前回からの進歩、若干。。。ね
2004年12月12日 テニス今日は待ちに待ったテニスの大会であるが、田舎のリフォームを手伝ってくれと叔父ちゃん(兄ちゃんと呼べと脅されている)に頼まれたわけで、日が重なってしまった。たんすなんかを移動させるのに男手が必要で、僕がいなきゃにっちもさっちもいかず、ゆえに無碍に断ることもはばかられるということで、テニスの大会における僕の試合は午後の2時以降だし、午前中に手伝いに行く旨を伝えて迎いにきてもらう。
叔父ちゃんは、手伝いでへとへとになって試合に支障をきたしたらなんて心配してくれたけど、僕としては、試合前に緊張ほぐしに体を動かしておいたほうかなっと思ったので、試合が終わってからいくという選択もできたけどあえて午前中にしたのだ。
それに、試合が終わってから、手伝うとなると、夜遅くなっちゃうし、試合で疲れて、タンスを運ぶなんての方がめんどいもんな。
ということで、田舎で、でっかいタンスを三つはこんだわけで、腰がやられそうになった。
雨が降りそうで心配したけど、昼から天気は若干快方に向かってくれて、テニスの大会は雨天順延にならずにすんだ。
僕の試合は遅れに遅れて3時ごろから。
この前は下半身がひょろひょろで散々なできだったけど、今回は走りこみの成果で前よりもずいぶん増しになってた。といっても負けちゃったけどね。。。
ただ、あきらかに前よりも動けるようになってるし、ストロークもいいのがいくようになってきた。5年ぶりにテニス再開して、2大会目だもん、贅沢はいいませんよ。僕に今必要なのは、大会にコンスタントに出つづけることによって、試合なれ、および試合勘を養っていくこと。最初の大会に比べたら、今回は飛躍的に進歩してたわけだし、さらにがんばって走りこんでいけば、勝利も近い??
試合が終わったてから、あの時ああしとけばよかったとか思っちゃうけど、そのひとつに、室内テニスと屋外テニスの違いね。
僕はいってるテニスクラブは室内コートなので、球足が速い。だから、あまりスピンをかけずに、フラットドライブの球を打つのがいいわけだけど、その感覚をそのまま屋外でやっちゃうと、球が飛びすぎてアウトになっちゃう。僕は試合の途中でそのことに気がついて、スピンをかける打ち方に変えたけど、最初から気づいとけば!とか後悔したけど、まあ、次からは外でやるときはスピンを思いっきりかけよっと。
僕はすぐに強打したくなっちゃうから、粘ってボールを返す我慢強さも必要だな。でもやっぱり、何よりも走りこみ。下半身の安定が何よりの基礎だね。前よりましとはいい条、今回もやっぱり、ボールに振り回されて、脚がなかなかついていかなかった。スタミナつけなきゃ、走りこみしなきゃ。今日の試合はもちっと粘れば勝てた試合だっただけに、悔しさもにじむし、悔しく感じるということは、それだけ、実力がついたということで、喜ばしいことでもあるのだなあ、と自分に言い聞かせて、次回にかける。
次は年明け、2月にあるぞ!
叔父ちゃんは、手伝いでへとへとになって試合に支障をきたしたらなんて心配してくれたけど、僕としては、試合前に緊張ほぐしに体を動かしておいたほうかなっと思ったので、試合が終わってからいくという選択もできたけどあえて午前中にしたのだ。
それに、試合が終わってから、手伝うとなると、夜遅くなっちゃうし、試合で疲れて、タンスを運ぶなんての方がめんどいもんな。
ということで、田舎で、でっかいタンスを三つはこんだわけで、腰がやられそうになった。
雨が降りそうで心配したけど、昼から天気は若干快方に向かってくれて、テニスの大会は雨天順延にならずにすんだ。
僕の試合は遅れに遅れて3時ごろから。
この前は下半身がひょろひょろで散々なできだったけど、今回は走りこみの成果で前よりもずいぶん増しになってた。といっても負けちゃったけどね。。。
ただ、あきらかに前よりも動けるようになってるし、ストロークもいいのがいくようになってきた。5年ぶりにテニス再開して、2大会目だもん、贅沢はいいませんよ。僕に今必要なのは、大会にコンスタントに出つづけることによって、試合なれ、および試合勘を養っていくこと。最初の大会に比べたら、今回は飛躍的に進歩してたわけだし、さらにがんばって走りこんでいけば、勝利も近い??
試合が終わったてから、あの時ああしとけばよかったとか思っちゃうけど、そのひとつに、室内テニスと屋外テニスの違いね。
僕はいってるテニスクラブは室内コートなので、球足が速い。だから、あまりスピンをかけずに、フラットドライブの球を打つのがいいわけだけど、その感覚をそのまま屋外でやっちゃうと、球が飛びすぎてアウトになっちゃう。僕は試合の途中でそのことに気がついて、スピンをかける打ち方に変えたけど、最初から気づいとけば!とか後悔したけど、まあ、次からは外でやるときはスピンを思いっきりかけよっと。
僕はすぐに強打したくなっちゃうから、粘ってボールを返す我慢強さも必要だな。でもやっぱり、何よりも走りこみ。下半身の安定が何よりの基礎だね。前よりましとはいい条、今回もやっぱり、ボールに振り回されて、脚がなかなかついていかなかった。スタミナつけなきゃ、走りこみしなきゃ。今日の試合はもちっと粘れば勝てた試合だっただけに、悔しさもにじむし、悔しく感じるということは、それだけ、実力がついたということで、喜ばしいことでもあるのだなあ、と自分に言い聞かせて、次回にかける。
次は年明け、2月にあるぞ!
映画 『悪魔のような女』(96年)
2004年12月12日 映画〔洋画〕
DVD ワーナー・ホーム・ビデオ 2004/10/15 ¥3,129
1955年にシモーヌ・シニョレ、ヴェラ・クルーゾー主演で映画化された名作ミステリを、異色の2大女優共演でリメイクしたサスペンススリラー。ラストまではほぼ55年版を世襲してはいるが、いかんせん、ラストが苦しい、苦しすぎる。あんな終わりかただと改竄といわれても仕方ないよ。これもやはり、ハリウッドのもろもろの規制ゆえでしょうか?とにかく55年版には及ぶべくもなく。
全寮制男子校の理事長ガイ(チャズ・パルミンテリ)は、女教師ニコル(シャロン・ストーン)と愛人関係にあったが、彼の病弱な妻ミア(イザベル・アジャーニ)はその関係を暗黙のうちに認めていた。ガイが暴力をふるうようになり、ニコルとミアは2人でガイの殺害を企むが…。
正妻と愛人が組んで男を殺すという衝撃的なストーリーを、ラストにひねりを加えつつ前作をほぼそのままにリメイク。シャロン・ストーン演じる女教師ニコルのキャラクターが平板なのが気になる。イザベル・アジャーニも『ポゼッション』級にハジけきって欲しかったが、それもいまいち。名作リメイクとしては及第点だが、やはり前作の緊迫感には及ばないか。そうはいっても、計画通りにはいかない殺人計画、困難を極める殺しのシーンなどは印象に残る。2人を追い詰める女探偵役のキャシー・ベイツ、殺されてしまう理事長ガイ役のチャズ・パルミンテリがイイ味。
僕もよく使う勉強という言葉、ほんとは使いたくないんだよね。
勉強って何だ?っと思ってるから。
辞書で引いてみると、「学問や技術を学ぶこと」ってある。
じゃあ、学問って何だ?って思うわけ。
だから今度は学問ってのを調べてみると、「一定の理論に基づいて体系化された知識と方法」ってある。哲学や史学や文学・社会科学・自然科学などの総称なんだって。
はて?とここで疑問に思う。
一定の理論に基づいて体系化された知識と方法なんて、上に述べたこと意外にもごまんとあるのに、なぜに上記の科目だけを学問と呼ぶのか?ということなのである。
だってそうじゃない。たとえばドラクエのクリアの仕方だって一定の理論に基づいて体系化された理論と方法といえるわけだし、文学があるなら、マンガ読むことだって学問ととらえることができるわけじゃない。
いったい僕たちは何を持って学問というものを規定しているのかってことなわけで。僕が思うに、この世のほとんどのものは体系化できると思っているので、そこから一定の知識や方法も導きだせるわけで、それを思えば、森羅万象の物事は学問として成立するわけなのだ。
