VHS ポニーキャニオン 1993/05/21 ¥3,873
浮浪者チャーリーは生活のため職安に出かけるが、周りの連中との競走に敗れ、職は決まらずじまい。ふて腐れる彼の前にやがて野良犬同士のケンカが始まる。その中でやられそうになっている一匹の犬に自分と同じ姿を見出したチャーリーは、矢も楯もたまらずその犬を助け出し、以後彼と犬との共同生活が始まって行く……。
 比較的初期のチャップリン映画だが、ドタバタ喜劇の中に貧窮のつらさをにじみ込ませる辺りなど、笑いにペーソスを織り込む独自の作風はこの作品で誕生したと言われている。その意味で、後年の諸名作の原典と言っても差し支えはないだろう。後に音楽(勿論作曲は彼自身)を付け加えたサウンド版が作られているが、ここでもオープニングを悲劇的に盛り上げたり、又犬を助け出すシーンでの効果的な使い方などに、“音楽とアクションがコミックです”という彼の信条が伺え、興味深い。
いぬいぬいぬいぬいぬ。▼・。・▼」」」」ーワンワン♪
今、真面目に書きたい内容が4つくらいあるんだけど、それを書こうと思ったら、日記に2時間くらいかけなきゃいけないんで、生活サイクルが狂っちゃう。そのエネルギーは今は、試験のほうに温存していて、また暇が出来てから書くか、それとも、毎日少しずつ書いていって、完成させるか、で悩んでる。

今日も、ある議題を書いていたんだけれど、途中で構成に迷って、書くの止めちゃった。芋づる式にどんどん出てくるときは楽なんだけど、今日は、そういう日ではないみたい。途中まで書いたやつはしっかり保存してるけれども、やっぱりしばらくは味噌にもくそにもならんことを書いていくことになるだろうなあ。とかいって、明日明後日にも書いてたりして(笑)
DVD ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン 2002/11/08 ¥4,179
地球探査に訪れたものの、ひとり置き去りにされてしまったE.T.(地球圏外生物)が、10歳の少年エリオット(ヘンリー・トーマス)ら兄妹と知り合いになった。しかし、そこにNASAの追跡の手が及んでいき…。
宇宙人と地球人の心の交流をテーマにスティーヴン・スピルバーグ監督が描いた、映画史上に残るSFヒューマン・ファンタジーの大傑作。アカデミー賞では作曲・音響・音響効果編集・視覚効果の4部門を制覇している。初公開から20周年を記念して、スピルバーグは未公開シーンを加えたり、少年たちを追う警察の持つ拳銃をCG処理で削除する(子どもたちに悪影響を及ぼすなどの理由)など諸所の変更を施した特別版を製作。初公開版よりもE.T.の表情が豊かになり、一段と内容の濃いテイストを楽しめるものに仕上がっている。
僕ETに似てるっていわれてたんだよね。他にもミニラとかグレムりンとか。。。人間はいないんかい!あっ、いた!メクダシカリル。。。
そんな僕の顔を知ってる人はともかく知らない人はご想像にお任せしといて、さて、この作品にあれこれいう必要は無いんじゃないかなあってくらいな有名作だからあれこれいいません(笑)みんな人差し指を一度は合わせたことがあるはず。
僕って力抜いて打つこと出来ないんです。って、テニスのことね。
力抜いて打つと、どっかにぶっ飛んじゃうんです。
だから、みんな僕のことハードヒッターだねーっていうけど、違うんです。思いっきり打たないとボールがちゃんと飛んでいかないから。
これ結構深刻な悩みで、何で僕は軽く打ち返すことが出来ないんだろう。。。コーチにも相談してるんだけどね。ようは、僕の打ち方がボールを運ぶって打ち方ではなくて、ボールをこするって打ち方だからなわけで、擦って回転かけるにはある程度スピードつけないといけないんであって、それをずっとやってるうちに軽く打てなくなってしまったんだろうな。軽く打ったら、回転かからなくて、ネットに引っかかっちゃう。僕のうち方って右足を軸にして打つから、体重移動じゃなくてオープンスタンスで回転して打つうちかただから非常にスタミナの消耗も早いし、やっぱり今後の課題はいかに軽く、安定感のある球を打てるかだね〜。まあ、ほんとはグリップを浅く握れば問題は解決なんだけど、それじゃ僕のプレースタイルが根本的に変わってきちゃうわけだからいやだし。やっぱり、もっと下半身を強化しなけりゃならんということですか!じゃあ、家で、ひょこひょこスクワットやら、非常階段をわさわさ昇ったりしましょうかね。暇なときに。
まあ、足が筋肉痛にならなくなったからそれなりにスタミナはついてきてるんでしょう。うーん、マニアックな話しちゃったなあ^^;

