ISBN:4087498115 文庫 辻 仁成 集英社 1992/05 ¥340
僕にはヒカルがいる。しかし、ヒカルは僕にしか見えない。伝言ダイヤルで知り合ったサキ。でも、知っているのは彼女の声だけ。あとは、冷たい視線と敵意にあふれた教室、崩壊寸前の家庭…。行き場を見失い、都会のコンクリートジャングルを彷徨する孤独な少年の心の荒廃と自立への闘い、そして成長―。ブランク・ジェネレーションに捧げる新しい時代の青春文学。第13回すばる文学賞受賞作。
辻仁成の恋愛小説は読んだことないから何とも言えないけど、こっちの系列の小説は、作者の一番奥深い部分が反映されているように感じて、良いと思う。
処女作だから、粗は目立つのかもしれないけど、処女作は、自分が一番書きたいものを書くんじゃないだろうか。作者の真の姿は、近頃よく写し出されているメディアのイメージとは違い、こういった作品で示される屈託した精神の中に、より見出すことができるように思う。
深夜から始まったNHKアナログ放送。
ハイビジョンなら昨日のうちに、放送されてるけど、うちはんなもんとってないから、深夜から、否応なく昼夜逆転。

確か去年とかはBSでもやってなかったかな?なんで今年はないんだ〜!覚悟はしていたけど、初日の試合は、日本人選手の試合のみ。
だからセンターコートの始めのきれいな状態を拝めない。シクシク。
フェデラー見たかったのに。日本女子の試合は一試合だけで、もう一試合は、シード選手の男子の試合にしてくれよ〜NHK(涙)

アナログで見てる男子のテニスファンだっているんだぞ。

女子シングルス一回戦
サニア・ミルザ 対 森上亜希子
森上は、クレーコートが好きだって自分で言ってたから、イメージ的に芝が嫌いな印象を抱いてしまう。球足の速いグラスコートは両手打ちにとって不利なんじゃないかと思う。
日本人にしてはかなりアグレッシブな方で、、闘志漲ってるけどなかなか、インドの同じくらいのランキングの相手に負けちゃった。残念。

ロベルタ・ビンチ 対 杉山愛
うーむ、杉山最近調子悪いぞなもし。杉山は、フィジカルが武器みたいなもんだから、体をしっかり動かせるメンタルも健全じゃないと、ショットで逃げることが難しいからね。どうも自信がなくなってるように感じた。ダブルスはハンチェコワと出てるのかな?
ダブルスは、優勝もありうるだろ。気持ちを切り替えて、がんばれ〜!
DVD 東宝 2005/05/27 ¥4,725
美しい都の女と彼女に魅せられた山賊が辿る怪奇物語を綴った坂口安吾の同名短篇小説を映画化。山賊は山で襲った都の女を家に連れ帰るが、彼女の頼みで都での生活を始める。だが、やがて女は“首遊び”のために山賊に生首を取ってくるよう要求し始める。
小説を読んで、えらいおどろおどろしさに、驚いたけど、この映画も、やっぱおどろおどろしてる。
桜は美しいがなんだか恐ろしいものですな。というが僕は桜を見てもちっとも恐ろしくならないんだなあ。
辞書で調べてみると、「本心からではなく、見せ掛けでする善」のことを言うらしい。

でも、僕はこの定義を疑問に思う。
そもそも、人間の本心には、善も悪も混在しているわけで、何かのことを考えるとき、そのことに対して、善なる感情、悪なる感情、双方湧き上がってくることは実はほとんどのことに言えるんじゃないだろうか?
たとえば親のことを思うとき、僕は憎む気持ちと愛する気持ちがある。でもそれはいたって健全な反応であると思う。

何か善的なことをいっていたり、やっていたりする人のことを、あの人は、偽善的だとか、偽善者だとかいう人達がいる。
僕が不思議でたまらないのは、彼らの解釈が、人間の本性は悪である、という性悪説から出発していること。
僕はさっきも言ったように、たとえ犯罪者であれ、悪の本心と善の本心を両方持っていると思う。この世に善の心を持たない人間なんているだろうか?それは悪の心を持たない人間がいるというのと同じくらいまずありえない。
だから、善的なことをする人に対して、偽善者が成り立つなら、当然、善的な本心とは違う悪の行動をする偽悪者というのも成り立つことになる。そして、善悪両方の感情を持つ我々人類は、偽善者であり、かつ偽悪者であるということになる。なぜなら、善的な行為を悪の本心を隠してする偽善だからと、偽善者であることを止めて、悪に走れば、それは善の本心を隠した偽悪者にならざるをえないことになるからだ。だとしたら、偽善者であるとか、偽悪者であるとかいった区別は、まったく無意味ということになる。

性悪説に立つ人たちは、偽善者という言葉を軽蔑の意味合いで使うけど、もし本心と違うことのみがその軽蔑の理由であるのなら、その人たちの取っている態度は善を憎み、言っていることは悪になれといっていることになる。悪が人間の本心だから、それを偽って善行をする奴は悪で軽蔑に値する、という理屈になる。どう考えても納得できない。仮にもし彼らが、性悪説に立っているわけではないというなら、同じように偽悪者も軽蔑しなければならないはずだ。しかしこれはこれで大いなる矛盾である。なぜなら自分自身を軽蔑していることになるのだから。
故にこの偽善の概念は間違っているのではないか?

