オニフジツボ
2004年7月15日テニスクラブに行ったら、たった三人しかいなくて、いつもと違った練習ができた。
何でこんなに少ないんですか?ってメンバーの主婦の方に聞いたら、夏休みになって、PTAだの、子供の世話だので忙しくなるからなんだそうな。僕の感覚じゃあむしろ夏休みのほうがメンバー多くなるかと思ってたけど、なるほど、平日昼間なんて、来てるのほとんど主婦の人たちだから、逆に昼間も子供がいるんじゃ忙しいよね。
三人で90分はハードハードヾ(;´▽`A``アセアセ
ちかれたび。。
石ノ森章太郎の「マンガ日本経済入門」が、わかりやすいもんで、僕が大苦手な日本史も、石ノ森先生の助力を借りてってんで、「マンガ日本の歴史」を読んでくことにした。
マンガと侮るなかれ、彼のマンガは大変勉強になるのじゃ。
さらば
何でこんなに少ないんですか?ってメンバーの主婦の方に聞いたら、夏休みになって、PTAだの、子供の世話だので忙しくなるからなんだそうな。僕の感覚じゃあむしろ夏休みのほうがメンバー多くなるかと思ってたけど、なるほど、平日昼間なんて、来てるのほとんど主婦の人たちだから、逆に昼間も子供がいるんじゃ忙しいよね。
三人で90分はハードハードヾ(;´▽`A``アセアセ
ちかれたび。。
石ノ森章太郎の「マンガ日本経済入門」が、わかりやすいもんで、僕が大苦手な日本史も、石ノ森先生の助力を借りてってんで、「マンガ日本の歴史」を読んでくことにした。
マンガと侮るなかれ、彼のマンガは大変勉強になるのじゃ。
さらば
DVD ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン 2004/07/07 ¥2,090
日陰の中って、外からはほんとに全く見えなくなるものなのかなあ。
あああ、グレース王妃゜゜(´□`。)゜゜
足を骨折し目下のところ車椅子生活を強いられているカメラマンのジェフ(ジェームズ・スチュアート)は、退屈しのぎにアパートの窓から望遠カメラでのぞき見をしていたために、いつしか殺人事件に巻き込まれてしまう。ジェフは悪ふざけのし過ぎ、自業自得。人間の除き趣味の欲望丸出し。あああ、グレース王妃( ノ_・、) ぐすん
コーネル・ウールリッチの短編小説を名匠アルフレッド・ヒッチコック監督が映画化した、今やサスペンス映画の代名詞といっても過言ではないほどの名作。主人公が身動きのとれない状態であることを逆手にとってのさまざまなスリルの趣向と演出が、素晴らしいまでに緊迫した効果を与えてくれている。たとえば彼がのぞき見している向かいのアパートの住人たちは、一切の台詞が主人公まで聞こえてこないので、どこかパントマイム的なユーモアが伴われるが、それが事件の発覚とともに無気味な体裁へと変貌していくうまさ。主人公の恋人役として登場のグレース・ケリーの美しさも特筆ものである。
日陰の中って、外からはほんとに全く見えなくなるものなのかなあ。
あああ、グレース王妃゜゜(´□`。)゜゜
男遊び、女遊び、という言葉に抵抗がある。
この言葉には、男「と」遊ぶ、女「と」遊ぶではなく、男「を」遊ぶ、女「を」遊ぶ、というニュアンスが含まれているように思えるからだ。
そこには、相手の感情というものが含まれず、単なる刹那の遊び道具、物としての視点しか感じられない。
だから、『〜「を」遊ぶ』の立場では、関係性が崩れることを『捨てる』って言うんだと思う。
では、「と」の面からこの『捨てる』に対応する言葉があるとすれば、『別れる』となるだろうか。しかし、『別れる』という言葉のその前提としての言葉は、「遊ぶ」ではなく、「付き合う」であるはずだ。ということは、『〜「を」遊ぶ』に対応する言葉は、『〜「と」遊ぶ』ではなく、『〜「と」付き合う』となるのは必然といえそうだ。
纏めると
『〜「を」遊ぶ』⇔『〜「と」付き合う』
↓ ↓
『捨てる』 ⇔『別れる』
となるわけだ。
では、『〜「と」遊ぶ』という言い方は、どういう場合使われるかといえば、おそらく、お互いが、『〜「を」遊ぶ』という認識で一致している場合、もしくは、友達間、ということになろうか。
肉体関係、いな、肉体関係が例えなかったにしろ、異性間に何か特別な関係性がもたれた場合、持ったほうは、「遊ぶ」という表現は決して使わないだろう。そして、それを恋愛感情とか何とか呼ぶことになるんだと思う。
だから、相手の感情を考慮に入れない『〜「を」遊ぶ』の立場にたつ限り、向こうも同様の思惑ならばうまく事が運びもしようが、向こうが、人間としての対等な『〜「と」付き合う』の関係性を求めていた場合、その関係性が崩れた場合「と」の者は深く傷つくことになるだろう。
男遊び、女遊びをする人々は、すなわち、図らずも相手の人間を家畜化、玩具化、人間性の搾取、どういっても良いが、自分の欲望によって人の感情を度外視するという小規模の専制君主となっているといえるんじゃあないだろうか。