テニスの日は昼食食って、そんまま喫茶店で、読書と勉強。
とってもいい場所を見つけて、いつもそこに座ってるけど、とってもはかどるもんだから、テニスクラブ以外の日もここに勉強しに行こうかなあ。
ISBN:4102063013 文庫 野崎 孝 新潮社 1989/05 ¥460
豪奢な邸宅に住み、絢爛たる栄華に生きる謎の男ギャツビーの胸の中には、一途に愛情を捧げ、そして失った恋人デイズィを取りもどそうとする異常な執念が育まれていた・・・・。第一次大戦後のニューヨーク郊外を舞台に、狂おしいまでにひたむきな情熱に駆られた男の悲劇的な生涯を描いて、滅びゆくものの美しさと、青春の光と影がただよう憂愁の世界をはなやかに謳いあげる。
ギャツビーつけて〜カッコつけて〜♪って宣伝が前にあったなあ。
フィッツジェラルドの放蕩生活は日本で分類すれば無頼派になるのかしらん。そんな彼自身の投影としてのギャツビーと、もう一人の自分、冷静にそんな自分を見詰める存在としてのニック。軽蔑しつつも信頼の情を寄せてしまうニックの思いは、フィッツジェラルド自身の思い。てか、彼は自分のそういった二面性に気づいてるからこそ、この小説が作られたわけだし。これは、彼の内面を描いた小説なのだと思いまふ。。。
VHS ソニー・ピクチャーズエンタテインメント 1996/12/21 ¥2,528
黒人初のアカデミー主演賞受賞俳優であるS・ポワチエの、絶頂期の頃に製作された学園ヒューマン・ドラマ。就職難に喘いでいた通信技師のサッカレー(ポワチエ)は教師の口をみつけ、ロンドンの下町にあるノース・キー中等学校に着任する。しかしその学校は下町ということもあって、さまざまな問題を個々に抱える不良生徒ばかりの学校だった。サッカレーは最上級クラスを受け持つが、初めての授業から何かに付けて反抗する生徒たちにうんざりし、早く技師としての仕事を探そうとするのだった。しかしある日、生徒たちのいたずらの酷さに爆発した彼は、その時から悪ガキどもを生徒ではなく一人の大人として扱い、人間としての生き方を学ばせようと型破りな授業を開始するのだった。始めは戸惑う悪ガキ達も彼の知的で誠実な姿に感化されていくのだったが……。ポワチエの好演と生徒たちとのさまざまなエピソード(彼の作品らしく人種問題もしっかり有)が爽やかな感動を与えてはくれるが、演出自体は大味で、ストーリー展開も型通りで単調気味なのは難。95年に続編TVムービー「いつも心に太陽を2」が製作された。
いつも心に太陽を〜描いて歩き出す〜♪って岡村孝子の歌があったっけ。この先生、決して正しい完全な先生ではない。スパルタっぽいし厳格だし。なぜこれほど悪がきたちが慕いだすのかわからんところが、逆にミステリアスなリアルさをかもし出してよい。まあ、この先生は、古きよき、昔の頑固な保守的な先生なのだなあ。この頃の悪ガキって、今じゃあ、悪がきの部類に入るのだろうか?。。。

まず箱を作る

2004年6月14日
僕は、もともと、問題集みたいなので、問題をやっていくのって苦手なので、よっしゃ一発基礎本を読破してやろうじゃないかって、行政法の本を一から読み始める。試験のための勉強って、実は効率がいいようで、よくない気がする。しっかり記憶に定着させるには、時間がかかってもやっぱり、具体的につめていくのが一番でしょう。基礎本で大枠作っとけば、瑣末なことやるのも、効率は、断然違うし、何より、試験が終わっても一生残る、ほんとの知識となってくれるんだもんね。芸術だって、絵画や音楽の題名なんて、観たり聴いたり実際にしないと覚えられないって。ちなみに、観たり聞いたりしなくて、その名前だけ知ってても、それはほんとの教養とはいえないと思う。だから、試験で、教養試験なんて、ほとんどがほんとの教養を問う問題じゃないと思ってる。とはいえ、暗記も必要だし大事なのだけど、暗記する意味のある問題に限ってはそうであって、暗記すること自体に意味の無い問題があまりにも多すぎるってことを言いたいんだよね。

ということで、実家に長いこと、開かれずに埋もれていた、絵画図鑑や、母親が買って封も開けていないクラシックCDが役に立つってわけだ。ほんでもって、その他の教科も、単語の暗記ではなく、まずはその総体的な概念を形作ることからはじめていくことにする。
今更って?確かに、今年はもう間に合わないけれど、長い目で見てこっちのほうが確実に力になると踏んだ僕なりの選択なのだ〜。
DVD ジェネオン エンタテインメント 2000/01/25 ¥4,935
『一日の行楽』は、中産階級の休日を皮肉った短編。珍しくチャーリーが一家の主を演じている。チャップリン自身によればスランプ時の作品とのことだが、前半の遊覧船シーンでは、非難の声も出そうな悪ノリギャグが満載。後半もチャップリンお得意の動きの芸で見せる。71年にチャップリン自身が再編集し、音楽をつけたサウンド版である。
一日の行楽〜らくらく。こうらく、歌麿、菊蔵です。