僕はこう思う。人間は何かの行動をするとき、その対象物、概念、行動に対して沸き起こる善悪の本心のうち、どちらかを選んで行動しているのだと。
友人の幸せを祝福している最中に、心のどこかで、友人のことを妬んだりする心があったからといって、自分は偽善者であると苦しむ必要はない。なぜなら友達を祝福したいという気持ちも紛れもない本心のはずであり、友人を祝福しているという行動をしている点で、その人は、本心の善の部分を選択し実行したということであり、それは偽善ではなく、「善」である。悪の心に打ち勝った善である。悪の心は、自らの心の中で燻ることくらいの抵抗しかできていないのだから。

また、こうも思う。たとえ自らの利己心、何かの見返りを期待して行なった善行であっても、それが他人に有益で正しいことに疑いがない限り、それは偽善ではなく善である。その利己心を内心に留めている限り、また何らかの醜い悪の心がどんなに跋扈していようが、それが外部に発露しない限り、行動において彼は善の本心、行動を優先させた善者なのである。

人間の内心には、善も悪もある。だからその時点では、人間は善者でも悪者でもない。問題は、そういう思念が浮かんだとき、どちらを優先させるか、選択するか、どちらであろうと努力するかによって、内部においては、自己に対して善者か悪者になり、外部においては、意思を発露させ、また行動に移した時点で、人は自らの意志で、自らと、他者に対して善者か悪者に別れるのだ。

では偽善とはどういうことをいうのか?
・利己心で善行を行なった後、その利己心を相手に強要し、善行を餌に自らの至福を肥やそうとすること。
・ある所で善行を行ないながら、他所では正反対の悪行をすること。
・自分に適応させた善の論理を他人には当てはめないこと。
これらの事を僕は偽善だと考えている。

ただ、これらの事は、多かれ少なかれ、自覚的にしろ無自覚的にしろ、皆、行ったことのある、経験したことのあることだと思う。そういう意味で、やはり人間は皆、偽善者だと言えるかもしれない。
(また、この場合に偽悪者を定義するとすれば、そのまま偽善者を逆の立場から見た名称であり、意味合いを同じくする。)

しかし、重要なのは、偽善は善を含むということである。
偽善を嫌い善行をしない人間は善を生まない、悪行を行なうものは悪者であるが、悪行をしなくとも、善を厭い行動をしないという事は、行動しないという行動をしているのであり、やはり悪の本心を優先させているという意味で、偽善者のほうが善であると思う。

人間は、完全な善者にはなれないだろうが、意識的な偽善を排除し、無意識の偽善に気づこうと努力する偽善者ではいられるし、それが人間のなしうる最大の善であると思う。その次に、善者になる努力をしない偽善者=偽悪者、その次に性悪説を信じ、偽善でいるよりはこちらのほうがマシだと錯覚して開き直った、偽善を厭う悪者がおり、最後に自覚的な悪者がくる。

故に、善的なことを行なっている人が、偽善だとか、偽善的だとか非難されるにはそれ相応の行動としてあらわれている悪行の証拠が必要であり、それを批判できるとしたら、それは努力しつづける偽善者しかいない。
少なくとも、開き直った悪者でいるよりは、努力しつづける偽善者でいたほうが、自分も、まわりも益があるし、できれば僕もそういう偽善者でありたいと思っている。
ISBN:4102001026 文庫 高橋 健二 新潮社 1951/11 ¥420
ドイツのノーベル賞受賞作家ヘルマン・ヘッセの1919年、42歳の時の作品。

ラテン語学校に通う10歳の私、シンクレールは、不良少年ににらまれまいとして言った心にもない嘘によって、不幸な事件を招いてしまう。私をその苦境から救ってくれた友人のデミアンは、明るく正しい父母の世界とは別の、私自身が漠然と憧れていた第二の暗い世界をより印象づけた。主人公シンクレールが、明暗二つの世界を揺れ動きながら、真の自己を求めていく過程を描く。
デミアンに出会った人間は幸せだ。だけど、デミアンに会わずとも、僕達はデミアンを見つけ出すことができる。なぜならデミアンは、自分自身に他ならないから。
デミアンは、いわばシンクレールの深層意識。彼が本当に願えば、デミアンはいつでも彼の前に現れる。
「きみが世界を単に自分の中に持っているかどうかということと、きみがそれを実際知っているかどうかということとは、大変な違いだ」
シンクレールの中にデミアンが存在しても、それを知り、存在を確信するには、長い苦悩が待っているかもしれない。
「友達たちをとほうもない毒舌で喜ばせたり、たびたび驚かせたりしてはいたものの、自分が嘲笑している全てのものに対し心の奥では尊敬の念を持っていた。そして自分の心の前に、自分の過去の前に、自分の母の前に、神の前に、内心では泣きながら額ずいていた。」
シンクレールは、デミアンを恐れ、逃避を試みたが、内心は、彼を欲していた。憧れゆえの恐れ。シンクレールは望まぬ欲望に身を浸したが、そういった行為を憎んでいたのではない。
「われわれが誰か(何か)を憎むとすれば、・・・われわれ自身の中に宿っているものを憎んでいるのだ。われわれ自身の中にないものは、われわれを興奮させはしない」
彼はよりどころとなる場所を探していたのだろう。幼い頃は両親の住む世界。その世界を出てからは、もうひとつの世界にも、嫌悪を抱きながらも足を踏み入れてみた、二つの世界を生き、そうしたもがきの中で、ついに彼は気づく。
「新しい神々を欲するのは誤りだった。世界に何らかあるものを与えようと欲するのは完全に誤りだった。目覚めた人間にとっては、自分自身をさがし、自己の腹を固め、どこに達しようと意に介せず、自己の道を探って進む、という一事以外に全然なんらの義務も存しなかった」
「詩人として、あるいは気違いとして終ろうと、預言者として、あるいは犯罪者として終ろうと・・・それは肝要事ではなかった。実際それは結局どうでもいいことだった。肝要なのは、任意な運命ではなくて、自己の運命を見出し、それを完全にくじけずに生き抜くことだった」

