青年と最初に出会ったときの僕を思い出してみましょう。
僕は対人恐怖のまっただ中。
自分はリハビリ中。
知り合いなんてできなくていい。一人黙々と作業しよう。
でも何か他の人の力になれることがあれば、力になってあげよう。
青年がこの会社に入ったとき、明らかに緊張してた。
僕は隣だったので、「何かわからないことがあったらいつでもきいていいよ。最初はできなくて当たり前やけん、一緒に頑張ろう」と声をかけた。
それ以来、青年は、僕を慕ってくれるようになった。

ただ、僕は自分がつまらない人間であることを知っていた。
いつか彼は、きっともっと一緒にいて楽しい人の所に行くだろう。それでいい。最初の彼の不安な心を紛らすことの力になれたのだから、それでいいじゃないか。
自分を踏み台にしていけばいい。

そう思っていたじゃないか。
そして、今回結果的に、そうなっただけだ。
僕がショックを受けるのは、お門違いだろ。
予想通りじゃないか。
今まで順調に来てて、孤独じゃなくなってたから、会社に入社した当時の自分を忘れてしまっていたんだ。
あのとき僕は孤独が平気だった。
最初に戻るだけだ。僕にはそっちの生き方の方があってるのかもな。
幸せの形は色々だ。

眠る眠る眠る。

2007年2月24日
一日中寝てたといっても過言ではないですね〜。
昨日8時には床についてたんで、朝の6時にはもう目が覚めてたんですけど、それでもずっと横になってました。

寝るってことは大事です。でも寝過ぎても〜って所です。
テニスクラブに行こうとも思っていたのですが、行かなかった。
行ったほうがよかったかな〜っとも思うのだけど、結局行かなかった。

寝っ転がってずっと読書。以前のように1日読書で世界に没頭することも最近あんましなくなったなあ。
でも波に乗ったらまたできそうなんだけどな。

読書も途中で眠くなって投げ出してしまった。
6時頃にまた眠る。
素っ気ない態度をとり続ける、僕が純粋だと思っていた青年。

だけど、僕は、彼はそんな人間ではないと思っていたかった。
人を思いやれる優しい心を持っていると思っていたかった。

何故素っ気ない態度をとり続けるのか?
僕にはわからない。理由として考えられるのは、辞めた友人の相談に乗っていたことくらい。

彼が僕のことを嫌っているのかいないのか、そのことはまだ図りきれないでいた。

しかし、仕事中時折向けられる、不穏な眼差しとヒソヒソ声。
だが、僕が話しかけると普通に返してくるので、あの眼差しは、僕の勘ぐりに過ぎないと何度も思いなおした。

しかし、僕は見た。彼は見られていないと思っているだろうが、僕は見た。
僕達は、同じ部署、同じラインで仕事をしている。僕が仕事道具をその青年に渡すために、彼の背中をたたいて渡す。
僕は元の位置に戻って作業を再開しようとして、その前に今一度その青年の方を見た。
そのとき、苦々しげに僕が叩いた背中の部位を、まるでばい菌でも払うかのように叩いている彼の姿を僕は見た。

戦慄と、ショック。
彼はやはり、変わってしまっていた。いや、もとからそうだったのか?僕は彼を見誤っていたのか?

徐々に、怒りと、悲しみがこみ上げてきた。
人間というものの愚かさ、おぞましさ。

ラインの雰囲気を壊さないために、僕は彼と誤解を解こうと努力もしてみたが、もうそれも適うまい。
今後、極力あの青年との接触を避けよう、それが、向こうも望むことであり、ラインの空気をこれいじょう崩さない最善だろう。

辞めていった友人が不憫でならない。彼は悪いことをしていない。悪いことをしていないものが心を壊し、辞めていかなければならない現実。

青年は辞めていった友人にした陰口やうわさ話と同じやり方で
で、悪の連鎖を広めていくだろうか。
僕はラインで孤立することになるかもしれない。

今のラインは、その友人が辞めたときとほぼ同じメンバー。
僕を入れて数人が、新たに入っただけ。
友人が窮地に立ったとき、誰一人として彼に手をさしのべるものはいなく、逆にみんなで友人から遠ざかった。

