読書 『LD・ADHDは病気なのか?』
2005年7月16日 読書
ISBN:406272202X 新書 金澤 治 講談社 2003/06 ¥924
現今の医療体制、特に小児医師、や臨床医に対する地位や評価の低さ、またパラメディカル・スタッフなどの政府のバックアップの不徹底に対する著者の憤りが感じられる。
LD・ADHDに対する治療法というよりも、その症状の内容、社会的な現状、有り様、どのよう制度、対応が求められるかなど、この障害に対して理解を求め、また深めることに焦点をおいている。
「個性」としてとらえるべきことも、「LD」「ADHD」と診断されて、「脳の病気」とされてしまう。本当の診断基準から、治療法までを小児科医が解き明かす。癲癇専門の小児医のLD・ADHD論なので、また少し違った角度(癲癇との関連)などから語られている。
金沢 治
1951年、新潟県に生まれる。京都大学医学部を卒業。同大医学部小児科学教室に勤務。以後、国立静岡東病院、京都大学助手等を経て、カナダ西オンタリオ大学医学部に留学。国立西新潟中央病院小児科医長
目次
第1章 アメリカからきたLD・ADHDが日本を混乱させた
第2章 LDは精神遅滞とどう違うのか?
第3章 LDがもたらすもの、そのメリットとデメリット
第4章 LD・ADHDの診断のむずかしさ
第5章 LDの治療
第6章 LD・ADHDはこんな病気とまちがえられる
現今の医療体制、特に小児医師、や臨床医に対する地位や評価の低さ、またパラメディカル・スタッフなどの政府のバックアップの不徹底に対する著者の憤りが感じられる。
LD・ADHDに対する治療法というよりも、その症状の内容、社会的な現状、有り様、どのよう制度、対応が求められるかなど、この障害に対して理解を求め、また深めることに焦点をおいている。
見落とし
2005年7月15日母親と久しぶりに喧嘩した。
理不尽なことだったから、看過できなかった。
僕は、そういうとき、できるだけ事実を淡々と話してしまうのだが、それは、相手にとって思いやりもなく冷淡にうつる事もあるだろうなあ。
基本的に今は、母と僕は、親子であるとともに、一対一の対等な人間同士という考えの基に向き合うようにしているから、母のおかしい点は糾弾することもあるし、逆に僕が間違っていると納得すれば、修正し、過失を認めるようにしているわけだが、今回、母から、「今は私は、ぎりぎりなんだから、あんたも理不尽でもできるだけ笑い流してちょうだい」と言われてハッとした。
僕は、物事のやり取りの事実のみに注意して、母が仕事でのもろもろのストレスを抱えている事実を見落としていた。
よっぽどのことでない限り、些細なことで我慢すべきは、無職の僕の方だろう。愚痴のはけ口になれない家族は、家族とはいえないよな。
僕は大馬鹿だった。ごめんなさい。
僕は言葉を飲み込んで、自室に逃げるように篭って、眠った。自分が情けなくなったから。
理不尽なことだったから、看過できなかった。
僕は、そういうとき、できるだけ事実を淡々と話してしまうのだが、それは、相手にとって思いやりもなく冷淡にうつる事もあるだろうなあ。
基本的に今は、母と僕は、親子であるとともに、一対一の対等な人間同士という考えの基に向き合うようにしているから、母のおかしい点は糾弾することもあるし、逆に僕が間違っていると納得すれば、修正し、過失を認めるようにしているわけだが、今回、母から、「今は私は、ぎりぎりなんだから、あんたも理不尽でもできるだけ笑い流してちょうだい」と言われてハッとした。
僕は、物事のやり取りの事実のみに注意して、母が仕事でのもろもろのストレスを抱えている事実を見落としていた。
よっぽどのことでない限り、些細なことで我慢すべきは、無職の僕の方だろう。愚痴のはけ口になれない家族は、家族とはいえないよな。
僕は大馬鹿だった。ごめんなさい。
僕は言葉を飲み込んで、自室に逃げるように篭って、眠った。自分が情けなくなったから。
DVD コロムビアミュージックエンタテインメント 1999/10/21 ¥3,990
タブーを犯した司祭はどうなるのだろう。哀れな人間へと戻るのか?戻れば彼は神から救われるのか?ラストのシーンは救いか、それとも単なる哀れみなのか。
カトリックの司祭が男性への性衝動を抑えきれなくなるという、公開当時はローマ法王も抗議声明を出すほど物議をかもした問題作。スキャンダラスな分、展開としては喰い足りない部分もあるが、テーマ自体は斬新である。司祭だって人間。司祭だって様様な人がいる。宗教は人々の救済のためにある。しからば司祭は救済されないのだろうか?神に身をささげる聖職者もまた人間であることから起こる矛盾。神の前では、タブーに理由はない。神が定めたことだから、タブー。
グレッグが皮ジャンに着替えてゲイバーに出かけるシーンなどは、ゲイ映画としてはとくに目新しくはないものの、演じるライナス・ローチがあまりに清潔なイメージを保っているせいか、そのギャップが衝撃的だ。彼と一夜をともにするグラハム役はロバート・カーライルで、愛する相手へのもどかしさを切実に演じる。
司祭としての責任と自分の愛の本能に揺れるという主人公グレッグの葛藤だけでなく、父親から性的暴力を受ける少女の物語も並行して描かれ、メジャーの観客にも共感しやすい展開。双方の物語には、すべての人に愛と哀れみを与えるものだという、宗教の根源が共通点として浮かび上がってくる。監督のまっすぐな思いが貫かれた一作だ。
タブーを犯した司祭はどうなるのだろう。哀れな人間へと戻るのか?戻れば彼は神から救われるのか?ラストのシーンは救いか、それとも単なる哀れみなのか。
いわゆるひとつの、サンキュー
2005年7月14日 僕についてえっと、僕の強迫は、行動だけではなく、観念にも、強迫的な性質が根強く出ていて、そのせいで、知り合った当初は、仲良くなっても、僕を知っていくうちに、ギクシャクしたり、嫌われたりすることが多い。
つまり、僕には受け流せないギャグとか、譲れない信念めいたものがあって、そういう部分に抵触することにたいしては、受け入れられなかったり、自分の意見を曲げれなかったりするもんだから、他の人にとっては、和を乱すとか、雰囲気を掴めない、とか、僕のパーソナリティが固すぎるとか、まじめ過ぎると取られがちになる。
僕も信念に抵触するような話題になるのが辛かったりして、無意識に距離を取ってしまったり、話題に加わらなかったりするもんだから、だんだん疎遠になっていっちゃうんだと思う。
