11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち
2012年6月17日 映画〔邦画〕
●僕は後年の作品群を読んでいないので、はなはだ見当違いの考えを三島由紀夫に対して抱いているのかもしれないが。
三島由紀夫はともすれば国粋主義者、過激なナショナリストとして描かれるのであるが、では、三島由紀夫は内心から国粋主義者であり、日本の当時の現状を憂いていたのだろうかという疑問が
常にある。
僕には、どうしても三島の盾の会や、天皇制に対する考えも、自分の死の演出装置にしか思えないからだ。
三島は、初めての自慰の体験が「聖セバスチャン」であることは有名だ。
彼はセバスチャンの何に興奮し、美を見出したのだろうか。
「セバスチャンー若い近衛兵の長ーが示した美は、殺される美ではなかったか。(中略)彼自身もまたおぼろげに予知していた。彼の行手にあって彼を待つものは殉教にほかならないことを。凡俗から彼を分け隔てるものはこの悲運のしるしにほかならぬことを。」(仮面の告白)
三島の死に対する憧れは幼い頃より一貫していたのだと思う。
それもただの死ではなく、何らかの形で英雄として、英雄の只中でなんらかに殉教することを望んでいたのではないだろうか。
彼は自分を凡俗から分け隔てるために、現人神たる天皇の復活を望み、日本を憂い、日本のために殉教し英雄になるという演出を着々と作り上げていたのだと考えている。
三島の自分の人生に対する死生観は耽美主義が土壌にあると感じる。
そして至上の美とは彼にとって英雄の死である。
英雄の死は、英雄の状況の只中で死することではじめて美を構成する。
いかな英雄であっても老いさらばえ、英雄の状況を過去として追憶の中死するのは、美ではない。
つまり、殉死、殉教でなくてはならない。
英雄はそのさなかで死ぬのだから、つまりは老いさらばえ生きながらえるのではなく夭折が説かれる。
しかし、夭折の美を求めながら、三島は歳を取っていき焦燥感を募らせた。
だから、彼は、英雄として散った西郷隆盛の49歳を夭折といえる限界と定めた。
だから、三島は自分の人生を完成させるためには、死がなんとしても必要であったし、そのためには、天皇という宗教が必要であったし、盾の会が必要であった。
そして、49歳までに自分が死ななければ自分のストーリーは完全なものにはならないと考えていた、と僕は考えているわけであって。
三島にとっての生とはいかに死を迎えるかということに収束されていたのであれば、葉隠れに惹かれていったのもよく理解できる、そうした日本的な精神論は三島の死生観と良く合致したのだと思う。
そして、自ら死を決行する切腹はもっとも極限な美を作り出す殉教の形とも言えるんじゃなかろうか。
「誰も知るように、栄光の味は苦い。」(午後の曳航)
というようなことを日曜日にシネマ5であった若松監督の『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち」を観ながら考えた。
三島由紀夫はともすれば国粋主義者、過激なナショナリストとして描かれるのであるが、では、三島由紀夫は内心から国粋主義者であり、日本の当時の現状を憂いていたのだろうかという疑問が
常にある。
僕には、どうしても三島の盾の会や、天皇制に対する考えも、自分の死の演出装置にしか思えないからだ。
三島は、初めての自慰の体験が「聖セバスチャン」であることは有名だ。
彼はセバスチャンの何に興奮し、美を見出したのだろうか。
「セバスチャンー若い近衛兵の長ーが示した美は、殺される美ではなかったか。(中略)彼自身もまたおぼろげに予知していた。彼の行手にあって彼を待つものは殉教にほかならないことを。凡俗から彼を分け隔てるものはこの悲運のしるしにほかならぬことを。」(仮面の告白)
三島の死に対する憧れは幼い頃より一貫していたのだと思う。
それもただの死ではなく、何らかの形で英雄として、英雄の只中でなんらかに殉教することを望んでいたのではないだろうか。
彼は自分を凡俗から分け隔てるために、現人神たる天皇の復活を望み、日本を憂い、日本のために殉教し英雄になるという演出を着々と作り上げていたのだと考えている。
三島の自分の人生に対する死生観は耽美主義が土壌にあると感じる。
そして至上の美とは彼にとって英雄の死である。
英雄の死は、英雄の状況の只中で死することではじめて美を構成する。
いかな英雄であっても老いさらばえ、英雄の状況を過去として追憶の中死するのは、美ではない。
つまり、殉死、殉教でなくてはならない。
英雄はそのさなかで死ぬのだから、つまりは老いさらばえ生きながらえるのではなく夭折が説かれる。
しかし、夭折の美を求めながら、三島は歳を取っていき焦燥感を募らせた。
だから、彼は、英雄として散った西郷隆盛の49歳を夭折といえる限界と定めた。
だから、三島は自分の人生を完成させるためには、死がなんとしても必要であったし、そのためには、天皇という宗教が必要であったし、盾の会が必要であった。
そして、49歳までに自分が死ななければ自分のストーリーは完全なものにはならないと考えていた、と僕は考えているわけであって。
三島にとっての生とはいかに死を迎えるかということに収束されていたのであれば、葉隠れに惹かれていったのもよく理解できる、そうした日本的な精神論は三島の死生観と良く合致したのだと思う。
そして、自ら死を決行する切腹はもっとも極限な美を作り出す殉教の形とも言えるんじゃなかろうか。
「誰も知るように、栄光の味は苦い。」(午後の曳航)
というようなことを日曜日にシネマ5であった若松監督の『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち」を観ながら考えた。
映画 『のんちゃんのり弁』
2009年10月22日 映画〔邦画〕
http://www.noriben.com/
(ネタバレあり)
アニメーションで解説されるのんちゃんのり弁。
おかずを平たく重ね、サンドイッチのようにして最後にご飯とのりで締める。
子供はおかずの形で好き嫌いしたりするので、これはよいアイデアかもしれない。
見ているとおいしそうでこっちも食べたくなってくる。
主演の主婦役の小西真奈美がいい演技をしている。
僕はドラマを全く見ないし、映画も彼女が出ている作品はたぶん見たことないので、女優としての彼女は初見ということになりそうだが、気迫がよく伝わってきた。
31まで専業主婦をしていた彼女が旦那を捨てて社会でひとり立ちしようと奮闘するが、資格もない、社会のことも知らない女性に今の世が提供してくれる職はそうそうない。
夜の仕事についてはみたが、いかな生活のためとはいえ、自尊心を捨て去るほどの切実さは持ち合わせていないらしく一日で辞めてしまう。
そんな彼女がある日小料理屋で食べた鯖の味噌煮に感動し、自分の生き場所を見出すわけだが、彼女の情熱は計画に裏打ちされていない。
子供のような熱中する情熱だけである。
しかし小料理屋の亭主は、熱意に絆され、最初は拒んでいたが結果的に彼女を働かせ弟子のよう形で料理を教える。
計画性はまるでないが、結局みんな彼女の熱意に絆され、手を貸すことになる。それがやがて彼女の計画を形作っていく。そこら辺の情熱を、小西真奈美はうまく表現しているなと思う。
彼女は大人だが、子供である。
彼女という子供を周りの大人たちが手助けしているのだ。
ある日、追いかけてきた旦那と小料理屋内で諍いを起こす。
それで旦那が離婚に同意したのを決意に自分が弁当屋を出すまでの間、昼間小料理屋で弁当を売らせて欲しい、その金で責任を持って壊した店の修理代も払うという彼女に小料理屋の亭主は、叱責する。
「あなたにとって責任とは何だ?責任を取るってのは何かを捨てなきゃできないんだ」
つまり、弁当屋を開くという自分の夢を実行することにより責任を取るって言うのはなんなのだということ。
だけど、それでも小料理屋の亭主は昼間店を貸すことを了承する。
なぜならそれは彼女がまだ、誰にも拠らずに生きるということの本当の意味をしらない子供だからだ。
亭主は彼女に店を出す条件を提示する。
彼女の手を見て、「まだ子供の手だ、この手を大人の手にすること」と言う。
映画は彼女が小料理屋で弁当屋を開くところで終わり、その後店を持てるか、成功するかどうかは、読者の想像にゆだねられる訳だが、とにもかくにも、彼女は今ようやく大人としての第一歩を踏み出したわけなのである。
