試しに、履歴書なるものを書いてみたりしているわけだが、書いていて、自分には、かなり不利な要素が強いことがあらためて散見される。

だってさ、大学卒業してから、公務員3年間目指してて、どうして今あなたはこの会社に面接にきてるの?っていう風に会社側は思うのは必然。
「あっ、いや、僕はですねえ、公務員頑張ったんですけどどうにも理系が苦手で、最後まで克服できなかったのですよえへへうふふ」
なんていったら、
「なるほど、君はそんな程度の情熱で公務員を目指してたわけか、根気も達成力もないやつ。ボツ」
なんてむげにされるのをどうにか食いとめなければならんわけで、それは結構思案のしどころだな。
そもそも、こっちだって人生の紆余曲折、艱難辛苦、波乱万丈(たとえ外面には出ていなくとも、内面的な)と言うものがあったわけで、しかしながらそれは、僕の場合強迫・アトピーと絡んでいるわけで、じゃあ、私の格闘人生を話しましょうやと話したところで、先方が、「おお、君はなかなか頑張ってきたではないかすごいえらい」とはならないところが日本社会。どうしても障害のことを出すと、それを逃げ道とか、弱さとかととりがちな今日の精神的根性的絶対主義。
しかし私は思うですよ、僕がたどってきたこの強迫、苦悩をなしにして、僕の人生は僕の思想は語れはしないと。
そして、それ故に、今の僕の生きるバイタリティもあるのだと。
つまりは、僕は何とかして、面接で、仕事で自分の強迫を弱みではなく強みとして武器に売りこもうと計画するわけで。
となった場合、こんなに苦しいよこんなに辛かったよといっても意味がない。私は僕はこういった背景のある症状から、ここまで回復できましたよこの情熱、達成力たるやいかに?ということをできるだけ、簡素且つ明確に相手に伝えなければならんわけで、それで相手が例の精神に対する偏見を全面に押しだしてきたときは、それを問いただし説得し、覆すと言う戦いの覚悟とともに、そのことで自分の情熱、突破力自発力とというものを発揮し結果的にそれがこいつはなかなか骨のあるやつだと言われるなんてな風にことが運べばいいんだけど、ぐぬぬ。

なにはともあれ、僕は大学時代のバイトで、しっかり真面目に履歴書書いて、そのことで何故か会社の社員に笑われた経験があるのだけど、履歴書きっちり書いたことによって笑われる社会が健全だと思う今の社会って明らかに偏屈だと思いますですよ。
ISBN:4167111020 文庫 井上 ひさし 文芸春秋 1974/01 ¥410
この一冊に収められた「四十一番の少年」「汚点」「あくる朝の蝉」の三作品は、井上ひさしの自伝的要素の濃い小説である。一家が離散し、仙台にあるカトリック系養護施設に入れられた少年時代の体験にもとづき、少年の持つ夢の切実さを描いた。いつも笑わせている著者の反面を見せて、ジーンと感動させる。
井上ひさしといえばひょっこりひょうたん島だが、そういった夢や、喜劇の根底に、生い立ちのリアルな悲劇が潜んでいるのだろうと思う。日常の何気ない滑稽さにも、そこにはそれを生じさせたリアルな現実、もしくは悲しみが起因していたりするのだ。だからこそ、人は、笑いを求め、夢を見るのだと思う。

夏の怪奇

2005年8月8日
といってももう立秋なわけだが。。。

今朝、相変わらず、眠れずに怒涛の読書をして、つかれた脳を少し安らげていた午前七時ごろ、突然ドアのほうがガタガタ!と音がしたと思うと、ピンポーンとなった。

うちのマンションは、一度入り口で、部屋番号を押して呼び出しをしなければ中にはいれないし、そういった行為なしにはいってこれるのは、ここの住民かうちの家族以外にはない。

しかし、どう考えてもこんな早い時間に母親が実家から帰ってこれるはずはなく、一体誰だと僕はドアを空けた。

!! 
誰もいない!?
ピンポンがなってから、僕がドアを空けるまではほんの僅かな時間、その間に姿を隠すなど考えられない。
僕は何だか不思議に思い、ドアの外に出て、あたりを見渡す。

確かに、人がいた気配はない。。。すると、エレベーターが下りてきて、僕の回に止まった。
!!
誰かがエレベーターのボタンを押さないとエレベーターは動かない。この回に止まったということは、誰かがこの回でボタンを押した以外考えられない。
僕は恐ろしくなった。だれだ!だれなんだ??