よく、趣味は学問なんていう場合があるけど、この世のすべてのものが学問になるなら、この趣味は学問っていうのは成立しないわけで、なんとならば趣味は全部ですっていってるのと同じになっちゃうから。
趣味に学問が包含されるのじゃなくて、学問に趣味が包含されているというのが正しいんだと僕なんかは思うのだけど。
ただ、学問をどうしても一定の範囲の事物に限定したいなら、区別するために対概念というものが必要になってくるわけで、ひとつの可能性として、趣味と学問を対概念として成り立たせてみると、趣味は能動的な態度で摂取する知識や方法。学問は、受動的な態度で摂取する知識や方法。という風に選別できるわけで、この場合、自分が英語が好きで率先してやることが苦にならなければ、英語はもう学問ではなくて趣味ということになる。
まあ、これは学問を定義づける場合の一例だけど。
僕の立場としては、やはり、この世のすべての物事は学問だということなのでね。遊ぶにしても、その遊びのルールを覚えるために僕たちは学ぶわけで、考えたり、覚えたりしなきゃならないわけで、それはつまり学問なわけであって、僕たちは遊びを勉強してるといえる。
だから、まず前提として学問というこの世の体系化された方法や知識があり、その中で僕たちは好きになったものを趣味と呼び、楽しむことを遊びといってるんだと思う。
つまり、インテリなんて言葉は皆が嗜好しない珍しい学問を遊びとするマイノリティに対する差別用語であり、また、インテリと呼ばれうる人たちはマイノリティでありながら大衆という差別用語を他の人に当てはめる。その区別は単に何を嗜好しているか?の違いだけであり、どちらが頭がよいも悪いもないのである。ゲームに詳しい人がいたら、その部分に関して、他の人よりも彼は抜きん出て頭がいいといえるし、数学ができる人は、その部分において抜きん出ているというだけであって、数学ができる人の方が勉強ができるとか、頭がいいとかいうのはまったくないわけだ。
ただ、社会でどちらのほうが有用であるか、つまりマジョリティに対して、彼の持っている知識が必要とされる度合いに応じて、彼の知識に需要の差が生じ、需要が多いことが、それぞれの学問の付与価値となり、その学問の価値に対して人々のコンセンサスが生まれ、その価値が高いとされるにいたった学問を習熟しているものが勉強ができるとかいわれて、そこに価値意識の差別により階級化がなされるわけであり、本来なら何ら一人間としてはえらくない人間なんかが、社会の需要によって与えられた地位によって立派な人物なんてな特権意識が醸成されていくわけである。
知識人なんて人は、どの分野にもいるわけで、ゲームが詳しい人は、詳しくない人にとってはゲームの知識人であり、それはゲームを知らない人すべてに対してゲームの知識人として成立するのである。だから、朝まで生テレビに出ている知識人と呼ばれる人たちも、その分野に関してだけの知識人であり、社会の流行に対しては、女子高校生のほうが彼らよりもよほど知識人なのである。自分の知らないことをひとつでも知っている人がいたら、その時点で知らない人より知っている人のほうがその部分だけにおいては知識人といえるわけである。つまりこの世の中、みんな知識人であるから、知識人なんていう呼称は意味がないし必要ない。
頭がいいなんていう概念も、みんなに適応できるのだから、意味がない。そして、誰も彼も尊敬できる部分とできない部分を持ち合わせているので、人は自分が嗜好している部分に対してあの人は尊敬できるといえるだけで、すべてにおいて尊敬できる人などいない。
そして、いち人間としての価値で比較して、誰が誰よりも偉いということもいっさいない。
勉強しなきゃ、勉強してる、とかいう言葉を言ったりする場合、「えらいなあ」とか「すごいなあ」とかいう言葉が返ってくることもままあるけれど、何ら勉強することが偉いことではなく、凄いことでもなく、みんながそれぞれの物事でやっているのと同じことであり、偉いとか凄いとかいう人も、同様に偉く凄いのであり、ただ、それぞれが嗜好しないことを勉強しているから、自分が好きでないことを率先してやる姿が、偉く、凄く映るというだけの話なのである。
勉強って何だ?っと思ってるから。
辞書で引いてみると、「学問や技術を学ぶこと」ってある。
じゃあ、学問って何だ?って思うわけ。
だから今度は学問ってのを調べてみると、「一定の理論に基づいて体系化された知識と方法」ってある。哲学や史学や文学・社会科学・自然科学などの総称なんだって。
はて?とここで疑問に思う。
一定の理論に基づいて体系化された知識と方法なんて、上に述べたこと意外にもごまんとあるのに、なぜに上記の科目だけを学問と呼ぶのか?ということなのである。
だってそうじゃない。たとえばドラクエのクリアの仕方だって一定の理論に基づいて体系化された理論と方法といえるわけだし、文学があるなら、マンガ読むことだって学問ととらえることができるわけじゃない。
いったい僕たちは何を持って学問というものを規定しているのかってことなわけで。僕が思うに、この世のほとんどのものは体系化できると思っているので、そこから一定の知識や方法も導きだせるわけで、それを思えば、森羅万象の物事は学問として成立するわけなのだ。
よく、趣味は学問なんていう場合があるけど、この世のすべてのものが学問になるなら、この趣味は学問っていうのは成立しないわけで、なんとならば趣味は全部ですっていってるのと同じになっちゃうから。
趣味に学問が包含されるのじゃなくて、学問に趣味が包含されているというのが正しいんだと僕なんかは思うのだけど。
ただ、学問をどうしても一定の範囲の事物に限定したいなら、区別するために対概念というものが必要になってくるわけで、ひとつの可能性として、趣味と学問を対概念として成り立たせてみると、趣味は能動的な態度で摂取する知識や方法。学問は、受動的な態度で摂取する知識や方法。という風に選別できるわけで、この場合、自分が英語が好きで率先してやることが苦にならなければ、英語はもう学問ではなくて趣味ということになる。
まあ、これは学問を定義づける場合の一例だけど。
僕の立場としては、やはり、この世のすべての物事は学問だということなのでね。遊ぶにしても、その遊びのルールを覚えるために僕たちは学ぶわけで、考えたり、覚えたりしなきゃならないわけで、それはつまり学問なわけであって、僕たちは遊びを勉強してるといえる。
だから、まず前提として学問というこの世の体系化された方法や知識があり、その中で僕たちは好きになったものを趣味と呼び、楽しむことを遊びといってるんだと思う。
つまり、インテリなんて言葉は皆が嗜好しない珍しい学問を遊びとするマイノリティに対する差別用語であり、また、インテリと呼ばれうる人たちはマイノリティでありながら大衆という差別用語を他の人に当てはめる。その区別は単に何を嗜好しているか?の違いだけであり、どちらが頭がよいも悪いもないのである。ゲームに詳しい人がいたら、その部分に関して、他の人よりも彼は抜きん出て頭がいいといえるし、数学ができる人は、その部分において抜きん出ているというだけであって、数学ができる人の方が勉強ができるとか、頭がいいとかいうのはまったくないわけだ。
ただ、社会でどちらのほうが有用であるか、つまりマジョリティに対して、彼の持っている知識が必要とされる度合いに応じて、彼の知識に需要の差が生じ、需要が多いことが、それぞれの学問の付与価値となり、その学問の価値に対して人々のコンセンサスが生まれ、その価値が高いとされるにいたった学問を習熟しているものが勉強ができるとかいわれて、そこに価値意識の差別により階級化がなされるわけであり、本来なら何ら一人間としてはえらくない人間なんかが、社会の需要によって与えられた地位によって立派な人物なんてな特権意識が醸成されていくわけである。
知識人なんて人は、どの分野にもいるわけで、ゲームが詳しい人は、詳しくない人にとってはゲームの知識人であり、それはゲームを知らない人すべてに対してゲームの知識人として成立するのである。だから、朝まで生テレビに出ている知識人と呼ばれる人たちも、その分野に関してだけの知識人であり、社会の流行に対しては、女子高校生のほうが彼らよりもよほど知識人なのである。自分の知らないことをひとつでも知っている人がいたら、その時点で知らない人より知っている人のほうがその部分だけにおいては知識人といえるわけである。つまりこの世の中、みんな知識人であるから、知識人なんていう呼称は意味がないし必要ない。