マルサの男

2004年6月13日
枕が違うと眠れないのよん。
ということで、深夜にポテチとドデカミンって炭酸飲料飲む。寝る前に、こんなもんくってて、太りすぎを気にしてても自業自得。ギャフン* ・・ ・・(o_ _)o コケ

だいいち、ホテルの蒲団って、薄いくせに、なんか圧力が強くて、体に密着しているようで暑い。そうなのだ、暑い。もがき苦しみ、ついには寝巻きを引っぺがし、トランクス一枚で、ようやく、快適な睡眠ってほどでもなく、3回ぐらい起きてしまったのやけども、どうにか浅い眠りでも眠りにつくことが出来たので息災ということにしておこう。朝、起きると、ラリーゴ君は試験が違うため、遠い試験場なので、もう出ていた。僕は、午前6時30分に眠いけど起きて、ゆっくりと、朝食へ。僕は実は朝が一番飯を食う。バイキングなので、大量に欲張り、あるものとっていく。ホテルの定番生卵も添えて。オレンジジュースですっきりしたら、そろそろ出ようかなあって博多駅から電車で、九産大へ。
試験の時って、地図を見る必要なんて無い。なんとならば、電車に乗れば、大量に受験生が乗っているので、その膨大な流れに沿って歩を進めていけばこれ自然と試験場の前なのである。
さて、ここにおいて、いくらなんでも、知ってる人の一人くらいには出会うだろうと思っていたが、全く出会わない。
結局、最後まで、一人にしか出会わなかった。しかもその人は、一言くらいしか話したことの無い人で、向こうももう僕の顔を忘れてるかも知れないって位の関係の人だったので、あんまり意味無いってか。試験の間中、一人ぽつねんと、そしてもくもくと本を読んでた。でも、僕一人って大好きなんだけどね(笑)

試験は、午前10時から、午後6時まで。(゜□゜;) ギョェ
僕は、相変わらず、理系科目には目も向けず文系しか考えてやらない(やれない)から、早く終わる。でも、今回は、考えれないなら考えれないなりに、理系の教科を文系的に解くことを試みたので、少し、充実感があった(笑)

午前は教養、午後は専門と記述。専門は、全く勉強していない会計学やら、経営学やら、商法やら出てきたけど、これは、僕と同じ某公務員学校に通ってる人はみんなやったこと無いであろうから、条件は同じ、逆によかったかも。でも、他の学校の人や独学できた人は?かなり出来てるかも^^;やばい。

んで、記述。知らないことをへらへら自分で勝手に決め付けて書く。もっともらしく知ったかぶっても、その問題に対する素養が皆無だから、採点する人はせせら笑うでしょう。

まあ、バグって受かることが億が一でもあれば、僕は配属によってはマルサの男になれるわけだ。
でも『マルサの女』見たこと無いから、どんなことやるのかわかんな〜い。うわさによると、この映画を観て国税目指す人も結構いるんだそうな。
映画の力、恐るべし。
監督: スチュアート・ハグマン
1968年4月、遊園地を軍事関連施設に建て直す事に端を発したコロンビア大学の学園闘争。その渦中にいたジェームズ・クーネンの体験記を基に青春映画として作られた作品で、好奇心と下心から学生運動に身を投じたボート部の学生と、活動家の女子大生の恋愛を描く。当局の一斉検挙が実行されるクライマックスの迫力は、物語の幕切れとして申し分がない。B・デイヴィソンとK・ダービーの主演ふたりを始め、傍の学生たちも生き生きと演じられている。バフィ・セント・メリーの歌う主題歌“サークル・ゲーム”の切なさが象徴的。
例の有名な歌のから、僕は甘い恋愛感動ものかと思っていたら、非常に政治的な青春群像劇だった。学生運動に飲み込まれていく過程で一応の恋愛劇はあるものの、この映画の眼目はやっぱり、そこじゃあないよね。「いちご白書をもう一度」の歌詞で、悲しい場面では涙ぐんでた〜♪ってとこがあるけど、そんな感動的な涙のシーンは少なくとも僕には無かったなあ。全体をとおして、物悲しいやるせなさみたいなのはあるけれどもねえ。つまりは、恋人と見に行った思い出の映画がたまたま、いちご白書だったから、歌の主人公にとってはとても思い出深い感動の映画という印象を与えたのだということだと勝手に解釈。でもこの歌作った人って、ユーミンじゃなかったっけ。ちなみに、この映画見て僕が思い浮かべてしまった歌は、中島みゆきの「世情」なのであった。シュプレヒコールの波〜♪
少し寝すぎて、起きたらもう出発。今日は明日の国税専門官の試験を受けるために福岡に行くのさ。