子持ちシングルマザーの奮闘を描いた入江喜和のコミックを、「いつか読書する日」の緒形明が映画化。主演は小西真奈美。31歳専業主婦の小巻はだらしない亭主に愛想をつかし、娘ののんちゃんを連れて母親の暮らす京島へと出戻る。のんちゃんを幼稚園に通わせて仕事を探すが、キャリアも社会常識もない小巻は次々と面接に落ち、生活のため水商売のバイトを始めるが……。
(ネタバレあり)
アニメーションで解説されるのんちゃんのり弁。
おかずを平たく重ね、サンドイッチのようにして最後にご飯とのりで締める。
子供はおかずの形で好き嫌いしたりするので、これはよいアイデアかもしれない。
見ているとおいしそうでこっちも食べたくなってくる。
主演の主婦役の小西真奈美がいい演技をしている。
僕はドラマを全く見ないし、映画も彼女が出ている作品はたぶん見たことないので、女優としての彼女は初見ということになりそうだが、気迫がよく伝わってきた。
31まで専業主婦をしていた彼女が旦那を捨てて社会でひとり立ちしようと奮闘するが、資格もない、社会のことも知らない女性に今の世が提供してくれる職はそうそうない。
夜の仕事についてはみたが、いかな生活のためとはいえ、自尊心を捨て去るほどの切実さは持ち合わせていないらしく一日で辞めてしまう。
そんな彼女がある日小料理屋で食べた鯖の味噌煮に感動し、自分の生き場所を見出すわけだが、彼女の情熱は計画に裏打ちされていない。
子供のような熱中する情熱だけである。
しかし小料理屋の亭主は、熱意に絆され、最初は拒んでいたが結果的に彼女を働かせ弟子のよう形で料理を教える。
計画性はまるでないが、結局みんな彼女の熱意に絆され、手を貸すことになる。それがやがて彼女の計画を形作っていく。そこら辺の情熱を、小西真奈美はうまく表現しているなと思う。
彼女は大人だが、子供である。
彼女という子供を周りの大人たちが手助けしているのだ。
ある日、追いかけてきた旦那と小料理屋内で諍いを起こす。
それで旦那が離婚に同意したのを決意に自分が弁当屋を出すまでの間、昼間小料理屋で弁当を売らせて欲しい、その金で責任を持って壊した店の修理代も払うという彼女に小料理屋の亭主は、叱責する。
「あなたにとって責任とは何だ?責任を取るってのは何かを捨てなきゃできないんだ」
つまり、弁当屋を開くという自分の夢を実行することにより責任を取るって言うのはなんなのだということ。
だけど、それでも小料理屋の亭主は昼間店を貸すことを了承する。
なぜならそれは彼女がまだ、誰にも拠らずに生きるということの本当の意味をしらない子供だからだ。
亭主は彼女に店を出す条件を提示する。
彼女の手を見て、「まだ子供の手だ、この手を大人の手にすること」と言う。
映画は彼女が小料理屋で弁当屋を開くところで終わり、その後店を持てるか、成功するかどうかは、読者の想像にゆだねられる訳だが、とにもかくにも、彼女は今ようやく大人としての第一歩を踏み出したわけなのである。
コメントをみる |

http://www.laboratoryx.us/mentaljp/index.php
個人的には、精神障害者も健常者も変わらない、と言ってしまいたい。
だが、それを主張するには峻厳すぎる社会の、視覚化された対応の差異が、偏見という形で存在している。
そもそも健常者と障害者の境界は非情にあいまいである。
健常者といわれる人々においても、本当に健常である人などどこにもいないのだから。
しかし、現に健常者と精神病患者の区分けはどこかでなされている。
その境があるとするなら、それは視覚化され際立った差別的な対応をなされる者かなされない者かという部分にあるのだと思う。
それは個性に根ざしたものだが、つまりはそれぞれの個性を許容できない、排他しようとする人間の性質に、障害者と健常者を分かつ根源があるのだ。
その現実を度外視して、健常者と障害者の境界などない、といってしまうことは僕にはできない。
逆説的に言えば、偏見から障害を抱えている人たちの尊厳を守るためにその区別はあるのだとも言える。
僕は高校時代に障害の真似をされ続けた。当時は自分が障害であると知らなかった。真似をした輩も、当然知らない。
大学に入り、自分が障害であると知って考えた。はたして真似をした彼らが僕が障害であると知っていたなら、同じ行為をしたであろうか?ということである。それでも真似をし続ける人間も当然いただろう。しかし、障害者という区分けが、真似をされるということの幾分かの抑止力にはなり得たかもしれない。
それは、健常者の意識の中に障害者に対する憐憫や罪悪感といった新たな偏見を加えるがゆえに起こることで問題の解決には全然ならないのだが、人間の良心を信じるとするのなら、幾許かの無意識の差別を抑止する可能性はある。
障害を負った人々は、障害ゆえに劣等を感じるのではないと思う。
苦しみの大部分は、障害ゆえに際立った個性がさらされる、社会の差別的対応に劣等の念を抱き、孤独を深めるのだ。
そしてそれがそのまま、自己の障害を嫌悪する自己否定という偏見へと繋がっていく。
障害者が、自らの障害に対する健常者とのカーテン(偏見)を取り除くには、概念だけではなく実際にその社会の対応と戦っていくだけの強さが求められる。
障害の日々との格闘に加えて、さらに世間との偏見、自己のうちに抱える偏見とも戦わなければならない。それはあまりにも過酷な作業である。
一方健常者は、悪い言葉を使えばあくまで他人事である。
本人も当事者となり得ない限りその切実さを罹患者と同様に感じることのできるものなどなかなかいないのかもしれない。
患者の一人が綴った詩が印象的だ。
「何でこんなに息が詰まるのだろう。何でこんなに生き辛いのだろう。それは結局、自分で自分を裁いてしまってるからなんだろう」
障害者が自己を裁くにいたるほどに尊厳を毀損せしめたのは何なのかを我々は考えなければならない。
個性に対する無自覚の差別は、それに気付かない限り修正はできない、しかし、障害者に対して差別をする場合は、意識下にある。
障害者は、一人の人間として自信を持ち、尊厳を見出すために社会と、偏見の目と戦い、そして自分自身の中にもある障害への偏見を取り除く努力をしなければならない。
健常者は、その気持ちを汲み取り、彼らの人生、心の闇に耳を傾けることが必要だ。
お互いが歩み寄る努力をすることで、完全にではなくても健常者と障害者という枠組みをいくらかは外すことができると思う。
さらに理想をいうなら、健常者も障害者も含めて、個性に対する無自覚の差別、偏見に対しても気付き修正していく努力をしていくべだろう。
山本医師含む、こらーる岡山診療所で働くような人たちは、その希望の具現である。彼らのような健常者がいることが、たくさんの精神病罹患者にとって、まだ人間を信じることへの礎となるなるのだ。
この映画には一切モザイクがかけられていない。
そもそもモザイクをかけること自体、精神病患者を精神病患者たらしめる偏見でしかない。
精神的障害であることは彼らの尊厳を幾許も毀損させるようなものではない。彼らの苦しみ、人生もまた彼らが自信を持って示せる人間としての証なのだ。
僕がこの日記を通じて自己の透明化を目指しているのも、同様に人間としての尊厳の回復を目指してのものだ。
ゆえに僕はこの監督の決断を評価したい。
「背負う十字架が重すぎて、たくさんの人に支えられながら生きている」
人はみな十字架を背負う。
人に十字架を背負わせたのが我々人間であっても、その十字架を背負った者を支えるのもまた我々人間なのだから。
格差社会、ひきこもり、ニート、ネットカフェ難民、ワーキング・プア、無差別殺人…自殺者数が11年連続で3万人を超える現代日本。閉塞的で孤独感がただようこの国で、誰もが「生きにくさ」を感じたことがあるのではないだろうか。『精神』は、精神科にカメラを入れ、その世界をつぶさに観察。「正気」と「狂気」の境界線を問い直し、現代人の精神のありように迫った。同時に、心に負った深い傷はどうしたら癒されるのか、正面から問いかける。
個人的には、精神障害者も健常者も変わらない、と言ってしまいたい。
だが、それを主張するには峻厳すぎる社会の、視覚化された対応の差異が、偏見という形で存在している。
そもそも健常者と障害者の境界は非情にあいまいである。
健常者といわれる人々においても、本当に健常である人などどこにもいないのだから。
しかし、現に健常者と精神病患者の区分けはどこかでなされている。
その境があるとするなら、それは視覚化され際立った差別的な対応をなされる者かなされない者かという部分にあるのだと思う。