自らのうちに存在するデミアンへの道は開けた。後は彼が踏み出す勇気を持つだけだ。
「人は自分自身の腹がきまっていない場合に限って不安を持つ。彼らは自分自身の立場を守る決意を表明したことがないから、不安を持つのだ」
ついにシンクレールは完全に自己のうちにデミアンを見出した。彼は不安を振りほどき踏み出したのである。もう彼は再びデミアンを欲する必要はない。なぜなら自分が、デミアンであることを知っているからである。

僕は、時折、自己の内のデミアンの存在が不確かになる。この本は、そんな僕に限りない勇気を与えてくれるのだ。
ホテルは朝食が只だったので、これはチャンスとたらふく食べていたら、時間を食ってしまって、40分もあれば余裕で間に合うだろうと思っていたら、電車が遅くて、試験場にの大学に着いたのが、ぎりぎりだった。
駅のすぐ隣が試験場じゃなかったらアウトやった^^;
昨日眠れなかったからなあ。以後気をつけなければ。

国家二種の試験は、教養はともかく、専門は6科目選択なので、当然、経済原論や、経営学は取らず、政治学、行政学、憲法、民法、社会学、国際関係にした。

去年はたしか灼熱の中冷房なしで大変だったけど、今年はどの試験会場も冷房が効いていて、暑さに参ることはないのが助かる。でも、やっぱり、試験は根気が折れそうになる。気力を最後までもたせて、どうにか自分なりに頑張れた。

やっぱりそれなりに疲れた。

帰りのバスで読書しようと思っていたら、後ろの女性の一の話し声がものすごく響いて、耳栓しても、貫通してくるので、一ページ読むのに、集中できず、かなりの時間を要した。

降り際に、品のいいおばあちゃんが、その女性に、注意してた。日本人らしい、柔らかい物腰で、オブラートに包みながら、「最初から最後まで話していて、すごくうるさかった。皆迷惑していたわよ。こんなこと今までで始めてよ」って、文章に書くと、かなりきつく感じるね。でも笑顔で柔らかくいってた。

話すのはかまわないけど、もうちょっと声を小さくしてもらえると僕としてもありがたかった。

ところで、そのおばあちゃん、昔の人の強さみたいなものを感じたな。言うべきことは言うっていうか。降り際に言ったのは、途中で言うと、言われた人は居たたまれなくなるし、周りの雰囲気も悪くなることを配慮してなのだろうか?だとしたら、いかにも日本人的だなあ。
そのおばあちゃんを見ていて、なんとなく僕って情けないなって思った。
1952年新東宝・児井プロ
溝口監督=田中絹代、入魂の最高傑作。井原西鶴の「好色一代女」をもとに、封建制度化で御殿女中から夜鷹にまで流転する女の過酷な生を綴る。徹底したリアリズムの演技、クレーンを駆使した1ショット長回しなどがもたらす映像の厳しさ、美しさは類例を見ない。巡礼帰りの百姓たちにさらしものになるシーンは白眉。
なぜこの作品がアマゾンにないのか解せん。
それにしても、か、過酷過ぎる。溝口監督は、客に対する一切の甘えがないから好きだ!これでもかというほどの悲惨。しかし救いがないように見えるこの作品、ラストで見せる女の笑い。人間はどんな状況でもいきることができるという強靭なたくましさなんだと思う。人間らしさとはその住む社会によって変容する。彼女は悲惨になったのか?裕福であることがプライドであったならばそんなものすでに跡形もないだろうが、彼女は、そういったものを全て必要としない社会で、悲惨、卑屈というものが健全さとして息づく社会では、最後の彼女の姿こそが真っ当な人間として映ることだろう。人間の善性の執着の対極に、人間の徳に対する諦観がある。その双方ともが、苦とも楽ともなりえる。彼女が、過去の自分の未練を完全に解き放てれば、新たな概念の創出、現在の自分を幸福として受け入れることも可能だろう。あの笑いが、哀れな人間に対する嘲りか、未練に引きずられた慟哭かで、この作品の持つ意味もがらりと変わってくる。

マンガ一万冊?

2005年6月18日
またもや、試験で福岡に。
国家二種、僕的に本命。

例によって今回もカプセルホテル。カプセル行脚は楽しいぞヨ。
今回のホテルは、今まで泊まったカプセル(といっても三軒だけだけど)の中では、良くいえば老舗、悪く言えば古かった。でも、ここの羽毛布団のカプセルってのがどうにも気になって予約したわけさ。

一応カプセルだから温泉とサウナついてるけど、前の二つより規模は小さかったね。でも、塩サウナっていうの生まれて始めて体験した。しみるかも思ったけど、逆に肌がしっとりした。その後、飯食って(鉄板牛筋炒飯っていうのでなかなかうまかった)、リラックスルームで読書。リクライニング式で、前にテレビがあって、音声が枕のとこから出るという、一家に一台欲しいような寝椅子。
ここのホテル。ほかのとこより多少古いからか、変わりの「売り」を用意してる。それがマンガ。ネットで調べたときはマンガ一万冊と書いてあったけど、どう見ても、その半分もいってないっぽかった。まあ、僕は持ってきた本読むからいいのだけどね。

夜の10時くらいにはカプセルの中に入ってハネ布団を堪能する。でも、なぜか眠れない。睡眠は足りてないはずのなのに、やはり柔らかすぎるこの羽根枕がいけんのだろうか?
と、電気をつけて、再び読書。

深夜の3時か4時、ようやく眠れたと思う。
ISBN:4087200884 新書 森 博嗣 集英社 2001/04 ¥714
超人気ミステリ作家であり、工学部助教授でもある著者が、理系大学生の珍問・奇問・素朴な疑問に答える。科学から人生相談まで、講義での数万件のQ&Aから、面白いものを選んで構成。