この言葉には、男「と」遊ぶ、女「と」遊ぶではなく、男「を」遊ぶ、女「を」遊ぶ、というニュアンスが含まれているように思えるからだ。
そこには、相手の感情というものが含まれず、単なる刹那の遊び道具、物としての視点しか感じられない。
だから、『〜「を」遊ぶ』の立場では、関係性が崩れることを『捨てる』って言うんだと思う。
では、「と」の面からこの『捨てる』に対応する言葉があるとすれば、『別れる』となるだろうか。しかし、『別れる』という言葉のその前提としての言葉は、「遊ぶ」ではなく、「付き合う」であるはずだ。ということは、『〜「を」遊ぶ』に対応する言葉は、『〜「と」遊ぶ』ではなく、『〜「と」付き合う』となるのは必然といえそうだ。
纏めると
『〜「を」遊ぶ』⇔『〜「と」付き合う』
↓ ↓
『捨てる』 ⇔『別れる』
となるわけだ。
では、『〜「と」遊ぶ』という言い方は、どういう場合使われるかといえば、おそらく、お互いが、『〜「を」遊ぶ』という認識で一致している場合、もしくは、友達間、ということになろうか。
肉体関係、いな、肉体関係が例えなかったにしろ、異性間に何か特別な関係性がもたれた場合、持ったほうは、「遊ぶ」という表現は決して使わないだろう。そして、それを恋愛感情とか何とか呼ぶことになるんだと思う。
だから、相手の感情を考慮に入れない『〜「を」遊ぶ』の立場にたつ限り、向こうも同様の思惑ならばうまく事が運びもしようが、向こうが、人間としての対等な『〜「と」付き合う』の関係性を求めていた場合、その関係性が崩れた場合「と」の者は深く傷つくことになるだろう。
男遊び、女遊びをする人々は、すなわち、図らずも相手の人間を家畜化、玩具化、人間性の搾取、どういっても良いが、自分の欲望によって人の感情を度外視するという小規模の専制君主となっているといえるんじゃあないだろうか。
映画 『海の上のピアニスト』
2004年7月14日 映画〔洋画〕
DVD パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン 2004/04/23 ¥4,179
大西洋を往復する豪華客船、バージニア号。この船には楽譜を読まずに即興で演奏する、1人の天才ピアニストがいた。その男はこの船で生まれ、以後一度も船を降りたことがなかった。ほんとにいそうな気もするなあ、ピアニストかどうかはしらんけれど。ただ、ニューシネマパラダイスでも思ったのだけど、この監督は良い場面とあまりよくない場面の落差が激しいというか、船の揺れに任せてピアノがあんなに長い時間いったり来たりするかよ〜!とか、ちょっと現実離れしすぎな場面もちらほら。自分の命をかけてまで船に残るってなんか宇宙戦艦ヤマト(完結編)みたい。そんなに外の世界って怖かったのかしらん?
『ニュー・シネマ・パラダイス』で世界的名声を得たジュゼッペ・トルナトーレ監督が、壮大なスケールで描く叙事詩である。生まれた年にちなみ、1900(ナインティーン・ハンドレット)と名づけられたピアニストを、個性派スターのティム・ロスが演じる。ジャズピアニストとのピアノ対決、シケで揺れる船の大広間でピアノごと移動しながらの演奏など、伝説にふさわしい名場面が次々と展開する。
メロディーは船客の人生、リズムは海のうねり。これは20世紀の最後を飾るにふさわしいモニュメントだ。
ずっと以前のことだ。
友達間でチェーンメールが送られてきた。
「・・・このメールを友達5人に〜時までに送らないと、あなたに不吉なことが起こる」
といったような文面だった。
僕は、深く考えずに、面白おかしく、ある友達に送った。
そして、反応を予想して、楽しみにしていた。しかし、友達は、僕の予想していた反応とは違い、怒っていた。
友達は、僕の行為は間違いであると、非難の言葉を述べた。
そのときになっては初めて、僕は冷静に物事の成り行きについて目を向けた。全面的に僕に非があった。友達の言うことは真っ当だった。
僕は、友達だからといって、そのようなメールを送った自分を恥じた。そして、躊躇なく、自分の考えを述べてくれた友達に深く感謝した。感謝と共に、僕はこんな友達を持てて、なんて幸せなんだと思った。
自分の意見を隠さず述べてくれて、そして、過ちを指摘してくれる友達。本当の友達だと思った。
たとえ、お互いの考えが異なろうと、意見を戦わそうと、それはその場、そのことだけ。お互いが依然友達なことに変わりはない。いや、おそらくはもっと強い絆で結ばれた友達になる。
意見をあわすばかりが友達ではない。まして自分の非を受け入れてくれる者が友達だろうか?
正直な心と心で対峙しあうのこそ本当の友達ではないのか。だから、本当の友情には隠し事など存在しない。こう思うのは、あまりにも理想論にすぎるのだろうか?