それは個性に根ざしたものだが、つまりはそれぞれの個性を許容できない、排他しようとする人間の性質に、障害者と健常者を分かつ根源があるのだ。
その現実を度外視して、健常者と障害者の境界などない、といってしまうことは僕にはできない。
逆説的に言えば、偏見から障害を抱えている人たちの尊厳を守るためにその区別はあるのだとも言える。
僕は高校時代に障害の真似をされ続けた。当時は自分が障害であると知らなかった。真似をした輩も、当然知らない。
大学に入り、自分が障害であると知って考えた。はたして真似をした彼らが僕が障害であると知っていたなら、同じ行為をしたであろうか?ということである。それでも真似をし続ける人間も当然いただろう。しかし、障害者という区分けが、真似をされるということの幾分かの抑止力にはなり得たかもしれない。
それは、健常者の意識の中に障害者に対する憐憫や罪悪感といった新たな偏見を加えるがゆえに起こることで問題の解決には全然ならないのだが、人間の良心を信じるとするのなら、幾許かの無意識の差別を抑止する可能性はある。
障害を負った人々は、障害ゆえに劣等を感じるのではないと思う。
苦しみの大部分は、障害ゆえに際立った個性がさらされる、社会の差別的対応に劣等の念を抱き、孤独を深めるのだ。
そしてそれがそのまま、自己の障害を嫌悪する自己否定という偏見へと繋がっていく。
障害者が、自らの障害に対する健常者とのカーテン(偏見)を取り除くには、概念だけではなく実際にその社会の対応と戦っていくだけの強さが求められる。
障害の日々との格闘に加えて、さらに世間との偏見、自己のうちに抱える偏見とも戦わなければならない。それはあまりにも過酷な作業である。
一方健常者は、悪い言葉を使えばあくまで他人事である。
本人も当事者となり得ない限りその切実さを罹患者と同様に感じることのできるものなどなかなかいないのかもしれない。
患者の一人が綴った詩が印象的だ。
「何でこんなに息が詰まるのだろう。何でこんなに生き辛いのだろう。それは結局、自分で自分を裁いてしまってるからなんだろう」
障害者が自己を裁くにいたるほどに尊厳を毀損せしめたのは何なのかを我々は考えなければならない。
個性に対する無自覚の差別は、それに気付かない限り修正はできない、しかし、障害者に対して差別をする場合は、意識下にある。
障害者は、一人の人間として自信を持ち、尊厳を見出すために社会と、偏見の目と戦い、そして自分自身の中にもある障害への偏見を取り除く努力をしなければならない。
健常者は、その気持ちを汲み取り、彼らの人生、心の闇に耳を傾けることが必要だ。
お互いが歩み寄る努力をすることで、完全にではなくても健常者と障害者という枠組みをいくらかは外すことができると思う。
さらに理想をいうなら、健常者も障害者も含めて、個性に対する無自覚の差別、偏見に対しても気付き修正していく努力をしていくべだろう。
山本医師含む、こらーる岡山診療所で働くような人たちは、その希望の具現である。彼らのような健常者がいることが、たくさんの精神病罹患者にとって、まだ人間を信じることへの礎となるなるのだ。
この映画には一切モザイクがかけられていない。
そもそもモザイクをかけること自体、精神病患者を精神病患者たらしめる偏見でしかない。
精神的障害であることは彼らの尊厳を幾許も毀損させるようなものではない。彼らの苦しみ、人生もまた彼らが自信を持って示せる人間としての証なのだ。
僕がこの日記を通じて自己の透明化を目指しているのも、同様に人間としての尊厳の回復を目指してのものだ。
ゆえに僕はこの監督の決断を評価したい。
「背負う十字架が重すぎて、たくさんの人に支えられながら生きている」
人はみな十字架を背負う。
人に十字架を背負わせたのが我々人間であっても、その十字架を背負った者を支えるのもまた我々人間なのだから。
コメントをみる |

映画 『色即ぜねれいしょん』
2009年10月14日 映画〔邦画〕イラストレーター、作家などマルチに活躍するみうらじゅんの自伝的青春小説を『アイデン&ティティ』の田口トモロヲが映画化。ロックな生き様にあこがれながらも、平凡で退屈な日々を過ごす文科系男子高校生のひと夏の成長物語を描く。主演は、2000人を超えるオーディションから選ばれた高校生バンド黒猫チェルシーの渡辺大知。共演には23年ぶりの映画出演となる堀ちえみ、リリー・フランキー、くるりの岸田繁らが集結。涙と笑いでつづる若者たちの不器用な青春が共感を誘う。
文科系男子のじゅんは、思春期特有のもやもやを歌にしたためるが、それを人前でさらす勇気は持たない。
ある日、クラスメイトの友人とともに、ひと夏の体験と旅行に出かけけ、そこで得た経験が彼らを少しずつ大人へと変えていく。
と文章にするとありふれて陳腐だが、青春とはそもそも陳腐なものだ。
陳腐なほどにありふれている、誰もが辿る道だから、そういう単純化をしても多くの人の共感を得ることができるのだろう。
僕もまた、彼らのような青春を送っていなくとも、彼らのような内的葛藤を経てきたわけで、そういう意味で、この映画は、多くの面で自分の青春を呼び覚ますものでもある。
逸脱への憧れ、中途半端な自分への不満、打ち破りたいともがく姿が、青臭く、気恥ずかしい。
ロックへの傾倒は、不良にもなりきれない自分のせめてもの時代への抵抗。
不自由な規則や自己表現の萌芽に抗う正体不明な障害物への鬱積した気持ち(それをもやもやとか言うのかな)へのアンチテーゼである。
僕たちは誰でも心にロックを抱えている。
人生だってそうだ。大人になるとみんな決まったレールの上を歩かないと不安になる。少年期、不良に憧れ、逸脱を目指したあの情熱は、そういう世間へのアンチテーゼは、社会に組み込まれ、生活という必然の中に否応なく押し流されていく。
しかし、青春は、若かりし頃の特権ではない。
時代へのアンチテーゼを貫いた人生は、即ちロック、即ち、青春だ。
ロックな人生を歩むのも悪くない。
青春は泥臭く、青臭く、しかしそうであるのに清清しい、輝いて見える。
あくまで前向きにロックな人生を歩み続けられたなら、それは生涯青春を貫くようなものだ。
例え周りから愚劣に移ろうが、逸脱とは、ロックとは常に愚劣なものなのだから。
旅行先のユースホステルの管理人の髯ゴジラは言う、「悩むのはいいことだ。悩めるってのは自由の証拠だ。悩めない人生だってこの世界にはあるんだ」みたいなこと。
そうだ、僕たちは、悩めるほどの選択肢のある世界で生きれているほど自由なのだ。
そんな時代にも、鬱積するわだかまりが自分の中に存在するのなら、その自由を利用して、大いに悩もうではないか。悩んだすえに湧き出るロックな情熱を自己表現できること、それもまた、自由の特権なのだから。
コメントをみる |

映画 『インスタント沼』
2009年9月5日 映画〔邦画〕
監督: 三木聡
ジリ貧な人生を脱却するには、蛇口をひねればいい。
この蛇口というのはきっと暗喩で、自分を締め付けている色んな締め付けを解きましょうと。
ハジメはジリ貧な自分の人生を悲嘆しているようでアッサリスッパリ、端から見るととてもサバサバとしていてクヨクヨせずに楽しそう。
登場人物みんなあっけらかんとしていて、こんな世界だったらいいのにと思わせる魅力がある。
駄洒落や、シュールなギャグ的要素がちりばめられ、これを好むか好まないかはその人次第だろうけど、僕が見た映画館ではかなり笑い声が漏れていた。僕自身は一度笑ったくらいだけど、印象は悪くない。
つまり、人生悲劇もまた喜劇なのだ。
ハジメは、会社もスパッと辞めるし、リセットしようと部屋の持ち物全部売っぱらうし、色んなものに執着がないように見える。
感情はあるが未練がない。
母が死に直面しようと、自分の父親が違っていようと、失恋しようと、落ちこんだ次のシーンにはもう元に戻っている。
これが画面を通してみると非情にいい塩梅で、ポジティブな気持ちを惹起させる。
何か、ルノワールに通じる人生の肯定感がある。
鷹揚な態度で悲哀を受け止める。
ハジメは、人生がジリ貧なのは、意地や見栄といったつまらないもので自分を縛り付けていたからだと気付き、自らのつまらないプライドの蛇口をひねる。
すると、普段見えないものが見えてきた。
今まで見ることができなかったそれは実は色んな人やものに影響して、ハジメの人生を変えてしまうのだった。
いや、実際は変わってない。見えないものが見えたとき、人生で起こっていることは同じでも、全く別物に感じるということなのだ。
何かに行き詰ったとき、蛇口を開放できたなら、きっとジリ貧であった人生もジリ貧とは感じなくなるかも?