そのときである!!
ががが、っと何かがぶつかる音。
そして僕に体当たりしてくる何かの物体!!!
僕はビクっと振り向いた。

なんとそれは……っ交尾中の2匹のとんぼだったのだ!!
激しく暴れているとんぼ。犯人はこのとんぼだったのだろうか?

この2匹のとんぼの激しい欲動が僕のうちのドアを叩き、インターホンを押し、エレベーターのボタンをおしたというのか!?

まさか。。。そ、そんな。。。
DVD 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン 2001/12/21 ¥4,179
17歳の少年による殺人事件の裁判で、12人の陪審員中11人は有罪に投票するが、ひとりだけ証拠に疑問を持ち無罪を主張。白熱する議論と説得の中、ひとり、またひとりと無罪の方へ心が傾いていく…。
レジナルド・ローズのTVドラマの映画化で、テレビ版を演出した社会派の名匠シドニー・ルメットが監督。密室の中、決して名前が明かされることのない12人が、それぞれの心理状態や家庭環境によって評決が二転三転していくさまが実にスリリング。会話劇であるにも関わらず、ヘンリー・フォンダ、リー・J・コッブ、ジャック・ウォーデンなどなど、いぶし銀のような名優たちの言葉による戦いは、まさに映画的で必見である。なお、この映画に感銘を受けた三谷幸喜が、後に記した戯曲が『12人の優しい日本人』で、こちらは日本に陪審員制度が設けられたという設定の下、やはり殺人事件の審議を行う密室コメディ劇であった。
陪審員制度って無差別に選ばれるんよね、たしか。
描かれ方が、無罪こそ、真実であった、的なわけだけど、この映画は陪審員制度の恐ろしさも逆説的に示しているわけで、もし、こういった正義感に燃えた人物ではなくして、有罪を望む狡猾な人物であったとしたら、他の人たちの無罪判決が、真実の無罪が、一人の言動により、有罪へと転化されてしまう可能性もあるというわけなのだものね。
もし、一冊だけ本を選べといわれたら、僕は辞書を選びたいと思う。
でも、辞書っていっても様様なジャンルの辞書があって、あかん、やっぱ、一冊には決められね〜や。なんて現代思想辞典なんてものを読みながら思ったりしてる僕は相変わらず、目がぎんぎんに醒めて睡魔がちっとも襲ってきてくれないもんだから、朝ご飯食っちゃった。

朝ご飯食って血糖値上がったはずなのに今だ睡魔は表れてくれんのだけど、寝なければならんのよ。なぜなら、今日も車の運転の練習をしなければならんから。もがきもがき、どうにか、午前9時に眠りにつくことができたけど、起きたのは、午後3時。ここ2日、ほんと僕には珍しく6時間睡眠で全く眠くならん。

起きて背伸びしたら、母と約束していた、隣の部屋の大片付け。今日で終るはずもなく、これから週末のたびに、車の運転、大片付けの繰り返しになると思う。

掃除が終って、ちと考えてみた、明日は父親が仕事に出るので、バスで帰らんければならんし、運転の練習もできん。ならば明日までいることはバス代410円の損失である。しからば、練習も兼ねて、行きは父を助手席に乗せて僕がマンションまで運転し、僕はマンションに帰り、そして父に実家に帰ってもらうのでいいやんか。といった発見をしたので、急ぎ父親に話したところ、面どくさがっていたが、面どくささよりも経済的な問題を優先させたい僕は強行裁決にこじつけ、夕餉を食べてすぐ、不肖不肖の父を助手席に押し込み、街へと出立。