頭がいいなんていう概念も、みんなに適応できるのだから、意味がない。そして、誰も彼も尊敬できる部分とできない部分を持ち合わせているので、人は自分が嗜好している部分に対してあの人は尊敬できるといえるだけで、すべてにおいて尊敬できる人などいない。
そして、いち人間としての価値で比較して、誰が誰よりも偉いということもいっさいない。
勉強しなきゃ、勉強してる、とかいう言葉を言ったりする場合、「えらいなあ」とか「すごいなあ」とかいう言葉が返ってくることもままあるけれど、何ら勉強することが偉いことではなく、凄いことでもなく、みんながそれぞれの物事でやっているのと同じことであり、偉いとか凄いとかいう人も、同様に偉く凄いのであり、ただ、それぞれが嗜好しないことを勉強しているから、自分が好きでないことを率先してやる姿が、偉く、凄く映るというだけの話なのである。
映画 『悪魔のような女』(55年)
2004年12月11日 映画〔洋画〕
DVD ビデオメーカー 2004/04/23 ¥3,990
パリ近郊の小学校。妻(ベラ・クルーゾ)の資産で校長におさまったミシェル(ムーリス)は、公然と女教師(シニョレ)を愛人とし、暴君ぶりを発揮。妻と愛人は共謀して校長を浴槽で殺害、プールに投げ込む。だが、死体は消えてしまい、逆に心臓の弱い妻が夫の影に脅かされ、(ラストのドンデン返しで)ショック死に至るまで追い込まれていく。クリーニング屋が夫の衣装を届ける有名なシーンなど、クルーゾ監督の切れのよい演出が冴えたミステリーの傑作。ワイルダーの「情婦」にも通じる、ドンデン返しのドンデン返し。裏の裏の裏をつくといった非常にうならせるストーリー。脚本がよい、悪魔に魂をうるべからず。悪魔のような女とは、さていったい誰のことなのでしょう?ラストは、視聴者のご想像にお任せしますって。
集中力と持続力
2004年12月10日僕は集中力はあるほうだと思う。
だけど、持続力は、恐ろしくないほうだと思う。
とにかく、ひとつのことを長時間やっておくのは苦手だ。テニスを除いて。
だから、授業なんて、ずっと聞いとくことできないし、そのせいで、学生時代の成績はさんざんであったわけだが。
現在公務員の勉強をせんければならんわけであって、これ非常に不便。
勉強の持続力が続かず、すぐに他のことに眼がいってしまう。
というのは、せんから承知。なんとなれば、この性格と生まれたときから付き合っているのだから。じゃあ、と僕は考えた。持続力が続かないからといって勉強を放棄していたのでは、受かるものも受からない。どうにか勉強を続ける策を弄さねば僕は10年後公園で新聞に包まって寝起きしていないとも限らんわけであって、それは困る。ということで、僕はひとつのことが長く続かんのであれば、細かくちぎって勉強すればいいのであるということを思いつく。
もともと学ぶことは嫌いではないゆえ、学びつづけるということは苦にならない。ひとつのことを学びつづけるということがなかなかできないのであれば、一日1センテンスずつで色んな教科に手を出しませう。という方法、これなかなか自分にあっていて、さあてまずは朝一番に国際関係論をやる。そのうちに他のことしたくなってうずうずしだしたところで、やめて、4,5ページ休憩の読書。そして次に刑法やって、読書、社会学やって読書、労働法やって読書、なんてってやると、いつのまにか連続何時間も勉強ができていることになる。一日ひとつの教科なんてのは僕にはまず持って不可能だが、これならいけるいける。
こうやって一連の動作がリズムとなって最近僕の生活サイクルは固定されていってるわけであるが、マクロで見れば、規則正しい生活も、ミクロにおいては様々な変化に富んでおり、非常に楽しく飽きない。これすなわち、短期的な持続力はない僕だけど、このリズムを毎日続けていれば、長期的には生活リズムの持続力をもちえることになるわけであり、苦肉の策に見えて、何よりも効率的、実は。あきゃ。
だけど、持続力は、恐ろしくないほうだと思う。
とにかく、ひとつのことを長時間やっておくのは苦手だ。テニスを除いて。
だから、授業なんて、ずっと聞いとくことできないし、そのせいで、学生時代の成績はさんざんであったわけだが。
現在公務員の勉強をせんければならんわけであって、これ非常に不便。
勉強の持続力が続かず、すぐに他のことに眼がいってしまう。
というのは、せんから承知。なんとなれば、この性格と生まれたときから付き合っているのだから。じゃあ、と僕は考えた。持続力が続かないからといって勉強を放棄していたのでは、受かるものも受からない。どうにか勉強を続ける策を弄さねば僕は10年後公園で新聞に包まって寝起きしていないとも限らんわけであって、それは困る。ということで、僕はひとつのことが長く続かんのであれば、細かくちぎって勉強すればいいのであるということを思いつく。
もともと学ぶことは嫌いではないゆえ、学びつづけるということは苦にならない。ひとつのことを学びつづけるということがなかなかできないのであれば、一日1センテンスずつで色んな教科に手を出しませう。という方法、これなかなか自分にあっていて、さあてまずは朝一番に国際関係論をやる。そのうちに他のことしたくなってうずうずしだしたところで、やめて、4,5ページ休憩の読書。そして次に刑法やって、読書、社会学やって読書、労働法やって読書、なんてってやると、いつのまにか連続何時間も勉強ができていることになる。一日ひとつの教科なんてのは僕にはまず持って不可能だが、これならいけるいける。
こうやって一連の動作がリズムとなって最近僕の生活サイクルは固定されていってるわけであるが、マクロで見れば、規則正しい生活も、ミクロにおいては様々な変化に富んでおり、非常に楽しく飽きない。これすなわち、短期的な持続力はない僕だけど、このリズムを毎日続けていれば、長期的には生活リズムの持続力をもちえることになるわけであり、苦肉の策に見えて、何よりも効率的、実は。あきゃ。
読書 『つるつるの壺』
2004年12月10日 読書
ISBN:4062747502 文庫 町田 康 講談社 2004/04 ¥560
彼は因果という言葉をよく使うが、まあ僕の生い立ちも因果、みんな人生因果なのであるが、同じ因果でも、彼のような因果な人生は、なかなか魅力的だと思う。ただし憧れながらも僕は無頼を認められないんだけどね。強迫的に。
彼も若いときはともかく、現在はなんとなく、そうなのではないかと思う。
妄想に近いたわごと。言葉になりかける寸前でぐずぐずになってしまう想い。ワードプロセッサーの中でのたうち回る私の思念が現実を浸食する。やめてくれないか。そういうことは。と思ったけれども、それでもほつほつ続けるうち私自身が因果そのものとなり果て…。町田節爆発、クールでキュートなエッセー。町田康のつける題は余韻が残る。その奥に深い含蓄を感じるような雰囲気ではあるが、おそらくはそんなものないんだろう。単に、言葉になりかける寸前でぐずぐずになってしまう想いをむりやり言葉にしたからこうなってしまうんだろう。だから、町田康は町田康であり続けるんだけれども。
目次
・ロックの老いの坂(ロックの老いの坂 このようにパンクするわけは…。 ほか)
・おめえ、生きててつらいだろ?(私がウイスキーを飲むようになった、その理由 忘れ得ぬ光景 ほか)
・地獄の鉄板(闘う俺。怒る俺。 地獄の鉄板 ほか)
・人間の屑と聖書(アレアレまたいくまたいく 頭脳の炸裂 ほか)
彼は因果という言葉をよく使うが、まあ僕の生い立ちも因果、みんな人生因果なのであるが、同じ因果でも、彼のような因果な人生は、なかなか魅力的だと思う。ただし憧れながらも僕は無頼を認められないんだけどね。強迫的に。
彼も若いときはともかく、現在はなんとなく、そうなのではないかと思う。
映画 『青いドレスの女』