だから、僕は、最初友達になって、友達と友達を繋ぎ合わせて、いつの間にかその友達同士が仲良くなって僕は蚊帳の外という状況がよくあった。僕も皆もそのことをよく分かっていて、飲み会なんかで、僕はピエロだから、とか自虐的なこと言ったりしてたけど、ほんとのところ、この自分の性質は、社会でやっていくからには、治さなきゃならんだろうなと、結構切実であったりする。
僕は、面白い人間ではないけれど、理屈っぽくてめんどくさいかもしれないけれど、人の話は、しっかり受け止めていきたい。それだけはしていきたい。正面から向き合っていきたい。そういう人間ではあっていたい。
まあ、何が言いたいかといいますと、僕の強迫と付き合っていくのは大変だろうな。しんどいだろうな。自分自身もしんどいもの。
そんな僕にたいして、辛抱強く友人でいつづけてくれる人たちに、皆に、感謝。友達でいてくれて、ありがとう。
つまり、僕には受け流せないギャグとか、譲れない信念めいたものがあって、そういう部分に抵触することにたいしては、受け入れられなかったり、自分の意見を曲げれなかったりするもんだから、他の人にとっては、和を乱すとか、雰囲気を掴めない、とか、僕のパーソナリティが固すぎるとか、まじめ過ぎると取られがちになる。
僕も信念に抵触するような話題になるのが辛かったりして、無意識に距離を取ってしまったり、話題に加わらなかったりするもんだから、だんだん疎遠になっていっちゃうんだと思う。
だから、僕は、最初友達になって、友達と友達を繋ぎ合わせて、いつの間にかその友達同士が仲良くなって僕は蚊帳の外という状況がよくあった。僕も皆もそのことをよく分かっていて、飲み会なんかで、僕はピエロだから、とか自虐的なこと言ったりしてたけど、ほんとのところ、この自分の性質は、社会でやっていくからには、治さなきゃならんだろうなと、結構切実であったりする。
僕は、面白い人間ではないけれど、理屈っぽくてめんどくさいかもしれないけれど、人の話は、しっかり受け止めていきたい。それだけはしていきたい。正面から向き合っていきたい。そういう人間ではあっていたい。
まあ、何が言いたいかといいますと、僕の強迫と付き合っていくのは大変だろうな。しんどいだろうな。自分自身もしんどいもの。
そんな僕にたいして、辛抱強く友人でいつづけてくれる人たちに、皆に、感謝。友達でいてくれて、ありがとう。
読書 『くっすん大黒』
2005年7月14日 読書〔小説・詩〕
ISBN:416765301X 文庫 町田 康 文芸春秋 2002/05 ¥410
年前、ふと働くのが嫌になって仕事を辞め、毎日酒を飲んでぶらぶらしていたら妻が家を出て行った。誰もいない部屋に転がる不愉快きわまりない金属の大黒、今日こそ捨ててこます―日本にパンクを実在させた町田康が文学の新世紀を切り拓き、作家としても熱狂的な支持を得た鮮烈のデビュー作。始めて読んだ町田康の作品。その文体が斬新で驚いたのと、確かに面白くはあった。でも、内容をすぐに忘れてしまった。そりゃ、作者の思想も何もなく、ただ一人の無頼の日常を面白く、また奇妙に綴っているだけであるから、そっかあ、という感慨すらも生まれにくい。そういうジャンルの小説。むしろ、そこまで徹底して滑稽性と無意味性を徹底している点で、害のない妖怪、小説界の妖怪であると思う。そして妖怪が一つの人間のアイロニカルな象徴でもあるごとく、町田康の作品も、無意味という一つの思想、一つのすばらしき芸術の形であるように思う。
かたつむり そろそろ登れ 富士の山
2005年7月13日 僕の思ったこと人が自分のことをわかってくれない。
と、僕なんかももどかしさを抱いていたりなんかもしていたわけだが、よくよく考えてみると、それは当たり前のことなんじゃないかと思う。
自分のことは一番自分がわかっている。だけど、その自分が、自分とそして26年間生きてきたのにもかかわらず、まだ自分のことをわかりきれていない。もしかしたら一生わからないかもしれない。
一番わかるはずの自分が自分自身のことをわかりきれていないのに、他の人に、自分をわかってほしいと思うのは、他の人に対して、酷な話である。
だって僕は26年間自分とともに生きてきて、自分がわからないときがある。一日中、いっときも自分自身と離れるときがない僕自身がである。
だとしたら、それより、どうやったって、時間の共有が短くなる、家族、友人、その他の人たちに、僕という人間を理解してくれない、といったところで、そりゃあそうだろう、としかいえない。
事を急いてはいけない。僕は26年間かけて、やっとここまでは、自分のことを理解できるようになってきた。家族に、友人に、自分のことを理解してもらうのは、もっともっと長い時間がかかるのはあたりまえ。それを、26年間分の思いをひとたびに相手にぶつけて、理解してもらおうとするところに無理がある。相手も重さにつぶれてしまいかねない。
以前は、自分の奥底の、重たい思想をいきなり語ったりして、相手が辟易するのに憤慨したりしていたが、今考えれば、辟易するのも至極当然のことなんじゃないかと思えてきた。僕も自分自身を知るのに、まずは表層の、もしかしたら、自己欺瞞から入っていった。そして徐々に深部へと掘り下げていったのだから。
いきなり、深部から入るのは、過程を無視した行為なのかもしれない。
相手が自分のことを理解してくれていないからといって、もどかしく思ったり、憤慨したり、絶望したりするのは、時期尚早だ。
長い目で、見ていこう。相手に聞く耳があり、友人である限り、時間はたっぷりある。ゆっくりと、信頼をはぐくんで、少しずつ自分というものをつまびらかにしていけばいい。
一生かかっても自分自身が理解できるかもわからないように、一生かけて、理解してもらおう。絶望したり、残念に思ったりするのは、いまわの際までとっておこう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
☆彩さん
なんとなく、僕と考えが似ているなあと勝手ながら思ってしまいまして^^;、以前からちょくちょく覗かせていただいておりました。このたびお気に入りに登録させていただきました。よろしくお願いいたします。
と、僕なんかももどかしさを抱いていたりなんかもしていたわけだが、よくよく考えてみると、それは当たり前のことなんじゃないかと思う。
自分のことは一番自分がわかっている。だけど、その自分が、自分とそして26年間生きてきたのにもかかわらず、まだ自分のことをわかりきれていない。もしかしたら一生わからないかもしれない。
一番わかるはずの自分が自分自身のことをわかりきれていないのに、他の人に、自分をわかってほしいと思うのは、他の人に対して、酷な話である。
だって僕は26年間自分とともに生きてきて、自分がわからないときがある。一日中、いっときも自分自身と離れるときがない僕自身がである。