僕は、友達が僕を友達だと思ってくれたからこそ、真剣に注意してくれたその誠意に、正直な自分の気持ちを返すという誠意で応えた。
僕は、自分の非を友達に謝罪し、そして感謝の意を述べた。
プライドは正直な心をゆがめる。プライドの多くは無益なものだ。
もし高校時代の僕なら、そのような自尊心にかられ、自分のこの恥の感情や、自分の非を隠すために反駁し、友達との仲も裂け、自分も、冷静に物事を見つめ、訂正し、成長するということもなく、同じ過ちを犯しつづけたことだろう。
確かに僕はあの時、遊びの連帯感情の中で自分の感覚を麻痺させ、過ちを犯した。
だがしかし、友達の言葉に、無益なプライドからくる怒りではなく、素直に自分の非を認め、友達に感謝の気持ちを持てるようになった、その部分。。その部分に関してのみは、自分の成長を感じ、少しだけ、ほんの少しだけ自分を、誇らしく思った。
友達間でチェーンメールが送られてきた。
「・・・このメールを友達5人に〜時までに送らないと、あなたに不吉なことが起こる」
といったような文面だった。
僕は、深く考えずに、面白おかしく、ある友達に送った。
そして、反応を予想して、楽しみにしていた。しかし、友達は、僕の予想していた反応とは違い、怒っていた。
友達は、僕の行為は間違いであると、非難の言葉を述べた。
そのときになっては初めて、僕は冷静に物事の成り行きについて目を向けた。全面的に僕に非があった。友達の言うことは真っ当だった。
僕は、友達だからといって、そのようなメールを送った自分を恥じた。そして、躊躇なく、自分の考えを述べてくれた友達に深く感謝した。感謝と共に、僕はこんな友達を持てて、なんて幸せなんだと思った。
自分の意見を隠さず述べてくれて、そして、過ちを指摘してくれる友達。本当の友達だと思った。
たとえ、お互いの考えが異なろうと、意見を戦わそうと、それはその場、そのことだけ。お互いが依然友達なことに変わりはない。いや、おそらくはもっと強い絆で結ばれた友達になる。
意見をあわすばかりが友達ではない。まして自分の非を受け入れてくれる者が友達だろうか?
正直な心と心で対峙しあうのこそ本当の友達ではないのか。だから、本当の友情には隠し事など存在しない。こう思うのは、あまりにも理想論にすぎるのだろうか?
僕は、友達が僕を友達だと思ってくれたからこそ、真剣に注意してくれたその誠意に、正直な自分の気持ちを返すという誠意で応えた。
僕は、自分の非を友達に謝罪し、そして感謝の意を述べた。
プライドは正直な心をゆがめる。プライドの多くは無益なものだ。
もし高校時代の僕なら、そのような自尊心にかられ、自分のこの恥の感情や、自分の非を隠すために反駁し、友達との仲も裂け、自分も、冷静に物事を見つめ、訂正し、成長するということもなく、同じ過ちを犯しつづけたことだろう。
確かに僕はあの時、遊びの連帯感情の中で自分の感覚を麻痺させ、過ちを犯した。
だがしかし、友達の言葉に、無益なプライドからくる怒りではなく、素直に自分の非を認め、友達に感謝の気持ちを持てるようになった、その部分。。その部分に関してのみは、自分の成長を感じ、少しだけ、ほんの少しだけ自分を、誇らしく思った。
DVD ビデオメーカー 2002/05/24 ¥5,229
不況のため共に職を失ってしまった、レストランの給仕長イロナと電車の運転手ラウリの夫婦。二人は次の職が見つからず苦しむが、やがてイロナがレストランを営むという目標を見い出し、共に手を取り合って夢の実現に励む。見終わると、ほんのり心が温まっている。そんな映画が好きだ。些細なことに幸せを感じることができれば、ほかに何がいるというのだろう。それはたとえば信頼であり、未来を疑わない希望であったりする。要は本人の心がけ次第なんだよね。
中島みゆきという強さ
2004年7月12日 音楽何で中島みゆきの歌が暗いといわれるのか、それはおそらく『生きていてもいいですか』というアルバムを出したことにあるのだと思う。
そして多くの人は、このアルバムを聞く事も、作られた背景も何も知らずに、その題だけで、中島みゆきは暗いって決め付けてるんだろうなあ。
でもね、中島みゆきは、とても強い女性だから、そんなイメージがつく危険を犯してでも訴えたかったんだと思う。そして、そういうみんなが触れることをあえて避ける部分を歌にしているところが、生に対して正々堂々と向き合ってて、誰よりもポジティブな歌手だという僕の印象なんだ。
このアルバムの中の一曲『エレーン』にアルバムの題となった言葉が使われているんだけど、これは、中島みゆきが大学時代に住んでいたアパートの隣の部屋に住んでいたヘレンっていう娼婦が、ある日殺された事件からつくられんだそうな。この歌の、生きていてもいいですか?っていう言葉は、人間の生きる意味、生きる価値を問うた、ヘレンの叫びなんだと思う。
そういった状況の人々のための歌が、この社会には少なすぎる。もっと、あっていいはずだ。絶望の極限までいったときに、そこで踏みとどまらせ、そして生きる力を与える歌が、そしてそんな人たちと一緒に戦う歌があってもいいはずだ。
そして、そういう歌を求めている人が確かにいるのだから。
中島みゆきは、自分のためにも歌うが、何よりも他者のために歌を作り、そして歌う。そして、中でも社会的弱者のために。差別を受ける者、失恋したもの、生きることに苦悩する人々。
彼女の歌はたとえ恋のことを歌っていても、その視点は人間の尊厳へと向いている。彼女の歌には、希望がある。その問題を受け流すのではなく、耐えて、乗り越える本当の希望がある。
オームの裁判で、中島みゆきの『誕生』という歌が引用されたと聞く。そういえば、僕も最もつらいときにこの歌に救われた。
中島みゆきの歌は、人が避ける人生の暗い問題から逃げず、対峙する強さと、そういった戦いを続ける人を慰め、助けるやさしさと、背中を押し勇気を与えてくれる厳しさがある。