はは、楽勝。運転なんて楽勝だ。たのしたのし、といって油断していると、事故るのだバカモン。と父にしかられながらも、街までの運転、マンションまでの旅程を程なく無事に終えた自分は、調子に乗って車庫入れまで遂行し、そのまま父とわかれ、マンションに帰って、たまった新聞を熟読吟味したのち風呂に入って日記を書いている。
ISBN:4582852297 新書 岡田 尊司 平凡社 2004/06 ¥756
短絡的な殺人など、不可解な事件がなぜ起こるのか。アルコール依存や拒食症はなぜ止まらないのか。児童虐待、家庭内暴力がなぜ多くなっているのか。欲望をコントロールできない人がなぜ増えているのか…。これらは「人格障害」という病理から発しているのだ。現代人の誰もが感じ、直面している不安に、治療の最前線に立つ精神科医が答えを示す。
連載で書いた人格障害についての定義は、この本を参考にした。
著者は、小説家としても活躍しているそうで、どうりで、他のこういった系統の本に比べて、読みやすく且つしっかりとしていた。
自分の性格や、障害に苦しみを見出している人には、一読することをお勧めしたい本だ。
読んだ中で、いくつか、興味深かった部分を自分なりにまとめて、紹介させてもらってもいいかしらん。

・自我が未発達であると、「妄想・分裂ポジション」という幼い子どもに見られる特徴が出現する。これは、一人の人間にたいして、全く別人のような態度をとる。相手を、自分にとって都合がいいか悪いかの一部分だけで、判断し、良い悪いを含めた全体としての相手という観点を持たない。こうした一部分だけで対象と繋がる関係を「部分対象関係」と呼び、人格障害の特徴でもある、1か10か、全か無か、という二分法的な思考ともつながっている。
自我が強化され、自分の都合の悪い部分も受け入れられるようになるという、よい対象への同一化が進むと、より統合された「全体対象関係」へと移行する。

・障害へ立ち向かう者に援助しようと思うものがとるべき態度は、相手の都合や要求に対して、ある枠組みを超えることには、はっきりと「ノー」と言える、そうしたびくともしない一貫性である。「ノー」の領域、枠組みを持たずに、ただ、要求を次々と受け入れている状態では、人格障害の人は、どんどん不安定になっていくことが多い。明確な枠組み、頑丈でしっかりとした存在が、人格障害の人を落ち着かせ、信頼関係を築き上げていく。

・援助者は、受容と枠組みの中で、障害者が自分の内面や過去を紐解き、自分の問題に向かい合い、ごまかしや責任転化によってではなく、より適応的な生き方を手伝うことになる。
その作業は、最初は、根気強く、同じことの繰り返しであっても、何度も話し、輪郭をなぞっていく。そうした中で、障害者は徐々にその堂堂巡りから脱してくる。だんだんと、過去の自分の過去が断片的に明らかになっていき、断片的であったものが、繋がっていき、ついには、過去と現在が繋がり、自分のこれまでの人生を俯瞰できるようになっていく。自分の人生を外から見る客観性を身につけるわけである。
すると、現在抱える諸所の問題と、自分の過去の人生体験が、密接に絡みあったものであることに気づいていく。たとえば、親が原因だとわかった場合、そこで始めて親への反撥、憎しみといったものが芽生えてくる(これがいわば反抗期で多くの人が経験する自我の発露)。たとえば依存性障害者は始めて自分の意思で親の頼みごとを拒んだりする。だから、この反発という経緯は自我を形成する重要な要素である。

・人格障害を克服する最後の段階は、最終段階は、親を求めたり、誰かのせいにする気持ちから脱し、諦めと悟りの中で、自分自身で責任を引き受けることである。過去との和解。本来の自分との再会。

「十代の間に、こうした問題に向かい合う人もいれば、五十を過ぎてから、ようやく自分に向かい合える人もいる。それは早いとか遅いとかの問題ではない。人それぞれの人生があり、人それぞれの時期があるのだと思う。その人が変われるかどうかは、その人自身が自分に向かい合えるかどうかなのである。」