つまりはそういうことなのだと思う。
出版社に勤めるハナメは、ビミョ~な女性誌の編集者。微妙すぎて売り上げが伸びず、ついに休刊。会社を辞め、好きな男にもフラれ、人生をやり直そうと思った矢先に、ハナメの父親が沈丁花ノブロウという知らない男である事実を知る。確かめようと実家に行くと、母親は河童を探しに行って池に落ち、病院に運ばれていた。手紙の住所を頼りに、沈丁花ノブロウを訪ねると、そこは「電球商店」という怪しげな店だった。
ジリ貧な人生を脱却するには、蛇口をひねればいい。
この蛇口というのはきっと暗喩で、自分を締め付けている色んな締め付けを解きましょうと。
ハジメはジリ貧な自分の人生を悲嘆しているようでアッサリスッパリ、端から見るととてもサバサバとしていてクヨクヨせずに楽しそう。
登場人物みんなあっけらかんとしていて、こんな世界だったらいいのにと思わせる魅力がある。
駄洒落や、シュールなギャグ的要素がちりばめられ、これを好むか好まないかはその人次第だろうけど、僕が見た映画館ではかなり笑い声が漏れていた。僕自身は一度笑ったくらいだけど、印象は悪くない。
つまり、人生悲劇もまた喜劇なのだ。
ハジメは、会社もスパッと辞めるし、リセットしようと部屋の持ち物全部売っぱらうし、色んなものに執着がないように見える。
感情はあるが未練がない。
母が死に直面しようと、自分の父親が違っていようと、失恋しようと、落ちこんだ次のシーンにはもう元に戻っている。
これが画面を通してみると非情にいい塩梅で、ポジティブな気持ちを惹起させる。
何か、ルノワールに通じる人生の肯定感がある。
鷹揚な態度で悲哀を受け止める。
ハジメは、人生がジリ貧なのは、意地や見栄といったつまらないもので自分を縛り付けていたからだと気付き、自らのつまらないプライドの蛇口をひねる。
すると、普段見えないものが見えてきた。
今まで見ることができなかったそれは実は色んな人やものに影響して、ハジメの人生を変えてしまうのだった。
いや、実際は変わってない。見えないものが見えたとき、人生で起こっていることは同じでも、全く別物に感じるということなのだ。
何かに行き詰ったとき、蛇口を開放できたなら、きっとジリ貧であった人生もジリ貧とは感じなくなるかも?
つまりはそういうことなのだと思う。
コメントをみる |

映画 『サマーウォーズ』
2009年8月22日 映画〔邦画〕
監督:細田守
(ネタバレあり)
設定がユニークである。
物語は、殺伐な現代の生活を送る僕たちに、家族や親族を通して人との交流の暖かさや、絆の深さを見せてくれる。
僕が幼い頃にも、同じようにおおばあちゃんがいて親戚が集っていた。
その頃を思い出させてくれる。
物語に脈づく、そういったテーマ性は十分に普遍的な要素を含んでいると思う。
だけど、これが前作の『時をかける少女』ほどに支持を得るかというと、テーマを表現する手段が現代的過ぎて、難しいのではないかと思う。
ネットの仮想世界という設定は、長年ネットをやっているものにとってはすんなりと受け入れられるものであっても、パソコンやネットに普段触れないものが、この世界にすんなりと溶け込めるかというと「アカウント」という言葉一つをとっても理解するのに苦労するのではないだろうか。
世界中ほとんどの情報の管理を一つの場所に統合することが危険なことくらい気付きそうなものだけど、そういう粗を探していたらこのアニメは楽しめないだろうと思う。
そういった粗を粗としてみるのではなく、一つの問題提起、社会への警鐘としてみるとまた意味合いも違ってくる。
作中の大家族は現代(未来?)らしく、皆が携帯やパソコンを操り、仮想空間をもう一つの社会として当然と認識されているわけである。
面白かったのは、現実世界と仮想のネット社会が、相互にリンクしあっているという設定である。
つまり、この映画では仮想と現実の境界がはっきりとしていない、極めて曖昧な線引きがされている。
食べること、寝ることなど、実体の管理はこっちの世界で行い、その他の生活(仕事や人とのコミュニケーション、趣味など)はすべてネットの社会で行うという選択も可能になってくる。
それを問題と取るか新たな時代の文化と取るかは観るものにゆだねられるわけだが、大家族の交流とネット社会でのコミュニケーションは、対比的な演出である。
対比的に描いてはいるが、双方どちらかが否定的なイメージで描かれているわけでもない、監督は、現実と仮想、その双方の長所と問題点とをそのままに描いているに過ぎないのだと思う。
実際、家族の団結が、仮想世界、引いて現実世界の危機を救ったわけだが、そのキーとなったのは、家族の団結に協力した、全仮想世界の住民達であったのだから。
ネットの進化は進んでいく、それに伴い人とのコミュニケーションのあり方も、仕事の仕方も、経済の成り立ちも、娯楽の種類も、つまるところ人の生き方がネットと共に劇的に変容する日もそう遠い話ではないのかもしれない。
エンターテイメントとして十分に面白い作品だと思う。
感動も笑いもしたけど、『時かけ』ほど心にじんわりと残るものも無かったのが正直なところ。
僕の好みによるところも大きいけど、テーマ性だけでなく、その見せ方もまさに普遍的なものほど万人の心に届くのだろうと思っている。
ネットやパソコンはまだそこまでに普遍的な存在になり得ていないからね。
小磯健二は少し内気で人付き合いが苦手な17歳。数学オリンピック日本代表の座をあと一歩で逃したことをいつまでも悔やんでいる理系オタクだ。健二はある日、憧れの夏希先輩からバイトを持ちかけられ、一緒に彼女の故郷まで旅行することになる。バイト内容は、「ご親戚」の前で彼女のフィアンセのフリをすること。しかし、仮想空間“OZ”のパスワードを解いてしまったことから、世界を揺るがすトラブルに巻き込まれてしまい…。
(ネタバレあり)
設定がユニークである。
物語は、殺伐な現代の生活を送る僕たちに、家族や親族を通して人との交流の暖かさや、絆の深さを見せてくれる。
僕が幼い頃にも、同じようにおおばあちゃんがいて親戚が集っていた。
その頃を思い出させてくれる。
物語に脈づく、そういったテーマ性は十分に普遍的な要素を含んでいると思う。
だけど、これが前作の『時をかける少女』ほどに支持を得るかというと、テーマを表現する手段が現代的過ぎて、難しいのではないかと思う。
ネットの仮想世界という設定は、長年ネットをやっているものにとってはすんなりと受け入れられるものであっても、パソコンやネットに普段触れないものが、この世界にすんなりと溶け込めるかというと「アカウント」という言葉一つをとっても理解するのに苦労するのではないだろうか。
世界中ほとんどの情報の管理を一つの場所に統合することが危険なことくらい気付きそうなものだけど、そういう粗を探していたらこのアニメは楽しめないだろうと思う。
そういった粗を粗としてみるのではなく、一つの問題提起、社会への警鐘としてみるとまた意味合いも違ってくる。
作中の大家族は現代(未来?)らしく、皆が携帯やパソコンを操り、仮想空間をもう一つの社会として当然と認識されているわけである。
面白かったのは、現実世界と仮想のネット社会が、相互にリンクしあっているという設定である。
つまり、この映画では仮想と現実の境界がはっきりとしていない、極めて曖昧な線引きがされている。