ほんとは明日の朝早くバスで行くはずだったけど、なんだか台風だとか雨だとかで、高速道路通れなくなったら一発でアウトやで〜って友達に言われて、確かに今までそういった経験は無いけど去年受けたときも時間ぎりぎりに着いたから心配になってきて、ラリーゴ君と一緒のホテルを取ったわけさ。

街でラリーゴ君と待ち合わせて、バスの中は別々に予約取ったのに、席が前後だったので、話したりしてた。後半は、本読んだり大リーグ見たり。そんなことするから酔っちゃったけど^^;

福岡に着いたら、駅周辺のホテルにすぐにチェックインして、しばらく休憩して、キャナルシティーに行く。ラリーゴ君も僕も、試験前日は勉強しない派。キャナルシティーは2回目だけど、いろんな店があて楽しいね。大分の似せて作った似非キャナルとはえらい違いだ。
まずは腹ごしらえってことで、福岡といえばラーメン。ラーメン屋がいっぱい集まったエリアで、ラリーゴ君がお勧めな喜多方ラーメンって店で、肉そばを頼む。これ、ぶっといチャーシュウで麺が見えない。びっくり!さすが肉そばだね。スープはあっさりしててヘルシーだけど、こんだけ肉くったらまず太るなあ^^;

ラーメンのあとはおもろい店を物色して歩く。ずっと探してた、べんぞうさんみたいなビン底めがねを見つけたので、購入しようとレジに持ってったら、レジのお姉さんプッて噴出して、ずっとにやにや笑ってる。買っちゃ悪いってのかよ〜!(笑)
あとは、金運を運んでくれる金のウンコのキーホルダーを購入した。
あっ、それと、バスによって頭が痛かったから、頭痛薬(非ピリン系)もねえ。

しばらくしてたら、ビートルズの「レットイットビー」のバイオリン演奏が聞こえてきたので、そこにいってみたら、ブラジルからきた曲芸師が一人で、バイオリンを中心にいろんな楽器を演奏してる。足で人形操りながら。それを、ラリーゴ君とクレープを買って食べながら観賞。つい最近「マルコヴィッチの穴」を観たばっかりだったので、人形を操るところ観て、映画のワンシーンがフィードバックしてきた。
そんで、最後らへんになって、バイオリンで「川の流れのように」を引いたときに不覚にも少し感動してしまった。いやあいいもの見れたなあってホテルに帰ろうとして2人で適当にあるいたら、本当に適当なところあるいてて、ホテルと逆方向いってた。ホテルがわかりにくい場所にあるのもしょうがないけど、2人して、きた道を忘れてるなんてヾ(;´▽`A``アセアセ
途中で人に聞いたりしながら、ホテルに着いたときは汗だらだらのへとへとで、すぐに地下の浴場温泉へ。このホテルはビジネスホテルなのに、温泉がついていてうれしいヾ(@⌒▽⌒@)/ わ-い!

たっぷり入ってあったまった後、隣のリラックスルームに、マッサージ器と足つぼ指圧機があったので、試してみる。マッサージ器は生まれてはじめてつかったけど、体が痒くなるかなと思ってたら痒くなくて、すっごく気持ちよかった。足つぼはすっごく痛かったけど、今日の疲れは一気に取れた感じ。しばらくリラックスルームで読書なんかして待ったりしてたけど、ほのかに期待してた出会いはありませんでした。がっくし。。ってあたりまえか(笑)