そして、友人の悪評を広めた、あの青年に疑問を持つ者は誰一人としていなかった。
他人の悪評を平然と口にする者ほど罪深いということに誰も気づかなかったのか。

愚かな人間。度し難い人間。

僕は友人と同じように心を壊し、それ故に会社を辞めてはならない。
それは人間の愚かさに膝を屈することになるからだ。
辞めた友人のためにも、自分のためにも、自分の掲げる人間の理想のためにも、僕はどんなことがあっても、会社に留まるんだ。
辞めるときは、全然違う理由でだ。

強くなければ。明るく振る舞おう。
嫌う奴は嫌え。他人の悪評を鵜呑みにして、僕という人間を評価するのなら評価しろ。僕は間違っていない。何も悪いこともしていない。
僕は自分の存在を卑下する必要はない。落ち込む必要もない。
悪びれる必要もない。

僕は僕だ。

人間の愚かさと、そしてくずれそうな自分の精神への戦いだ。
そして、救えなかった友人への償いのために、僕は明るく平然と抗ってやる!
ついに徐々にですけど、ラインが稼動し出しました。
やっぱり何もやることがないよりは、何かやっていた方が時間が経つのが早いですね〜。
今日で最後って気持ちも手伝って、すごく早く終わったように感じました。

来週からは、本格的にラインが動き出すだろうからきつくなるだろうなあ。

ところで、僕の友人が会社を辞めます。
違うラインなので、事情を詳しくは知らないのですが、どうやらある行動が誤解をよび、それが原因で悪評になり、それで、居心地が悪くなったようです。

ここで問題なのは、誤解で人が会社を辞めなければならなくなったということです。
これほど馬鹿げたことはありません。
そして、その誤解が修復できないところまで来た原因というのが、うわさ話。一人の人間が、誤った認識を他人に伝えることにより、噂された本人の意識しないところで、本人と別の人物像が形成され、それがたとえ虚構であったとしても真実と入れ替わってしまう。
うわさ話や、陰口というものは悪の連鎖を引き起こします。
そして、うわさ話をしている人にはその罪の自覚は毛頭ない事が多いわけです。
今回辞める原因を作ったと思われる方もまた僕の友人なので、非常に心苦しいのです。

言葉が引き起こす危険性というものを、僕も肝に銘じておかなければ。
まだ顔を合わせて二日目なのに、新人の青年が、僕のことを非常に慕ってくれています。
この青年は、長崎の島から来た、素直で純朴な少年です。
きっと最初は緊張しているだろうし、僕も一人でプレッシャーを抱えるつらさは知っているので、できるだけ声をかけていたんです。
なんか、すごくいい子です。こちらが、その純粋さに心を癒されます。朝、違うバスなんですが、僕を見つけると懸命に手を振ってくるんです。「キタムさんを見つけたので、うれしくて手を振っちゃいました!明日も振ります〜」とかいうんです。僕もうれしくなります。彼の夢は、お金を貯めてホノルルマラソンに出ること。なんて健全なんだ〜。
ずっと以前に僕が純粋だと書いた子は、変わってしまいました。

