが人生のエピキュリアンだ。世界は自分のために犠牲になるべきだと考える不遜な奴。そういう人は若さで裏打ちされている。体力と知性に任せてごり押しする。そして、ある日、プツンと切れるのだ。こちら側にその人をつなぎ留めていたひもが」
「今まで通りじっと退屈に耐えろという私ともっと大胆で自由な生活を楽しめという私の戦争、過去の方から私を未来へ押し出す力と未来の方から前進を阻む力の拮抗、自分を内側に押し込めておく意志と外側へ駆り立てる意志のスクラム、他人に救いを求める誘惑と他人を拒絶する覚悟の格闘、重苦しさと軽快さのレスリングが際限もなく繰り返される」
「ストレートがゲイになろうと躍起になったり、人種偏見にさらされたマイノリティが民族主義者になったり、エコロジストが地球環境保護を掲げて、テロ活動を行ったり、寿司バーの皿洗いがアーティストを気取ったり・・・そういった生き方は全て片意地張ったフィクションではないだろうか。何らかの圧力に対抗したり、ある雰囲気に染まっているうちに、好きでもないフォルムに押し込められてしまった、そんな不幸を私は感じてしまう」
やはり僕は無類の肉好きらしい
2005年6月8日今日はテニスクラブだ。
テニスを観戦すると、今度は自分が体を動かしたくなるもんだ。
体を動かしていると、テニスを観戦したくなるもんだ。
運動後は、風呂に入りたくなるもんだ。
昨日に引き続き、男もすなる日記などをしたためて、ようやく、追いついた。
気がつけば、26歳になっていた。
人の心に感謝した一日であった。
祝日本ワールドカップ☆
テニスを観戦すると、今度は自分が体を動かしたくなるもんだ。
体を動かしていると、テニスを観戦したくなるもんだ。
運動後は、風呂に入りたくなるもんだ。
昨日に引き続き、男もすなる日記などをしたためて、ようやく、追いついた。
気がつけば、26歳になっていた。
人の心に感謝した一日であった。
祝日本ワールドカップ☆
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急げや急げ
2005年6月7日泥のように眠って朝起きる微妙に生活時間戻りかけてるかもね。
やっぱりマンションはもう自分の家っぽくなってるので実家よりも落ち着ける。自分の部屋があるってやっぱり良いよね。
さて今日一日でできるだけ雑用は済まし、早いとこ勉強に移らなければなるまい。
まず、午前中はテニスを取ったビデオのラベル貼り。こういう作業は強迫が現れやすく、結構完璧を求めてしまう。よって時間がかかるのねん。完全保存版だしね。
それが終わったら、軽くご飯食べてから、今度はたまりに溜まった日記を読んだり書いたりしなければならん。これは別に強迫じゃなくても時間がかかるけれど。救いは、テニスの事を書くのでネタを考えなくていいことと、テニスはなにも考えなくてもすらすらと言葉が出てくるというところ。だから、だいぶ早く進むわけだけど、それでもやっぱり時間はかかる。
何より厄介なのは、僕はテレビやパソコンの光に弱くて、すぐに目が痛くなって偏頭痛になったり、パソコンをしていると、何かの電波のせいか知らないけど、眠くて仕方がなくなってしまう。今朝も午前四時に起きたし、あんまり眠くなって、午後の八時には這這の体でベッドにベッドにもぐりこんだ。
日記はまだ追いつかない。
やっぱりマンションはもう自分の家っぽくなってるので実家よりも落ち着ける。自分の部屋があるってやっぱり良いよね。
さて今日一日でできるだけ雑用は済まし、早いとこ勉強に移らなければなるまい。
まず、午前中はテニスを取ったビデオのラベル貼り。こういう作業は強迫が現れやすく、結構完璧を求めてしまう。よって時間がかかるのねん。完全保存版だしね。
それが終わったら、軽くご飯食べてから、今度はたまりに溜まった日記を読んだり書いたりしなければならん。これは別に強迫じゃなくても時間がかかるけれど。救いは、テニスの事を書くのでネタを考えなくていいことと、テニスはなにも考えなくてもすらすらと言葉が出てくるというところ。だから、だいぶ早く進むわけだけど、それでもやっぱり時間はかかる。
何より厄介なのは、僕はテレビやパソコンの光に弱くて、すぐに目が痛くなって偏頭痛になったり、パソコンをしていると、何かの電波のせいか知らないけど、眠くて仕方がなくなってしまう。今朝も午前四時に起きたし、あんまり眠くなって、午後の八時には這這の体でベッドにベッドにもぐりこんだ。
日記はまだ追いつかない。
ただいま〜
2005年6月6日て、マンションに帰ってきましたよ。
二週間後のウィンブルドンはNHKであるから、実家に帰る必要はないかな?