人間の影の部分を隠さずに描くから、それを避けたい人には暗く写るのだろう。しかし、本当に絶望の淵から人を救うほどのパワーを持つ歌があるとすれば、僕は何よりも彼女の歌であると思っている。本当に希望へと向かうには、問題は避けては通れないことを彼女は知っているのだ。
彼女の歌は、強く、やさしく、そして、前向きで、生きる希望を照らす明るさがある。
たぶん誉めすぎだって思う人いるかもだけど、僕自身が彼女の歌で救われたわけだから、大目に見てちょ^^;
僕の今後の彼女の評価が例え変わったとしても、僕の人生に重大な影響を与えたという事実は変わらないのだからね。
そして多くの人は、このアルバムを聞く事も、作られた背景も何も知らずに、その題だけで、中島みゆきは暗いって決め付けてるんだろうなあ。
でもね、中島みゆきは、とても強い女性だから、そんなイメージがつく危険を犯してでも訴えたかったんだと思う。そして、そういうみんなが触れることをあえて避ける部分を歌にしているところが、生に対して正々堂々と向き合ってて、誰よりもポジティブな歌手だという僕の印象なんだ。
このアルバムの中の一曲『エレーン』にアルバムの題となった言葉が使われているんだけど、これは、中島みゆきが大学時代に住んでいたアパートの隣の部屋に住んでいたヘレンっていう娼婦が、ある日殺された事件からつくられんだそうな。この歌の、生きていてもいいですか?っていう言葉は、人間の生きる意味、生きる価値を問うた、ヘレンの叫びなんだと思う。
そういった状況の人々のための歌が、この社会には少なすぎる。もっと、あっていいはずだ。絶望の極限までいったときに、そこで踏みとどまらせ、そして生きる力を与える歌が、そしてそんな人たちと一緒に戦う歌があってもいいはずだ。
そして、そういう歌を求めている人が確かにいるのだから。
中島みゆきは、自分のためにも歌うが、何よりも他者のために歌を作り、そして歌う。そして、中でも社会的弱者のために。差別を受ける者、失恋したもの、生きることに苦悩する人々。
彼女の歌はたとえ恋のことを歌っていても、その視点は人間の尊厳へと向いている。彼女の歌には、希望がある。その問題を受け流すのではなく、耐えて、乗り越える本当の希望がある。
オームの裁判で、中島みゆきの『誕生』という歌が引用されたと聞く。そういえば、僕も最もつらいときにこの歌に救われた。
中島みゆきの歌は、人が避ける人生の暗い問題から逃げず、対峙する強さと、そういった戦いを続ける人を慰め、助けるやさしさと、背中を押し勇気を与えてくれる厳しさがある。
人間の影の部分を隠さずに描くから、それを避けたい人には暗く写るのだろう。しかし、本当に絶望の淵から人を救うほどのパワーを持つ歌があるとすれば、僕は何よりも彼女の歌であると思っている。本当に希望へと向かうには、問題は避けては通れないことを彼女は知っているのだ。
彼女の歌は、強く、やさしく、そして、前向きで、生きる希望を照らす明るさがある。
たぶん誉めすぎだって思う人いるかもだけど、僕自身が彼女の歌で救われたわけだから、大目に見てちょ^^;
僕の今後の彼女の評価が例え変わったとしても、僕の人生に重大な影響を与えたという事実は変わらないのだからね。
映画 『ウォーターワールド』
2004年7月12日 映画〔洋画〕
DVD ソニー・ピクチャーズエンタテインメント 2004/04/02 ¥2,090
2XXX年、地球温暖化は両極の氷をすべて溶かし、地表を消し去ってしまった。それから数世紀、残った人類は浮遊都市のなかで暮らしていた。船で放浪の旅を続けるマリナーは、背中に伝説の陸地の地図を彫った少女と出会う。コナン〜!コナン〜!こんなんできましたけど。ワーオワーオ。
冒頭、ユニバーサルのロゴマークである地球から、みるみる陸地が消えていく。90年代を代表する大スター、ケヴィン・コスナーが、映画100年を記念して最高のエンターテイメントに挑んだ超大作だ。『ジュラシック・パーク』の3倍近い、1億7500万ドルの制作費が投入された。監督はコスナーの盟友、ケヴィン・レイノルズ。
革命的なプロダクションデザインとダイナミックな視覚効果による、SFスペクタクル・アドベンチャーだ。これまで誰も見たことのない、驚異の未来世界の姿がここにはある。
僕は、警察や、教師ってのは、単なる職であってはならないと思う。そういった職に就く者は他の職種よりも、より人格的な資格を問われてしかるべきだと思う。
最近、警察内でのいじめにより、自殺した人がいたよね。本来取り締まる立場の人間が、そんなことやってるんだもんね。しかも、そのやり口も稚拙だよね。まず人間として、大人としても、成熟してないよね。
僕が高校時代のテニス部の副顧問の先生に、僕が中島みゆきの歌が好きだといったら、その先生「中島みゆきを聞くやつは暗いんだぞ」なんていってるの。僕はこんな人が先生やってるかと思うと、大変情けなくなったね。僕の中で先生ってのは、決してそういった偏見によって物事を見る人ではないと思ってただけに、ショックだった。
こういった先生が、戦争はいかん、差別はいかんなんていってる時点で、偽善だよね。だって自分も中島みゆきを聞いてる人を差別してるじゃん。
ただ自分の担当の科目が教えられればそれで先生になるのか。マックスウェーバーはそうだって言ってるけど、まあ、大学ならそれはまだわかる。義務教育じゃないから。その先生の授業を選択しない自由があるもんね。
ただ、小、中、そしておそらくは高までの学校ではやはり教師として、より高い倫理性を求められるべきなんじゃないかな。自分の行動に対する矛盾に常に気をつけておかないとね。
特に小学校なんて、一人がほとんどの授業を教えるわけなんだから、そこには、人間性の教育も当然含有されているわけでしょう。
平気で、人を仲間はずれにしたり、自分の感情のみで相手を見下したり、よくそのものを吟味もせずに、あしざまに罵ったりするものは、教師となる資格はないと思う。そういったことに、嫌悪ではなくて快感をえていることに疑問をもたないとしたら、そんな人間に教育を施されるなんて怖いことだもんね。