だとしたら、それより、どうやったって、時間の共有が短くなる、家族、友人、その他の人たちに、僕という人間を理解してくれない、といったところで、そりゃあそうだろう、としかいえない。
事を急いてはいけない。僕は26年間かけて、やっとここまでは、自分のことを理解できるようになってきた。家族に、友人に、自分のことを理解してもらうのは、もっともっと長い時間がかかるのはあたりまえ。それを、26年間分の思いをひとたびに相手にぶつけて、理解してもらおうとするところに無理がある。相手も重さにつぶれてしまいかねない。
以前は、自分の奥底の、重たい思想をいきなり語ったりして、相手が辟易するのに憤慨したりしていたが、今考えれば、辟易するのも至極当然のことなんじゃないかと思えてきた。僕も自分自身を知るのに、まずは表層の、もしかしたら、自己欺瞞から入っていった。そして徐々に深部へと掘り下げていったのだから。
いきなり、深部から入るのは、過程を無視した行為なのかもしれない。
相手が自分のことを理解してくれていないからといって、もどかしく思ったり、憤慨したり、絶望したりするのは、時期尚早だ。
長い目で、見ていこう。相手に聞く耳があり、友人である限り、時間はたっぷりある。ゆっくりと、信頼をはぐくんで、少しずつ自分というものをつまびらかにしていけばいい。
一生かかっても自分自身が理解できるかもわからないように、一生かけて、理解してもらおう。絶望したり、残念に思ったりするのは、いまわの際までとっておこう。
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☆彩さん
なんとなく、僕と考えが似ているなあと勝手ながら思ってしまいまして^^;、以前からちょくちょく覗かせていただいておりました。このたびお気に入りに登録させていただきました。よろしくお願いいたします。
映画 『地獄の黙示録』
2005年7月13日 映画〔洋画〕
DVD ジェネオン エンタテインメント 2002/09/26 ¥3,990
僕が観たときがあまりにも若すぎたのかな。そんなに、印象的な映画じゃなかったなあ。う〜ん、今の年になって、もう一度見てみれば、また感じ方も違うのだろうか。あのナパームはすごかった。
舞台は1960年代末のヴェトナム。ウィラード大尉(マーティン・シーン)は、ジョングルの奥地で王国を築いたとされるカーツ大佐(マーロン・ブランド)を暗殺する命令を受け、部下4人を引き連れてナング河を溯っていく。その過程でウィラードが遭遇するさまざまな戦争、そして人生の狂気。やがて彼はカーツと対峙し…。そうか、そんなにすごい作品だったのか。
フランシス・コッポラ監督(この作品よりしばらく彼はミドルネームをクレジットから省略)が己の映画生命のすべてを投入し、文字通り狂気の沙汰を繰り返した果てに完成させた戦争超大作。単にヴェトナム戦争ものというよりも、戦争そのものの本質や、そこから浮かび上がる人間の内面を鋭くえぐったものととらえた方がよく、そのクオリティは映画史のみならず、20世紀の芸術史に残るべきもの。
1979年度のカンヌ国際映画祭グランプリを受賞。
僕が観たときがあまりにも若すぎたのかな。そんなに、印象的な映画じゃなかったなあ。う〜ん、今の年になって、もう一度見てみれば、また感じ方も違うのだろうか。あのナパームはすごかった。
昨日の深夜(今日の早朝?)、NHKで集団自殺の番組が再放送されていた。
自殺者がネットで仲間を募り、出会った仲間と自殺に及ぶまでのメールのやり取りで、二人に共通していたことは、自己の価値というものを見出せなくなってしまったとうことだった。自分は、いじめられていた。自分は、みんなから嫌われている。最低なやつだ。こんな自分は、消えても誰も悲しまない。いても迷惑かけるだけだから、いなくなったほうが自分も楽だし、世の中にとっても良いはずだ。という思考に至っている。まあ、僕もそう考えた時期があったわけだからよくわかるけども。
人間は、他者との繋がりを求める生き物だと思う。
隠遁者というものがいるが、なぜ、山の奥に住まったりして、人間の社会から隔絶するのか。全き孤独を通そうと思えば、俗界でも充分になしえられるはずだし、わざわざ人里から離れる必要は、ないと思う。本当に孤独を嗜好しているとすれば、他者の存在に関する興味は持たれないはずであるから。山中に住んだりするということは、つまるところ、隠遁者であっても人の中では、しがらみを絶ち切れず、つながっていたい誘惑に抗いきれないという自覚に基づく選択であるように思う。
人間の欲する他者との繋がりの欲求とは、かくも強力なものなのだろう。
人が、本当に様様な煩悩から逃れるには、煩悩の実行が不可能な世界に自分を追い込むしかない。一方で、孤独を願い、またもう一方で繋がりも欲するのは人間の業であるから、その両方の可能性の中に身を浸している状態では、常に、両方の欲求との闘争という苦悩から逃れられない。
だから、まったき孤独を選ぶなら、人との繋がりが不可能な世界に自分を置いて、一種の諦念を請け負う覚悟が、繋がりという誘惑の苦しみを除去しうる道となる。
しかしそういう状況を自ら作り出せる人間は、やはり一つの並々ならぬ決意を実行するだけの強さ、あるいは、才能といっていいものを有している。
自分の価値を見出してくれる世の中の繋がりの中に安住しながらも、そのしがらみの疎ましさから、まったき孤独に憧憬をいたすことは、いわば幸せの中で更なる煩悩の完璧性、いきつくところは、自己の思うままになる世の中を欲する専制的思考であるが、これは実は多くの人間が思い巡らすマジョリティ的思考だと思う。
ともに自殺した二人の少年は、この思考を持つ人間に含まれない。
彼らは人との繋がりを欲しながら、それが可能な世界の中でまったき孤独を強いられた人間である。正しくは、孤独者ではなく、そういう思考を持つに至ったマイノリティであるのだが、彼らの主観としては、自分は仲間のいないまったき孤独者である。
孤独者ではないという実感を持つためには、概念だけではたらず、視覚に訴える何らかの証拠の顕現が必要となる。近くに似たような状況の人物、もしくはそういった状況にともに嘆き、憤慨し、理解を示すものがいるかどうかである。もし一人でも、いるなら、そこに繋がりが生まれ、自分の価値が見出され、想像力に富むものなら、一人に必要とされるならば他もありうるという風に敷衍して考えることもできる。そうした可能性があるだけで、それは救いである。そういう仲間は多ければ多いほど、やはり繋がりは強固になるだろう。