2004年12月10日 映画〔洋画〕
DVD ソニー・ピクチャーズエンタテインメント 2000/02/25 ¥3,990
戦後まもなくのまだ黒人差別バリバリのころのアメリカでの政治陰謀劇。黒人の血ってのはこんなにも嫌悪されていたんだなあ。
血の重み。血縁の重みは変えられない宿命として、人の人生にのしかかっていたのだなあ、この時代ってのは。
ハードボイルド固ゆでの卵。
1948年のロサンゼルス、失業中のイージー(デンゼル・ワシントン)は行きつけの酒場で知り合った胡散臭い男(トム・サイズモア)から、ダフネ(ジェニファー・ビールス)という女性を探す仕事を依頼される。捜査の過程で殺人事件に巻き込まれ、その容疑者に仕立て上げられながらも、彼はようやく青いドレスをまとうダフネを探し当てるが、そこでまたも新たな殺人事件が起きてしまう…。デンゼル・ワシントンはインテリの黒人がはまり役だと思うので、こういう役を演じていても、どこかインテリジェンスを芬芬と醸してる。
名優デンゼル・ワシントンが主演したミステリー映画。ウォルター・モズレイの原作小説は、当時の大統領クリントンも愛読していたとか。往年のハードボイルド探偵映画を彷彿させるタッチが懐かしくも心地よく、ひとときの魅惑的な悪夢に観る者を誘う。J・ビールスの悪女ぶりも大いに官能的で良い。監督はカール・フランクリン。
戦後まもなくのまだ黒人差別バリバリのころのアメリカでの政治陰謀劇。黒人の血ってのはこんなにも嫌悪されていたんだなあ。
血の重み。血縁の重みは変えられない宿命として、人の人生にのしかかっていたのだなあ、この時代ってのは。
ハードボイルド固ゆでの卵。
テニスに料理。勉強は。。。
2004年12月9日 グルメテニスクラブでハードに動いたあと、いつもならぐったりまったりするところ、って、今日も映画見てまったりしたことはしたんだけど、料理当番の日でもあったのだ。
ということで、また、何作ろうかなあというところから始まったわけだが、今日は自分が料理当番であることに気づくのが早かったので、比較的じっくりと料理を決める時間があった。
いつもメニューを決めるときに不安になるのが、材料がはたして店に置いてあるのかどうか。僕はスーパーに行けば大抵の材料は手に入るだろうと高をくくっていたけど、何回か料理を担当するうちに、そうそう何でもおいているわけではないことを学んだわけで、僕はまだ代用品でアドリブをきかすほどの料理の知識をもってるわけではないので、ひとまず、レシピに書いてあるとおりの材料をそろえなければ不安になってしまうのであるが、その壁を乗り越えるというのが料理の上達には欠かせないのかもしれないなあ。
と、僕が思ったのは、メインディッシュにするつもりであったキンキという魚がこれ見事にスーパーに置いてないのであって、でかいマルショクにもなかったもんだから、わざわざ街にまで出向いたのに、それでもなくて、結局、外見が似ているシイラって魚を購入したという経緯があったわけなのである。ついでに、クレソンもどこにも置いてなくて、これまた外見が似てると思われる香草、チャービルを購入。
シイラにしてもチャービルにしても、僕が決めた理由は外見が似ているからであって、味が似ているかどうかなどはお構いなし。だけど、これもアドリブといえばアドリブにはなるわけで、わーい、初アドリブ。料理のひとつのハードルを越えたぞ〜なんつって。
街まで出向いたもんだから、買い物に一時間くらいかけてやんの。結局この前みたいに作る時間は焦ることに相成り申したのですよ。
以下、メニュー
・浅漬けご飯
・シイラの煮付け
・蒸しがんも
・チャービルのワサビマヨネーズ和え
僕が参考にしてる料理本は簡単なことしか書いてないので、細かいことは僕のイマジネーションになってしまう。
蒸しがんも、はまず豆腐を水切りするってんだけど、水切りってどうするのかわかんなくてそんなんしなかったら、がんも作るときに大量に水分が出て、なかなか固まってくれず、2、3分で固まるはずが5、6分くらい電子レンジで加熱したり、あんを作るために片栗粉を水で溶くのだけれど、溶く水の量が少なすぎて、片栗を出汁に流し込んだとき、そのまんま片栗が、出汁の中で固まって、とろみがつかなかったりと、無知ゆえの失敗が続いたが、これも勉強。でも進歩したとこもあって、それは包丁の使い方。自分でも驚くほど早く薄切りできるようになってたりでうれしかったり。時間がかかると思ってたけど一時間くらいでできたのも上達したから?それとも今日の料理が早くできるもんばかりだったから?
蒸しがんもは、ちょい失敗。でもその他はなかなか良くできた。心配してたシイラとチャービルも味に違和感なく代用品として間違ってなかったと思うよん。
今日は疲れた。勉強はしてない(爆)
今日の料理
http://www.shashinka.net/is.php?i=161886&
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
体重 62,2?
体脂肪 26.5%
ということで、また、何作ろうかなあというところから始まったわけだが、今日は自分が料理当番であることに気づくのが早かったので、比較的じっくりと料理を決める時間があった。
いつもメニューを決めるときに不安になるのが、材料がはたして店に置いてあるのかどうか。僕はスーパーに行けば大抵の材料は手に入るだろうと高をくくっていたけど、何回か料理を担当するうちに、そうそう何でもおいているわけではないことを学んだわけで、僕はまだ代用品でアドリブをきかすほどの料理の知識をもってるわけではないので、ひとまず、レシピに書いてあるとおりの材料をそろえなければ不安になってしまうのであるが、その壁を乗り越えるというのが料理の上達には欠かせないのかもしれないなあ。
と、僕が思ったのは、メインディッシュにするつもりであったキンキという魚がこれ見事にスーパーに置いてないのであって、でかいマルショクにもなかったもんだから、わざわざ街にまで出向いたのに、それでもなくて、結局、外見が似ているシイラって魚を購入したという経緯があったわけなのである。ついでに、クレソンもどこにも置いてなくて、これまた外見が似てると思われる香草、チャービルを購入。
シイラにしてもチャービルにしても、僕が決めた理由は外見が似ているからであって、味が似ているかどうかなどはお構いなし。だけど、これもアドリブといえばアドリブにはなるわけで、わーい、初アドリブ。料理のひとつのハードルを越えたぞ〜なんつって。
街まで出向いたもんだから、買い物に一時間くらいかけてやんの。結局この前みたいに作る時間は焦ることに相成り申したのですよ。
以下、メニュー
・浅漬けご飯
・シイラの煮付け
・蒸しがんも
・チャービルのワサビマヨネーズ和え
僕が参考にしてる料理本は簡単なことしか書いてないので、細かいことは僕のイマジネーションになってしまう。
蒸しがんも、はまず豆腐を水切りするってんだけど、水切りってどうするのかわかんなくてそんなんしなかったら、がんも作るときに大量に水分が出て、なかなか固まってくれず、2、3分で固まるはずが5、6分くらい電子レンジで加熱したり、あんを作るために片栗粉を水で溶くのだけれど、溶く水の量が少なすぎて、片栗を出汁に流し込んだとき、そのまんま片栗が、出汁の中で固まって、とろみがつかなかったりと、無知ゆえの失敗が続いたが、これも勉強。でも進歩したとこもあって、それは包丁の使い方。自分でも驚くほど早く薄切りできるようになってたりでうれしかったり。時間がかかると思ってたけど一時間くらいでできたのも上達したから?それとも今日の料理が早くできるもんばかりだったから?
蒸しがんもは、ちょい失敗。でもその他はなかなか良くできた。心配してたシイラとチャービルも味に違和感なく代用品として間違ってなかったと思うよん。
今日は疲れた。勉強はしてない(爆)
今日の料理
http://www.shashinka.net/is.php?i=161886&
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
体重 62,2?