教師になる人は並べて人格者であれ、とまでは言わないけれど、そうあろうとする努力を怠らない人じゃないといけないとは思うよ。
某友人の日記に先生間の確執が書いてあった。影で、一生懸命やっている人を「きもい」呼ばわりする人間が、どうして、人にものを教える立場になれようか。教師たるもの、そんな無意味な中傷なんてものは、言っちゃあいけないんだよ。
最近、警察内でのいじめにより、自殺した人がいたよね。本来取り締まる立場の人間が、そんなことやってるんだもんね。しかも、そのやり口も稚拙だよね。まず人間として、大人としても、成熟してないよね。
僕が高校時代のテニス部の副顧問の先生に、僕が中島みゆきの歌が好きだといったら、その先生「中島みゆきを聞くやつは暗いんだぞ」なんていってるの。僕はこんな人が先生やってるかと思うと、大変情けなくなったね。僕の中で先生ってのは、決してそういった偏見によって物事を見る人ではないと思ってただけに、ショックだった。
こういった先生が、戦争はいかん、差別はいかんなんていってる時点で、偽善だよね。だって自分も中島みゆきを聞いてる人を差別してるじゃん。
ただ自分の担当の科目が教えられればそれで先生になるのか。マックスウェーバーはそうだって言ってるけど、まあ、大学ならそれはまだわかる。義務教育じゃないから。その先生の授業を選択しない自由があるもんね。
ただ、小、中、そしておそらくは高までの学校ではやはり教師として、より高い倫理性を求められるべきなんじゃないかな。自分の行動に対する矛盾に常に気をつけておかないとね。
特に小学校なんて、一人がほとんどの授業を教えるわけなんだから、そこには、人間性の教育も当然含有されているわけでしょう。
平気で、人を仲間はずれにしたり、自分の感情のみで相手を見下したり、よくそのものを吟味もせずに、あしざまに罵ったりするものは、教師となる資格はないと思う。そういったことに、嫌悪ではなくて快感をえていることに疑問をもたないとしたら、そんな人間に教育を施されるなんて怖いことだもんね。
教師になる人は並べて人格者であれ、とまでは言わないけれど、そうあろうとする努力を怠らない人じゃないといけないとは思うよ。
某友人の日記に先生間の確執が書いてあった。影で、一生懸命やっている人を「きもい」呼ばわりする人間が、どうして、人にものを教える立場になれようか。教師たるもの、そんな無意味な中傷なんてものは、言っちゃあいけないんだよ。
映画 『鋼鉄の男 パンピンアイアン』
2004年7月11日 映画〔洋画〕
VHS コロムビアミュージックエンタテインメント 1987/01/21 ¥14,763
シュワルツェネッガーがボディ・ビルダーだった頃のトレーニング風景などを記録したドキュメンタリー。女性版の続編「パンピン・アイアン?」がある。実はこの映画で、シュワルツネッガーがナチス礼賛的な発言をしていたのが、知事選に立候補したときに問題にされたよね。シュワちゃんは、若かりしころの過ちだったなんていってたけど、乱交したり、のし上がるために身売りをしたがビジネスだと割り切っていたなんて言ったり。このドキュメントに出てくるシュワちゃんは紛れもなく素のシュワちゃんだけど、ものすごい自信家ってことがわかる。そして、人を見下してるようにも写るなあ。でもたまにやさしい面も見せてるし。でも、人種差別的な見方はいまだにしてるよね。
読書 『パイドロス』
2004年7月10日 読書〔小説・詩〕
ISBN:400336015X 文庫 藤沢 令夫 岩波書店 1967/01 ¥588
上に記した説はその後ソクラテスによって覆されることになるのだが、その覆すために用いたミュートス(物語)が、神という世界を前提に置き、その存在の根拠が語られえないことから、ご都合的な説にしか思えない。そして、そういったソクラテス(の名を借りたプラトン)の創出したミュートスがいかに優れたものだとて、そこから、恋がもっとも崇高なものであるという結論を導き出すのは納得できない。確かに、狂乱が総て忌避すべきものだとは僕も考えないが。
しかしながら、全体的には大変良い読み物だった。
ソクラテスが、なぜ自分の書き物を何も残していないのかということが良くわかった。
真実そのものの把握なしには真実らしく語ることさえ本来的に不可能であることを立証し、「哲学」の立場から鋭く当時の弁論術を批判したのがこの対話篇である。本書はプラトン(前427‐347)の代表作の一つであって、特に『ソクラテスの弁明』をはじめとする前期著作群を『テアイテトス』以降の著作に結びつけてゆく重要な役割を担っている。我々を支配しみちびく二つの種類の力があり、一つは、生まれながらに備わっている快楽への欲望、もう一つは、最善のものを目指す後天的な分別の心で、分別の心が我々を理性の声によって最善のもののほうへとみちびいて、勝利を得るときには、この勝利に「節制」という名があたえられ、これに対して、欲望が我々を盲目的に快楽のほうへとひきよせて、我々の中において支配権をにぎるときは、この支配に「放縦」という名が与えられる。
上に記した説はその後ソクラテスによって覆されることになるのだが、その覆すために用いたミュートス(物語)が、神という世界を前提に置き、その存在の根拠が語られえないことから、ご都合的な説にしか思えない。そして、そういったソクラテス(の名を借りたプラトン)の創出したミュートスがいかに優れたものだとて、そこから、恋がもっとも崇高なものであるという結論を導き出すのは納得できない。確かに、狂乱が総て忌避すべきものだとは僕も考えないが。
しかしながら、全体的には大変良い読み物だった。
ソクラテスが、なぜ自分の書き物を何も残していないのかということが良くわかった。
良心への過信、慢心、増長。
2004年7月10日選挙の日が市役所の試験なので、不在者投票に行く。
維新政党新風ってなんだ?