戦争になると、自殺率が著しく低下する。
これは国家という人間の集団が、戦争に勝利するという目的のために結びつき、自己の価値をそこに見出す最大の形態ではないだろうか。
以前何かの番組で誰かがいっていた、いじめられているものがいれば、彼らが集まり、一つの組織を作ればいい。この指摘はあながち的をはずしてはいないと思う。よりよく自分の理想を実現し、よりよく生きるために社会が、国家が形成され、その中でのそれぞれのより詳細な不具合の改善、理想の実現を目的として、組織が形成さえれるのであれば、黒人が、同性愛者が集まり、その差別と戦うのと同様、自己に価値を見出せないものが組織を作り、社会をつくるというのも、あってしかるべきであろう。
まったき孤独から、集団へ。集団になれば、そこに抗う力が生まれる。繋がりが生まれる。自己の価値を創出していける。
価値の見出せない人間が、自殺を決意した後に、仲間を求めるのでは遅い。それは自殺というベクトルへ直進する集団化である。
そうなる前に、受け入れる組織。小規模なものはあるかもしれないが、もっと大規模なものがあれば、価値を見出せない人間が、その眼前に同じような、苦しみを持つもの、同じような苦しみを持っていたものの社会を見たとき、そしてその中で、強力な繋がりを実感できたとき、彼らはきっと自殺という決断には至らないんじゃないかと、思った。
自殺者がネットで仲間を募り、出会った仲間と自殺に及ぶまでのメールのやり取りで、二人に共通していたことは、自己の価値というものを見出せなくなってしまったとうことだった。自分は、いじめられていた。自分は、みんなから嫌われている。最低なやつだ。こんな自分は、消えても誰も悲しまない。いても迷惑かけるだけだから、いなくなったほうが自分も楽だし、世の中にとっても良いはずだ。という思考に至っている。まあ、僕もそう考えた時期があったわけだからよくわかるけども。
人間は、他者との繋がりを求める生き物だと思う。
隠遁者というものがいるが、なぜ、山の奥に住まったりして、人間の社会から隔絶するのか。全き孤独を通そうと思えば、俗界でも充分になしえられるはずだし、わざわざ人里から離れる必要は、ないと思う。本当に孤独を嗜好しているとすれば、他者の存在に関する興味は持たれないはずであるから。山中に住んだりするということは、つまるところ、隠遁者であっても人の中では、しがらみを絶ち切れず、つながっていたい誘惑に抗いきれないという自覚に基づく選択であるように思う。
人間の欲する他者との繋がりの欲求とは、かくも強力なものなのだろう。
人が、本当に様様な煩悩から逃れるには、煩悩の実行が不可能な世界に自分を追い込むしかない。一方で、孤独を願い、またもう一方で繋がりも欲するのは人間の業であるから、その両方の可能性の中に身を浸している状態では、常に、両方の欲求との闘争という苦悩から逃れられない。
だから、まったき孤独を選ぶなら、人との繋がりが不可能な世界に自分を置いて、一種の諦念を請け負う覚悟が、繋がりという誘惑の苦しみを除去しうる道となる。
しかしそういう状況を自ら作り出せる人間は、やはり一つの並々ならぬ決意を実行するだけの強さ、あるいは、才能といっていいものを有している。
自分の価値を見出してくれる世の中の繋がりの中に安住しながらも、そのしがらみの疎ましさから、まったき孤独に憧憬をいたすことは、いわば幸せの中で更なる煩悩の完璧性、いきつくところは、自己の思うままになる世の中を欲する専制的思考であるが、これは実は多くの人間が思い巡らすマジョリティ的思考だと思う。
ともに自殺した二人の少年は、この思考を持つ人間に含まれない。
彼らは人との繋がりを欲しながら、それが可能な世界の中でまったき孤独を強いられた人間である。正しくは、孤独者ではなく、そういう思考を持つに至ったマイノリティであるのだが、彼らの主観としては、自分は仲間のいないまったき孤独者である。
孤独者ではないという実感を持つためには、概念だけではたらず、視覚に訴える何らかの証拠の顕現が必要となる。近くに似たような状況の人物、もしくはそういった状況にともに嘆き、憤慨し、理解を示すものがいるかどうかである。もし一人でも、いるなら、そこに繋がりが生まれ、自分の価値が見出され、想像力に富むものなら、一人に必要とされるならば他もありうるという風に敷衍して考えることもできる。そうした可能性があるだけで、それは救いである。そういう仲間は多ければ多いほど、やはり繋がりは強固になるだろう。
戦争になると、自殺率が著しく低下する。
これは国家という人間の集団が、戦争に勝利するという目的のために結びつき、自己の価値をそこに見出す最大の形態ではないだろうか。
以前何かの番組で誰かがいっていた、いじめられているものがいれば、彼らが集まり、一つの組織を作ればいい。この指摘はあながち的をはずしてはいないと思う。よりよく自分の理想を実現し、よりよく生きるために社会が、国家が形成され、その中でのそれぞれのより詳細な不具合の改善、理想の実現を目的として、組織が形成さえれるのであれば、黒人が、同性愛者が集まり、その差別と戦うのと同様、自己に価値を見出せないものが組織を作り、社会をつくるというのも、あってしかるべきであろう。
まったき孤独から、集団へ。集団になれば、そこに抗う力が生まれる。繋がりが生まれる。自己の価値を創出していける。
価値の見出せない人間が、自殺を決意した後に、仲間を求めるのでは遅い。それは自殺というベクトルへ直進する集団化である。
そうなる前に、受け入れる組織。小規模なものはあるかもしれないが、もっと大規模なものがあれば、価値を見出せない人間が、その眼前に同じような、苦しみを持つもの、同じような苦しみを持っていたものの社会を見たとき、そしてその中で、強力な繋がりを実感できたとき、彼らはきっと自殺という決断には至らないんじゃないかと、思った。
読書 『僕が日本を選んだ理由―世界青春放浪記〈2〉』
2005年7月12日 読書
ISBN:408747500X 文庫 Peter Frankl 集英社 2003/03 ¥620
少なくとも、まだ今の僕には、自分にテニスの天分がないから時間が惜しいと、きっぱりテニスを止めてしまうこともできないし、新聞も、まったく読まずに自分の興味の対象を絞り芸当はできないなあ。
限りないメリットを得ようとしたら、それだけあきらめなければならないもも多くなる。その覚悟というのもが持てるというのも、やっぱり一つの才能なんだろうなあ。
ところで、社会主義の国では、無職でいることは罪になるらしいね〜。ぎゃふん。