体脂肪 26.5%
映画 『青い夢の女』
2004年12月9日 映画〔洋画〕
DVD アミューズソフトエンタテインメント 2002/06/28 ¥3,990
精神科医がカウンセリング受けて、カウンセリングしてた精神科医が精神に異状をきたしてるというシニカルな設定。かなり精神的ブラックコメディ。
死体の重さ、完全脱力した人間を運ぶのが如何に重労働であるのかがヒシヒシと感じられる映画であった。
『ベティ・ブルー』などで日本にもファンが多いジャン=ジャック・ベネックス監督が、8年の沈黙を破って撮った作品。人妻のオルガの話を聞いていた精神分析医ミッシェルが、診察中に眠ってしまい、目覚めると死体と化したオルガが横たわっていた。死体の処分に困る彼に、さらなる謎めいた事件が相次ぐ。カウンセラーが診断中に居眠りってありなのか?まあ、気持ちはわかるけど。海外と日本のセラピーの違いって、海外のカウンセリングって、患者はいつもベッドやソファに寝っころがってるんやね。
映像にはいくつものカラーが印象的に使われているが、なかでもブルーや黄色が目にやきつく。青いハイヒール、黄色のポルシェなど、過剰なほどの色に対する様式美はベネックスが意図したものだろう。エロティックドラマとサスペンスを組み合わせた予想不能の展開に、ミッシェルの背負った重荷が雪だるま式に膨れあがる状況は、シニカルな笑いも誘う。『ベティ・ブルー』でも監督と組んだジャン=ユーグ・アングラードが、そんな「巻き込まれ型」の主人公にぴったりだ。
精神科医がカウンセリング受けて、カウンセリングしてた精神科医が精神に異状をきたしてるというシニカルな設定。かなり精神的ブラックコメディ。
死体の重さ、完全脱力した人間を運ぶのが如何に重労働であるのかがヒシヒシと感じられる映画であった。
フェデラー、凄いかも。
2004年12月8日 テニスフェデラーは、史上最高のプレイヤーかもしれない。
最近の彼のプレイをみるにたびに、その思いが強くなる。
ヒューイットがナンバーワンだったときは、まだフェデラーは僕にとってそれほど、印象的な選手ではなく、どちらかというと、特徴的な武器のない見ていてつまらない選手だった。
フェデラーは最近強すぎる。最強だ。ピークのころのサンプラスを上回っているかもしれない。
サンプラスも穴のない選手だったが、フェデラーを見ていると、サンプラスを完璧な選手と言うことはもうできそうもない。サンプラスの技術的な甘さが意識できるほどにフェデラーのプレーが完璧だからだ。
サンプラスはサーブとボレー、それとフォアハンドのカウンターに比べると、バックハンド、通常のフォアハンド、リターン力は若干劣って見えた。そしてそれが、フレンチオープンを取ることができなかった要因でもある。つまりサンプラスは、ネットプレイヤーであり、オールラウンドプレイヤーではなかった。もちろん、多くのオールラウウンダーよりは卓越したストローク技術も持ってはいたが。
今のフェデラーを見る限り、サンプラスにのように個々のプレーにおいて優劣をつけることができない。すべてのプレーに卓越し、まさに弱点がないのだ。サンプラスよりもサーブとボレーの技術は若干劣るかもしれないが、ほぼサンプラス並みであるし、ストロークにしては、フォアは現在最高だとあのアガシに言わさしめてる。バックも一時期より格段に良くなった。何よりサンプラスと違うのは、サンプラスはリターンでよくブロックリターンやカットリターンをして逃れていたけわけで、そこんとこ、フェデラーのほうが圧倒的に上回ってる。つまり全体的にまたくどこにも穴がない。
サンプラスとフェデラーの共通点の、「見ていてあまり面白くない」というのは、つまり、どの場面でもメンタルが安定しリズムが乱れず、しかも決まったフォームから常に安定したショットを打てることからゲームが単調なイメージに見られやすいからであるわけだが、常に変わらず見せられるということがどれほどの高い技術を要することか。つまらないということはそれだけ完璧であるということを意味するのである。(まあ、単にプレイ貧弱でがつまらないという選手もいるわけだが)。
僕がフェデラーにはまりだしたのは、やはり再びテニスを再開しだしたからだと思う。つまり、純粋にゲームとして楽しむなら、プレイに粗があって、ゲームにいくつもの変調を伴うほうが面白いわけであるが、いざプレイをする立場になれば、フェデラーのようなプレイほど、参考になる見本の宝庫はないのである。
僕はフェデラーのプレーを何度もスロー再生しながら、感嘆をもらしつつ、どうにかその技術を真似たいと研究する。つまり、フェデラーにくびったけ状態。
フェデラーは、サンプラス以上の選手となるかもしれないし、ならないかもしれない。でも確実にテニスの歴史に残る選手だ。
彼が本当の意味で最強のオールラウンダ―であることを証明するためには、いくつグランドスラムを取れるかと、フレンチオープンのタイトルを取ることにかかっている。
最近の彼のプレイをみるにたびに、その思いが強くなる。
ヒューイットがナンバーワンだったときは、まだフェデラーは僕にとってそれほど、印象的な選手ではなく、どちらかというと、特徴的な武器のない見ていてつまらない選手だった。
フェデラーは最近強すぎる。最強だ。ピークのころのサンプラスを上回っているかもしれない。
サンプラスも穴のない選手だったが、フェデラーを見ていると、サンプラスを完璧な選手と言うことはもうできそうもない。サンプラスの技術的な甘さが意識できるほどにフェデラーのプレーが完璧だからだ。
サンプラスはサーブとボレー、それとフォアハンドのカウンターに比べると、バックハンド、通常のフォアハンド、リターン力は若干劣って見えた。そしてそれが、フレンチオープンを取ることができなかった要因でもある。つまりサンプラスは、ネットプレイヤーであり、オールラウンドプレイヤーではなかった。もちろん、多くのオールラウウンダーよりは卓越したストローク技術も持ってはいたが。
今のフェデラーを見る限り、サンプラスにのように個々のプレーにおいて優劣をつけることができない。すべてのプレーに卓越し、まさに弱点がないのだ。サンプラスよりもサーブとボレーの技術は若干劣るかもしれないが、ほぼサンプラス並みであるし、ストロークにしては、フォアは現在最高だとあのアガシに言わさしめてる。バックも一時期より格段に良くなった。何よりサンプラスと違うのは、サンプラスはリターンでよくブロックリターンやカットリターンをして逃れていたけわけで、そこんとこ、フェデラーのほうが圧倒的に上回ってる。つまり全体的にまたくどこにも穴がない。
サンプラスとフェデラーの共通点の、「見ていてあまり面白くない」というのは、つまり、どの場面でもメンタルが安定しリズムが乱れず、しかも決まったフォームから常に安定したショットを打てることからゲームが単調なイメージに見られやすいからであるわけだが、常に変わらず見せられるということがどれほどの高い技術を要することか。つまらないということはそれだけ完璧であるということを意味するのである。(まあ、単にプレイ貧弱でがつまらないという選手もいるわけだが)。
僕がフェデラーにはまりだしたのは、やはり再びテニスを再開しだしたからだと思う。つまり、純粋にゲームとして楽しむなら、プレイに粗があって、ゲームにいくつもの変調を伴うほうが面白いわけであるが、いざプレイをする立場になれば、フェデラーのようなプレイほど、参考になる見本の宝庫はないのである。
僕はフェデラーのプレーを何度もスロー再生しながら、感嘆をもらしつつ、どうにかその技術を真似たいと研究する。つまり、フェデラーにくびったけ状態。
フェデラーは、サンプラス以上の選手となるかもしれないし、ならないかもしれない。でも確実にテニスの歴史に残る選手だ。
彼が本当の意味で最強のオールラウンダ―であることを証明するためには、いくつグランドスラムを取れるかと、フレンチオープンのタイトルを取ることにかかっている。
映画 『愛を殺さないで』
2004年12月8日 映画〔洋画〕
DVD ソニー・ピクチャーズエンタテインメント 2004/11/26 ¥2,625
美容院を共同経営する2人の女性。その夫が相次いで殺される。女への訊問と事件の経過をフラッシュバックを多用し、心理の微妙な彩を織り込んだルドルフ監督のミステリー。ブルース・ウィルスとデミ・ムーアの夫婦共演。羅生門チックなサスペンス。僕はハーベイ・カイテルが好きなんだよね。ブルースウィルスは悪人が似合うなあ。正当防衛が成立するはずが、友人の行動によって、友人は殺人犯へと、この場合デミムーアはどういった罪になるんだろう?