とにかく、20日まではテニスはほどほどに勉強にうちこまんといけんなあ。
ていうか、二週間留守にしていた間にするべきことが溜まっていて、それをまず片付けなければ。ということで、まずやったのが、二週間分の新聞を読む。
二週間分の新聞、読むのに大変時間がかかるし、疲れてヘロヘロになった。でも読んでやったぞ〜。
おやすみ。
二週間後のウィンブルドンはNHKであるから、実家に帰る必要はないかな?
とにかく、20日まではテニスはほどほどに勉強にうちこまんといけんなあ。
ていうか、二週間留守にしていた間にするべきことが溜まっていて、それをまず片付けなければ。ということで、まずやったのが、二週間分の新聞を読む。
二週間分の新聞、読むのに大変時間がかかるし、疲れてヘロヘロになった。でも読んでやったぞ〜。
おやすみ。
フレンチオープン最終日
2005年6月6日 テニスいやあ、二週間楽しかったなあ。
やっぱりテニスは良いね。良いものですね。
男子シングルス決勝
R・ナダル 対 M・プエルタ
ナダルの圧勝かと思いきや、なんてすばらしい試合をしてくれるプエルタ。ナダルにクレーで対抗するには、技よりも、フェレールやプエルタやコリアのようなしこりテニスの方が良いのかもな。
予想外の盛り上がりを見せたファイナル。でも結局ナダルが勝っちゃった。十代での優勝はマイケル・チャンがいるけれど、現在のテニス界でそれをやってのけられるってのはすごいこと。
二週間後にはウィンブルドンだけどナダルが早いコートにどれだけ対応できるかが今後の彼の課題になってくるだろう。
謙虚な姿勢は失わないでいてほしい。
やっぱりテニスは良いね。良いものですね。
男子シングルス決勝
R・ナダル 対 M・プエルタ
ナダルの圧勝かと思いきや、なんてすばらしい試合をしてくれるプエルタ。ナダルにクレーで対抗するには、技よりも、フェレールやプエルタやコリアのようなしこりテニスの方が良いのかもな。
予想外の盛り上がりを見せたファイナル。でも結局ナダルが勝っちゃった。十代での優勝はマイケル・チャンがいるけれど、現在のテニス界でそれをやってのけられるってのはすごいこと。
二週間後にはウィンブルドンだけどナダルが早いコートにどれだけ対応できるかが今後の彼の課題になってくるだろう。
謙虚な姿勢は失わないでいてほしい。
フレンチオープン十三日目
2005年6月5日 テニス女子決勝に残ったベテラン、ピアースは、ウェアとかのスポンサー契約をしていないそうだ。見たところ、ラケットのガットにもスポンサーのステンシルマークが入っていないので、契約していないらしい。ところでそのピアースのラケット、ふと見てみるとヘッドのアガシとかの使ってるラケットに見えるが、よくよく目を凝らしてみると、ラケットの形状が違う。これは明らかにヨネックスのラケットだ。画面を注意して、ラケットのグリップエンドを見てみると、やっぱりヨネックスのマークだった。でもこのラケット見たことないぞ。ちょっと前のラケットなのかな?なぞである。
女子シングルス決勝
J・エナン・アルデンヌ 対 M・ピアース
正直、ピアースがまだ引退していなかったとは驚きだった。僕はテニスに五年間のブランクがあるからね。彼女はデビューのときから見ているわけさ。そんな彼女ももう30歳。まさか、決勝にくるとは。
対する相手は、僕が大会前に優勝候補に上げていたエナン。彼女の片手バックは女子選手のうち方はなく男子選手のそれである。
試合は、一方的なエナンのペースで幕を閉じた。
ピアースは、フランスの選手だけに、ふがいないテニスをした自分が歯がゆかったようだ。表彰台で涙を見せる彼女がいた。しかし、決勝まできたのだ。どうして恥ずかしく思うことがある?ピアースは、もうとっくにピークを過ぎているのに、決勝まできた。立派過ぎるほどに立派である。胸を張って準優勝である。
女子シングルス決勝
J・エナン・アルデンヌ 対 M・ピアース
正直、ピアースがまだ引退していなかったとは驚きだった。僕はテニスに五年間のブランクがあるからね。彼女はデビューのときから見ているわけさ。そんな彼女ももう30歳。まさか、決勝にくるとは。