裏表がありすぎる。
陰でものすごいことを言い、その人の前では、天真爛漫を装っている。
その姿が、痛々しい。

僕も言われているのかもしれない。
鬱になりこの会社を辞めた友人、原因の一端はこの子。
この子には、気をつけろといって友人は、辞めていった。

僕は、純粋だったころのその子しか知らなかったので「まさか」と思っていたけど、今回また同じ部署になって、その変貌ぶりに驚いた。
短期間で人はこれだけ変わるのか。

その子は、人口の少ない離れ小島から来た子。
本当に純粋だった。
でも純粋なだけに何色にも染まりやすい。

彼はどうしてこうなった?
たった一年で。。

ひたむきだった彼を僕は人間として好きだった、一緒にいると元気になった。心が洗われるようだった。

今、彼の姿を見ていると、心が痛む。
彼は、鬱になって辞めた友人の相談を僕が受けていたことを知っていて、今、僕に素っ気ない。

それはいい。だが、僕は問いたい。

何故そんなに人を嫌う?
ISBN:4101121168 文庫 安部 公房 新潮社 ¥460
ダンボール箱を頭からすっぽりとかぶり、都市を彷徨する箱男は、覗き窓から何を見つめるのだろう。一切の帰属を捨て去り、存在証明を放棄することで彼が何を求め、そして得たものは?偽箱男との錯綜した関係、看護婦との絶望的な愛。輝かしいイメージの連鎖と目まぐるしく転換する場面。読者を幻惑する幾つものトリックを仕掛けながら記述されてゆく、実験的精神あふれる書き下ろし長編。
見られる恐怖と見ることへの好奇心、見られることなく世界を傍観すること。
何となく、現在のネット社会を彷彿とさせますね。
覗いている人間の眼の不気味さは、顔面神経痙攣を抱えた僕にはよくわかります。見られることによって引き起こされる不安。
相手が誰かわかっていても恐ろしいのですから、匿名性の眼差しは如何ほどか。
明日に拘泥することで自分を苦しめないようにしましょう。

だって、考えても考えなくても明日は来るのですから。
楽しい予想がつかないのなら想像するのは無益というほかありません。

そんなことなら、どこか本の世界を生きていたほうが全然良い。

心にのしかかるこの沈痛な感覚、薬を飲まなきゃ、確実に抑うつだなあと予想がつきます。

今、SSRIが必死にセロトニンがすぐに再取り込みされるのを抑制してくれていますw
ええ、よくわかります。

とりあえず、今日は残業だったので、映画どころか本も読めないかも。。
別にタイトルに意味はありません。

休みが長いと、休み明けの仕事での人間関係とやらで少しばかり気持ちが憂鬱にもなったりしますね。
まあ、憂鬱で済んでいるのも薬のおかげ。

今日は生活リズムを仕事に合わせるためにほぼ一日中寝ていました。
仕事のような強制的な何かがないと僕の生活リズムは完全な夜型になってしまいますから。

これから一週間は早番なので、朝方に持って行かないと。
気力を振り絞って、これからできるだけ映画でもまた見ていこうかな。。。と計画中。

でも多分、今日から毎日残業だな。。
今日久〜しぶりに、まともにテレビを見ましたよ。
新日曜美術館で、岸田劉生という画家の特集をやっていたんですけど、なにげに面白くて最後まで見てしまいました。

麗子微笑という作品でとても有名ですが、この人、リンゴに大変こだわっていたみたいですね。

リンゴはそれ自体で充実している。何故そんなに充実しているのか。その存在に見せられた劉生は、リンゴを描き続け、リンゴの中に芸術の神髄を見るのです。リンゴの赤、それは、麗子の赤です。麗子とはリンゴです。

壺の上にリンゴが置いて在る。というタイトルの絵があります。
リンゴが置いて「いる」じゃないんです。
置いて「在る」なんですね。あくまでリンゴが主体性を持ってその存在を放っている。
劉生にとってリンゴとはそういう物であったのです。
そして、その絵を見た我々も、否応なくそのこと、リンゴの充実性を感じざるを得ない。