・・・最後にあげた括弧の言葉に、痛く感銘した僕であった。

父親を侍らせて。

2005年8月6日
タイトルがえらそうだよね(笑)

ということで、実家に帰りました。そして、帰ってすぐに、荷物を置いてから、父親に助手席に乗ってもらい、初心者マークを張ってから、運転の練習に行く。

運転し始めて感じたのは、教習所の車と違う。当たり前だけど、ハンドルが小さくて、アクセルが軽い。だから、慣れるまでは、スムーズに動かなくてギクシャクなった。

父親が、うるさく色々いってくるのは、いいとして、その忠告が教習所と全然違うから、戸惑う。
でも、30分くらい運転してまわったけど、良い感じだ。
運転が楽しくなってきた。
父親もだんだん何も言わなくなって、つまりそんなに問題もないということなのだろう。

夜は、母親の誕生日なのだけど夕食が焼き鳥と素麺と枝豆。なぜか飲み屋メニュー。ビールを久しぶりに少々いただいて、ささやかに祝った。ケーキではなく和菓子を食った。

夜は、相変わらず全然眠くならずに、黙然と読書に耽った。

今日は。。。

2005年8月6日
原爆記念日。

ということは、僕の誕生日の数字を反対にした日。

ということは、母親の誕生日w。

ということで、実家に帰ります。

家族で祝います。

これからしばらく週末は実家です。

父親の車で運転の練習をしなきゃならないからです。

月曜日に帰る予定です☆

んじゃねえ〜^^

眠れない^^;

2005年8月6日
神経質な僕は、就職のこと考えて、眠れない^^;
焦燥感が、妙なやる気と結びついて、向学心をあおり、脳がぶっ倒れる(?)まで、読書してやる、とか思ってしまって、理解もなにも考えずにただ字面を追っていた。

ヘンな物質が脳内に溢れているのか、昨日も三時間しか寝ていないのに、全然眠くなくて、目はさえていた。これが緊張感というやつか、この感覚を久しく忘れていた弛緩した僕の精神は、今、不安なくせに、その感覚にマゾヒスティックな喜悦の雄たけびをあげている。。。

でもさすがに朝眠ったけど(笑)
六時間で起きたから、平均十時間睡眠の僕にしては、まだ短い。
VHS ジェネオン エンタテインメント 1998/07/24 ¥15,750
不法侵入や窃盗をする冴えない郵便配達人ロイが出会う事件と倒錯した純愛を、サスペンスかつユーモラスに描く。97年カンヌ映画祭批評家週間最優秀賞受賞作。
味の薄いジュースのように、味気なく僕の喉もとを通りぬけていきました。といった感じで特に大きな感慨もなく見終わったので、特に大きな感想もない。。。
ハローワーク。
テニスクラブが終ってお昼を街で食べてそのまま行ってきた。

なんせ始めての就職活動だから、何がどうだかよくわかんない。
とにかく、パソコンで自分の興味ある職を探して、詳細を印刷した。
全体的に、大分は、職種が少ない。

一人5枚までしか印刷できないので、僕が印刷したのは、コピーライター、ホムペとかを製作するところ、そして警備会社。
自分の適性もなにも解っていないので、とりあえず、自分の興味のある仕事を中心に。

そして、若年者相談所に恐る恐るいく。
ここで、もう、申し込めば近日面接になるとか思いこんでたけど、全然違うみたいだね。まずは、なにか登録をしなければならないみたいだ。
書きながら、職員の方に自分のことを色々と話した。
最初は女性だったけど、5時の定時になるからということで、夜担当のおじさんに途中で代わった。とてもやさしい方だった。

相談所というだけあって、色々と相談に乗ってくれるんだね。まずは、仕事の話はせず、プライベートな話とかをした。僕の人間性を知らなきゃ、適正とかもわかんないってことなんだろうけど、何だか、簡単なカウンセリングみたいな感じ。