対する相手は、僕が大会前に優勝候補に上げていたエナン。彼女の片手バックは女子選手のうち方はなく男子選手のそれである。
試合は、一方的なエナンのペースで幕を閉じた。
ピアースは、フランスの選手だけに、ふがいないテニスをした自分が歯がゆかったようだ。表彰台で涙を見せる彼女がいた。しかし、決勝まできたのだ。どうして恥ずかしく思うことがある?ピアースは、もうとっくにピークを過ぎているのに、決勝まできた。立派過ぎるほどに立派である。胸を張って準優勝である。
フレンチオープン十二日目
2005年6月4日 テニスWOWOWはまた許されがたい失態を冒した。この大会の目玉であるフェデラー対ナダルの大勝負をこともあろうか、途中で終了させてしまったのだ。しかも一番良いところで。これはさすがにいただけない。マンションに帰ってから岩佐アナのブログを見ると、謝罪の言葉が乗っていた岩佐アナは悪くないのにね。
男子シングルス準決勝
M・プエルタ 対 N・ダビデンコ
これまた僕の予想を覆してプエルタがダビデンコを粉砕してしまった。プエルタのフォアハンドを見てみると、なんとイースタンで握っている。イースタンであれだけの回転がかけられるのは、不思議でしょうがない。なぜかボトムハーフの試合はフルセットに縺れ込む。実力的には、ダビデンコのほうが上だが、プエルタは今回精神力で勝ちぬいたように思う。
R・ナダル 対 R・フェデラー
目下最強の二人の対決。全テニスファンが大会前から待ち焦がれた試合が実現。今年フェデラーはまだ二敗しかしていないし、クレーでのナダルもまた二敗しかしていない。この勝負はまさにどちらに転ぶかわからない。僕はフェデラーに勝ってほしかったけど、不安要素があった。それはフェデラーは昨年ナダルに負けており、今年のマイアミ決勝でも、負ける一歩手前まで言っていたからだ。しかも、今回はナダルの庭であるクレーコート。あの独特のスピンをフェデラーは苦手にしている。フェデラーはもともとスロースターターだし。だから、なんだか負けの匂いがぷんぷん。予想通り、ナダルが勝った。そして案の定、フェデラーは彼のスピンに対応し切れなかった。フェデラーのいつものプレーが出ていれば勝ったかもしれないが、それを出させないところにナダルの強さがある。なにより、あの驚異的な精神力はフェデラーをも凌駕している。フェデラーがロランギャロスのタイトルを取るためには、ナダルという存在を乗り越えなければならない。
男子シングルス準決勝
M・プエルタ 対 N・ダビデンコ
これまた僕の予想を覆してプエルタがダビデンコを粉砕してしまった。プエルタのフォアハンドを見てみると、なんとイースタンで握っている。イースタンであれだけの回転がかけられるのは、不思議でしょうがない。なぜかボトムハーフの試合はフルセットに縺れ込む。実力的には、ダビデンコのほうが上だが、プエルタは今回精神力で勝ちぬいたように思う。
R・ナダル 対 R・フェデラー
目下最強の二人の対決。全テニスファンが大会前から待ち焦がれた試合が実現。今年フェデラーはまだ二敗しかしていないし、クレーでのナダルもまた二敗しかしていない。この勝負はまさにどちらに転ぶかわからない。僕はフェデラーに勝ってほしかったけど、不安要素があった。それはフェデラーは昨年ナダルに負けており、今年のマイアミ決勝でも、負ける一歩手前まで言っていたからだ。しかも、今回はナダルの庭であるクレーコート。あの独特のスピンをフェデラーは苦手にしている。フェデラーはもともとスロースターターだし。だから、なんだか負けの匂いがぷんぷん。予想通り、ナダルが勝った。そして案の定、フェデラーは彼のスピンに対応し切れなかった。フェデラーのいつものプレーが出ていれば勝ったかもしれないが、それを出させないところにナダルの強さがある。なにより、あの驚異的な精神力はフェデラーをも凌駕している。フェデラーがロランギャロスのタイトルを取るためには、ナダルという存在を乗り越えなければならない。