食べること、寝ることなど、実体の管理はこっちの世界で行い、その他の生活(仕事や人とのコミュニケーション、趣味など)はすべてネットの社会で行うという選択も可能になってくる。
それを問題と取るか新たな時代の文化と取るかは観るものにゆだねられるわけだが、大家族の交流とネット社会でのコミュニケーションは、対比的な演出である。
対比的に描いてはいるが、双方どちらかが否定的なイメージで描かれているわけでもない、監督は、現実と仮想、その双方の長所と問題点とをそのままに描いているに過ぎないのだと思う。
実際、家族の団結が、仮想世界、引いて現実世界の危機を救ったわけだが、そのキーとなったのは、家族の団結に協力した、全仮想世界の住民達であったのだから。
ネットの進化は進んでいく、それに伴い人とのコミュニケーションのあり方も、仕事の仕方も、経済の成り立ちも、娯楽の種類も、つまるところ人の生き方がネットと共に劇的に変容する日もそう遠い話ではないのかもしれない。
エンターテイメントとして十分に面白い作品だと思う。
感動も笑いもしたけど、『時かけ』ほど心にじんわりと残るものも無かったのが正直なところ。
僕の好みによるところも大きいけど、テーマ性だけでなく、その見せ方もまさに普遍的なものほど万人の心に届くのだろうと思っている。
ネットやパソコンはまだそこまでに普遍的な存在になり得ていないからね。
コメントをみる |

映画 『容疑者Xの献身』
2008年10月14日 映画〔邦画〕 コメント (2)天才物理学者・湯川教授が生涯で唯一天才と認めた男・天才数学者の石神哲哉は、娘と二人で暮らす隣人・花岡靖子に淡い思いを抱いている。ある日、靖子の元夫・富樫が死体となって発見された。離婚後も何かと靖子たちに付きまとい、どこへ引っ越しても現れては暴力を振るっていた富樫。元妻である靖子が容疑者として捜査線上に上がるが、彼女には完璧なアリバイが存在していた…。
堤真一演じる石神は、完全なるアスペルがー気質だ。湯川は、石神を友人、天才と見てはいたが、特異な人物とは見ていなかった。
本来、人が皆、湯川のように石神を見ることができるなら、アスペルガーなどという障害の定義はあまり意味をなさない。
彼のような人物をアスペルがーであると規定する必要性があるとすれば、それは、多くの人間が彼のような人物を特異な存在としてみてしまうことから、彼のような人物の尊厳を守るためにあるのだと思う。
この作品では明らかな言及はされないが、石神が人生に絶望し、自死を思い至ったのも、それを引き止めることに結果的になった母子を幸せにすることが彼の生の拠り所、人生の意義となったのも、彼の偏見に苛まれた不遇の人生がバックグラウンドとしてあるのは明らかだ。
不遇な人生を送ったものが他の人生に自己の幸せを投影することは、ありうることだ。僕自身、絶望の淵にいたとき、見出した生きがいは、他者の人生の歯車となることへの憧憬だった。
そういう過程を経たからか、石神の心理がよく理解できたし、また共感もできた。
映画の説明書きには、石神の花岡靖子に対する淡い思いとあるが、僕は少し違うように思う。それは確かに愛ではあったと思う。しかし、その愛は、異性に対するそれを超えて、人間に対する愛であったのだろうと思う。
湯川は、石神が数学にしか興味を抱かないといったが、本当に数学にしか興味を抱かないのであれば、数学の研究に勤しむ彼が人生に絶望する道理は無い。
彼は、母子との接触によって命を救われたのであり、それはつまり彼もまた人間とのコミュニケーション、ぬくもり、つまりは愛を望んでいたということだ。それは、湯川に対する発言「俺には友達はいない」や、「(自分のことを評価してくれるのは)お前だけだよ」という節々の言葉からもうかがい知れる。
アスペルがーの特徴は、何か興味を持ったことへの偏執的な傾倒にある。
いわば命の恩人である隣へ越してきた母子に対して、石神は数学に対する情熱と同じだけ、あるいはそれ以上の情熱を注いだのだ。
さて、これの愛はエゴによる愛ではない。
エゴによる愛は独占欲を生ずる。しかしながら、彼の愛はさらに深かった。彼は本当に母子を愛していた。真に愛する対称に望むのは、対象が真に幸福でいられることである。
石神は自分の人生を、彼が殺したホームレスと同じごとく、彼女達が幸福に生きられるための歯車として使った。
その献身は、ある意味で無私に近い。しかし、無私に近いことが彼の論理的思考で唯一の欠陥であったといえるのかもしれない。
石神は彼女達が可能な限り呵責を感じずに今後生きていける方法(公式)を提示した。
しかし、その公式には、大きな欠落があった。
彼は、自分の存在が彼女達に対してどのようなものかを正しく認識することができていなかった。
彼女達は、良心を有していた。
彼女達は、彼を特異な人間とは見ていなかった。
自己の存在価値を否定してしまった石神の落ち度だ。
故に、完璧に進んでいた石神のシナリオは、ラスト瓦解したのだ。
彼のシナリオは、彼女達の良心、そして自己の存在価値を見誤っていた点で不完全だ。
しかしながら、数学の公式の証明のように、不完全であるから美しくない、ということではない。
彼の描いたシナリオ(公式)は落ち度ゆえに、美しい。実に美しい。
人間の感情というものが、数学の公式とは違う点、不完全だからこそ美しい。愛だけではない、人間の感情そのものが、数学者でも解き明かせないほどに、非論理的なのだ。
映画 『闇の子供たち』
2008年10月7日 映画〔邦画〕日本新聞社バンコク支局で、幼児人身売買を取材する記者、南部は、日本人の子供がタイで心臓の移植手術を受けるという情報を得る。知人に金を握らせ、臓器密売の元仲介者に接触した南部は、提供者の幼児は、生きたまま臓器をえぐり取られるという衝撃の事実を知る。取材を続ける南部は、ボランティアの少女、恵子と知り合う。純粋すぎてすぐ感情的になる恵子に苛立つ南部だが、善悪に対する感覚が麻痺している自分を恥じてもいた。
(ネタばれあり)
人間とて、所詮は動物に過ぎない。
野生の動物と人間を分かつのは、理性を身にまとっているか否かの違いに過ぎない。
人間の文化において、多くの野性的本能は、悪やタブーと看做される。
そのため、人間は、人間の社会で生き残るために理性を駆使し、道徳に恭順とすることで、自らの本能から来る潜在的欲望に対して必死で抗う。自らの先天的本能を自覚するものにおいて、それは並々ならぬ努力を要するだろう。
そして、必然的に、そういった社会のモラルにはけ口を求めるものは存在してくる。理性をもってしても抗えない、本能とは、かように強力なのである。
本能のはけ口を求める人間がいるかぎり、それを利用して自らの生業とするものが現れるのもまた必然。
その一部がこの作品に示された「闇」である。
作品の登場人物たちは、皆リアルに人間的である。
人間としてのあらゆる醜愚が描かれているという点において。
本作の題材である、「子供の臓器密売」に対して僕は知識も情報も持ちえていないので言及はできない。真実な部分も、真実でない部分もおそらくあるだろう。ここまで酷くはなくても似たようなことは世界中で在りうるだろう。
だから僕はこの映画をそういった具体的な題材の観点ではなく、作品に描き出された漠然とした人間の行為や感情に注目して鑑賞した。