森 博嗣
1975年愛知県生まれ。某国立大学工学部助教授にして、ミステリィ作家。96年、『すべてがFになる』で、第1回メフィスト賞を受賞して作家デビュー。その犀川・萌絵シリーズをはじめ、『黒猫の三角』ではじまるVシリーズ、『そして二人だけになった』『女王の百年密室』『工学部・水柿助教授の日常』など、多数の著書がある。
僕は人間から興味を持つ場合が多い。この作家に関しても、その小説は一冊も読んでいないのに、著者関連の本はこれで二冊目だ。本屋によったとき、分厚いミステリー小説が何冊も置いてあって、全部同じ作家で目に付いた。ちょいと調べてみると、これだけの量出しているのに、デビューはそんなに昔じゃない。大学の助教授をしている。作品は、一週間とか二週間とかで書き上げる。若い頃はマンガも書いていた。
彼という人間に興味を抱かずにはいられなかったわけだ。僕は著者のそのバイタリティの源泉を知りたかった。
この本は、森さん自体の事にも触れられているし、質疑応答形式なので、読みようによっては、エッセイとかよりも彼の人間性がわかるかもしれない。
読んでみたところ、うん、まあ、想像したような人だった。人生から無駄を削る。これは僕にとっても目標だが、彼ほどきっぱりと見切りはつけられないだろうな。ちなみに、無駄なことというのは、相対的にみて、何が自分の人生にとってより必要でないかということで、あれはこれより必要の度合いが低いとかいう意味で無駄という言葉を使っている。
僕も人生を濃く有意義にしていきたいので、その無駄を削るという作業を少しずつ実践していっているわけだけど、まず、僕は、テレビをテニス以外見なくなった。より興味のある本だけ選び取って読む(そうしたとしても一生かけても読みきれんだろうが)。幻想の感情に惑わされる時間を省くために感情のコントロールがよりうまくできるようにしていく。ネットで頻繁に同じサイトを開かない。覚えてしまったことを覚えているうちに繰り返しまた覚えようとせずに、その時間は新しいことを得る時間に使う。などなど。
僕は実は映画を観たり、本を読んだりすることが大嫌いな人間だった。
んで、その常識のなさとかは、ひどいもんで、テニス以外のことは、高校を出るまで、てんで何も知らなかった。

その頃僕は極度の人間不振で。まさに、なんの道具も持たずに、火を消そうとする人間だった。一人で色々考えてはいたが、限界があったし、とにかく、いつでも死ねるとか、死んでやるとか、思ってた。と同時に、そんな自分にコンプレックスを感じ、皆のように普通になりたいだとかいう思いにとらわれて、苦しんでた。どうにかその苦しみから抜け出したかった。

大学は、僕の高校からは、僕しか入学していない大学。僕はそこで新たな人格形成、新たな人生を始めようと思っていたけど、人間不信の真っ只中な僕には、うまく行くはずもなかった。

テニス部に入ったのだけど、一から人間関係を作る不安に耐え切れず、一週間でやめてしまった。

高校時代、何の常識も持ち合わせていなかった僕にとって、テニスというのは、格好の逃げ道であり、よりどころ、アイデンティティだった。
だからこそ、これだけのめり込んだわけだけど。

だから、テニスクラブを止めた僕は虚無だった。自分の柱がすっかり抜けた感じ。そして、人間不信で、大切なテニスを放棄してしまったことも僕自身を苛んだ。
「お前が大好きだとか、アイデンティティだとかいっていたテニスも、所詮は、人間関係であきらめられるくらいのもんだったのさ」
と、心に中で囁く僕がいた。

大学で僕の奇癖が強迫性傷害であると知った僕は、すさんだ心で、「そうか、僕はどう頑張っても普通になんてなれやしない」なんて、ひねくれ曲がってた。

だけど、やっぱりそんな現状を打開したいという気持ちは常に心の隅で燻っていた。

大学三年になって、ある人と友達になった。その友人は変わった人であったが、それは変わりぶりは彼の紛れもなく芯であり、変わっていることに対する飄然とした態度に、僕は憧れと尊敬を抱いた。彼は、その自分の行動全身で、これは変わっているのではなく、個性なんだと主張しているように僕には感じられたのだ。

彼は読書家だった。
「孔子は、1万冊本を読めば、何事にも屈することのない人間になれるといったんだ」と、あるとき彼はいった。
何事にも屈する人間だった僕は、その言葉に、すがった。
尊敬する友人が言ったということ、孔子というネームバリュー。権威に弱かった僕にはそれだけで充分だった。
そして自分は普通にはなれないというひねくれた思いが、そんなら、普通じゃなくなってやれという思いが、ちょうどうまい具合に作用して、僕を読書に向かわしめた。

僕はこんな理由で本を読み出したわけである。新たなるアイデンティティの希求と、現状からの打開の渇望と、障害を苦にしたひねくれた世間への憎悪。それらが、友人の偶然の一言によって読書というベクトルに結実したのだ。
僕の例を取るまでもなく、ほんとにきっかけなんて、どんな理由でもいいんだと思う。