社会主義国ハンガリーからフランスへ亡命して3年。貧乏ながらも自由を手にし、数学者として希望にあふれていた1982年、ついに憧れの日本にやってきた―。日本女性との恋、世界の数学者たちとの交流、大道芸人としての成長、マスコミに登場する有名人へ。世界と日本を行き来するうちに、日本を深く愛し、定住を決めるまでの疾風怒涛の軌跡。書き下ろし。人に歴史あり。天才数学者のピーター・フランクル。彼は、自分の好きなものを悉く職にしている羨ましい人だけど、その影にはもちろんいろんな努力がある。でも、彼にとってはその努力も楽しくて仕方ないんだろうな。やっぱり羨ましい。彼はただ好きなものをがむしゃらに選んでいるわけではなく、好きでも自分に天分がないとわかれば、人生から取り除く。そんなことやってのけられるからこそ、残ったいくつかの分野で成功を収められたんだろうな。興味があった上での脅威的な集中力。これですよこれ。
目次
1 初めての日本
2 プラハ、数学での大成功
3 ロスへの出稼ぎ
4 ジンとの夢
5 馴染めなかったアメリカ
6 両親との旅
7 本格的な大道芸に
8 ハンガリーへの初帰国
9 親友ピシティと東欧の変貌
10 日本を選ぶ
少なくとも、まだ今の僕には、自分にテニスの天分がないから時間が惜しいと、きっぱりテニスを止めてしまうこともできないし、新聞も、まったく読まずに自分の興味の対象を絞り芸当はできないなあ。
限りないメリットを得ようとしたら、それだけあきらめなければならないもも多くなる。その覚悟というのもが持てるというのも、やっぱり一つの才能なんだろうなあ。
ところで、社会主義の国では、無職でいることは罪になるらしいね〜。ぎゃふん。
公務員終了節目会
2005年7月11日というほど大げさなものではまったくないのだが、今日、ともに公務員を目指していた友人と、久しぶり(か?)にカラオケにいった。
新しくできたカラオケ屋を覗いて見たが、高そうだったので、いつものカラオケ屋に。このカラオケ屋、フリータイムで、10万曲内蔵でジュースのみ放題一人400円。安いよね?これって安いよね。
フリータイムって何時間なのかよく分からなくて、かってに他の店と同じ4時間だと決めて今まで2時から6時までで出てきていたけど、今日レシートに注目してみたら、なんと6時間。
今まで2時間損していたわけか。でも二人で6時間。気力はあっても喉がつぶれそう。
今日は、終り2時間前くらいから、お互いの知ってる曲をとにかく二人で一緒に歌いまくった。つまり、一曲交替じゃないから、休憩なし、ぶっ通し歌いつづけ。多分今までで一番歌ったと思う。充実感あり。こういうのもありだな。と二人で納得。僕とその友人は、声質が似ているので、歌う歌手の傾向も似てくる。今日は、サザン縛り、チャゲアス縛り、ミスチル縛り、チェッカーズ縛り、福山雅治縛り、徳永英明縛り、とかで、とにかくお互いに知ってる曲を歌いまくる。
終ったら、ものすごく腹がへっていた。
飯や丼で新作のビビンバ丼が胃に染みた。カラオケってどんくらいカロリーつかうんやろか?
新しくできたカラオケ屋を覗いて見たが、高そうだったので、いつものカラオケ屋に。このカラオケ屋、フリータイムで、10万曲内蔵でジュースのみ放題一人400円。安いよね?これって安いよね。
フリータイムって何時間なのかよく分からなくて、かってに他の店と同じ4時間だと決めて今まで2時から6時までで出てきていたけど、今日レシートに注目してみたら、なんと6時間。
今まで2時間損していたわけか。でも二人で6時間。気力はあっても喉がつぶれそう。
今日は、終り2時間前くらいから、お互いの知ってる曲をとにかく二人で一緒に歌いまくった。つまり、一曲交替じゃないから、休憩なし、ぶっ通し歌いつづけ。多分今までで一番歌ったと思う。充実感あり。こういうのもありだな。と二人で納得。僕とその友人は、声質が似ているので、歌う歌手の傾向も似てくる。今日は、サザン縛り、チャゲアス縛り、ミスチル縛り、チェッカーズ縛り、福山雅治縛り、徳永英明縛り、とかで、とにかくお互いに知ってる曲を歌いまくる。
終ったら、ものすごく腹がへっていた。
飯や丼で新作のビビンバ丼が胃に染みた。カラオケってどんくらいカロリーつかうんやろか?
映画 『地獄に堕ちた勇者ども』
2005年7月11日 映画〔洋画〕
DVD ワーナー・ホーム・ビデオ 2005/03/25 ¥1,575
ヴィスコンティ自身が確か貴族の末裔だよね。だからいっそう切ないぞ。なんだか、もっかい見たくなってきたな。前見たときは、圧倒されてなんだかわからなく終っちゃったから。
頭に残ったのは、衝撃的で印象的なシークエンスの数々。
三島由紀夫絶賛かあ。うーん、それだけは、なんとなくよく分かるぞ。
ナチスが台頭してきた1933年のドイツ、ルール地方の製鉄王エッセンベック男爵が、その誕生日に支配人のフリードリッヒ(ダーク・ボガート)によって射殺された。すべては男爵の従兄アッシェンバッハ(ヘルムート・グルーム)の差し金であり、その後も一族の者同士、血と愛欲にまみれた争いが続いていく……。ん・・・んぐぐ・・デカダン。。。耽美。。。
『ベニスに死す』と『ルードヴィヒ』に挟まる名匠ルキノ・ヴィスコンティ監督のドイツ三部作の1編。ワーグナーのオペラ『ニーベルンクの指環』をヒントに、ブルジョワの崩壊と第三帝国の到来を重ね合わせながら、デカダンス色に満ちた映像美学が荘厳に繰り広げられていく。ヴィスコンティ好みのキャスティングや、モーリス・ジャールによる狂気と耽美をあわせもつ音楽の素晴らしさも特筆的。百聞は一見にしかずで、一度は見ておくべき、狂える名作である。
ヴィスコンティ自身が確か貴族の末裔だよね。だからいっそう切ないぞ。なんだか、もっかい見たくなってきたな。前見たときは、圧倒されてなんだかわからなく終っちゃったから。
頭に残ったのは、衝撃的で印象的なシークエンスの数々。
三島由紀夫絶賛かあ。うーん、それだけは、なんとなくよく分かるぞ。
終りの始まり
2005年7月10日公務員市役所試験。
今日ですべての試験が終り。
これで公務員というものに一区切りついた。
結局最後まで理系教科を克服することはできなかった。文系に生きるか。。。
ある人は、理系は文系を兼ねるといったけど、まさにそう思う。文系は理系が苦手な人のことをいうのかも。
まあ、これで公務員という言い訳もなくなり、僕は立派(立派でない?)ニートに定義される存在となったわけだかね。
実は、大学卒業してからずっとニートだったのかもしれないな。
だから、今度は僕はニート脱出が目標か。
なんでもいいから働きたい。
そんな欲求が出てきている。それは切迫感の裏返しなのかも。
強迫に向いた仕事。。。事務?営業?肉体仕事?