そういえば、公務員学校で一緒だった人に一人も会わなかったなあ。
DVD ジェネオン エンタテインメント 2003/08/22 ¥4,935
大林宣彦監督が、故郷である尾道の市制百周年を記念し、『ふたり』『あした』に続く新・尾道三部作の完結編として描いたファンタジー映画。夏休み。いつも考え事をしていて周りから「ボケタ」と呼ばれる小学5年生の由太(厚木拓郎)は、呆けたおじいちゃんを監視するため、単身尾道に派遣される。祖父の賢司郎(小林桂樹)は、少々変わったところも見られるが、その行動は確信に満ちている。祖父と不思議なことを見聞きした由太の身にも少しずつ変化が表れて来る…。
大林監督のライフワークである尾道映画の新作とあり、入江若葉、石田ひかり、林泰文、雨宮良、ベンガル、根岸季衣、大前均といった、かつての大林映画を彩った俳優たちが大挙ゲスト出演しており、「新・尾道三部作」完結を祝福している。 冒頭に現れる「20世紀を生きたおじいちゃんと、21世紀を生きるこどもたちに、この映画を捧げる」とのメッセージには、次の世代に生きる少年たちに向けた、大林監督からの優しい希望が感じられる。本作は20世紀最後の夏に劇場公開された。
尾道いったなあ〜。ンで、映画の舞台になったとこみて回ったっけ。
大林監督の映画は見てると非常に恥ずかしくなってくるんだよね。この作品も無意味にサービスカットが入れられてるし^^;。まあ、そんな大林監督の作品、けして嫌いではなかったりする。映画に対する愛情が感じられる。くさいけど、たまになんともいえないノスタルジーを感じさせてくれるから、ノスタルジー人間の僕はうれしかったりする。
この作品の特撮風味の違和感が素人臭くて、小品の良心って感じでじいちゃんが飛んでいる場面はうきゃきゃきゃ。カッパなんてほんにゃらふい。じいちゃん、とんでろ。
何かを誰かに紹介する場合、紹介する人が最も伝いたい部分が伝わるように演出が施される。これは、総てのことに当てはまるが、もっとも顕著な形で見て取れるのは当然メディアにおいてだろう。たとえ事実を伝えることを主眼に置いた報道においても、その局の色というものが明確に現れる。それは、物事を多面的に捉えるのには役立つだろう。そして、そのものの本質を捉える手段としての技術というのが演出の利点でもある。
しかしながら、演出というものは、当然独善的になりがちであり、そこには受け取る側のリテラシーも要求されるわけである。

演出に潜む危険とは、時として、その伝える対象ではなくその演出的な状況が気づかぬうちに主体となってしまうことにある。対象の不在である。アメリカの行動に対しての報道も国が違えば正義にも悪にもなる。
対象の不在とは、対象の本質の不在のことである。では、アメリカの行動の本質とは何なのか?それはその人の取るアメリカに対するポジションによって変わってくるわけであり、本当の意味で、それの正誤を判断はしえないところである。
ただ、その人の取っているアメリカに行動に対する本質の解釈が、報道いかんによってころころと変わってしまうことに危険があるのだ。それはいわばリテラシーの欠如を意味するわけである。しかし、本人はそのことに気づかずに、漫然と演出を受け取っているという状態は、安易にマインドコントロールという操作をされえる状態にあるともいえる。

さて、政治などの問題の場合は、それ専門の知識がある程度要求されるので、本質不在の状況に陥ることもやむをえないといえばやむをえない。ではもっとわれわれに身近な問題ではどうだろうか。

僕がふと気づいたのは、バラエティーで使われる対象と、NHKなどのドキュメントで使われる対象が同一のものである場合である。そして、同じ対象を扱っているのにもかかわらず、受けとっいる同一人物が、バラエティーでは笑い、ドキュメントでは泣いている場合である。同じ問題や、同じ対象物に対して、その人が番組という状況いかんによって、泣くかと思えば笑いもする。これこそまさに、対象が不在な状況といえる。そして、対象ではなく状況がその人の感情の変化の主体へと転化しているのだ。
つまり、その人がその対象物に対して持っている固定的な本質などというものが存在していないのか、もしくはこれほど脆くも変化しえるものだということを暗に示している。

たとえばの話し、僕も抱えている強迫性障害を、あるお笑いバラエティーで笑う人がいる。その人が、障害というものの本質を、軽蔑的なものと捉えている場合、いたって、健全な反応であるといえる。ならば、その人は、強迫性障害のドキュメントなど、吐いて捨て、感動など微塵もしないであろう。逆に、ドキュメントで涙した人なら、そのバラエティーを嫌悪感を持って眺めるに違いない。これが、本質に対するポジションというものであり、自分の意見となり、リテラシーの根拠となる。

僕は、本質は定義できないといったが、それでもそのものの本質にある一定の範疇を設けることはできると考えている。それはそのものの矛盾を論理的に突き詰める作業を要するのだが、そうした中で見えてくるある一定の人間的感情にのっとった普遍性。というものがそれである。
そのような普遍性の観点から、ある程度は、善悪の正誤の判断はつくものだ。
そして、その作業を行うことが、受け手側の求められるリテラシーである。
ある番組をみているとき、見ている観客全員がひとつの感情で埋め尽くされるというのは、壮観であるが、一方でゾッとするほど恐ろしい。もしその埋め尽くされた感情に埋没して抹殺されるであろう存在に、そういった状況に疑義を呈する人物が一人もいないというのは、その延長線上に全体主義を感じずにいられない。
そして、問題はその対象そのものも、状況に飲み込まれる場合があるということである。
それこそ、大勢の観衆によって埋没する個の感情であり、自分の非や欠点ををネタに周りが笑っているときにその対象とされた人物が例えどんなに正論をぶったところで、おそらくは場を弁えない悪者として抹殺されてしまうであろう。こうして、一人は多勢の感情に追随し、自虐的な笑いを行わざるをえなくなったときに、対象人物が笑う、という行為を目の当たりにした観衆は自分の感情に間違いは無いという浅薄な確信とともに、状況はいっそうエスカレートしていくのだ。