ふう、最近僕の力の至らなさをひしひしと感じる。もともと、力が至ると考えていること自体尊大な考えであるのだなあ。別に自覚的にってわけではなくて、いつのまにかそう思ってたのかもしれない。
至ろうが至らなかろうが、誰かが誰かの助けを求めていたら、その人が望む限り、力になろうとするだけでいいじゃないか。結果至らないとしても、だからといってそういった志をやめてしまうゆわれはないじゃないか。僕は僕なりに誰かの力になれたらいいなあくらいの気持ちで努力していければいいじゃないか。
維新政党新風ってなんだ?
ふう、最近僕の力の至らなさをひしひしと感じる。もともと、力が至ると考えていること自体尊大な考えであるのだなあ。別に自覚的にってわけではなくて、いつのまにかそう思ってたのかもしれない。
至ろうが至らなかろうが、誰かが誰かの助けを求めていたら、その人が望む限り、力になろうとするだけでいいじゃないか。結果至らないとしても、だからといってそういった志をやめてしまうゆわれはないじゃないか。僕は僕なりに誰かの力になれたらいいなあくらいの気持ちで努力していければいいじゃないか。
VHS ビデオメーカー 2000/01/07 ¥16,800
地球侵略のため、悪の宇宙神ロード・ドゥームが放った身長75メートルの巨大怪獣グジラ。それに立ち向かう人々の姿を、壮大なスケールで描くモンスター・パニック。愛すべきカルト映画。見終えるのにかなりの忍耐を要するので、興味本位で借りてください。温かい心で見てあげてください。ゴジラの広告を突き破ってグジラが出てくるところなど、見所満載とまではいかないけど見所と思えば思えなくもないところもあるかもしれません。シリアスホラーコメディー調の怪獣映画です。ダースベイダーみたいなのも出てきます。しかも続きを臭わす終わり方をしています!何よりも、これにはゴジラに対するあふれんばかりの愛情が感じられるのです。いろんな意味で涙を誘ってくれるので、裏の傑作リストに、シベリア超特急とともにランクインです。
読書 『マンガ日本経済入門〈Part3〉』
2004年7月9日 読書〔漫画〕
ISBN:4532191068 文庫 石ノ森 章太郎 日本経済新聞社 2002/01 ¥580
1980年代後半のバブル経済真っ只中の日本経済をマンガで生中継。プラザ合意以後の急激な円高問題、株と土地の暴騰による狂乱経済、コメ自由化をめぐる日米摩擦など、その後の日本経済に大きく影響を与えた事件を楽しいストーリーマンガで解説した。あうう、例えマンガにしたとて、株ってもんは難しすぎる。。。
目次
1 Fedウオッチング(外国為替市場)
2 崩れゆく聖域(農業問題)
3 新人類相場(株式市場)
4 ヒドン・アセット(土地問題)
映画 『ウォー・ゲーム』
2004年7月9日 映画〔洋画〕
DVD 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン 2004/01/23 ¥2,090
昔、よく吹き替えでテレビで放映されてたじゃん。歌がよかったような覚えがあるのだけれど。。カルチャークラブ?違ったっけ???
コンピュータに精通した高校生が、偶然北米大陸防空司令部のコンピュータにアクセスしてしまい、それと知らず戦争ゲームを始めていくうちに、世界は核戦争の危機に見舞われてしまう…。ハッキングハッキング〜♪この少年気づくの遅すぎやねんなあ(^ー^;A アセアセ
製作当時はいざ知らず、今となってはまったくもって空想ではなくなってしまった近未来サスペンス映画。コンピュータのハッキングをモチーフにした映画としては、おそらくはこれが第1号かもしれない。職人ジョン・バダム監督の緊迫感あふれる演出が絶好調。
また、マシュー・ブロデリックやアリー・シーディといった当時の若手スターによる青春映画としての味わいもある。クライマックスで暴走を始めたコンピュータを抑えるための手段が、これまた実に意外でおもしろい。
昔、よく吹き替えでテレビで放映されてたじゃん。歌がよかったような覚えがあるのだけれど。。カルチャークラブ?違ったっけ???