すなわち、この映画には、タイ人がとか何人が、とか、そういった括りはない。世界各国の人々が、幼児売春の店に集まり、いかがわしい行為を行うわけだし、そういった人間や店は世界のどこにでも存在する。
店をする側も行く側も、過去の記憶や、先天的な人間の闇に懊悩しているのであり、一概にその行為だけをとって断罪できるものでもない。
恵子の純粋さは美しくも映るが、違う見方をすれば、一途な情熱で何事もうまく行くと勘違いしている「無自覚の偽善」を胚胎しているという点で愚劣でもあるし、理性で常人を装う南部にしても、自分が先天的小児性愛という本能を隠しつつ真っ当らしくあることに苦悩している。
道徳心や、理性の強固な人間ほど、人間の社会規範と自己の本能の齟齬に苦しむだろう。
南部の「ここ(タイ)は天国だ、(東京に)戻るつもりはない」や、恵子に言った「俺はあんたを裏切ってる」という言葉の意味がラストで判然とするわけだが、南部の取った選択は、それこそが本能に抗う理性を持ってしまったが故の、人間だから選択しうる悲劇なのである。
本能を心に描くだけなら誰にでもあることだが、一度でもそれを外部に表出、つまり行為を行うと、それ(本能)は、自分の中の強固なモラル、理性と極北において対立することになる。
自分の意識に対極のものを置き、その矛盾が行為によって裏書されたとき、互いに引かれあった綱は、いつか千切れる危険を持つほどに張り詰める。
縄の真ん中には、自分の存在がある。存在(命)を継ぎ目として両極に(本能と理性という)意識が対置されるとき、存在は身動きが取れなくなる。
南部はおそらくそういう状態にあった。
そして最後には縄は千切れてしまったのだ。
子供だから命は尊い、などという理屈は嫌いだ。
命は誰であれ、どのような存在であれ尊い。
我々は、人間社会という世界で生きていくのであれば、道徳や理性は必要だ。
この作品は、自分達が生物として個々もつ様々な先天的本能(欲望)に対して、どのような理性を持ってコントロールしうるのかというという問いかけである。
そして、その本能、モラル、理性にしても、慣習にのっとった見地からではなく、今一度、白紙にして、それらの定義を見直してみるべきではないかという事を強感じた。
コメントをみる |

映画 『年をとった鰐』
2008年7月17日 映画〔邦画〕2006年8月6日から渋谷ユーロスペースで劇場公開された山村浩二の最新作「年をとった鰐」および山村浩二が海外各国から選んだ作品7編を集めたプログラムをDVD化。リュウマチのワニの描かれ方が面白い。
「年をとった鰐」は、フランスの童話作家レオポルド・ショヴォーの作品。山村浩二が長年の構想の後に遂に映像化。シンプルな線によるストイックな映像と、ピーター・バラカンの味のある語りとともに、やさしく、切なく描き出しました。子どもから大人まで楽しめる寓話性に富んだ、ほろ苦い涙を誘う切ない物語。
手書きアニメは、作家が様々なスタイルを試せるところが魅力なのかもしれないな。
伝承というやつは、得てして残酷なものだとこの作品を見たりして思うわけなんだが、やっぱ寓話だよね、
ああ、かなしい。
映画 『「頭山」山村浩二作品集』
2008年7月8日 映画〔邦画〕子供向け番組からミュージッククリップまで、幅広いジャンルで活躍するアニメーション作家・山村浩二の作品集。第75回アカデミー賞短編アニメーション部門にノミネートされた「頭山」をはじめ、多数の作品を収録落語の話をアニメにすると、なんだかシュールになった。
ストーリー的に、思い浮かべたのが、今敏監督。
短い作品というのは、話のどこをどう見せるかというのが長編より実は難しいんじゃないかと思ったりする。
それにしても、あまりけちすぎるのもいけないな。
ラストは展開的に重いはずなのに、ブラックユーモアとして機能できてるようだ。
映画 『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』
2008年6月30日 映画〔邦画〕1972年2月、日本中がテレビに釘付けとなった。5人の若者たちが、長野県軽井沢の「あさま山荘」に立てこもり、警察との銃撃戦を展開したのだ。彼らは、革命に自分たちのすべてを賭けた「連合赤軍」の兵士たち。その後、彼らの同志殺しが次々と明らかになり、日本の学生運動は完全に失速する−。ベトナム戦争、パリの5月革命、文化大革命、日米安保反対闘争、世界がうねりを上げていた1960年代。学費値上げ反対運動に端を発した日本の学生運動も、三里塚闘争など、農民や労働者と共に、社会変革を目指し、勢いを増していった。活動家の逮捕が相次ぐ中、先鋭化した若者たちによって、連合赤軍は結成される。
革命で世の中が変えられると日本でもまだ信じられていた時代、その先導を切ろうと情熱に燃える学生たちが沢山いたのだと思うと、この映画に示された危険性を認めてもなお、憧憬を抱かずにはいられない彼らの真剣さがある。
他者と分け隔てないという共産主義的理想が、自己の総括へと向かい、あまりにも人間性を無視した稚拙とも受け取れる論理がまかり通ってしまった悲劇は、それだけ彼らが真剣であった証左でもある。
彼らは自ら自己の矛盾に気付きながら、それでも自家撞着の蟻地獄から抜け出せずに、結局は最悪の、自分たちの理想と真逆の結論を導いてしまう。
これ自体が、共産主義の典型の小規模な顕現といえるのではないだろうか。
それは、人間の限界を露呈している。トップに立つものは腐敗する。
腐敗すれば、あとは瓦解するのみだ。
しかし彼らは狂気なのではない。彼らはまさしく人間らしいのだ。普通の人間だからこそ、一途な真剣さに自己を見失い、集団の中で異常さに気付きつつもそのことに確信を持つ勇気を持ち得なかった。
この作品に描かれたことで、僕が同じ状況であったならば、彼らと同じようにならなかったといえる自信は僕にはない。
誰でも、彼らのようになってしまう危険性をはらんでいる、それが人間というものだと思う、
これは、その真剣さが非情な時代の波によって飲み込まれてしまった悲しい実話だ。
しかしこの作品では、彼らを否定しているわけではない。
この映画で、僕たちが突きつけられるのは、彼らは、このように真剣に生きた、君たちはどうなんだ?ということなのである。
映画 『カフカ 田舎医者』
2008年6月17日 映画〔邦画〕繰り返される現実に、絶望を抱えて生きる。”田舎医者”はわたしたちの日常にいる― 日本人初、オタワ国際アニメーション映画祭グランプリ受賞作品。『頭山』の山村浩二が挑むカフカの世界。 (ストーリー)田舎医者は困り果てていた。すぐにでも患者のところに行かねばならない。そんな時、ふと目の前に突如あらわれた馬子。馬に乗ると一瞬にして遠く離れた患者宅に到着した。何か困ったことがおこると、神様は私に救いの手を差し伸べてくれる―。暑く湿った部屋。すすり泣く家族。わき腹に薔薇色の傷を咲かせた少年。だが、どうしようもない出来事ばかりを前にして私は何もできない。私は医者だ。私は無能だ。自分を救うために自分をだまし、こうして私はまた絶望の朝を迎える・・・。カフカ作品の不条理さや、根底にある、疑心暗鬼などを言葉やストーリーだけでなく、その絵柄で表現することに成功している。
見るものにとって不可解な、ある意味シュールなこの世界観を絵がさらに肥大させ、医者の深層心理、医者から見たこの世界というものを我々の前に見事に顕現させている。