こういった状況に僕がなぜ危惧を感じるかというと、状況を重視する傾向が安易な享楽へと向き、普遍的な倫理に対する我々が持っていた本質的なポジションが、瓦解していっているように感じるからである。
そこに何が生じるかといえば、差別や偏見である。それも、最もたちの悪い無自覚から派生する差別や偏見。そして、ひとたび自分に対象の矛先が向けば、その人は、初めて他人の差別を非難するだろう。今までの自分の行為は棚に上げ、というより自分のやってきたことが彼らと同種のことであったとは全く気づかずに。これは、明らかな利己主義である。自分が他人にしているのに、他人からされてはいけないなどと、どうしていえる権利があろうか。

なお、この対象の不在という現象は、誰にも、どんな人にも起こる問題だと思っている。全知全能の神でもない限り、どこかで人は操られる。が、その頻度を減らすことはできる。これには不断の努力が要するが、自分がこういった問題(偏見や差別)を起こす側になるのを極力回避し、また自分が被害者となったときに反論できる権利の確保を持っていたいのであれば、やっていかなくてはならないと思っている。

その努力とは、常に、状況ではなく、そのものの本質を見ていこうとすること。自分が、その対象物に対して、どういったポジションで本質を捉えているのかを、絶えず意識して、判断していくということである。つまり、バラエティーやドキュメントだからということではなく、その取り扱われている対象に対して、自分がどういった印象を抱いているのかを意識しておくことである。
なお、本質とは、当然自分にとってのその対象物の本質のことである。
できるだけ、普遍的な本質を探っていった上での、という前提は言うまでも無いが。

以前このことを一人の友人に話したことがあるが、そこまで気をつけていたら、疲れるだろう、という言葉が返ってきた。なるほど、彼が、僕のこの考えに対して抱いている本質は、否定的なものらしい。ならば、彼は、差別されても、誰にも文句を言わずに飄々としていられるということなのだろう。

この僕の文章を読んでくれる人がいるなら、ただ漫然と読むだけではなくて、考察し、肯定でも否定でも、自分の中でのこの文章に対する自分としての本質を見極めて、あるいは探っていってほしい。
これは、日記を書いている僕からのリテラシーの要求である。

*なお、リテラシーを僕はここでは、情報を読み取る能力、や、意味を考察していくという行為、というような概念で使っています。
DVD アイ・ヴィー・シー 1999/05/25 ¥3,675
「市民ケーン」のオーソン・ウェルズ第2回監督作。明暗を強調した照明、テンポの速い編集など独特のテクニックを駆使して表現した名品。アメリカ中西部の小さな町の大富豪家の没落を描いた作品。
なぜこれほど『市民ケーン』がもてはやされるのか今一わからない。面白かったけど、さして、ぬきんでた傑作とも思わない。この作品も、同様。『市民ケーン』と同じく、まあまあ。面白くはあるが、何をおいてもなんて作品ではない。映画的な技巧なんてものは、映画製作の側にいないと、さほど重要な評価の対象にはならないと思われ。

テニスは足ニス

2004年6月10日
ぎくぎくぎく、体が痛い、足が痛い、お尻が痛い(+_+)