フレンチオープン十一日目
2005年6月3日今日は女子の準決勝があった。女子の試合は、見るけれどビデオには写してないのです。
ばあちゃんが、試合を見ながら、スポーツ選手はメンスの時どうするんやろうか。と素朴な疑問を投げかけてくるが、そんなこと、男の僕が知る分けない。おそらく、薬で痛みを抑えるとか、時期をずらすとか。
てか、そんな疑問をぶつけられたら恥ずかしいよ。
ばあちゃんが、試合を見ながら、スポーツ選手はメンスの時どうするんやろうか。と素朴な疑問を投げかけてくるが、そんなこと、男の僕が知る分けない。おそらく、薬で痛みを抑えるとか、時期をずらすとか。
てか、そんな疑問をぶつけられたら恥ずかしいよ。
フレンチオープン十日目
2005年6月2日 テニスベスト8が出揃ったわけだけど、トップハーフは案外順当なのだが、ボトムハーフは、よほどテニス好きじゃないと、と思わせるものすごく地味なメンバーになってしまった。これというのも、前回優勝、準優勝者のガウディオとコリアが負けちゃったから。ガウディオはともかく、コリアは勝ち進むと思ってたのになあ。
男子シングルス準々決勝
M・プエルタ 対 G・カニャス
カニャスは地味なりに有名だが、プエルタ名前は知っていても、そのプレーを見るのははじめて、クレーコートスペシャリストはまずテレビに出ないのでそういう選手は多い。立ち上がりプエルタが怒涛の攻撃を見せてカニャスを圧倒する。この攻撃には僕も面食らった。でもだんだんカニャスが調子を戻してきて、気づけばフルセットに。どっちに転んでもおかしくない試合だったけど、プエルタの粘りが勝った。カニャスが勝つと思っていた僕はまたまた面食らった。
N・ダビデンコ 対 T・ロブレド
前の試合ほど地味ではないが、やはり地味。二人とも実力には定評があるが、なんというか、プレイに華がないというか。
地味だということは、それだけ力が拮抗してるということなのか、これまたフルセットに縺れ込んだ。何気に、昨日の試合よりも両試合とも中身が濃くなっている。この試合もどちらが勝ってもおかしくない試合だったは、ダビデンコの勝ち。
プエルタ対ダビデンコってのも地味だな。
男子シングルス準々決勝
M・プエルタ 対 G・カニャス
カニャスは地味なりに有名だが、プエルタ名前は知っていても、そのプレーを見るのははじめて、クレーコートスペシャリストはまずテレビに出ないのでそういう選手は多い。立ち上がりプエルタが怒涛の攻撃を見せてカニャスを圧倒する。この攻撃には僕も面食らった。でもだんだんカニャスが調子を戻してきて、気づけばフルセットに。どっちに転んでもおかしくない試合だったけど、プエルタの粘りが勝った。カニャスが勝つと思っていた僕はまたまた面食らった。
N・ダビデンコ 対 T・ロブレド
前の試合ほど地味ではないが、やはり地味。二人とも実力には定評があるが、なんというか、プレイに華がないというか。
地味だということは、それだけ力が拮抗してるということなのか、これまたフルセットに縺れ込んだ。何気に、昨日の試合よりも両試合とも中身が濃くなっている。この試合もどちらが勝ってもおかしくない試合だったは、ダビデンコの勝ち。
プエルタ対ダビデンコってのも地味だな。
フレンチオープン九日目
2005年6月1日 テニスWOWOWは何を思ったか、午前四時まで放送予定なのに、午前二時で、早く終わったからと切り上げ終了してしまった。全試合放送してならわかるが、フェデラーの試合は、第三セットしか放送していない。そんなのは許されない。たぶん苦情がまた轟々来ているだろうな。
男子シングルス準々決勝
R・ナダル 対 D・フェレール
フェレールは、今年躍進した一人。僕がガオラで録画した大会の準決勝に二回も現れた。そしてその両方で、ナダルに敗れた。でも結構いい試合をしてる。ナダルを破る可能性がかなり高い選手だと僕は思っている。今年に入って多分三回目の対戦だと思う。第一セットは予想通りの大接戦。こりゃあもしかしたらもしかするぞと思わせといて、フェレール第二セットから集中が切れちゃった。それもまあ、しょうがない。ナダルは取るのが不可能なショットも次々拾って拾うだけならまだしも、エースを取ってしまう。フェレールはもう苦笑するしかない。僕も苦笑するしかない。