自分を鍛えたい。頭でっかちでは駄目だ。壁をぶちやぶれ。自分の壁を。
今日ですべての試験が終り。
これで公務員というものに一区切りついた。
結局最後まで理系教科を克服することはできなかった。文系に生きるか。。。
ある人は、理系は文系を兼ねるといったけど、まさにそう思う。文系は理系が苦手な人のことをいうのかも。
まあ、これで公務員という言い訳もなくなり、僕は立派(立派でない?)ニートに定義される存在となったわけだかね。
実は、大学卒業してからずっとニートだったのかもしれないな。
だから、今度は僕はニート脱出が目標か。
なんでもいいから働きたい。
そんな欲求が出てきている。それは切迫感の裏返しなのかも。
強迫に向いた仕事。。。事務?営業?肉体仕事?
自分を鍛えたい。頭でっかちでは駄目だ。壁をぶちやぶれ。自分の壁を。
読書 『プラグマティズム』
2005年7月10日 読書
ISBN:4003364015 文庫 桝田 啓三郎 岩波書店 1957/01 ¥693
合理論者と経験論者の論議、一神教と多神教、それらはそれらでそれぞれ真に違いなく、また偽でもある。それら一方を取ることになんの意味があるのか?なるほど、そういった論争に勝利することで得られる優越感などの意味においてであるなら、まさにそういった論争もプラグマティックでありうるだろう。
宗教を信じないものは、信じないという心情において無神論は真であり、有用である。しかし、それを絶対視できるのは、自分の内心のみにおいてであり、信者にとってみれば、いかなる宗教も偽ではありえなく、それが信者の糧となる限り、その意味において、宗教は限りなく有用で、それらが正当性を言い争うことはまったくもって無意味というほかない。現実とは、様様な真の集合体であり、それら一つ一つの真から、たの真を見たとき、偽に見えるというだけの話である。
人間は、無駄な知識を欲するのであれば、トリビアは、知識欲を満たす意味において、決して無駄ではないのだ。
とてもとてもポジティブな考え方。
プラグマティズムがどんな仕組みかを知りたいのであれば、前半だけで事足りると思う。
プラグマティズムは、もっともアメリカ的なものの考え方であり、今日のアメリカ資本主義社会とその文化を築き上げてきた基調である。本書は、このような考え方を初めて体系づけ、ヨーロッパの伝統的な思考方法を打破した点で不朽の功績をもつ。アメリカ的なものの見かたの核心は、じつにこの一冊に圧縮されている。生活に実用性を持つ哲学でなければ、その論争に何らの意味も持たない。
目次
第1講 哲学におけるこんにちのディレンマ
第2講 プラグマティズムの意味
第3講 若干の形而上学的問題のプラグマティズム的考察
第4講 一と多
第5講 プラグマティズムと常識
第6講 プラグマティズムの真理観
第7講 プラグマティズムと人本主義
第8講 プラグマティズムと宗教
合理論者と経験論者の論議、一神教と多神教、それらはそれらでそれぞれ真に違いなく、また偽でもある。それら一方を取ることになんの意味があるのか?なるほど、そういった論争に勝利することで得られる優越感などの意味においてであるなら、まさにそういった論争もプラグマティックでありうるだろう。
宗教を信じないものは、信じないという心情において無神論は真であり、有用である。しかし、それを絶対視できるのは、自分の内心のみにおいてであり、信者にとってみれば、いかなる宗教も偽ではありえなく、それが信者の糧となる限り、その意味において、宗教は限りなく有用で、それらが正当性を言い争うことはまったくもって無意味というほかない。現実とは、様様な真の集合体であり、それら一つ一つの真から、たの真を見たとき、偽に見えるというだけの話である。
人間は、無駄な知識を欲するのであれば、トリビアは、知識欲を満たす意味において、決して無駄ではないのだ。
とてもとてもポジティブな考え方。
プラグマティズムがどんな仕組みかを知りたいのであれば、前半だけで事足りると思う。
紙運転者。
2005年7月9日そろそろ、ペーパードライバー講習でも受けて、6年ぶりの運転を覚えなきゃならない。
運転が好きな人嫌いな人といるけれど、僕は、今んとこ嫌いはかな。
教習所時代も運転は、下手だったと思うし、楽しいというよりは、怖かった。特に夜。
僕は待つのも歩くのもまったく苦にならない人間だから、一生運転できなくてもいいのだけど、社会はそれを許してくれず、就職となればやはり車が運転できないと現代ではままならない。
僕の兄は、7年間運転してなかったけど、1ヶ月で再び運転できるようになった。運転ってそんなもんなのかな。できるだけ、命にかかわるようなことは避けていきたいんだよなあ(笑)事故率なんだかんだで乗り物の中で車って高いし。
自転車でも三度、大きな事故起こしたもんな。
車運転できるようになったら、車種にも興味持ったりするんかな?今んとこ乗れればなんでもいいんやけど。
村上春樹も、最初は運転なんtってスタイルだったのに、免許とったら、とたんに、車好きになったなあ。
運転が好きな人嫌いな人といるけれど、僕は、今んとこ嫌いはかな。
教習所時代も運転は、下手だったと思うし、楽しいというよりは、怖かった。特に夜。
僕は待つのも歩くのもまったく苦にならない人間だから、一生運転できなくてもいいのだけど、社会はそれを許してくれず、就職となればやはり車が運転できないと現代ではままならない。
僕の兄は、7年間運転してなかったけど、1ヶ月で再び運転できるようになった。運転ってそんなもんなのかな。できるだけ、命にかかわるようなことは避けていきたいんだよなあ(笑)事故率なんだかんだで乗り物の中で車って高いし。
自転車でも三度、大きな事故起こしたもんな。
車運転できるようになったら、車種にも興味持ったりするんかな?今んとこ乗れればなんでもいいんやけど。
村上春樹も、最初は運転なんtってスタイルだったのに、免許とったら、とたんに、車好きになったなあ。
映画 『死刑台のエレベーター』
2005年7月9日 映画〔洋画〕
DVD ポニーキャニオン 1999/11/17 ¥3,990
ノエル・カレフのサスペンス小説を映画化した、フランスの名匠ルイ・マル監督のデビュー作。土地開発会社所属の医師ジュリアン(モーリス・ロネ)は、社長夫人との情事の果て、ついに邪魔者の社長を殺害すべく完全犯罪の計画を企て実行に移す。しかし、その犯行後に乗ったエレベーターが故障して止まってしまい、彼は中に閉じ込められてしまう…。途中までは、焦りもせずに完璧な犯罪。よく計画されてんなあ、みたいな。ストーリーの妙。といっても王道だけど、シンプルイズベスト。ぶっとい筋が通っている感じがして、だからこそ、いつの時代に見ても楽しめる一品となっております。