自転車扱ぐのもひーこらいってるってのに、こんな体で、テニスクラブへ。しかも、一ランク上の中級。なに考えてんだか。
やっぱり足の踏ん張りが利かなくて、ボールを思うように打てないし、危うくこむら返り起こしそうになるし、散々走らされて、マジでもう足が悲鳴をあげてしまいましたよミ(ノ;_ _)ノ =3 バタン
でも、不思議なもので、そんな体でもテニスやってるときは意外に動けるもんであって、本当の地獄が待ってるのは、終わった後なんだよね。
うんこらうんこら、階段を下りるのも悲鳴をあげながら、さすがに、動けなくなって、練習後は一時間半も放心状態で、ロビーの椅子に座ってた。←こういうこそ時間の無駄^^;
高木ブーとQちゃんのCMでおなじみのドリンクを飲んでようやく人心地ついた僕は、激痛の足で扱ぎ扱ぎ、街に行く。テニスクラブの後はここと決めてある自然はレストランで、スパゲッチーを注文して、先日からはじめた、にがりをパッパと振りかけ食べる。にがりって、大量にかけるのかと思ってたらほんの一滴二滴でいいらしいので、確かに苦いけど、心配してたほど、苦痛でもない。ただ、にがり飲みだしてから、お腹がゆるゆるになっった。注意書きには、お腹がゆるくなる方もございますって、まさに僕のことやね^^;でも、効いてくれてる感じがして良い。
今日は病院デーでもあるので、家に帰ってまた街に出るのも面倒だし、喫茶店で、読書。『職業としての政治』三回目読了。ひとまずこんなもんでいいか。続いて、『グレートギャッツビー』を読み出す。
午後3時ごろ、ラリーゴ君から、電話。彼も街にいるとのことで、合流して、ラリーゴ君がサンダル買うのを付き合うことに。商店街を歩いているうちに合流。僕が筋肉痛でビッコを引いていたもんだから、彼いわく、「うんこ我慢してるみたいに見えた」らしい。。。
サンダル買う前に、僕たちが通っていた某公務員学校にいって、新しい願書をもらう。郵政一般と、山口と柳井市の願書をもらう。柳井市は田舎だけど、観光地の白壁通りがレトロな感じでとてもいいのだ。まあ、市役所だから、地元優先のコネが働いて、まず合格は無理だろうけど、バグって受かるかもしれないから、念のため、ね。
さて、ラリーゴ君のサンダルも無事に買って、商店街を歩いていると、なにやら、沖縄の音楽が、ちゅらさん屋ってな店ができてる。まあ、そんなことはどうでもいのだけど、その流れていた音楽、『ハイサイおじさん』、ふと、何かに似てる似てると考えていると、そうだ、この音楽は、まんま『へんなおじさん』じゃないか!!なんだ、志村けんのオリジナルだと思ったら、原曲があったんだ〜!っと興奮しながらラリーゴ君にいったら、「今ごろ気づいたん?」っと、げろりんちょ。
ということで、病院に行ったら、先生から、「君、ずいぶんと前向きになったねえ」といわれましたとさ。
テニスはまだ一週間に一度が限度だと悟った一日であった。
DVD ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテインメント 2002/05/15 ¥3,990
『インドシナ』のレジス・ヴァルニエ監督による感動作。1946年の東西冷戦時代のロシアを舞台に、真実と自由を求め、激しい愛の日々を生きたフランス人女性の姿を描く。主演のサンドリーヌ・ボネールを始めフランス、ロシア国際派スターが多数共演。
うーむ、面白かった、こういう映画がミニシアターでしか観ることができない(少なくとも大分では)ということは、なんとももったいないなあと、他のハリウッド映画とかと比べて、何の遜色もないように思うのだけど、やっぱり採算取れないのかなあ。十分感動するしいい作品なのになあ。こういうのってなぜマイナー扱いうけちゃうんだろう。理解に苦しむ。あっ、でも内容あんまり覚えてないや^^;
テニスをはじめたはいいが、生活習慣が戻ったのはいいが、どうも、充実感がたりない。遊びという意味での充実感は十分なのだが、今の僕の本分受験勉強ということを考えると、やはり少しく充実していない。
それは生活の無駄が多すぎるからだってことはわかってる。何をするにも行動が遅い。もっとてきぱき行動しなければ。あと、頻繁にパソコンを開きすぎる。一回一回はそんなに時間は長くないのだが、休憩のたんびにパソコンを開いてる。僕には定期的にみて回るサイトが何個かあるので、そこを一日何回も観て回ることがある。でも、これって無駄。だって一日にそう頻繁に更新されているわけがないもん。ってことで、これからは時間を決めて一日一回だけサイトを巡回する。そして、行動をてきぱきして(僕はボーっとしてる時間が長い)、極力勉強のための時間を確保する。そして、基本的に休憩は読書。たまに音楽鑑賞。これで行こう。僕は毎朝、まずはパソコンを開いていたが、それをしないでおこう。
ということで計画。

午前8時・・・起床。

午前9時・・・勉強(テニスクラブのときは除く)

正午  ・・・昼食。読書。(テニスクラブのときは喫茶店で昼食、読書)

午後2時・・・勉強。(テニスクラブのときは喫茶店で勉強)

午後5時・・・PC。(テニスクラブのときは帰宅)