一つのことを突き詰めて考える、そのすばらしさ。
そこに一点の光をみつけることができるのも突き詰めることができる者の特権でしょう。

うらやましい。。と思いました。
ISBN:4101121028 文庫 安部 公房 新潮社 ¥460
ある朝、突然自分の名前を喪失してしまった男。以来彼は慣習に塗り固められた現実での存在権を失った。自らの帰属すべき場所を持たぬ彼の眼には、現実が奇怪な不条理の固まりとうつる。他人と接触に支障を来たしマネキン人形やラクダに奇妙な愛情を抱く。そして・・・・・・。独特の寓意とユーモアで、孤独な人間の実存的体験を描き、その底に価値逆転の方向を探った芥川賞受賞の野心作。
安部公房と聞いて思いつくのは、カフカ、シュールレアリズム、実存。まだ三作しか読んでいないけど、一貫してカフカ的で、シュールで、そして実存を問うていますね。
自己の存在は、なんによって規定されるのか。
名前というものが、公房の作品には重要な鍵となっているようにも思えます。この世界に、しっかり理性を持つよう教育された人間に、名前を持たない人間はいるでしょうか。もしいるなら、その人は自己をどう定義し、どう世界を解釈しているのでしょうか。自己と他者の区別に名前が重要な役割を果たしている。
さて、自己と他者、壁と自由。自己であることはそれ自体が壁になり、しかし壁であることは自由であることと同意である。
所詮我々が意識する世界など、その程度の現実でしかないのです。
S・カルマ氏を読んで、ゴーゴリの「鼻」を思い出し、バベルの塔の狸は、純粋に面白かったです。赤い繭、はどこかで読んだことあるような記憶が。。
気力が多少回復したので、テニスクラブに行ってきました。
3週間ぶりか1ヶ月ぶりです。

当然ながら僕の体は硬く、さんざんでした。
でも、まあ、テニスクラブに行けたのでよしとしましょう。

3月に大会があります。当然申し込むのですが、今のままだと結果は見えていますね。

最近は、再びよく本を読んでいます。
映画もみたいなあなんて思ったりして。

とかくこの世は生きづらい。
数日前から薬を再び飲み始めましたけど、この薬は効き出すのに2週間くらいかかるはずなんですが、まあ、断薬して一ヶ月くらいしかたっていなかったせいか、もう効いてくれているようです。

それで思ったのですが、やはり、僕はまだ薬がないとダメだってことですね。
かなり気分が浮上してきています。何かしようという気力も湧いてきています。薬を飲み続けていると麻痺してわからなくなりますが、今回ばかりは薬の効力を認めないわけにはいきません。

また、気分の上下を繰り返すこともあろうかと思いますが、現在も以前のように爽快な気分とはいきませんが、辛い中でも断薬していたときの辛さとは明らかに異なっています。

そして、今このような気分の中、抑うつの時の思考を思い起こしてみると、いかに自分が物事に対する認識をゆがめていたかがわかります。
視野が狭量で、一面的な、しかも自分に都合の悪いネガティブな側面で見てしまっているんですね。
ですから、友人に相談したことも、今の自分なら自己解決できるようなことですし、むしろ、一面的に捉えすぎていて、なんでそんなこと相談したのかと恥ずかしくなってきてしまいます。
ですが、これが結果的に自分の障害を告白する機会になったのも事実ですから、抑うつ傾向が、普段の意味合いとはまた違った「勇気」や「行動力」を与えてくれたとも言えるわけです。
それもある意味驚くべきパワーを持って。
それを考えると、鬱の人が全てのことに対して、無気力になるというのは間違いかもしれませんね。
鬱になったら、鬱の人にしか持ち得ない気力を喚起する物事があるでしょう。その一つが、死の恐怖への超克です。これはけしてよい意味ではありませんが、僕が考えるのは、こういった、ネガティブによって引き出されるパワーを、どうにかして生への原動力へと転換させる方法があるのではないかということです。
芸術にしてみたって、ネガティブな思考が、偉大な作品の源泉となっている例は枚挙にいとまがありません。

さて、僕が最近、試しているのは、自分のゆがんだ認識を正しいものへと自分で導いていく認知療法というものですが、それができるようになった暁には、今度は、認知療法をもう一つ進化させて、自分のゆがんだ認識を認知し、コントロールし利用できるまでになりたいですね。
果たしてそんなことができるのかなんてわかりませんが、そう考えてみたら面白いじゃないですか。
抑うつ的思考にしか生み出せないパワーを無駄にする手はありませんから。ネガティブな認知をポジティブなことに積極利用する。