読書 『政治学を問いなおす』
2004年12月8日 読書
ISBN:4480061509 新書 加藤 節 筑摩書房 2004/01/10 ¥735
やっぱり丸山眞男は読んどかなきゃなあ、なんだなあ。。。あとスピノザも。。。
政治は人間の運命を左右する力を持っているにもかかわらず、それを研究対象としている政治学は近年、そうした政治権力への緊張感を欠いている。内外を問わず、日本が様々な局面で厳しい選択を迫られている現在、政治学には何が出来るのだろうか。国家や自由、暴力、ナショナリズム、日本国憲法など、直面する問題を歴史的な展望のなかで検証し、新たな座標軸を提案する。まあ、確かに読みやすい文体というわけではないかな。慣れてったけど。
目次
第1部 政治と政治学との間(政治の究極にあるもの「自由」と「自由論」との間 国民・群衆・暴徒 ほか)
第2部 政治と暴力(政治と死 国家・デモクラシー・戦争 現代世界における政治と暴力)
第3部 現代史のなかの政治批判(近代日本と批判主義政治学 南原繁におけるナショナリズムと愛国主義 歴史・理論・実践のトリアーデ ほか)
やっぱり丸山眞男は読んどかなきゃなあ、なんだなあ。。。あとスピノザも。。。
睡眠薬の威力
2004年12月7日二日に一度走ることにしているわけだが、今の僕は昼に寝て夜に起き、そのまま朝まで勉強というサイクルになっていて、そうなると走るのは、徹夜明けか、起き立ちってことになるのだけど、これは走るには両方ともあまりよろしくない。
徹夜明けは、走るなんて元気ないし、起き立ちは血液どろどろでいけない。でも走ることを除けば居間のサイクルは勉強もはかどって非常に都合がいいのだけど、やっぱり、しっかり走りたいし、おきてから休んで走るとなると、夜の8時とかから走ることになって、これから寒くなるし、ってことで、今日は寝すぎて夜の11時に起きたのだけど、飯食って風呂はいって、このまま勉強するか、はたまた寝るかで悩んで、この際生活習慣戻すことにして、母の睡眠薬を拝借。
睡眠薬の威力たるや!今さっきまで9時間も寝てたのに、何の抵抗もなく眠りの海へと意識は埋没していったのである。
結局今日は走れずじまいであったなあ。
徹夜明けは、走るなんて元気ないし、起き立ちは血液どろどろでいけない。でも走ることを除けば居間のサイクルは勉強もはかどって非常に都合がいいのだけど、やっぱり、しっかり走りたいし、おきてから休んで走るとなると、夜の8時とかから走ることになって、これから寒くなるし、ってことで、今日は寝すぎて夜の11時に起きたのだけど、飯食って風呂はいって、このまま勉強するか、はたまた寝るかで悩んで、この際生活習慣戻すことにして、母の睡眠薬を拝借。
睡眠薬の威力たるや!今さっきまで9時間も寝てたのに、何の抵抗もなく眠りの海へと意識は埋没していったのである。
結局今日は走れずじまいであったなあ。
映画 『新・青い体験』
2004年12月7日 映画〔洋画〕
VHS ワーナー・ホーム・ビデオ 1988/12/23 ¥15,540
田舎から上京した娘が純粋に騙されちゃう系の典型だなあ。救いもなく淡々と終わっちゃったね。
スペインからイギリスに留学した娘が、ディスコで青年と知り合うが、青年の目的はベッドの写真をポルノ雑誌に売ることだった。「青い体験」とは関係ない。すごい極太めがね!あのメガネ欲しいなあ。ファッションなのかなあ。
田舎から上京した娘が純粋に騙されちゃう系の典型だなあ。救いもなく淡々と終わっちゃったね。
僕の左手の手首には傷あとがある。
別にリストカットをしたわけじゃなくて、中学の時の工作の時間にカッターを手前に引いたらそんまま手首まですぱっと切ってしまったというだけのことなの。
最初は痛みもなくて、血も出てなくて、中の白いお肉がぱっくり開いてて、急いで保健室に行ってる間にじわじわと血があふれてくると共に血が噴出してきた。
そしてその傷は、治らずにいつまでも痕として手首に残っているのだけど、ちょうどその傷のあたりにわけのわからない瘤みたいなのがある。
これが日によって出っ歯たり引っ込んだり。出っ張った日は痛くてうっとおしい。血がうっ血して腫れるのか、それとも軟骨の出っ張りなのかわからないけど、本当に、邪魔だし、痛いしきになってしょうがない。この出っ張りを手術で取り出したいなあ。やっぱりカッターで切ったからこんな瘤ができたのかなあ。
ほんとに、なぜ、左手の手首だけにこんなものがあるのか、人体の神秘。いや、単にうとおしい。僕には切実な問題。
別にリストカットをしたわけじゃなくて、中学の時の工作の時間にカッターを手前に引いたらそんまま手首まですぱっと切ってしまったというだけのことなの。
最初は痛みもなくて、血も出てなくて、中の白いお肉がぱっくり開いてて、急いで保健室に行ってる間にじわじわと血があふれてくると共に血が噴出してきた。
そしてその傷は、治らずにいつまでも痕として手首に残っているのだけど、ちょうどその傷のあたりにわけのわからない瘤みたいなのがある。
これが日によって出っ歯たり引っ込んだり。出っ張った日は痛くてうっとおしい。血がうっ血して腫れるのか、それとも軟骨の出っ張りなのかわからないけど、本当に、邪魔だし、痛いしきになってしょうがない。この出っ張りを手術で取り出したいなあ。やっぱりカッターで切ったからこんな瘤ができたのかなあ。
ほんとに、なぜ、左手の手首だけにこんなものがあるのか、人体の神秘。いや、単にうとおしい。僕には切実な問題。
映画 『愛という名の疑惑』
2004年12月6日 映画〔洋画〕
DVD ワーナー・ホーム・ビデオ 2003/03/20 ¥1,575
それでも前半は、結構うまくできてるなあって思ってたのに、後半からだんだんストーリーが破綻をきたしているように感じる。
盛り上げようとする過剰な演出が逆に現実味を殺ぎ落として浅薄な感じを抱かせることになっているような気がする。
精神分析医のアイザック(リチャード・ギア)は、患者であるダイアナ(ユマ・サーマン)の深層心理を探る一環として彼女の姉ヘザー(キム・ベイシンガー)と面会するが、いつしかふたりは愛し合うように。しかしヘザーには夫がおり、やがて彼が殺されヘザーが犯人として逮捕されるに至り、アイザックは彼女に精神障害がある事実を知り、無罪を証明しようとするが…。まず、この犯罪を成し遂げるには、頭がいいだけではなく、俳優なみの卓越した演技力が備わっていないと無理だろうなあ。
リチャード・ギアが初プロデュースしたサスペンス映画で、監督はフィル・ジョアノー。演出にはヒッチコック・タッチをそこはかとなく意識している節もある。ヒロインの精神障害は病的な酩酊症であり、少量の酒で過敏に反応し暴力的になるというもの。そのときのベイシンガーの表情が危険なエロティシズムを漂わせているのが印象的。
それでも前半は、結構うまくできてるなあって思ってたのに、後半からだんだんストーリーが破綻をきたしているように感じる。
盛り上げようとする過剰な演出が逆に現実味を殺ぎ落として浅薄な感じを抱かせることになっているような気がする。
昨日のことだが、徹夜して、さあ寝ようとしていた朝方に、NHKで腹話術師である、いっこく堂氏がインタビューを受けていた。
前々から、僕は彼に尊敬の念を抱いていたので何気に見出したのだが、これがなかなか面白く、結局最後まで見ることになった。
そもそもなぜ僕がいっこく堂氏を尊敬するにいたったかというと、彼は幼いころは自分を表現するのが苦手で、多感な青春期を中島みゆきの歌に支えられ過ごしたというまことに僕と似ている生い立ちなわけであって、そしてまた若くして、周りを勇気付けるような事をしていきたいという夢を抱いていたということも、そのこと事態すでに僕という人間を勇気付けてくれていたわけなのである。
そしてそして、彼は腹話術を始めたのはなんと、今の僕より歳食ってからなんだな。これって、人間何かをするのにも遅すぎることはないのだ、ということを彼自らが示してくれているわけであって、また僕自身も、ある夢を抱いてはいるが、その分野に興味をもったのが、周りのそういう方向を目指している人たちに比べれば、ずいぶんと遅いスタートであろうと思われるからこそ、彼のその夢の実現は、自分の夢を追い続けることへのある意味モチベーションとなってくれているといっても過言ではあるまい。