本を読むのと同時に、映画を観るようになった僕は、そこにさまざまな人間を発見し、人生を発見し、考えを発見した。一冊、一本、毎回毎回が目からうろこだった。今までついぞそういう行為をしてこなかった僕にとって、読むことや映画を観ることへの苦痛はなかったといえばうそになるが、それ以上に驚きと喜びがあった。
そしてそういう日常を過ごすうちに、僕の思考もだんだんと変化していった。自分がいかに傲慢で、ひねくれていて、被害者ぶっていて、その実なんの努力もせず、独善的であったかを知っていった。どんな本でも、どんな映画でも、何らかの学びがあった。それは、他人の人生や考えを持って自分の考えを対峙させる行為であった。
普通にこだわる僕の過ち。普通などどこにもないのだ。そう思えるようになっていった。
今でも不安や劣等感に陥ることは否定しないし、僕の根の部分に人間不信があることも事実だ。ただ、僕は本を読み出して、映画を観だして、明らかな自分の進歩を感じる。
その先に本当の人間不信の克服があるのかはわからない。でも僕は続けることでいつか、克服できると信じている。苦しみから抜け出せると。

自分の苦しみの開放につながっているかもしれない。そう思えば、どんなことでも知りたくなってくるし、苦痛ではなくなってくる。それはもちろん、読書や映画に限ったことではない。

僕が本を読み、映画を観る理由は、ストーリーを楽しむというのもあるが、何よりも、その著者や監督、その本や映画に出てくる人達の人生、考え、感情を知っていくことで、自分の苦しみの克服や、人間的成長への材料を集めることにあるのだ。
ISBN:4167651386 文庫 山田 和 文芸春秋 2004/01 ¥690
インドの寂れた本屋で出会った「日本体験記」
インド人エリートビジネスマンが日本での赴任経験を語った体験記。90年代に日本が喪ったものを、鋭い観察力で描いた出色の日本人論。

目次
占星術で出発日を決める
インド国営航空の「牛肉」
システムが私を迎えた
信頼が先行する国
日本料理ほど素敵なショーはない
佐藤氏のインド体験
豪邸か召使い部屋か
刺し身パックという「海の豊饒」
パンツ以外は脱ぐ日本のパーティー
食のカースト〔ほか〕
 文化的にまったく異質な国からの視点というのは、相似た国同士の文化論よりも、より自国の社会的、または文化的な特徴を浮彫りにすると思う。
僕はこういった本が好きでよく読むけれど、今まで読んだ中でもかなり面白いほうだった。あまりにも日本への描写が精緻なことから、実は、これはフィクションで、著者は実は訳者なのではないかとの指摘もあるようだけど、まさかあ、そんなことはないでしょ。僕の希望的観測。だって、この本の中でマスコミのヤラセを嘆いているってのに、そんなことせんでしょうに。ただ、訳者が原文を訳すときに、自分の解釈なりを加えて、内容に厚みを増してることは考えられると思うけど。
日本についての新たな発見もさることながら、インドの事情もよくわかる。特にカーストという制度がもたらしている価値観は、日本の価値観と余りにも違いすぎて、まず日本人には受け入れがたいものだろう。
三島由紀夫の自決が、「人間性の平等」に対する執着ゆえ、兵役を逃れたという過去からの自己回復であったとするのは、ひとつの解釈として、非常に興味深かった。
たくさん印象に残った紹介したい文章があるのだけれど、いくら私的日記とはいえど、一、二文ならともかく、それをそのまま膨大な量紹介してしまっていいのかどうかに疑問が沸いて不安になってきたので、割愛。
感情とは数学でいえば公式であり、そうなるとわかっているが、なぜそうなるのかは、証明することを要する。
証明することにより、公式と原因の因果性を思考によって理解することができるようになる。
そうすると今度は、その因果性を火の関係にあらわすことができる。つまり、原因は炎であり、感情は煙であると。

炎を消せば煙は消える。つまり、その原因に対応して、修正なり何なりを加え、無害にするか根絶してしまえばいいわけである。そうすれば煩わされた不快な感情も解決されることになる。

さて、数学の公式を自分一人の思考で証明しようとしたとき、いったいどれくらいの時間がかかるだろう?数学者ですら、もしかしたら一生解き明かせないかもしれない。公式を証明するには、さまざまな理論を組み合わせ、なされていくのである。ある関係のない分野の理論であっても、思わぬ証明の繋ぎ目を果たすこともある。一人で考たとして、埒のあかない問題であっても、参考書を見るなり調べるなりしてそこから得たさまざまな人の理論を用いてみることで、証明することができるのだ。

また、炎を消すにはどうするべきだろう?手で消す人もいるだろう。だがその人は、手に火傷という傷を負う。それはジクジクとうずき、その人を苦しめる事となるかもしれないし、後々、その人の皮膚に消えない痕跡を残すことになるかもしれない。だから、多くの人は、布を使ったり、水を使ったり、消火器を使ったりして、消そうとするだろう。布で試して、消えないと思えば、違うものを使おうとするだろうし、手元に、水も消火器も布もなければ、代用できるものを使おうと探すだろう。もし周りに、火を消せそうなものをなにも自分がもっていなければ、どこかからこれを調達してこなければならないことになる。

証明に必要な理論と、炎を消すために必要な物は、感情のことに還元すれば、実は同じものである。つまり、感情の原因を突き止めるのにも、原因を修正、解決するためにも、必要な材料は同じ。
それは、自分がまだ知らない、想像した事がない、考えたことがない、他の人の人生、思考、感情をたくさん知ることである。

苦しい感情から抜け出したいと欲しながら、抜け出せずにいるのは、つまりは自分が公式を証明するために必要な理論を知らず、炎を消すために役立つものを何も持っていないのと同じ状態だからだ。苦悩しながら、一人で考えているのは、あたかも公式を一人で解こうとすること、火を素手で消そうとするようなものである。

どんな難関な公式を証明しなくてはならなくても、それまで蓄えた膨大な理論があれば、どんな炎にみまわれたとしても、豊富な道具を持っていれば、その中から、それらを選びとり、適宜用いたり、あるいは、それらを組み合わせ応用したり、それだけ、対処の幅が広がる。つまり、証明できる、また鎮火できる可能性は飛躍的に向上するはずである。