いじられちゃ
2004年7月8日テニスクラブ、ここにきてようやくメンバーの皆さんと打ち解けてこれたみたい。僕は一番年下なので、皆さんいじってくださる。Mな僕は、そんないじられキャラが心地よかったり(爆)
平日の朝市のテニスクラブなので、男性は少なくて、今日も僕入れて男性は2人で、他はみんな女性で、おそらく主婦の方々。
でも皆さん僕よりスタミナがあって、僕がゼエゼエいいってるのに、続けてレッスン受ける人もいるくらいで、すごいです。
僕は女性と話したりするのが苦手なんだけど、一緒に運動することで自然に打ち解けることができて、やっぱり運動ってコミュニケーションには打ってつけだなあとしみじみ思う。
テニスのあと、休憩室で、汗が引くのを待ってたら、同じクラスの主婦の方がやってきて、一緒にオロナミンC飲む。どうやら、冬ソナにはまってるとのことで、熱く語ってくれた。
話してて、気づいたけど、口が痙攣しなかった。僕は人と話してると、口が痙攣したりしてしまって、それが対人へと発展してたんだけど、痙攣せずに話せたのは、薬飲んでるおかげかなあ。
今日は病院デーでもあるので、時間まで、商店街の喫茶店で読書していたら、突然ものすごい雨と風と雷。そして、でっかい雷が落ちたと思ったら、商店街が全部停電した!いやあ、驚いたのなんの。こんな豪雨ひさしぶりに体験したよ。
でも、僕が帰るころには、すでに雨はやんでて、いわゆる夕立ってやつですか。
トマトジュースかいました。
平日の朝市のテニスクラブなので、男性は少なくて、今日も僕入れて男性は2人で、他はみんな女性で、おそらく主婦の方々。
でも皆さん僕よりスタミナがあって、僕がゼエゼエいいってるのに、続けてレッスン受ける人もいるくらいで、すごいです。
僕は女性と話したりするのが苦手なんだけど、一緒に運動することで自然に打ち解けることができて、やっぱり運動ってコミュニケーションには打ってつけだなあとしみじみ思う。
テニスのあと、休憩室で、汗が引くのを待ってたら、同じクラスの主婦の方がやってきて、一緒にオロナミンC飲む。どうやら、冬ソナにはまってるとのことで、熱く語ってくれた。
話してて、気づいたけど、口が痙攣しなかった。僕は人と話してると、口が痙攣したりしてしまって、それが対人へと発展してたんだけど、痙攣せずに話せたのは、薬飲んでるおかげかなあ。
今日は病院デーでもあるので、時間まで、商店街の喫茶店で読書していたら、突然ものすごい雨と風と雷。そして、でっかい雷が落ちたと思ったら、商店街が全部停電した!いやあ、驚いたのなんの。こんな豪雨ひさしぶりに体験したよ。
でも、僕が帰るころには、すでに雨はやんでて、いわゆる夕立ってやつですか。
トマトジュースかいました。
映画 『ウエスト・サイド物語』
2004年7月8日 映画〔洋画〕
DVD 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン 2003/03/07 ¥2,625
もっと華やかで賑やかなってミュージカルに対する思い込みを見事に崩されちゃった。それにしても、最初は単なる不良同士の喧嘩だったのいつしかあんなことやこんなことに。痛いなあ。。。
ニューヨークの下町ウエスト・サイドでは、2つの不良グループ、ジェット団とシャーク団が対立していた。元ジェット団リーダーのトニーは、マリアという女性に恋をする。だがマリアは、シャーク団リーダーの妹だった。いやあああ、痛々しいミュージカルだあ( ̄□ ̄;;)!
冒頭、70ミリカメラがニューヨークの上空から、裏町ウエスト・サイドへ降りたつ。その高度な緊迫感と迫力、高揚する生気と感動が、全世界の若者の心をとらえた。61年のアカデミー作品賞ほか、全11部門を受賞。レナード・バーンスタインによる音楽、ジェローム・ロビンズによる踊り、名匠ロバート・ワイズによる映像の、すべてが巧みに一体化している。
名曲『トゥナイト』と『アメリカ』、そして体育館での圧倒的なダンス。これぞ、映画史上空前のミュージカルといえるだろう。
もっと華やかで賑やかなってミュージカルに対する思い込みを見事に崩されちゃった。それにしても、最初は単なる不良同士の喧嘩だったのいつしかあんなことやこんなことに。痛いなあ。。。
読書 『マンガ日本経済入門〈Part2〉』
2004年7月7日 読書〔漫画〕
ISBN:4532191017 文庫 石ノ森 章太郎 日本経済新聞社 2001/11 ¥580
1980年代後半の日本経済最前線をマンガで生中継。金融再編成、日米自動車戦争、ハイテク摩擦、累積債務問題など、次々に日本経済を襲う難問と、その裏に見え隠れする大きな波動の秘密とは―。日本経済をエンターテインメントで味付けした教養マンガの決定版。いやあ、よくわかる。マンガなんだけど、一ページ一ページの枠外に経済用語の説明が載ってて、いつのまにか、結構な経済単語を覚えたりもできる。そして、ストーリーはプロジェクトX風味で、その中に、あっさーいけど多少のストーリー性を盛り上げる恋愛だの読者サービスだのもある(笑)でもあくまで主軸は経済のお勉強。どろどろした裏のところも良くわかる。そして、人道主義じゃあ、やっぱ駄目ってのは政治だけじゃなくて、経済も経済独自の倫理というものが要求されるってことなんだね。
目次
1 裸の花嫁
2 レミング症候群
3 ハイテク・トラップ
4 支配する波
5 なべてこの世は…
映画 『ウエスタン』
2004年7月7日 映画〔洋画〕
DVD パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン 2003/11/21 ¥4,935
映画ってもんは見たらすぐ感想書かなきゃだな。よっぽど印象に残らん限り、何年も前に見た作品なんて、ましてや西部劇なんて。あうう。。。