R・フェデラー 対 V・ハネスク
ハネスクって選手はノーシードから勝ちあがり。フェデラーのまったく的ではなかった。フェデラーは今回まだ一セットも落としていない。なんか、あまりの完勝ぶりにフェデラーも気が抜けたのか、三連続ダブルフォルトとか冒して、まあ、危機感ないといくらトップ選手でも集中切れてしまうんかな。
次はナダルだ。
男子シングルス準々決勝
R・ナダル 対 D・フェレール
フェレールは、今年躍進した一人。僕がガオラで録画した大会の準決勝に二回も現れた。そしてその両方で、ナダルに敗れた。でも結構いい試合をしてる。ナダルを破る可能性がかなり高い選手だと僕は思っている。今年に入って多分三回目の対戦だと思う。第一セットは予想通りの大接戦。こりゃあもしかしたらもしかするぞと思わせといて、フェレール第二セットから集中が切れちゃった。それもまあ、しょうがない。ナダルは取るのが不可能なショットも次々拾って拾うだけならまだしも、エースを取ってしまう。フェレールはもう苦笑するしかない。僕も苦笑するしかない。
R・フェデラー 対 V・ハネスク
ハネスクって選手はノーシードから勝ちあがり。フェデラーのまったく的ではなかった。フェデラーは今回まだ一セットも落としていない。なんか、あまりの完勝ぶりにフェデラーも気が抜けたのか、三連続ダブルフォルトとか冒して、まあ、危機感ないといくらトップ選手でも集中切れてしまうんかな。
次はナダルだ。
フレンチオープン八日目
2005年5月31日 テニス僕が見始めた頃は、アナウンサーは岩佐アナだけだったような気がするが、年々人数が増えてきて、今年は、五人。やはり好みのアナウンスというものがあって、やはり僕は岩佐アナが一番。彼はブログも開いていて、公私共にテニス大好きなので、仕事であっても、その愛情が伝わってくる。しかし彼ももう高齢。サッカーの実況を引退して、テニス一筋になったとはいえ、テニスの引退も見据えておかなければならないだろうと思う。それで岩佐アナの後継者とでも言うべきアナウンサーはといえば、僕は田中大士アナではないかと思う。彼のテニス知識はしっかりしているし、進行の仕方も、ゆっくりと、且つ的確だ。そして、形式にとらわれず、個性も十分に発揮している。岩佐アナのようにプライベートでもテニスが好きなのかはわからないが、少なくとも、実況を聞くかぎりテニスに愛情が感じられるというのは、少なくともプロフェッショナルであるとはいえる。というわけで、田中大士アナに期待。
男子シングルス四回戦
R・ナダル 対 S・グロージャン
昨日三セット目の途中から雨で順延になった試合。
セブのショットは、威力があるだけに、どうにも、ミスが目立つ。
地の利を生かしたにせよこれではナダルに勝つことは無理だろう。
なぜならナダルはまったくミスをしないから。
フランスの夢は絶たれた。
T・ロブレド 対 M・サフィン
赤土には魔物がいるとよくいわれるが、魔物とは、実はクレーコートスペシャリストのことなのかもしれない。少なくとも、トップ選手にとってはそうだろう。彼らの存在が、トップ選手が勝ち進むことをもっとも難しい大会にしていることは間違いないのだから。
ロブレドにしても、ハードでも強いが、やはり、分類するならクレーコーターであろうし、ナダルにしてもそう。サフィンは、そういったクレーコーターに苦戦を強いられていたが、ついに、ここで力尽きた。全豪のように集中が持続したとしても、それだけでは、どうにもならない赤土の壁、というものが存在しているように思えてならない。
男子シングルス四回戦
R・ナダル 対 S・グロージャン
昨日三セット目の途中から雨で順延になった試合。
セブのショットは、威力があるだけに、どうにも、ミスが目立つ。
地の利を生かしたにせよこれではナダルに勝つことは無理だろう。