人の人生や思考を一つでも多く知っておくことは、それだけ自分の感情を客観化する材料を持っているということであり、感情を解き明かし、原因を修正し、苦しみからの自己の解決に近づいていくということである。
ISBN:4102130055 文庫 William Somerset Maugham 新潮社 1959/09 ¥580
平凡な中年の株屋ストリックランドは、妻子を捨ててパリへ出、芸術的創造欲のために友人の愛妻を奪ったあげく、女を自殺させ、タヒチに逃れる。ここで彼は土地の女と同棲し、宿病と戦いながら人間の魂を根底からゆすぶる壮麗な大壁画を完成したのち、火を放つ。ゴーギャンの伝記に暗示を得て、芸術にとりつかれた天才の苦悩を描き、人間の通俗性の奥にある不可解性を追求した力作。
芸術は爆発だ。じゃなくて、芸術は衝動であり、本能だ、とでもいいたげなこの作品。ゴーギャンがモデルと知り、彼の絵画を眺めたりもしてみた。審美的、ではなく、美も醜も芸術であり、芸術は全ての道理を超克する、とストリックランドが考えていたのかどうかはわからないが、最終的に文明から隔絶されたタヒチに向かったのは、限りなく理性を取っ払ったところに芸術は存在し、それを実行するためには人間同士の繋がりの上に成り立った道徳、理性、哲学、文化、文明みたいなものは全て足かせでしかなかったということなんじゃなかろうか。でもタヒチにたどり着くまでに、多くの人を犠牲にしつづけたのは、彼も、その人間の不可解性に到達するまでに若干の文明に対する未練や躊躇があったからであって、そこからなかなか踏み切れなかったからなのではないかと僕は思う。
火のない所に煙はたたない。

原因のないところにだって感情は起こらない。
僕はそう思っている。

なんだからわからない感情、説明できない感情、と呼ばれるものがある。だけど、それは決して原因なくして沸き起こったものではない。

感情は数学と同じだと思っている。数学の公式や、答えには、それを導く証明が存在する。
1+1=2であるという定式においても、それを立証する膨大な過程の理論があると聞く。

そして、1+1=2であるということをわれわれは知っているが、数学者でもない限り、その証明の理論を知っているものはいないだろう。
そして、数学にはたくさんの公式があり、その中には、まだ、解読されていない公式が山のようにあるのだ。つまり、そうなることは誰もが知っている、また公式として示されているが、それがなぜそうなるのかを説明できるものがまだいないものを、説明できるように、その公式が正しいものであると立証するために数学者は日々研究にいそしんでいるのだ。

感情は公式であると捉えてみる。
そこには、説明の出来る簡単な感情がたくさん存在する。しかし、説明できない、原因がなにかもわからない感情も存在する。しかし、もしかしたら、説明できる人がいる感情かもしれない。
一方本当に誰も原因がわからない、説明できない感情もあるだろう。
だが、感情はそこに厳然としてあらわれている。公式として示されている。その感情は幻ではない。だから、それはたとえ説明できないにしても、わからない、表現できない感情ではない。現時点でまだ、わかっていない、表現がなされていない感情であるだけだ。

よく分からない感情など、うっちゃっていればいいというかもしれない。
確かに、それが自分の人生になんの痛苦も与えず、何の障害にもならないのであれば、その感情をそのままにしておけばいいと思う。それを証明する必要などない。

しかしながら、そのよくわからない、説明できない感情によって苦悩する人たちもまたいる。
どうして自分はこんなに苦しいのだ?どうしてこんなに悲しいのだ?この虚無感はいったいなんなのだ?いったいどこから来ているのだ?

よくわからない(わかっていない)悲しみに打ちひしがれ、説明の出来ない(なされていない)孤独に苛まれているとき、我々は、まずその証明をなさねばならないだろう。
なぜなら、そういう人たちは、苦しみに留まることを欲していない。抜け道を探しているはずであるから。

その感情を証明するのは、骨の折れる、苦しい作業になるかもしれない。なぜなら、現在の自分ではすぐに解き明かせないものであるから。それはもしかしたら、ひとつではなくさまざまな原因が混交したものであるかもしれない。もしくは、原因は一つでも、それから派生したさまざまな思考が、理論が縺れ合っているのかもしれない。

煙が出ていれば、その火の元を突き止めなければ、消すことが出来ないのと同じく、その感情から抜け出すにも、立ち直るにも、原因を突き止めるという所作が必要なのだ。
原因を突き止めたときはじめて、その対策を講じることが出来るようになる。
ISBN:406273057X 文庫 阿部 和重 講談社 2001/01 ¥560
映画学校を卒業し、アルバイト生活を続ける中山唯生。芸術を志す多くの若者と同じく、彼も自分がより「特別な存在」でありたいと願っていた。そのために唯生はひたすら体を鍛え、思索にふける。閉塞感を強めるこの社会の中で本当に目指すべき存在とは何か?新時代の文学を切り拓く群像新人文学賞受賞作。