いっこく堂氏は、腹話術師を目指したときに自分に課した、一日8時間は腹話術の練習をする、という過酷なノルマ。彼は遅いスタートの分だけ人一倍、ニ倍、さらに倍っといった努力を積み重ねてきたのであり、まさにナイルの賜物、じゃなくていっこくは稽古の賜物といえる。
ということを以前の何かの番組で知っていたのだから、僕はさらに彼を知れるチャンスとばかりに、彼の話に耳をそばだてた。
彼の話を聞くうちに、彼はただがむしゃらに夢を追っていたわけではなく、しっかりと現実というものを見据えて、どうやったら、自分の夢に到達できるかを試行錯誤していった、所謂、現実主義的理想主義な人であるということがわかった。
彼は現在、知名度を手に入れ、経済的にも余裕をもった。しかし、以前よりもテレビには出なくなった。それはテレビに出ることはいわば仕事を取るための(良い意味での)売名行為であり、しかし、それを続けていくと(拝金主義の)売名行為へと堕してしまう。そうなりそうなときに彼は自分に問い掛ける、「俺は何のために腹話術を始めたんだ?」
彼は初心を思い出す。「俺は周りの人たちを勇気付け、元気付けるために腹話術師となったのではないか」
彼がテレビにでたのは、プロとして世間に認めてもらうためであった。彼はボランティアを通して、自分の限界を学んだ。今の自分は、無償のボランティアで、人を元気付けられるほどの力は持ち合わせていない。自分が経済的にある程度余裕がないと、周りを元気付けることもできないとさとった。つまり、現在彼は故ダイアナ妃であり、マザーテレサではないのだ。もちろん、最終的にはマザーテレサの境地に達することを理想としながらも、現実的な問題として、自分の心の限界を勘案して、経済的な余裕を通しての奉仕、つまり故ダイアナ妃になることからからスタートするという方法を取ったのである。
もう充分に世間に名前を知ってもらった。これからは腹話術を通して、世界の人と接することに集中したい。彼はテレビからある一定の距離を取り出した。
僕が何より共感したのは、彼の志である。
彼は人を喜ばせ笑わせるが、彼の笑いの最終目標は、誰も傷つけない笑い、であるという。
彼は言う。「僕は今までたくさんの人を傷つけてきたと思う。そして今も傷つけていると思う。誰かを笑わせている影で、他の誰かを傷つけている。」
そうである限り、それは彼にとっての到達点ではない。
「僕の目指す笑いとは、爆笑しなくてもいい。ただ僕の芸を見た人が、誰も嫌な感じを抱かない。くすくすと笑って、凄く面白いわけではないけどなんだか和む。癒される。そういった笑いを追い求めている」と、そして「よく回りから、万人受けを目指しすぎるといわれるが、僕の根底にあるのは、もう誰も傷つけたくない、ということなのだ」と。
僕は彼の誰も傷つけたくない、という理想に強く共感する。なぜなら、僕にも強くそういった思いがるからだ。おそらく、それはいっこく堂氏の幼少の体験がそうさせるのかもしれないし、僕に至っては僕の幼少の体験がそういう理想を抱かせている。
そして彼がそういった思いを抱きつづける限り、彼は拝金主義へ堕することもなく、そしてその芸も高みへと突き進んでいくはずである。
彼ははいわば芸に関しては完ぺき主義者であり、自分のできることに関しては妥協を挟まない。なぜなら、妥協することは、誰かを傷つけることになってしまうからだ。信念を妥協するものは、理想を完遂することは難しい。完ぺき主義であることは、理想を成し遂げるためには、必要な性質だ。
彼の芸は、誰かを傷つけてもいいや、と思ったところで成長を辞めるであろうし、そう思わない限り成長しつづけるだろう。
そしてそのことは、僕を縛って長年苦しんできたモラルや人を傷つけてはならないという善悪に対する強迫に対して、ひとつの大きな長所、希望を付与するものなのだ。
僕はいっこく堂氏と似ている。そしてそのことは僕のこの性質が決して忌むべきものとしてだけあるわけではなく、この性質が活かされるによってこそ、成し遂げられる未来、そして夢というものもあるのだということを教えてくれる。
前々から、僕は彼に尊敬の念を抱いていたので何気に見出したのだが、これがなかなか面白く、結局最後まで見ることになった。
そもそもなぜ僕がいっこく堂氏を尊敬するにいたったかというと、彼は幼いころは自分を表現するのが苦手で、多感な青春期を中島みゆきの歌に支えられ過ごしたというまことに僕と似ている生い立ちなわけであって、そしてまた若くして、周りを勇気付けるような事をしていきたいという夢を抱いていたということも、そのこと事態すでに僕という人間を勇気付けてくれていたわけなのである。
そしてそして、彼は腹話術を始めたのはなんと、今の僕より歳食ってからなんだな。これって、人間何かをするのにも遅すぎることはないのだ、ということを彼自らが示してくれているわけであって、また僕自身も、ある夢を抱いてはいるが、その分野に興味をもったのが、周りのそういう方向を目指している人たちに比べれば、ずいぶんと遅いスタートであろうと思われるからこそ、彼のその夢の実現は、自分の夢を追い続けることへのある意味モチベーションとなってくれているといっても過言ではあるまい。
いっこく堂氏は、腹話術師を目指したときに自分に課した、一日8時間は腹話術の練習をする、という過酷なノルマ。彼は遅いスタートの分だけ人一倍、ニ倍、さらに倍っといった努力を積み重ねてきたのであり、まさにナイルの賜物、じゃなくていっこくは稽古の賜物といえる。
ということを以前の何かの番組で知っていたのだから、僕はさらに彼を知れるチャンスとばかりに、彼の話に耳をそばだてた。
彼の話を聞くうちに、彼はただがむしゃらに夢を追っていたわけではなく、しっかりと現実というものを見据えて、どうやったら、自分の夢に到達できるかを試行錯誤していった、所謂、現実主義的理想主義な人であるということがわかった。
彼は現在、知名度を手に入れ、経済的にも余裕をもった。しかし、以前よりもテレビには出なくなった。それはテレビに出ることはいわば仕事を取るための(良い意味での)売名行為であり、しかし、それを続けていくと(拝金主義の)売名行為へと堕してしまう。そうなりそうなときに彼は自分に問い掛ける、「俺は何のために腹話術を始めたんだ?」
彼は初心を思い出す。「俺は周りの人たちを勇気付け、元気付けるために腹話術師となったのではないか」
彼がテレビにでたのは、プロとして世間に認めてもらうためであった。彼はボランティアを通して、自分の限界を学んだ。今の自分は、無償のボランティアで、人を元気付けられるほどの力は持ち合わせていない。自分が経済的にある程度余裕がないと、周りを元気付けることもできないとさとった。つまり、現在彼は故ダイアナ妃であり、マザーテレサではないのだ。もちろん、最終的にはマザーテレサの境地に達することを理想としながらも、現実的な問題として、自分の心の限界を勘案して、経済的な余裕を通しての奉仕、つまり故ダイアナ妃になることからからスタートするという方法を取ったのである。
もう充分に世間に名前を知ってもらった。これからは腹話術を通して、世界の人と接することに集中したい。彼はテレビからある一定の距離を取り出した。
僕が何より共感したのは、彼の志である。
彼は人を喜ばせ笑わせるが、彼の笑いの最終目標は、誰も傷つけない笑い、であるという。
彼は言う。「僕は今までたくさんの人を傷つけてきたと思う。そして今も傷つけていると思う。誰かを笑わせている影で、他の誰かを傷つけている。」
そうである限り、それは彼にとっての到達点ではない。
「僕の目指す笑いとは、爆笑しなくてもいい。ただ僕の芸を見た人が、誰も嫌な感じを抱かない。くすくすと笑って、凄く面白いわけではないけどなんだか和む。癒される。そういった笑いを追い求めている」と、そして「よく回りから、万人受けを目指しすぎるといわれるが、僕の根底にあるのは、もう誰も傷つけたくない、ということなのだ」と。