荒野の駅に降り立った、ハーモニカを持つ謎の男(チャールズ・ブロンソン)が荒野の駅に降り立ち、3人のならず者を射殺した。その頃、再婚相手を待つ農場主一家が、殺し屋フランク(ヘンリー・フォンダ)一味に虐殺され、その罪は無法者シャイアン(ジェイスン・ロバーツ)になすりつけられる。一味はさらに、到着早々にして新妻から未亡人となったジル(クラウディア・カルディナーレ)の命をも狙うが、そのたびに“男”に邪魔されていく…。ウエスターンだと思ってたらそんままウエスタン。これまた内容を思い出せない^^;。西部劇というものが、あまり、好きではないってのも大きいんだけれど。埃っぽい。僕は土負けする皮膚だから、見てると痛くなる(笑)
『荒野の用心棒』でイタリア製西部劇=マカロニ・ウェスタンのブームを築いたイタリアの名匠セルジオ・レオーネ監督が、ハリウッド・スターを用いて演出にあたった一大西部叙事詩。血と砂ぼこり、復しゅうにまみれた悠々たる流れのドラマツルギーの中、アップとロング・ショットの巧みな交錯など、レオーネ演出ならではの持ち味が遺憾なく発揮された傑作。
レオーネ映画に欠かせない音楽担当エンニオ・モリコーネは、ハーモニカの響きを印象的に、時に陰惨な、時にノスタルジックな、そして時にユーモラスな名曲の数々を矢継ぎ早に披露し、映像を見事なまでに援護射撃している。名優H・フォンダの凄みある悪役ぶりなど、キャストの好演も特筆事項である。日本公開時はアメリカ・ロケが大きく謳われたが、モニュメントヴァレーの風景などが少し映し出される程度で、実際はほとんどのシーンをスペインで撮影。また初公開時の上映時間は約141分であった。
映画ってもんは見たらすぐ感想書かなきゃだな。よっぽど印象に残らん限り、何年も前に見た作品なんて、ましてや西部劇なんて。あうう。。。
読書 『哈日族 −なぜ日本が好きなのか』
2004年7月6日 読書
ISBN:4334032486 新書 酒井 亨 光文社 2004/05/15 ¥735
さて、台湾も、朝鮮半島も、過去日本の植民地だった。なのに、戦後、日本にそれぞれの国民が抱く反応は全く異なってる。韓国では、戦前を知る人たちは、ほとんどが反日なのに、台湾の人々は圧倒的に親日派である。同じ植民地であったのに、なぜこれほどまでに日本の印象が変わってくるのか。それは、台湾がずっと植民地だったことによるらしい。
戦後、中国国民党が台湾にはいってきて、形式的には、植民地ではないが、実質的には、植民地支配と代わらない政策を行い、徹底的な反共政策、中国語の強制などを行った。したがって、台湾の国民は、日本の植民地時代と中国国民党の政策を相対的に評価できるようになり、そして、現政府の反旗という作用も働いて、親日派が多くなったということらしい。ただ、今の台湾の若い世代は、そういった政治的・歴史的な背景からではなく、グローバリゼーションの広まりの一環としての記号的に日本文化を摂取しているにすぎず、同じ親日でもその世代間に大きな違いがある。つまりは、より浅薄で流動的な価値観の共有こそが、この「哈日族」という現象であり、台湾だけでなく世界的な現象となりつつあるのも、皮相的であるからこそともいえる。それはつまり、「日本」だから、というのではなく、韓国やその他の国であっても良いのである。それだけ、日本と台湾の文化の垣根が低くなったということであり、それは、反日が掲げる文化的侵略などというものではなく、グローバリゼーションの流れに台湾も乗っているということなだけなのだ。
最近、そういえば日本に「哈韓族」が増えてきてるなあ。
「哈日族」とは日本初の流行ファッションや音楽、キャラクターグッズ、テレビゲーム、ドラマ、漫画などが好きでたまらなく、「日本を模倣」する台湾の若者を指す。当初、ブームと思われていた「哈日族現象」は十年以上に及ぶ。一方、李登輝・前総統に代表される、日本植民地時代に日本語教育を受けた世代には日本に親近感を抱く人が多い。両世代に繋がりはあるのだろうか。哈日族(ハーリーズー)の台湾人大学生がつい最近日本に旅行して殺害されたニュースがあった。そのときちょうどこの本を読んでいたわけだが、日本は安全だという神話も、そう長くは持たないだろうなあ。いや、もう崩れてるけどね。
さらに、哈日族現象は韓国、香港、シンガポール、中国沿岸地区など、経済発展が目覚ましいアジアに広がりを見せている。
哈日族とは何者か?
哈日族現象から読める台湾・日本・アジアの意外な素顔。
さて、台湾も、朝鮮半島も、過去日本の植民地だった。なのに、戦後、日本にそれぞれの国民が抱く反応は全く異なってる。韓国では、戦前を知る人たちは、ほとんどが反日なのに、台湾の人々は圧倒的に親日派である。同じ植民地であったのに、なぜこれほどまでに日本の印象が変わってくるのか。それは、台湾がずっと植民地だったことによるらしい。
戦後、中国国民党が台湾にはいってきて、形式的には、植民地ではないが、実質的には、植民地支配と代わらない政策を行い、徹底的な反共政策、中国語の強制などを行った。したがって、台湾の国民は、日本の植民地時代と中国国民党の政策を相対的に評価できるようになり、そして、現政府の反旗という作用も働いて、親日派が多くなったということらしい。ただ、今の台湾の若い世代は、そういった政治的・歴史的な背景からではなく、グローバリゼーションの広まりの一環としての記号的に日本文化を摂取しているにすぎず、同じ親日でもその世代間に大きな違いがある。つまりは、より浅薄で流動的な価値観の共有こそが、この「哈日族」という現象であり、台湾だけでなく世界的な現象となりつつあるのも、皮相的であるからこそともいえる。それはつまり、「日本」だから、というのではなく、韓国やその他の国であっても良いのである。それだけ、日本と台湾の文化の垣根が低くなったということであり、それは、反日が掲げる文化的侵略などというものではなく、グローバリゼーションの流れに台湾も乗っているということなだけなのだ。
最近、そういえば日本に「哈韓族」が増えてきてるなあ。