中山唯生のやっていることが、僕がやってきたことと余りにも同じであったので、他人事とは思えずに、ある種の興奮を持って読み進めた。
僕も大学3年から、4年のあいだ、読書の人であり、映画の人であったからだ。授業以外は、読書をし、疲れれば映画を見る、という日常を送っていた。そういう日常をあたかも修行のように僕は解していた。それは障害という名にコンプレックスを抱えた卑屈な青年が、異質な自分という他者との差別化により、どうせ異質でありつづけるなら、中途半端でいたくないというという幼稚で鬱屈した精神のなせる技であった。
それはまさに、この本に書かれているように、「人間」だの「存在」だのが、なにものにも庇護をうけず、それじたいで身をささえているのだと高を括っている弛緩した精神であったように思う。
その精神も今では意味合いを変容し、多少なりとも成長といえる痕跡を与えてはいるかもしれないが、それでも未だに、嘲笑されるべき戯言から、現実への昇華を信じて疑わない自分、そのことに拘泥している自分というものを否定できるまでにいたってはいない。
06月14日付 朝日新聞の報道「同級生が「いじめあった」 任意の事情聴取で証言」へのコメント:光高校で傷害容疑で逮捕された男子生徒の行動は、いわばテロリズムではないか。だが、少年を行動に走らせたのは、モスリムに不具合を与えつづけたアメリカのように、彼の個性に不具合を与えつづけた生徒達である。
アメリカは、武力ではなく、経済的政治的、文化的にモスリムの精神を傷つけた。
生徒たちは、暴力ではなく、言葉や態度によって少年の精神を傷つけた。
アメリカと生徒たちの共通点。彼らは自分がやっている意味合いの認識はできている。からかいとは、相手を傷つけることによって成立するのだから、認識できていないはずはない。しかし、それが相手に対してどの程度の結果をもたらすのかに対して、アメリカも生徒たちも理解に欠けていた。テロリズムは、無関係の国民、生徒を巻き込んだ。武力行使を行ったほうは、有無をいわず裁かれる。
だから、少年は裁かれることになる。
利害によってアメリカに付く各国のように、教師たちは、自己保身をもっともらしい言葉により虚飾する。その他の人たちも、多くは、生徒のケアは述べても少年のケアは述べることをしない。
「(いじめの具体例を)言ってほしくなかった。直接の原因かどうか定かでないのに、その行為をした生徒が自分と考え、苦しむ恐れがある」
という言葉はどうだろう?その言葉によって、生徒は保護されるだろう。しかし少年の苦しみは抹殺される。
少年は、否応なくこれから罪を罰せられる。それは生徒達を傷つけた上での責任、贖罪。だが、彼を傷つけた生徒達は彼に贖罪しないのだろうか?アメリカのように、彼らは、自分の罪を蔑ろにして無実の立場に立つべきか?

からかいは、生身の体にジャブをうちこむようなものだ。親しい間柄なら、遊びとみなされるジャブも、親しい間柄ではない相手からされればそれは暴力だ。しかも一人ではなく、大勢からジャブを一度に受けるなら、受けた体はどうなることか。
いじめはやるほうが図るものではなく、やられた側が図ることだ。いじめているつもりはなかったという言葉は、なんのいい訳にもなるまい。少年が、爆弾を投げ込んだことを、人を傷つけているつもりはないといったところで、罪は免れないのと同様。
からかいを行ったものは、それが少年にとっていじめであったかを明らかにすべきだし、そのことで苦しみ苦悩することがあっても、それはその少年を傷つけた責任、少年への贖罪である。
生徒のケアを述べるなら、少年の擁護もするべきであるし、少年が責められるのであれば、からかいを行なった生徒も責められるべきである。少年が罪を購うのなら、からかいを行なった生徒も少年に対して罪を購うべきは当然である。
DVD パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン 2005/03/25 ¥1,575
名匠ビリー・ワイルダー監督がハリウッドの内幕を冷酷なまでのタッチで描いた一大傑作。売れない映画脚本家ジョー(ウィルアム・ホールデン)の死体が、サイレント映画時代の大女優ノーマ(グロリア・スワンソン)の家のプールで発見された。なぜ、彼が殺されるに至ったか、やがてドラマは回想形式となり、その中からハリウッドの魑魅魍魎(ちみもうりょう)とした実態が明らかになっていく。
自らの没落と老醜に気づくことなく、かつての名声の夢の中に生きるノーマの姿を、カメラは冷たくとらえ続けていく。しかし、そこに悪趣味な要素など微塵もなく、むしろ格調高さに満ちあふれているところが凡百の内幕ものとの差異であろう。それはまた真の名女優グロリア・スワンソンでなければ体現できない格調であり誇りでもある。アカデミー賞脚本・美術・装置・作曲賞を受賞。しかし、それら以上にもっとも優れているのは、これぞ映画としか言い表せないヒロインの演技である。

ワイルダーといえば、軽いのりのコメディだとか、恋愛だとか、そういう感覚でこの作品を見ると面食らう。
「お熱いのがお好き」を作った監督と同一人物とは思えないほど、恐怖。過去の栄光に浸り、すがり、それを現実と倒錯している姿の恐怖。
そしてそれを支える執事の真実。始まりと終わりの妙。