僕は彼の誰も傷つけたくない、という理想に強く共感する。なぜなら、僕にも強くそういった思いがるからだ。おそらく、それはいっこく堂氏の幼少の体験がそうさせるのかもしれないし、僕に至っては僕の幼少の体験がそういう理想を抱かせている。
そして彼がそういった思いを抱きつづける限り、彼は拝金主義へ堕することもなく、そしてその芸も高みへと突き進んでいくはずである。
彼ははいわば芸に関しては完ぺき主義者であり、自分のできることに関しては妥協を挟まない。なぜなら、妥協することは、誰かを傷つけることになってしまうからだ。信念を妥協するものは、理想を完遂することは難しい。完ぺき主義であることは、理想を成し遂げるためには、必要な性質だ。
彼の芸は、誰かを傷つけてもいいや、と思ったところで成長を辞めるであろうし、そう思わない限り成長しつづけるだろう。
そしてそのことは、僕を縛って長年苦しんできたモラルや人を傷つけてはならないという善悪に対する強迫に対して、ひとつの大きな長所、希望を付与するものなのだ。
僕はいっこく堂氏と似ている。そしてそのことは僕のこの性質が決して忌むべきものとしてだけあるわけではなく、この性質が活かされるによってこそ、成し遂げられる未来、そして夢というものもあるのだということを教えてくれる。
映画 『愛がこわれるとき』
2004年12月5日 映画〔洋画〕
DVD 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン 2002/02/22 ¥4,179
愛が壊れるときって、ハネムーンが終わった瞬間に壊れちゃったんだね。
周りから理想のカップルと見られているローラ(ジュリア・ロバーツ)とマーティン(パトリック・バーギン)の夫婦。しかしマーティンは一方では異常な潔癖症でサディスティックな性格をしており、そんな彼に耐え切れなくなったローラは、ヨット事故で自分が死んだと見せかけて、名前を変えてほかの町で働き始めるが…。スリラーの古典的な演出が多用されていて、新しみを感じないというか、これだっ!といった感じがなくて、そんなに恐くもなかった。
ジョゼフ・ルーベン監督によるサイコティックなスリラー。パトリック・バーギンの怪演が見ものではあるが、正直観ていてあまり気持ちのいいものではない。ジュリア・ロバーツは、ただ悲劇のヒロインというテイストではく、どこかずるがしこく立ち回ろうという雰囲気をかもし出しており、その方が彼女らしいといえば彼女らしい。音楽は巨匠ジェリー・ゴールドスミス。
愛が壊れるときって、ハネムーンが終わった瞬間に壊れちゃったんだね。
僕はいったい何をしてるのだ?ということなのである。
公務員を目指すという名目のうちに寝たいだけ寝て、読書に耽り、かれこれもう3年目。
自分の中でがむしゃらさというものがないことを、ともすれば、障害や鬱の影にしまいこんで言い訳をし、自身の心までもよく鑑みもせずに正当化してしまっているのではないか。という疑念が湧いてきて、果たして自分のがんばりががんばりと呼べるほどに精一杯のものであったのか?と自問自答してみたところ、そのような自己に対する闘争をほぼ放棄していたという結論に達することをごまかすことができないほどに自分は堕落しきっているとを認めざるをえないのである。
かかる態度は、闘うべき相手であり、また共存していかなければならない自分の障害に対しても、不遜な態度であるといえる。なぜなら僕は障害を治すために、戦っているという態度を闡明しつつ、その実、自分の都合の悪いときには障害というものに寄りかかり、味方に引き入れ行動を正当化するための盾としているのであるから。
つまり、自分ががんばっていると、そして障害と闘っていると偽りなくいえるためには、まさに字の如く自分の怠惰に常に闘いつづけていなければいけないのである。
怠惰に負けるときがあったとしても、闘う前から怠惰という誘惑に赴いてしまっている自分の態度に、がんばりという言葉を冠するのは、まことに適当でない。
もし今のまま偽りのがんばりに満足した自分でいれば、公務員になること以前に何ごとも成し遂げられぬであろう。
と思ったので、本当にがんばらなければと、自己の怠惰と戦おうと、休憩なしでできるまで勉強をがんばることにした。8時間で集中が切れた。しかし、8時間できた。やればできるじゃないか。自分はこの場において、8時間より後の怠惰に負けて勉強を止めたが、それは自分の怠惰という欲望と闘って力尽きたわけであるから、ここにおいて、初めて自分は真実でがんばった、といえるわけである。そしてそれは障害を言い訳にしない意味において、障害とも闘ったということであり、障害に対しても誠実な態度となりえるわけである。
8時間勉強できたという気力があるのに、安易に寝たいだけ寝ている現状が続く限り、僕は周りだけでなく僕自身に嘘をつきつづけてい分けである。怠惰と戦いつづけつことだけが、自己に正当性を付与できるのだ。がんばらねば。
公務員を目指すという名目のうちに寝たいだけ寝て、読書に耽り、かれこれもう3年目。
自分の中でがむしゃらさというものがないことを、ともすれば、障害や鬱の影にしまいこんで言い訳をし、自身の心までもよく鑑みもせずに正当化してしまっているのではないか。という疑念が湧いてきて、果たして自分のがんばりががんばりと呼べるほどに精一杯のものであったのか?と自問自答してみたところ、そのような自己に対する闘争をほぼ放棄していたという結論に達することをごまかすことができないほどに自分は堕落しきっているとを認めざるをえないのである。
かかる態度は、闘うべき相手であり、また共存していかなければならない自分の障害に対しても、不遜な態度であるといえる。なぜなら僕は障害を治すために、戦っているという態度を闡明しつつ、その実、自分の都合の悪いときには障害というものに寄りかかり、味方に引き入れ行動を正当化するための盾としているのであるから。
つまり、自分ががんばっていると、そして障害と闘っていると偽りなくいえるためには、まさに字の如く自分の怠惰に常に闘いつづけていなければいけないのである。
怠惰に負けるときがあったとしても、闘う前から怠惰という誘惑に赴いてしまっている自分の態度に、がんばりという言葉を冠するのは、まことに適当でない。
もし今のまま偽りのがんばりに満足した自分でいれば、公務員になること以前に何ごとも成し遂げられぬであろう。
と思ったので、本当にがんばらなければと、自己の怠惰と戦おうと、休憩なしでできるまで勉強をがんばることにした。8時間で集中が切れた。しかし、8時間できた。やればできるじゃないか。自分はこの場において、8時間より後の怠惰に負けて勉強を止めたが、それは自分の怠惰という欲望と闘って力尽きたわけであるから、ここにおいて、初めて自分は真実でがんばった、といえるわけである。そしてそれは障害を言い訳にしない意味において、障害とも闘ったということであり、障害に対しても誠実な態度となりえるわけである。
8時間勉強できたという気力があるのに、安易に寝たいだけ寝ている現状が続く限り、僕は周りだけでなく僕自身に嘘をつきつづけてい分けである。怠惰と戦いつづけつことだけが、自己に正当性を付与できるのだ。がんばらねば。
映画 『愛に囚われて』
2004年12月4日 映画〔洋画〕
VHS ビデオメーカー 1996/06/28 ¥16,590
監獄医として働く女性と週一外出が許される殺人囚の禁断の愛と悲劇。英BBCのTVドラマを映画化した、『フォー・ルームス』のT・ロス、『サブリナ』のJ・オーモンド共演のラブ・ストーリー。ううん、監獄内で電話が自由にできるってほんとなのかなあ。ほんとだとしたら、こういった事件が発生することも予見できそうなもの。それに監獄医だからといってノーチェックで監獄に入れるというのも怪しいなあ。といった感じで粗を探してしまったけど、出てくる黒人がスパイダーマンみたいな動きしてた。ってこれも粗探しになるかな。という悲哀。