僕は、自分の障害のことと、それがもとでの若干の人間不信のこと、そして、今まで職歴はなく、公務員を目指していたけど、ひとまず一区切りつけて、就職することにしたことなどを話した。
職員のおじさんは、僕の印刷した紙をパソコンでさらに詳しく調べてくれた。即戦力を望んでいる会社とか、トライアルの制度があるとことか、色々解った。そして、興味の赴くままに面接ができるわけではないことも解った。僕は漠然と、ウェブ関係の仕事で記事を書いてみたいなんて思っていたけど、僕はパソコンのウェブを作れるスキルも作品もなく、厳しいらしい。製作は記事を書くだけじゃないもんね。
とにかく、どういった事をするのが必要とか調べたり、もっと自分の適正や、能力を探っていく必要がある。
職員のおじさんは、娘がダウン症なのだそうで、障害に対して、深い理解を示してくれた。僕の障害に対する思いや、その他のことに対する考えとかを話しまくった。1ヶ月後に、職業カウンセリングを受けることになった。
一人で、考えていると、塞ぎ込んでしまったりするから、できる限りここ二きてどんな話でもいいから、色んな職員と話すようにいわれた。
これから、頻繁にハローワークに赴こうと思う。どこか、関係のないところで自分の働きたい仕事を目指すのもてだし、自分の働きたい職場でバイトをしながら、実地の経験をつんで、その職を正職とする道を目指す手もあるなあ。なにより、僕はウェブ製作とか、雑誌編集とか、記事作成とか言ってるけど、その考え自体が、漠然としすぎていて、ほんとに自分がやりたいことかとかもはっきりと確信できているわけでもない。

夜、本屋に行って、色々な職種の本を読み、いくつか購入した。今はまだ、暗中模索って感じだ。
ISBN:4061975625 文庫 高橋 源一郎 講談社 1997/04 ¥1,260
詩人の「わたし」と恋人の「S・B(ソング・ブック)」と猫の「ヘンリー4世」が営む超現実的な愛の生活を独創的な文体で描く。発表時、吉本隆明が「現在までのところポップ文学の最高の作品だと思う。村上春樹があり糸井重里があり、村上龍があり、それ以前には筒井康隆があり栗本薫がありというような優れた達成が無意識に踏まえられてはじめて出てきたものだ」と絶賛した高橋源一郎のデビュー作。
高橋源一郎という作家をテレビで見るにつけ、どことなくきな臭さを感じていまう僕は、やっぱりこの作品も、何がなにやらわからず。わからない僕が悪いのです。んしゅん。
ただ瀬戸内寂聴のいった、物悲しいリリシズム、みたいなものは確かに感じた。でもやっぱりよくわからんよくわからんと、もがいていたが、アマゾンの他の人の評文の一説を読み膝を打つ。
高橋源一郎は、ゴダールが好きだった。なーるほど、ゴダールの映画を思い浮かべると確かにこの作品は、その系統だ。そして僕はゴダールの作品がわからない。だからこの作品も解らないんだな。なるへそ。
この年になってはじめての職探し。
心境は、今日記を書いている傍らでやっている電車男のよう。

職を選ばなければ、色々あるんだろうと思う。
でも、どうせ職につくなら、自分の能力や独自性が発揮できるような仕事につきたいとか思う。
でも果たして自分がそういった仕事に向いているかとか、できるかとか、それよりまず、面接におびえている自分が情けない。そういえば僕は対人恐怖で引きこもってたんだしと思い出す。

そう、まさに電車男。
僕は自分の人間性を否定されることを酷く恐れてる。
でもそんなんじゃいけない。耐性をつけなきゃ。
否定されたくないとは、自分のどこかに、否定されるような人間ではないとかいった自分に対する奢りがあるのだろう。でも、仕事に関しては現状僕はなんのスキルも持ち合わせていないそれこそ、否定されておかしくない人間なんだから、そのことを当たり前だと思わなきゃならないと思う。今の自分はそれでいい。問題は、その先、自分がどう変わっていくかを思い描かなきゃだ。