アイデアの面白さと、それに見合った優れた演出手法により、息をもつかせぬ緊迫感で見せ切る、ヌーヴェル・ヴァーグの草分け的秀作であり、モノクロ画面の中、現代人の乾いた空虚な心理までもが巧みに描かれる。画面を観ながら即興演奏したというマイルス・デイヴィスのジャズ音楽も見事な効果を挙げている。ルイ・デュリック賞受賞。
保守的人間
2005年7月8日たまに僕がゲームをしていると、友達も母親もそういうイメージがないという。
確かに、僕は小学校まではよくゲームをしていたけれど、中学でテニスをしだしてから、ほとんどゲームというものをしなくなった。
大学に入ってからまたゲームを少ししたけど、ほとんどテニスゲームだった。そのうち、読書と映画にはまってゲームを止めてしまった。
ゲームって、自分で操っているように感じて、その実、すべて作られた筋の上をなぞってるんだなあ、なんて考えてしまったら、なんとなく興ざめしてしまっていたんだね。ひねくれてるなあ。
でも、最近またゲームしてみたら、それなりに面白かったりして。
もっと素直にいろんなことに感動していけるようになっていきたいね。
否定するより、肯定したほうが、人生楽しくなるはずなのに、そううまくできないのもまた人生。
とりあえず、ドラクエ6やってみよう。
確かに、僕は小学校まではよくゲームをしていたけれど、中学でテニスをしだしてから、ほとんどゲームというものをしなくなった。
大学に入ってからまたゲームを少ししたけど、ほとんどテニスゲームだった。そのうち、読書と映画にはまってゲームを止めてしまった。
ゲームって、自分で操っているように感じて、その実、すべて作られた筋の上をなぞってるんだなあ、なんて考えてしまったら、なんとなく興ざめしてしまっていたんだね。ひねくれてるなあ。
でも、最近またゲームしてみたら、それなりに面白かったりして。
もっと素直にいろんなことに感動していけるようになっていきたいね。
否定するより、肯定したほうが、人生楽しくなるはずなのに、そううまくできないのもまた人生。
とりあえず、ドラクエ6やってみよう。
ISBN:4102001034 文庫 高橋 健二 新潮社 1951/11 ¥340
出る杭は打たれるのは何も日本だけでない。特に秩序を重んじるところでは。
思春期を迎えた少年は、自我というものに気づきはじめ、社会とのギャップに苦悩し、本当の自己のありようを模索する。いわば自分の足で歩みを始める。たとえ、それが学校からの逃走であれ、独り立ちに他ならない。
生きるとは何か、他人に優越することでのみ生の実感をえていたハンスは、その感情が実は自分を苦しめているものであることを知る。
他者への優越の念が消え去ったとき、穏やかな感情とともに、自己実現の芽が仄見えた。
ひたむきな自然児であるだけに傷つきやすい少年ハンスは、周囲の人々の期待にこたえようとひたすら勉強にうちこみ、神学校の入学試験に通るが、そこでの生活は少年の心理を踏みにじる規則ずくめなものだった。少年らしい反抗に駆りたてられた彼は、学校を去って見習い工として出なおそうとする……。子どもの心と生活とを自らの文学のふるさととするヘッセの代表的自伝小説である。「デミアン」は、より内省的、「車輪の下」は、より詩情的。風景や生活の営みを感じたいならこっちかな。
出る杭は打たれるのは何も日本だけでない。特に秩序を重んじるところでは。
思春期を迎えた少年は、自我というものに気づきはじめ、社会とのギャップに苦悩し、本当の自己のありようを模索する。いわば自分の足で歩みを始める。たとえ、それが学校からの逃走であれ、独り立ちに他ならない。
生きるとは何か、他人に優越することでのみ生の実感をえていたハンスは、その感情が実は自分を苦しめているものであることを知る。
他者への優越の念が消え去ったとき、穏やかな感情とともに、自己実現の芽が仄見えた。
七夕だったのか
2005年7月7日今日は七夕だったのか。
願い事をしなけりゃならんな。
でもこれ書いてるの7月8日だから意味ないな。
笹のはなんてここ何年間見たことないかもしれんな。
どんな歌だったかな。
♪笹のはさらさら 落ち葉にゆれる お星様きらきら 金銀素直♪
完全に間違ってるな。
どんな物語だったかな。
織姫と彦星は幸せに暮らしていて、彦星が山へ芝刈りに行っている間に大洪水が起こり、川の増水で二人は分断されてしまった。一年に一度働いた金で渡り賃を払い船で織姫に会いに行く。
完全に間違ってるな。
ロト6で四億当たりますように。
願い事をしなけりゃならんな。
でもこれ書いてるの7月8日だから意味ないな。
笹のはなんてここ何年間見たことないかもしれんな。
どんな歌だったかな。
♪笹のはさらさら 落ち葉にゆれる お星様きらきら 金銀素直♪
完全に間違ってるな。
どんな物語だったかな。
織姫と彦星は幸せに暮らしていて、彦星が山へ芝刈りに行っている間に大洪水が起こり、川の増水で二人は分断されてしまった。一年に一度働いた金で渡り賃を払い船で織姫に会いに行く。
完全に間違ってるな。
ロト6で四億当たりますように。
映画 『シェルブールの雨傘』
2005年7月7日 映画〔洋画〕
DVD ソニー・ピクチャーズエンタテインメント 1998/12/24 ¥4,935
よい作品だけど悲しすぎる。悲しすぎるミュージカルはちょっと。。。と思うのは、僕の身勝手な偏見なのであるけれど、ミュージカル、というジャンルの響きは、やっぱりなんとなくハッピーエンドを期待したりしてしまう。
でも僕は基本的には、悲しい映画大好きなんだけどね。
フランスの港町シェルブール。傘屋の娘(カトリーヌ・ドヌーヴ)と自動車修理工の青年(ニーノ・カステルヌオーヴォ)が恋に落ち、結婚の約束を誓い合うが、やがて青年はアルジェリア出征に徴兵され、戦地で消息を絶つ…。主題歌有名ね。観たときこの映画のテーマだったかとひざを打つ。
若者達の悲恋を、全編の台詞を歌詞として歌で表現しながらドラマを進めるレシタティヴ式のミュージカルで描き上げていくという、名匠ジャック・ドゥミ監督による画期的な出世作。ミシェル・ルグラン作曲の流麗なメロディと、雨の港町に映える雨傘の色彩や風景などが見事にマッチし、観る者のロマンティシズムと哀愁の涙を誘う。若き日のカトリーヌ・ドヌーヴの、初々しい美しさも印象的である。カンヌ国際映画祭グランプリを受賞。
よい作品だけど悲しすぎる。悲しすぎるミュージカルはちょっと。。。と思うのは、僕の身勝手な偏見なのであるけれど、ミュージカル、というジャンルの響きは、やっぱりなんとなくハッピーエンドを期待したりしてしまう。