午後7時・・・風呂。

午後8時・・・食事。読書。勉強。

午後10時・・・PC。

午後11〜12時・・・就寝。

これを今回は留保なくできるだけ(これがすでに留保かも^^;)続けていく。いきたい。いけたらいいな。。。←留保しまくり。

でもほんと、今年はだめでも、これを一年間続けたら、来年には受かるってくれるじゃろ^^;受かってくれんと困る。。。
DVD ソニー・ピクチャーズエンタテインメント 2003/11/21 ¥2,625
メキシコから麻薬を密輸して大金を得たキャプテン・アメリカとビリーは、大型オートバイを駆って旅に出た。途中、ラスベガスの留置場で酔っ払いの弁護士ジョージと知りあう。やがて3人は、共にニューオーリンズを目指す。
名優ヘンリー・フォンダの息子ピーター・フォンダが、親友デニス・ホッパーとともに作った斬新なロードムービーだ。ベトナム戦争、人種問題など、悩める大国アメリカの姿を、若者の視点から余すところなく描ききった。
オールロケしたラズロ・コバックスによる撮影と、同時録音によるセリフのリアルさがすばらしい。そしてステッペンウルフ、ザ・バンド、ジミ・ヘンドリックスらの名曲を使用。初めてロック音楽だけで映画音楽を構成した、画期的な作品でもある。アメリカ映画の方向を変えた秀作である。
アメリカンニューシネマの先駆け。内容はともかく名前は知ってる人も多いという名前先行型有名作。当時のヒッピー文化を背景にした殺伐とした世界観。前衛的?彼らは謝肉祭に行くことはできなかった。自由をもつのは危険のリスクを背負うこと。はたまた自由を求める若者の象徴たるヒッピーが撲殺されることで自由の抑圧を逆説的に非難しているのか。村上春樹の卒論のテーマ、などなど。こういう映画は苦手だったりする。観るけどね。

四捨五入で30

2004年6月8日
ついに四半世紀生きてしまった( ̄□ ̄;;)
25ってことは、四捨五入して30歳だ(笑)
ところで、自分の生まれた日をすっかり忘れてて、友達にいわれるまで気づかんかった^^;別に何するわけでもないし、大学時代なんて、誕生日の二日後に気づいたときもあったなあ。
小さい頃は誕生日ってうれしかったけど、もうこの年になると、何の感慨もない、これがもう少したつと、年をとるたびに憂鬱になっていったりするのかしらん?
今日もいつもと変わりなく、テニスクラブに行く、そして打ちまくっていたら、誉められた。テニスクラブの誕生日プレゼントか?(笑)
明後日もテニスクラブ。一ランク上の中級クラスを受けられることに。
目指すは上級!
でも今年は、色々、友達が祝ってくれたのでうれしかった。みんなありがとうヾ(*’-’*)リアル友のラリーゴ君からメールがきて、ポケメロJOYのサイトを見てくれって書いてたので、いってみたら、なんと誕生日の欄にキタムさんおめでとうの言葉が!!なんと、ラリーゴ君が投稿してくれたらしいのだ。こんな友達をもっている僕は幸せものだ。

夜は、ピザのはずだったのだけど、母親とフランス風中華のディナーを食べに行く。ささやかなお祝い。変わった店で、おいしかった。

そして帰って体脂肪を図ったら、テニスのおかげか、体脂肪が30%から、28.5%に減ってた。これまた、ささやかなプレゼント。
DVD ビデオメーカー 2002/12/20 ¥4,935
監督のマノエル・デ・オリヴェイラが、本作を撮影したのは92歳。主人公は突然の交通事故で妻と娘夫婦を亡くしたベテラン俳優で、遺された孫との生活を軸に、彼の孤独な日常が淡々とつづられていく。
プライドが高く、ギャラのいいドラマへの出演を拒む主人公だが、撮影の本番で台詞が出てこないなどシビアな現実が観る者の心に鋭く突き刺さる。人生の哀感をしみじみと伝えるのはもちろんだが、オリヴェイラの映画的手法には全く老いが感じられない。主人公が見つめる絵からショパンのワルツへの転換など、映像と音楽がたがいに呼吸を合わせているようだし、彼の心情を靴のアップで語らせる場面などが秀逸。カフェをはじめとしたパリの街並みも静かなたたずまいを見せ、映画の雰囲気にマッチしている。映画監督役ジョン・マルコヴィッチの、役柄をわきまえた控え目な演技も好感。
すばらしい映画。淡々とした中に、老人の忍耐の苛烈さが徐々に浮き彫りになり、俳優としての演技にも支障をきたす。老いの切実さと、孤独のつらさ。一条の光としての孫が、涙を誘う。この愛らしさ。孫だけではなくこの年老いた俳優の愛らしさ。ついには疲れを吐露し、演技を中座し家路につく老人の人生に、老人の肩に僕はお疲れ様と、手を添えたいのだ。
さて、レ・ミゼラブルを観てからというもの、僕は俄然ジョン・マルコヴィッチの虜である。彼の演技の一挙手一投足にまでも注目せずにいられない。彼の声はすばらしい個性をかもし出す。艶のある、魅力のあるその声は男の僕をも捕らえてはなさない。名優とはまさにこういう人物のことを言う。表情を変えずとも、その内面を表現しえる役者は、そういるものではない。彼の演技は、まさにそれなのである。この作品では脇役として、依頼する監督の役をこなしているが、その存在感は、やはり揺るぎないのだ。

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