なぜならナダルはまったくミスをしないから。
フランスの夢は絶たれた。
T・ロブレド 対 M・サフィン
赤土には魔物がいるとよくいわれるが、魔物とは、実はクレーコートスペシャリストのことなのかもしれない。少なくとも、トップ選手にとってはそうだろう。彼らの存在が、トップ選手が勝ち進むことをもっとも難しい大会にしていることは間違いないのだから。
ロブレドにしても、ハードでも強いが、やはり、分類するならクレーコーターであろうし、ナダルにしてもそう。サフィンは、そういったクレーコーターに苦戦を強いられていたが、ついに、ここで力尽きた。全豪のように集中が持続したとしても、それだけでは、どうにもならない赤土の壁、というものが存在しているように思えてならない。
フレンチオープン七日目
2005年5月30日 テニステニスには、前腕が強いほうが何かと便利だ。ボレーやサーブを打つときとかに。案の定ボーリングをして僕の前腕は筋肉痛になってしまった。ということは、僕は前腕が未熟だということになる。そこを鍛えたら、テニスの技術も上がるかもしれない。ボーリングは前腕を鍛えるのにいいかも。
男子シングルス四回戦
R・フェデラー 対 C・モヤ
C・モヤは右肩をいためているらしく、結構なビックサーバーであるはずの彼のサービスは今日はぜんぜん早くなかった。セットが進むごとにサーブのスピードは明らかに落ちてった。でもサービス以外では、怪我の影響は感じられなかった。
ストレートでフェデラーがかった。そのプレイを見て、仮にモヤが万全であったとしてもフェデラーの勝利は揺らがなかっただろうと思った。
R.ナダル 対 S・グロージャン
ジュニアの頃から注目してるセバスチャンは、今回フランスの期待がガスケに向いていたおかげで、プレッシャー少なかったのが奏したのか、四回戦まで勝ちあがってきた。彼のバックハンドとフォアハンドは、技術的には利にかなっているが、全体としてみるととて独特だ。
優勝候補のナダルとの対戦は、ナダルは、まさにアウェイ状態。
三回戦で、ナダルに破れたガスケのあだ討ちとフランスの全国民がいきまいておる。そんな中ナダルは落ち着いて自分のプレーを続ける強靭な精神力。
雨のため、順延。
男子シングルス四回戦
R・フェデラー 対 C・モヤ
C・モヤは右肩をいためているらしく、結構なビックサーバーであるはずの彼のサービスは今日はぜんぜん早くなかった。セットが進むごとにサーブのスピードは明らかに落ちてった。でもサービス以外では、怪我の影響は感じられなかった。
ストレートでフェデラーがかった。そのプレイを見て、仮にモヤが万全であったとしてもフェデラーの勝利は揺らがなかっただろうと思った。
R.ナダル 対 S・グロージャン
ジュニアの頃から注目してるセバスチャンは、今回フランスの期待がガスケに向いていたおかげで、プレッシャー少なかったのが奏したのか、四回戦まで勝ちあがってきた。彼のバックハンドとフォアハンドは、技術的には利にかなっているが、全体としてみるととて独特だ。
優勝候補のナダルとの対戦は、ナダルは、まさにアウェイ状態。
三回戦で、ナダルに破れたガスケのあだ討ちとフランスの全国民がいきまいておる。そんな中ナダルは落ち着いて自分のプレーを続ける強靭な精神力。
雨のため、順延。
ボーリングラー
2005年5月29日テニス中継のおかげですっかり昼夜逆転の僕であるから、友達と遊ぶのも午後の五時くらいからなるわけで、今日は、母親と祖母が僕と父親を残し温泉旅行にしけこんでいるってときにちょうど友達から、お誘いがあって、近場に遊びに行く。
僕達、公務員目指して、三年目トリオは、その一人は派遣社員で、半ば公務員諦めモード、僕と残る一人も今年が勝負。だからそんなささくれた心に滋養を与えなければと、たまに開催される慰労会。
いつもはカラオケだけど、今日は、久しぶりに、ボーリングへとしけこんだ。
ボーリングなんて何年かぶり。名前は、二人はホセと、ホゲ、僕はモホにされた。