ある意味、カフカの世界観を忠実に再現しているといっても過言ではないのではなかろうか。
川島雄三監督が若尾文子を主演に描いた代表作をDVD化。寺の襖絵師の妾・里子の官能的な肉体に惹かれた住職は、襖絵師の死後、彼女を囲うことに。男女の愛欲と、痴態を覗き見する少年僧の歪んだ愛憎劇が展開。原作は水上勉の直木賞受賞作。若尾文子演じる里子の妖艶さが際立つ。
少年僧のひた隠しに過去を知るにいたり、哀れみから、体を許したことが、少年僧の住職に対する嫉妬を生み出し、これまでのむごい扱いとあいまって、住職への憎しみは、殺害という形で帰着する。
愛欲にまみれた禅寺、そのでの愛憎入り乱れた人間の感情の交差がおどろおどろしく、美しく、不気味だ。
それにしてもこの頃の一部の女性は、こうやって自分の体を担保に生活の道を確保しなければならなかったというのが悲しい。
時を経て観光地と化した禅寺で、張り足された襖に隠された過去を知るものはいない。ショッキングなラストに、鳥肌が立つ。
映画 『喜劇とんかつ一代』
2008年3月31日 映画〔邦画〕とんかつ屋の主人森繁久彌はもともとレストラン「青龍軒」でコック長加東大介のもとでフランス料理の修行をしていたが、娘の淡島千景と駆け落ちし、下町に店を開いている。 主人の親友は"とある職業"で世界的に活躍している男山茶花究、その娘はクールでセクシーな団令子、その恋人はコック長の息子で家出中のフランキー堺、 主人が贔屓にする芸者水谷良重の住む隣には、ウソ発見器も開発した怪しい科学者三木のり平がクロレラの研究にいそしんでいる。 他にも謎のフランス人岡田真澄など楽しいキャラがいっぱい。
ギャグのセンスでいえば、鈴木則文監督の方に分があるが、作品全体としては、やはり佳作といってよく、完成度は高いと思う。
森重久弥が、若くて元気w
フランキー堺も相変わらずいい演技してる。
出てくるフランス人は、ホントに外人だと思ってたら、岡田真澄だったんだ。ぜんぜん気付かんかった。
この頃からクロレラって注目されていたんだね。
今では立派に錠剤として商品化されて、市場で成功してますよ。
とんかつと銘打ってるけど、あんまりとんかつの描写が出てこないので、料理映画っていう範疇に入るかは疑問。
まあ、喜劇だね。
最後のミュージカルのようなラストは清清しい。
あの歌、耳に残るね。
(99分・35mm・カラー)土曜日の夜,、銀座のバー「トンボ」は賑わっていた。店が引け若いホステスたちを見送ったあとベテランホステス・葉子(池内淳子)はアパートの部屋で死の床に向かう。過去の回想が始まる。葉子を囲っていた大学教授・松崎(池部良)。弁護士で子持ちの畑(有島一郎)。TV局の若手敏腕プロデューサー清水(高島忠夫)。学生時代からの葉子のファンで今はワイン会社の若き社長・野方(三橋達也)。さまざまな男が現れ通り過ぎる。
しかし葉子の気が一番休まるのは、古美術商の高島先生(佐野周二)と会っているときだった・・・
貧しい家を出、手に職もなく、女は、誰かの庇護になるか夜の世界の蝶となるしか術がない。
そこでであったさまざまな男との出会いと別れ。
肉体の交差する感情ばかりの中、古美術商の高島だけは、肉体を交えない。そこに葉子は、愛の純粋を求めた。
高島は、肉体を交えないことで葉子の愛を一手に掌握したのだ。
人間の酸いも甘いも知った上で、それでも人に対する理想を抱き続けたいというのは、よくわかる。例え、相手がどうしようもなく落ちぶれてしまっても、葉子は、高島に純粋を求めるのだ。
真実は、どうでもよい。そう思える相手がいることが、葉子にとって何よりの救いだったのだろう。
池内涼子演じる葉子のけなげな美しさは、その影ゆえにいっそう際立つのである。
映画 『東京マダムと大阪婦人』
2008年3月29日 映画〔邦画〕1953年日本映画/1時間36分
配給:松竹大船
[製作]山口松三郎[監督]川島雄三[原作]藤沢桓夫[脚本]富田義朗[撮影]高村倉太郎
東京の紡績会社の社宅で西川隆吉と伊東光雄はお隣り同士。西川の妻・房江は大坂の船場育ち、伊東の妻・美枝子は東京の下町育ち、二人は夫が同じ課の同輩ということで、何かにつけて張り合っていた。彼女たちの思いをよそに、房江の弟と恋に落ちる美枝子の妹・康子を演じているのはSKD出身で、本作品が映画初出演の芦川いづみ。当時としてはテンポのいいシティー・コメディである。
社宅というのは便利だけど厄介だ。
同じ課の旦那方の出世争いは、本人たちよりむしろ妻たちの間で熾烈である。大阪派と東京派に別れ、表で笑って陰で張り合う。
本音と建前、実に日本的なコメディーだ。
主婦連の世間話をアヒルに例え、ガーがーガーと井戸端会議。
うわさはやがて真実のように扱われ、そこに誤解が生じ、派閥はさらに溝が出来。
てな感じだけど、話の落としどころもまた日本的。
争っていた旦那どちらも結果的に出世できなくて、お互いうやむやにハイ仲直り。
そんな日本人の特徴を、小気味よくシニカルに描いた良作。
自由闊達なパイロットが会社員や主婦らと対照的な奔放さで、その皮肉をさらに強調してる。
映画 『犯人に告ぐ』
2008年2月19日 映画〔邦画〕
DVD ポニーキャニオン 2008/03/21 ¥3,990
狙ってやっていることだろうが、過剰すぎる演出が鼻をつく。
渋く、かっこよく見せようとしているのは解るが、それがかえって滑稽さを醸成している。
警察内の派閥みたいなものは、実際ここまであるものだろうか。
人間の醜も美も混ぜ合わせたものが人生だろうが、その境界があまりにもくっきりしすぎて、典型的なキャラ付けに収まっている。
坊ちゃんのボンボンの二世はポマードで固めた髪に、親の権力を背景にした権謀術数にたけた卑劣感。主人公の上司は自己の栄達を臨む、現実主義者。
苦難を乗り越えてきた、苦悩するワイルドな主人公。
故に展開も読めてしまい、それほど感情移入できなかった。
エンターテイメントとして、何度も展開されてきた構図なので、見ているうちはそれなりに面白いが、ドラマでやればいいかなという気もしなくもなかった。
最後に、主人公が閉じていた目をかっと見開くが、その意図が未だによくわからない。
雫井脩介のベストセラー小説を豊川悦司主演で映画化!心に傷を負った刑事と姿なき殺人犯の緊迫の心理戦を描く本格サスペンス。川崎で起きた連続児童殺人事件。〈BADMAN〉と名乗りテレビに脅迫状を送りつけた犯人は3件目の犯行後、表舞台から姿を消す。膠着した警察は捜査責任者をテレビに出演させる大胆な“劇場型捜査”を決断する。担ぎ出されたのは過去に犯人を取り逃がし失脚した男・巻島。彼は犯人を挑発するが…。
狙ってやっていることだろうが、過剰すぎる演出が鼻をつく。
渋く、かっこよく見せようとしているのは解るが、それがかえって滑稽さを醸成している。
警察内の派閥みたいなものは、実際ここまであるものだろうか。
人間の醜も美も混ぜ合わせたものが人生だろうが、その境界があまりにもくっきりしすぎて、典型的なキャラ付けに収まっている。
坊ちゃんのボンボンの二世はポマードで固めた髪に、親の権力を背景にした権謀術数にたけた卑劣感。主人公の上司は自己の栄達を臨む、現実主義者。
苦難を乗り越えてきた、苦悩するワイルドな主人公。