でも僕は基本的には、悲しい映画大好きなんだけどね。
めんどくささという脅威
2005年7月6日 僕の思ったこと人間は、辛さにではなく、めんどくささに屈するといってみる。
溺れるものは藁をもつかむ。
つまり、本当になによりも辛い状況であれば、他の瑣末にな感情は無にきして、僅かな、ほとんど無い可能性のためにも体を動かし、その辛さから脱却するためにもがくはずである。
この世の中には、いろんな辛さの種類以上に、辛さから脱却できるかもしれない可能性を秘めている方法が転がっている。藁は至るところにある。本を読むのも、映画を観るのも、病院行くのも、人と話すのも、仕事を変えるのも、住む世界を変えるのも、少なくとも溺れるものが藁をつかむ以上に辛さから脱却できる可能性を秘めている方法であると思う。
辛さから抜け出す方法が無いとは、そういった方法を全部試し終えてからでないと言えないことだろう。
しかし、人は、辛い状況であるのにもかかわらず、その状況から抜け出したいのにもかかわらず、そういったこと、つまり最後の藁まで掴もうと試みるものははなはだ少ない。
多くの人は、そうなる前に、「疲れた」とか、「そんなことしても意味がない」という言葉であきらめ、あきらめながら辛い現状に不満を漏らしながら苦しむのである。
辛さで命を落とす人がいるが、つまりは、辛さが命を落とすまでに窮迫なものであるということなはずだ。なのにそこから脱するために多くの可能性を試みようとしないのは、どうしてだろう。
確かに色々なことを、無駄かもしれないことを試すのは骨が折れ、エネルギーを使う。だけど、死を意識するほどに辛い人間は、それをするだけの価値のある辛さを有しているはずである。なのに、その可能性をしようとしないのは、「辛さ」に負けているのではなく、辛さから脱却するために労力を使う「めんどくささ」に負けているのではないだろうか。
つまり、人は、辛さから脱却するために方法を試すのは骨がおれめんどくさく辛い、その辛さは、元もとの辛さから脱却することを放棄してまでやりたくないほどめんどくさいものである。ということにならないか。
元もとの辛さ < めんどくささという辛さ
人は、動きたくないから死を選んだり、動くよりは辛さを愚痴りながら苦しむほうが実は楽で辛くないのかもしれない。
ドストエフスキーは苦痛は快楽だと視点転換したりしたが、辛さに身を任せることができれば辛さは辛さで無くなるわけで、「疲れた」という言葉は、辛さに身をゆだねることのできない人間が、辛さに抗うことに「疲れた」のか、はたまた辛さから脱却しようと色々なことを試す労力に「疲れた」のかであると思う。
つまり、人間にとっての最大の脅威は、「めんどくささ」なのかも知れない。
でも、辛さに屈するならまだしも、めんどくささに屈するなんて、なんだか滑稽だ。
死ぬのが、辛さを脱却するための方法と取る人もいるだろうが、少なくとも僕は死ぬのが何よりも怖いし、一番の労力を使う行為だと思っているので、死は、現状の辛さより勝る。だから現状の辛さを解決する解答にはならない。
それに僕の現状抱えている辛さが、めんどくささに屈するほど脆弱なものだと認めたくないので、やはり、僕に残された道は、めんどくさくても、現状の「辛さ」から少しでも脱却できる可能性にかけて、様様な方法を試していく以外にないんじゃないかと思っている。
溺れるものは藁をもつかむ。
つまり、本当になによりも辛い状況であれば、他の瑣末にな感情は無にきして、僅かな、ほとんど無い可能性のためにも体を動かし、その辛さから脱却するためにもがくはずである。
この世の中には、いろんな辛さの種類以上に、辛さから脱却できるかもしれない可能性を秘めている方法が転がっている。藁は至るところにある。本を読むのも、映画を観るのも、病院行くのも、人と話すのも、仕事を変えるのも、住む世界を変えるのも、少なくとも溺れるものが藁をつかむ以上に辛さから脱却できる可能性を秘めている方法であると思う。
辛さから抜け出す方法が無いとは、そういった方法を全部試し終えてからでないと言えないことだろう。
しかし、人は、辛い状況であるのにもかかわらず、その状況から抜け出したいのにもかかわらず、そういったこと、つまり最後の藁まで掴もうと試みるものははなはだ少ない。
多くの人は、そうなる前に、「疲れた」とか、「そんなことしても意味がない」という言葉であきらめ、あきらめながら辛い現状に不満を漏らしながら苦しむのである。
辛さで命を落とす人がいるが、つまりは、辛さが命を落とすまでに窮迫なものであるということなはずだ。なのにそこから脱するために多くの可能性を試みようとしないのは、どうしてだろう。
確かに色々なことを、無駄かもしれないことを試すのは骨が折れ、エネルギーを使う。だけど、死を意識するほどに辛い人間は、それをするだけの価値のある辛さを有しているはずである。なのに、その可能性をしようとしないのは、「辛さ」に負けているのではなく、辛さから脱却するために労力を使う「めんどくささ」に負けているのではないだろうか。
つまり、人は、辛さから脱却するために方法を試すのは骨がおれめんどくさく辛い、その辛さは、元もとの辛さから脱却することを放棄してまでやりたくないほどめんどくさいものである。ということにならないか。
元もとの辛さ < めんどくささという辛さ
人は、動きたくないから死を選んだり、動くよりは辛さを愚痴りながら苦しむほうが実は楽で辛くないのかもしれない。
ドストエフスキーは苦痛は快楽だと視点転換したりしたが、辛さに身を任せることができれば辛さは辛さで無くなるわけで、「疲れた」という言葉は、辛さに身をゆだねることのできない人間が、辛さに抗うことに「疲れた」のか、はたまた辛さから脱却しようと色々なことを試す労力に「疲れた」のかであると思う。
つまり、人間にとっての最大の脅威は、「めんどくささ」なのかも知れない。
でも、辛さに屈するならまだしも、めんどくささに屈するなんて、なんだか滑稽だ。
死ぬのが、辛さを脱却するための方法と取る人もいるだろうが、少なくとも僕は死ぬのが何よりも怖いし、一番の労力を使う行為だと思っているので、死は、現状の辛さより勝る。だから現状の辛さを解決する解答にはならない。
それに僕の現状抱えている辛さが、めんどくささに屈するほど脆弱なものだと認めたくないので、やはり、僕に残された道は、めんどくさくても、現状の「辛さ」から少しでも脱却できる可能性にかけて、様様な方法を試していく以外にないんじゃないかと思っている。