三ゲームやったけど、最初のゲームは三人とも100点いかなかった。隣でやってるきゃつらはかなりの高得点。やりこんでいる模様。一回目は二位、二回目はドべ。三回目は一位。というまんべんない結果。
腕がかなりギクシャクして、明日は多分筋肉痛だろうな。
その後は、ダイエットも忘れて、焼肉食い放題。久しぶりに肉食って涙チョチョ切れるほどうまかった。僕はベジタリアンにはなれないな。
友達の一人は、プリン体を気にして、レバーを食わなかった。
夜の11時ごろ帰宅。
遊んだ食った。さあ、テニス見よ。
僕達、公務員目指して、三年目トリオは、その一人は派遣社員で、半ば公務員諦めモード、僕と残る一人も今年が勝負。だからそんなささくれた心に滋養を与えなければと、たまに開催される慰労会。
いつもはカラオケだけど、今日は、久しぶりに、ボーリングへとしけこんだ。
ボーリングなんて何年かぶり。名前は、二人はホセと、ホゲ、僕はモホにされた。
三ゲームやったけど、最初のゲームは三人とも100点いかなかった。隣でやってるきゃつらはかなりの高得点。やりこんでいる模様。一回目は二位、二回目はドべ。三回目は一位。というまんべんない結果。
腕がかなりギクシャクして、明日は多分筋肉痛だろうな。
その後は、ダイエットも忘れて、焼肉食い放題。久しぶりに肉食って涙チョチョ切れるほどうまかった。僕はベジタリアンにはなれないな。
友達の一人は、プリン体を気にして、レバーを食わなかった。
夜の11時ごろ帰宅。
遊んだ食った。さあ、テニス見よ。
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フレンチオープン六日目
2005年5月29日 テニス実は、テニスクラブで優勝予想をやっていて、僕は男子がフェデラー、女子がエナン・アルデンヌにしたわけ。見事あたれば、名前が載って、ワインを賜るらしい。今んとこ、二人とも残っている。
男子シングルス三回戦
M・サフィン 対 J・フェレロ
今日も昨日に引き続き好カード。
復活を期して望むフェレロは、だんだん調子も上向いてるようで、この大会前の二大会で、なかなかの成績を出しているし、サフィンにも二度勝っている。後少しで、以前のフェレロに戻るだろう。こんな好カードが三回戦で見れるのも、フェレロがランキングを下げちゃったせいなんだけど。
僕はこの勝負、クレーコートだし、フェレロに歩があると思っていたけど、サフィンが頑張って勝った。やはりデカイ大会になるとそれなりに集中力も高まるのか、勝ち進んでるサフィン。勝てるならほかの大会でも勝てよ!って、そこで勝てないのがサフィンのサフィンたる所以ではあるのだけど。
G・コリア 対 J・メルツァー
コリアは勝ち進むとWOWOWは踏んだからか、ようやく登場。しかも最終セットだけだけど。メルツァーは、アラビアの商人みたいな顔してるだけになかなかの曲者だと思うけど。その曲がりっぷりを見せ付ける前にコリアにあしらわれてしまった。サフィンとコリアが勝ち進んであたるのかしら?
男子シングルス三回戦
M・サフィン 対 J・フェレロ
今日も昨日に引き続き好カード。
復活を期して望むフェレロは、だんだん調子も上向いてるようで、この大会前の二大会で、なかなかの成績を出しているし、サフィンにも二度勝っている。後少しで、以前のフェレロに戻るだろう。こんな好カードが三回戦で見れるのも、フェレロがランキングを下げちゃったせいなんだけど。
僕はこの勝負、クレーコートだし、フェレロに歩があると思っていたけど、サフィンが頑張って勝った。やはりデカイ大会になるとそれなりに集中力も高まるのか、勝ち進んでるサフィン。勝てるならほかの大会でも勝てよ!って、そこで勝てないのがサフィンのサフィンたる所以ではあるのだけど。
G・コリア 対 J・メルツァー
コリアは勝ち進むとWOWOWは踏んだからか、ようやく登場。しかも最終セットだけだけど。メルツァーは、アラビアの商人みたいな顔してるだけになかなかの曲者だと思うけど。その曲がりっぷりを見せ付ける前にコリアにあしらわれてしまった。サフィンとコリアが勝ち進んであたるのかしら?