故に展開も読めてしまい、それほど感情移入できなかった。
エンターテイメントとして、何度も展開されてきた構図なので、見ているうちはそれなりに面白いが、ドラマでやればいいかなという気もしなくもなかった。
最後に、主人公が閉じていた目をかっと見開くが、その意図が未だによくわからない。
映画 『江分利満氏の優雅な生活』
2008年1月28日 映画〔邦画〕
DVD 東宝 2006/02/24 ¥4,725
ごくごく一般的なサラリーマンがひょんなことから散文を書き、直木賞を受賞するまでの話。
この江分利氏はホントに平凡なんだけれども、平凡な人の一生というのも細かく辿れば平凡でなく、やはり人の一生というのは、誰のどこを切り取ったとしても、ドラマになりうるのであり、人世というのは、実に面白いものであるのだなあと思うのであります。
僕が生まれるもう一回り前の時代の生活や風俗というものも興味深いわけだが、江分利氏が直木賞を取ったのちに祝賀で開始する独白が自宅にまで及び延々と続くあたりは、冗長。
喜八監督の映画の撮り方、コミカルで面白いね。
昭和30年代後半、大手洋酒メーカーに勤めるサラリーマン江分利満(小林桂樹)、36歳。何をやってもおもしろくない無気力な日々が続く中、ふとしたことで彼は小説を書くことになり、戦争のこと、父のこと、妻子のことなど、平凡だが一生懸命な自分たちの人生を綴っていく。やがて小説は直木賞を受賞するのだが…。
山口瞳の同名小説を原作に、岡本喜八監督がこれまでのアクション路線から一転して、戦中派たる自己の心情を赤裸々に吐露した異色作。とはいえ、アニメーションなどさまざまな映画技法を変化球的に用いる岡本映画ならではのリズムもテンポに何ら変わりはなく、単なるヒューマン映画の域に留まらず、観る者を驚嘆、圧倒させる力強さに満ちた快作に仕上がっている。タンゴに似たハバネラのリズムを用いた佐藤勝の音楽も画面にすこぶる呼応。人生の悲喜と酒乱のすさまじさ(!?)を見事に体現する名優・小林桂樹の代表作でもある。なお岡本監督は、自作の中で本作が一番お好きとのことだ。
ごくごく一般的なサラリーマンがひょんなことから散文を書き、直木賞を受賞するまでの話。
この江分利氏はホントに平凡なんだけれども、平凡な人の一生というのも細かく辿れば平凡でなく、やはり人の一生というのは、誰のどこを切り取ったとしても、ドラマになりうるのであり、人世というのは、実に面白いものであるのだなあと思うのであります。
僕が生まれるもう一回り前の時代の生活や風俗というものも興味深いわけだが、江分利氏が直木賞を取ったのちに祝賀で開始する独白が自宅にまで及び延々と続くあたりは、冗長。
喜八監督の映画の撮り方、コミカルで面白いね。
映画 『UNLOVED』
2008年1月27日 映画〔邦画〕役所勤めの地味なひとりの女性がふとしたことから出会ったまったく対称的なふたりの男性と恋に落ち、“自分らしく生きる”ことと、自分を取り巻く現実との間で葛藤する姿を描いた愛憎ドラマ。監督はこれが劇場映画初監督となる万田邦敏。主演に森口瑤子。ヒロインに翻弄される二人の男性を仲村トオルと松岡俊介が演じる。
影山光子は市役所に勤める30歳過ぎの平凡な女性。職場ではほとんど目立たず、生活もいたって地味なものながら本人にとってはそれなりに不満のない日々を送っていた。しかしある日、仕事のためにたびたび市役所を訪れていたやり手ビジネスマンの勝野にお茶に誘われる。勝野は光子に急速に惹かれていくが、光子は生活レベルの違う勝野に戸惑いを抱く――。やがて、光子は自宅アパートの真下の部屋に引っ越してきた青年、下川と知り合い親しくなる。光子は、勝野と違い、一緒にいる時ありのままの自分でいられる下川にかけがえのないものを感じるのだが……。
彼女の過去を知りたい。
そう思わせる作品だ。
光子は頑なに自分の生活を守り、考えを曲げない。
身の丈だと自分が考える生活の中に閉じこもり、鎖国している。
光子の考え方自体は、共感する部分が多く、立派だとは思うのだが、柔軟性がなく、故に自家撞着に陥ってしまう。
相手を自分の生き方に取り込みはしても、相手の生き方に自分を合わせようとは考えない。
自分の生活と合わせることができなければ、その場で切り捨てるという風にも取れる。
彼女が何故そのような考えに拘泥することとなったのか、彼女の過去に何かがあったのか、考えを敷衍させずにはいられない。
勝野は、そんな光子を自分の生活に取り込もうとしたが、その構図は、光子と下川に当てはめることができないか。
光子は、自分が自分でいられると思い、下川を自分の生活に取り込もうとした、しかし、下川の意志ををくみ取ろうとはしていない。
いや、光子が自身言ったように「自分はこうしかできない。こういう生き方しかできない」のだ。
しかし、下川は光子を切り捨てなかった。
光子の生き方を中心に下川は回っていく。
自分が自分でいられる場所、落ち着ける場所は、普遍ではないと僕は考えている。今の生活に親しめるようになるのにも色々な不安や恐れの経過があったはずだ。誰かと暮らすなら、一人の時と同じにはできないし、変化していかねばならない。他人の人生を許容するということは、自分の生き様の変化を受入れるということに他ならないからだ。
映画 『サッド ヴァケイション』
2008年1月3日 映画〔邦画〕北九州市、若戸大橋のたもとにある小さな運送会社。社長の間宮は、かつてバスジャック事件の被害にあった梢のほか、様々な理由から行き場のない人たちを住み込みで雇っていた。ある日、妻、千代子がかつて捨てた男との間に出来た息子の健次が会社に現れた。千代子は健次と、妹分で知的障害者のゆりを家に住まわせ、間宮はそれを快く受け入れた。一見、楽しげに働くフリをしながら、健次は母への復讐を狙っていた。
お袋とは、その名のごとく、すべてを包み込む風呂敷のような包容力を持っている。
だかいって、女性は強い。母は強い、なんてことを簡単には言えない。
石田えり演じる、千恵子もまた、若い頃に辛さから逃げ出した。
残された子供は、母を恨む。
浅野忠信が演じる子供の健司は、中国人の子供を拾って育てながら生活している。
そんなある日、健司は母を見つける。
健司の計画性に満ちた復讐は、健司の心の悲しさを映し出す。
健司は限りなく優しい、しかし過去の憎しみを自分の中で溶解させることは出来ず、逆に培養していた。母への憎しみの前では、倫理観は崩壊する。
しかし、復讐を果たしたあとも母は健司を受入れた。
母の覚悟。月日の流れは、彼女を強くした。
健司は、事実を知る。その事実はすべての今までの感情を瓦解させるものだった。
その苦悩たるや如何ほどか。
母は、健司の苦悩も悔恨もすべて受入れて、健司が刑務所から出る日を待つ。
彼女の微笑みは菩薩のようだ。しかし、彼女の心もまた人知れず耐えている。ひとり白無垢の着物に身を包み、一点を凝視する彼女の気丈さよ。
浅野忠信の演技に魅了される。
ホステスの女のとのやりとりの自然さに、感動が起こった。
石田えりも素晴らしい。
役者に恵まれた作品だろう。しかし、その魅力を引き出させ方を知っている監督が何より素晴らしい。
「ヘルプレス」から繋がる北九州サーが三部作らしいけど、僕はまだ本作しかみていないので、わからない人間の繋がりもいくらかあった。
前の2作も見てみようと思う。