とびこめ〜とびこめ〜。
自分の壁は自分で破るしかないのだもの。相手の想定内の人間であろうと思うな。想定外であることを恐れるな。そのことで自分が否定されるなら、それから、相手の想定内の技能を身につければいい。身につけた暁には、想定外と合わせれば、もともとが想定内の人間より、大きな人可能性を秘めているはずだ。独創は想定外の部分に秘められているんだ。始めから否定されない人間は、その相手の想定内にだけ安住して、その先の成長を見いだしずらい。
始めは、荒削りで、不完全であるこそ、伸びる可能性があると思おうじゃないか、自分。

とびこめ〜とびこめ〜。とにかくさ。
【Cグループ】
『強迫性人格障害』

物事に決められた秩序があり、そのとおりにすることが最良だと信じている。それは日常のこまごまとしたことから、道徳観に至るまで、広く及んでいる。
生活自体を楽しむよりも、自分の秩序ややり方を維持することのほうにエネルギーが注がれる。

完璧主義であり、手を抜いたり、いい加減にすることができない。
細部にこだわりすぎるあまり、肝心要の部分が疎かになったり、期限に間に合わなくなったりする。
仕事中毒の人にこのタイプが多く、仕事に夢中で、何時の間にか心や体に無理がかかっていることに気づいていなかったがために、心身症や鬱を引き起こしたりもする。

基本的には、道徳的な倫理観の持ち主が多く、義務や責任を重んじ、律儀で真面目である。
しかし、あまりにもそうした義務感にとらわれているために、周囲からは、堅物扱いされ、煙たがられたりすることもある。
そうした問題は、本人だけでなく、周囲にも、自分の基準を求めようとしがちなためである。
DVD ジェネオン エンタテインメント 1998/02/25 ¥4,935
オーストラリア出身の現役ピアニスト、デヴィッド・ヘルフゴットの半生を映画化したもの。本作で聴かれる演奏の大半はヘルフゴッド本人によるものだ。
デヴィッドは、幼いころからの父親の過剰な愛情と厳格なレッスンのもと、ピアノに打ち込んでいた。しかし父親の過剰な愛情に耐え切れず、デヴィッドはついに勘当同然のかたちで家を出てしまう。イギリスの音楽学校に留学したデヴィッドは、コンクールでラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」に挑戦することを決意する。この曲は難関中の難関。と同時に父親との思い出の曲でもあった。日夜練習に励んだ結果、デヴィッドは決勝で見事に弾きこなす。しかし、拍手をあびながら倒れ、以後精神に異常をきたしてしまう・・・。
デヴィッドの青年時代を演じるのはノア・テイラー。彼は当時27才だったが、持ち前の演技力で見事18才のデヴィッドを演じきった。成人役を演じるたジェフリー・ラッシュは本作でアカデミー賞主演男優賞を受賞。監督は『ヒマラヤ杉に降る雪』のスコット・ヒックス。サンダンス映画祭グランプリ受賞。
実はこれ結構思い入れのある映画。まだ映画を観始めた当初、ハリウッド好きの友人と一緒に観に行って、単館系の、インディペンデント作品へ開眼させてくれたきっかけの映画。観た後友人は、「こういう映画も観なきゃならんなあ」なんて言っていたっけ。その後、大学に入学して、心理学の授業で取り上げられて、レポートを書いたりもしたから、合計三回くらい観てるなあ。その見るも無残なレポートはまだ取ってある。
父親の息子への屈折した愛し方が、自分の父親とダブるんだよなあ。現役のピアニストの半生なので、機会があれば、コンサートに行ってみたいかも。
昨日見た、悪夢・・・