もちろん、完全な自己のコントロール下に置かなければ危険なこと請け合いですが。

まあ、カミングアウトは、無意識のネガティブのポジティブ積極利用だったわけですが、それを自覚的にできるのならもう恐いもの無しです(笑)
僕はデスね、抑うつ傾向にあっても断じて鬱ではありません。
なぜなら、些細な出来事で気分が多少なりとも回復するから。
まだ何かしらを行動する気力は残っているから。

ようは認識の問題なのです。
この認識という奴が結構やっかいなんですがね。

仕事は忙しいほうが良いですね。
抑うつ傾向にあるときは、コミュニケーションの時間が長くなるのは少々酷です。
短い時間で、頑張って気力を保ちましょう。
今日、もう一人、カミングアウトしました。

心の扉よ開け!開け!開け!!

自分の存在の有り様なんて、成り行き任せでいいじゃないか。

何が起こったって、死ぬわけじゃなし・・・

と思ったらちょっと気分が軽くなった。

友人には2種類。

無口になると、「どうした?」と心配する人と

「つまらんやつ」と遠ざかる人。

僕は後者におもねり、遠ざかられることにおびえすぎているんだ。

親しみ、が変容することの恐怖から、自分の心を解放させたい。

心の扉よ、開け!開け!開け!!

遠ざかったら、それだけの人だったんだ。

そう思ったら、ちょっとだけ気分が軽くなった。
僕は理想の一割も実行できてない。
だから、せめて思いを口に出すようにしてる。
そう、偽善者なんだ。
僕の言葉は空虚だよ。
言葉の多くは虚しいものさ。
でもね、そんな言葉でも、ごくまれに、行動を凌駕するほど人を元気付けることがある。
僕は、自分の理想と行動が伴わない偽善者だけど、そんな偽善者の発する言葉にも、口に出してれば、助けになったり、希望のきっかけになったりするかもしれない。
そう、偽善には善も含まれる。だけど、偽善を嫌い開き直った悪には善は含まれないんだ。
だから、僕は開き直るよりは偽善でいたい。
もちろん一番は理想と行動が伴うこと。僕はそうなるために偽善を実行することで善に変えていく努力をしなきゃならない。
努力はするけど、でもいつ全ての「偽」を取り払えるかなんてわかんない。一生かかっても無理かもしれない。
だから、僕はせめて僕の思う人間の理想を口にする。
偽善者でありつづけることは、善者になれない僕のせめてもの罪滅ぼしなんだ。
人間が信じられない?
人間は必ず裏切るものだって?

何をすさんでやがるんだ。
何絶望に浸ってやがるんだ。

お前がそんなこと言えた義理かよ。
お前だって、さんざん人を裏切ってきたじゃねえか。
人から信じてもらえないようなこともいっぱいしてきたじゃねえか。

そんなお前が、自分だけ無実な顔して、人が信じられないだの、裏切るものだの、ニヒリストぶりやがって。

お前はいったい何様だよ。うぬぼれるのもいいかげんにしろ。
いいか、そんなこという権利ないんだよ。お前という人間だって、沢山の人を傷つけてきたんだよ。
お前はそのことを今まで考えてきたのかよ?お前は償ってきたのかよ?

お前はそんなこと気づかずに平平凡凡と暮らしてきたんだよ。お前は、それに対する努力をしてこなかったんだよ。
そんなお前はたとえ裏切られても文句いえねーんだよ。
人を信じないでいい権利なんてねーんだよ。

人が信じられない?
じゃあまずお前が人から信じられる人間になってみろよ。

人は裏切るもの?
じゃあ、まずお前が人を裏切らないように努力してみろっつーの。

お前がもしそういう人間になってみろよ。
そしたら、ほら、いるじゃねえか。
お前だって人間なんだぜ。人間は信じられるってことになるじゃねーか。人間にも裏ぎらねーやつはいるっててめえの身で実証できるじゃねーか。