心の複眼視

2005年6月13日
試験の文章理解の問題の一問に、僕の考えと非常に似通った解釈をしているものがあったので、ここに掲載しておこうと思う。

苦しんだことのあるひとの心には深みがある、というようなことが時々いわれるが、これはどういうことを意味しているのであろうか。
同じ苦しい目にあっても、その苦しみかたは、ひとによってちがう。さらりと苦しみを受け流せるひとと、不器用に苦しみをすみからすみまで味わわなければそこから抜け出せないひとと、ほとんど心に傷跡の残らないひとと、心が深層まで掘り起こされてしまうひとと。深い心とはそのように深く掘り起こされてしまった心を意味するのであろうか。
もうひとつのみかたは、心の深さというものを、心の世界の奥行きと考えてみることである。視覚によって、ものの奥行きを認識できるのは眼が二つあるからである。つまり二つの異なった角度から同じものをみているから、自分からその物体への距離もわかるし、その物体そのものの奥行きもわかるのである。カッシーラーはいう。
「人間経験の深さも……われわれの見る角度を変えうること、われわれが現実に対する見解を変更しうることに依存している。」
この「経験の深さ」、もしくは「経験のしかたの深さ」が心の深さをつくるのではなかろうか。いいかえれば、ひとの心に、二つ、またはそれ以上の世界が成立し、それぞれの世界から、それぞれの世界から、各々べつな角度で同じ一つの対象をみるとしたら、この「心の複眼視」から、ものの深いみかたと心の奥行きがうまれるのではなかろうか。
生きがい喪失の苦悩を経たひとは、少なくとも一度は皆の住む平和な現実の世界から外へはじき出されたひとであった。虚無と死の世界から人生および自分を眺めてみたことがあったひとである。いま、もしそのひとが新しい生きがいを発見することによって、新しい世界をみいだしたとするならば、そこにひとつの新しい視点がある。それだけでも人生が、以前よりもほりが深くみえてくるであろう。もはや彼は簡単にものの感覚的な表面だけをみることはしないであろう。ほほえみのかげに潜む苦悩の涙を感じ取る眼、ていさいのいいことばの裏にあるへつらいや虚栄心を見破る眼、虚勢をはろうとする自分をこっけいだと見る眼……そうした心の眼はすべて、いわいる現実の世界から一歩遠のいたところに身をおく者の眼である。


以前、僕も似たような事書いたなあ、と思った。心の深さと心の種類について。
ISBN:4102010084 文庫 原 卓也 新潮社 1969/02 ¥420
ドイツのある観光地に滞在する将軍家の家庭教師をしながら、ルーレットの魅力にとりつかれ身を滅ぼしていく青年を通して、ロシア人に特有の病的性格を浮彫りにする。ドストエフスキーは、本書に描かれたのとほぼ同一の体験をしており、己れ自身の体験に裏打ちされた叙述は、人間の深層心理を鋭く照射し、ドストエフスキーの全著作の中でも特異な位置を占める作品である。

ドストエフスキーは賭博壁を抜きにしては語れない。「罪と罰」も、出版者からの借金と、さまざまな、自己に不利な条件を附した上で、いわば、背水の陣のなか作り出した精神の苦悩の絞り汁である。逆にいえば、彼の賭博壁がなければ、彼の名作の何作かは歴史に存在することもなかったということだ。
彼の状況描写は、いささか読みにくいと感じることもあるが、心理描写は長けている。賭博が精神に作用する高揚感、それが徐々に噴出する様は、その賭博場にあたかも自分が存在しているかのような錯覚を起こさせるほどの見事さである。特に後半、僕は小説の中の主人公となり、またドストエフスキーとなり、彼の愉悦、苦しみ、興奮を味わった。
僕はギャンブルをほとんどしたことがないが、そんな僕にも、ギャンブルの麻薬性がいかに強力なものであるか、恐ろしさとともに、誘惑に駆られずに入られなかった。突き動かされる衝動、そういう感覚をこの小説は描き出すことに成功している。ドストエフスキーの小説の中でも、かなりのインパクトを持った傑作だと僕は思っている。
ギャンブルに興じることの多い人にとっては、その魅力を余すところなく伝えている座右の書ともなろうし、その危険性を余すところなく伝うる自戒の書にもなることだろう。

マルサの試験

2005年6月12日
朝ご飯はしっかり食べましょうね。

集団の流れに身を任せほろほろ歩いていたら九州産業大学に到着。僕の通っていた大学の2.5倍くらいの広さ。
この道を通るのも、もう四回目かあ、としみじみ思う。進歩がないね。

さすがに、今年はもう僕の知ってる人はいなくて、みんなフレッシュな感じ。まあ、僕と同じように何度も受けてる人もいるんだろうけど、僕の目にはみんな清純で旺盛な生気を放っているように見えた。

試験ということで覚悟はしてたけど、強迫が強く出て、喉をクンクン鳴らせたり胸をポコポコへこましたりしてたから、周りの人は迷惑してたかもしれないな。ごめん。

試験は長い。午前九時から午後の六時まで。気力を持たせるだけで、気力が尽きてしまいそうになる。午前の教養。ぎゃふん。

正午、背伸びをしつつ後ろを振り返った僕の先にまーくんがいた。
まーくん。幼稚園と小学校、中学校が一緒で。保育園時代がき大将、小学校時代人気者、中学校時代よく知らない。
僕の実家から50メートルくらいに住んでるご近所さんで、小さい頃は、幼馴染だった(変な表現)。保育園でまーくんと僕はいわばジャイアンとノビタの関係。小学校では親友になり、中学では疎遠になった。
そんなまーくんをこんなところで見かけるとは思わなんだ。お互いに目が合った。明らかに向こうも僕に気がついていた。しかし、長い月日はお互いを限りなくあかの他人へと遡及させて、僕達は、ほんの瞬間の驚きをお互いに感知したにとどまり、再び二人の間には、他者同士が築く壁に仕切られた。そういえば親の何気ない話で、彼は仕事についておらず、ぶらぶらしているとかいうのを聞いていた。実家に帰省するときに何度かバスの中で見たような気もする。まーくんは、ずいぶん背が伸び、髪が伸び、昔のやんちゃぶりは薄れ、好青年の面影を宿していた。僕に与えた新鮮さは、二人が邂逅するまでの時間の隔たりであり、変化である。

午後の専門は、出来た部分と駄目な部分が露骨に出た。論文は、ほぼ納得する内容のものが書けたが、問題の選択肢に社会学がなければ、恐らくん2,3行しか書けなかっただろう。

帰りのバスは、22時しかないと聞いてギョッとしたが、19時40分のにキャンセルが出て、なんとか10時には大分に帰りつくことが出来た。帰りのバスでは行きの半分程度しか読書が出来なかった。

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