公務員学校に僕は通っていた。そこで友達になったm君。
僕は最初彼ととても仲がよかった。

日々を送るうちに、僕達には色んな仲間が増えていった。その内の一人のn先輩。彼は自分がいかに人を大事にするかと切々と語っていた。僕は彼を信頼した。
しかし、彼の行動に徐々に矛盾を感じ出した。彼は露骨に、人によって態度を変えるのだ。ある日僕は避けられていることをしった。それは彼の言動との矛盾だった。そしてそのことに彼は気づいていないかのようだった。僕は彼にそのことを指摘した。許せなかった。僕とn先輩との関係は崩れた。
だが、それだけでは終らなかった。
次の日から、僕と仲の良かったm君までも態度が豹変したのだった。
僕ははじめそんなのは嘘だと思った。しかし、その態度は誰の目にもあからさまだった。
しばらくの間は、僕はそのような冷遇にさらされながらも、仲の良い集団の中で友人を装っていた。
しかし僕の精神は徐々に蝕まれていき、ついには、耐えられなくなった。ある百円ショップへいつもの集団へ行ったおり、二人きりになるのを見計らい、僕はm君に小声で、「なぜ僕を無視する?」と問い掛けていた。
m君は僕の顔を見て苦りきり、無視して売り物を物色する。
そんなやり取りがしばらく続いた後、気がつけば、僕は涙ながらにm君の襟首を掴んで、声を張り上げていた。
「僕が何をしたんだ!」
赤子のように泣き叫び、声にならない声で、まるで、“無視しないでくれ”と哀願する様に訴えていた。うすうす感じていたであろう、他の友人たちは見てみぬふりをする。
だが、僕とm君のやり取りに向けられた視線を一人だけ感じた。
n先輩だった。その視線は、蔑みとも、嘲笑ともとれる、冷たいものだった。
わかっている。僕はもうm君の親友ではない。親友には戻れない。
そしてn先輩は、m君の親友になったのだろうことも。
僕の知らないうちに、そういう盟約が交わされたのだ。

叫んだときには、おそらく僕はもう関係の修復など望んではいなかったのだろう。僕は一つの疑問、“僕が一体何をしたのだ”ということ、その一点を知ることにのみ執着していたのだ。

m君は、襟首を掴んだ僕の手を振り払い、履き捨てるように言った。
「お前の人を思いやらない、その態度だよ」

百円ショップを出ていくm君の背中で僕は呆然と立ちつくす。
訳がわからなかった。思いやりがないのが僕だって?だから、n先輩は僕を避け、m君はn先輩の言うことを真としたのか?
「お前がn先輩に見ていたものは、お前自身なんだ」
混沌とした概念から一つの言葉が判然として浮かび上がる。
あれほど嫌悪した矛盾。その矛盾を抱えていた自分。僕は、n先輩の矛盾を受け入れられなかった。同様にm君もn先輩も僕の矛盾を受け入れないのだ。
彼らが取った「疎外」、という行動は僕にとって不可解であった。彼らにとっては、僕が取った「指摘」、という行為が不可解だったのだ。いや、対象を指摘し明確化する分だけ、僕の取った行動のほうが罪深かったと彼らは感じたのかもしれない。
僕には、方法において、どちらが罪深いかを図ることはできない。ただ、矛盾を受け入れられないという意味において、僕と彼らの原因は同一である。そしてそれがまた矛盾を孕むのだ。

ただ、一つ確実にいえる事は、僕は、疎外されつつも曖昧な関係性にあった集団から、今や、完全に切り離された、ということなのである。
m君、n先輩含め、僕が仲間「だった」集団は、今や、指貫ほどの小ささに遠くなり、背中を見せ、僕のほうを一顧だにふりかえる者はいない。
僕を待つものは一人もいない。