ろくでなしのお前ができたとしたら、他にも沢山そんな奴はいるって話よ。

もしそんな人間になれなくても、でくの坊のお前でも努力はできてんだから、そういう人間になるために努力してる奴なんざあ、ごまんといるってことよ。

絶望に浸ってる暇があるんだったら、そういう人間になる努力をしてみろっての。自分の身で自分のヨワッチイ心を論破してみろっての。

いいかキタム、お前は人を信じないでいいような身分じゃないんだよ。人を信じつづけろ。どんなことがあっても人間不信と戦い続けろ。

お前が人を心の底から信じつづけることができるなら、お前のことを心のそこから信じてくれる奴もどこかに絶対いるってことなんだから。
今まで強迫のことばかり調べてきて、顔面痙攣のことをまじめに調べたことがありませんでした。
そのことを今、激しく後悔しています。

今回、調べて、僕の痙攣はおそらくこれであろうと、いや、ほぼこれだと思われます。

「顔面神経痙攣」

顔面神経が脳幹部から出現した近くで、動脈により圧迫されるために発生するそうです。
緊張すると血圧が上がり、神経を圧迫している圧があがるため、痙攣が増悪する特徴があって、必ず左右どちらか一方に発生するそうです。ちなみに、僕は右側です。

治療方法は、ボトックス(ボツリヌス菌)の注射、もしくは手術だそうです。ボトックスは3ヵ月毎の注射が必要なことと多数回の注射により効果が減弱することが欠点です。

根本の治療はやはり手術でしょう。
僕を苦しめてきたこの痙攣とサヨナラできるなら。。

とりあえず、大分でこの症状を扱っている病院を探すところから始めないと。
僕にも、信仰している神があります。
それは、仏陀でもキリストでもマホメットでもありません。
その神は、僕の心の中にだけ存在します。

名前をつけるとすれば、僕の「心」以外にありません。
ときとして、神様は、キリストと同じ考えをしたり、仏陀であったり、はたまた、誰にも当てはまらなかったりします。

ただ、僕の神について言えることはといえば、僕の良心の部分と多大に抵触しているということ、前向きであるということだと思います。

僕は根から前向きな人間ではありません。むしろ、ネガティブで、マイナス思考が人一倍強い方です。だからこそ、僕は、この神様を信仰しているのです。
日々、この信仰が強固なものになっていくのがわかります。

18歳の同僚は、前向き症候群と自分のことをいいます。
僕から言わせれば、それは、彼自身が彼の神に近い存在であるということになります。根から前向きな人は、信仰する必要はないでしょう。それは僕にはうらやましい限りです。
彼のようになれればと思います。

僕は僕の神がこのような存在であることをうれしく思います。
いつか僕の神に僕が少しでも近づける存在になれることを願う気持ちがある限り、この信仰が途絶えることはないでしょう。

僕はこの神のおかげで、以前よりも早く立ち直ることができるように思えます。

ある本に、
「神々が人間に、憤怒や復讐の感情から、憎悪の気持ちまで付与されたからには、そうした感情が人間生活に必要欠くべからざる要素だから」
と書かれてありましたが、悲しみや、悔しさや慚愧の念にも同じことが言えます。

神がこれらの感情を付与してくれたのは、僕にとって必要だったから、それ以外にありません。

苦悩の中にあっても、前向きであり続けること、両者は決して相容れないものではなく、両立するものであると信じます。
僕の中の神は、苦悩を否定しません。
苦悩を受け入れられるようになること、そして希望を失わないこと。自分を信じられること。
そうなっていくことこそが、僕の中の神に、僕が近づくことなのだと思います。
宗教団体の件ですが、たった今、断りのメールを送りました。
大変勇気がいりましたが、これでよかったと思っています。

今後の人間関係ですが、神や仏を信仰する人々であるなら、その宗教に属さないからといって、排他するような行為は意に反するでしょうし、変わらないことを願います。たとえそれが願望であっても。

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