・・・という夢を見て、怖かったあ。汗びっしょり。
これは、過去の僕の姿であり、現在も僕の芯に存在する脆弱な自分であると思う。その状況が怖かったのではなく、潜在的に自分が何を恐れ、何に抗っているのかということを、夢ってのは赤裸々に、しかも容赦なく突いてくるから、怖いよね。自分がこういう自分を持っていて、それがかなり根の部分の自分だということはすでに解っているけど、こうやってあらためて、示されたりすると、かなり辛いよね。でもこういった夢を見るってことは、僕の改善が今だ皮相的な部分でしか達成されておらず、問題は厳然としてまだそこにあるという証しなのであって、そのことを再確認できたので、悪夢だけど、有益だったと思おうっと。
ISBN:4043777019 文庫 町田 康 角川書店 2004/12 ¥460
許さん。復讐の鬼と化した俺は三年間洞窟にこもって本稿を書き綴った。
約束の場所に行ってもおらず、携帯に電話してもつながらない記者。撮影現場で目もあわせず、紹介されても挨拶もろくにできないヘア&メイク。などなど以下延々と続く。鞭無能な各種マスコミ、業界人へ怒りの町田節!
これは果たしてエッセイなのか小説なのか?一応小説と書いてあるから小説なんだろうな。でもこれは明らかにエッセイ小説、事実の脚色っぽいな。そもそも町田康の作品は、小説とエッセイに内容の違いはあんまりないんだよね。長いか短いか、第三者のことを書いてるか自分のことを書いてるかの違いだけで。
先先日の焼肉のせいで、要らぬ体力まで蓄積してしまい、目がぎんぎんに醒めてしまって、眠れず、おかげで、またも生活習慣が崩れてしまい、昼過ぎに起きた僕。

ぎゃあぁ、あぎゃあ、と咆哮しながら汗だくなって起きたのは、居間のソファ。そうか、昨日は、ソファで寝転がってテニスのビデオ見ながら読書しようとしてるうちに眠ってしまったのだった。

冷房もつけず、蒸し風呂のごとき居間で、僕は悪夢を見た。
悪夢と見ると汗だくになる。いや、汗だくになったから悪夢を見たのかな。足元に枕。きっと昨夜、妖怪枕返しが現れたんだ。言う事聞かない悪い子にゃ、夜中迎えに来るんだよ。げっげっげ♪

悪夢は容赦ない。悪魔のように全く容赦ない。起きたら頭がくらくらして脱水症状みたいになっていたので、机の上においてあった生ぬるくなった水に喉を鳴らし、ようやく人心地ついて思ったのは、普段眠らない場所で、眠るものではない、ということ。
【Cグループ】
『依存性人格障害』

物事を一人で決められず、常に周囲の相槌や肯定を求め、自分の考えというものを曖昧にしかもたない。周囲にあわせていることが、自分の気持ちだと勘違いしている。

自己評価が低く、相手に嫌われたくないとか、認めてもらおう望むがために、自分が本当に望んでいないことでも受けてしまいがちになり、誰か頼りになる人を欲する気持ちが心の隙となり、セールスや宗教、異性の甘言などに、あらがえなかったりする。

こうした傾向を助長してきたと考えられる原因として、親の過保護で、親がなんでも決めてきたことにより、自主性を削がれたり、もしくは、自己愛的で横暴な親の顔色を伺いながら子ども時代を過ごしたことなどが考えられる。

アルコール依存症の親も持つ人や、アダルト・チルドレンにもしばしばこのタイプの特徴が認められる。

回避性と似ているが、行動に消極的な回避性と違い、依存性の人は、一人でいることが苦手で、耐えず他者や自分を紛らわす誰かが必要なため、割合積極的に行動する。

断ると、嫌われてしまう、見捨てられてしまうという思いこみから、ノーということができない。親がその人の能力や自主性を認めず、抱え込んだり、支配してきたために、誰かにすがらないと生きていけないと信じているのだ。
親の保護を失うことは恐怖であり、そうした親との関係が、他の人との間でも再現される。
DVD ワーナー・ホーム・ビデオ 2005/04/22 ¥1,500
スティーブン・キング原作のホラー小説を、鬼才キューブリック監督が映画化した問題作。雪に閉ざされたロッキー山上の大ホテルに、管理人としてやって来た小説家とその家族。しかしそのホテルには、前任者が家族を殺し、自殺するという呪われた過去があった…。
惨殺された双児の少女の亡霊、エレベーターからあふれ出る血の洪水など、ショッキングなシーンを織り交ぜながら、狂気の世界に取りつかれた人間の心理的恐怖を描き、大きな論議を呼んだ。
人間が変わっていくさまがなんとも、こう。。。
映画として、不自然なところもあるんだけど、まあ、恐怖を上手く出してるなあと。人間の狂気ほど恐ろしいことはないということなのだろうかなあ。

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