依存の対象が僕に移ったのは、僕が意図したことでもありました。
他のメンバーは皆強迫を持ちながら仕事をしていたし、その上にK君とのやりとりの負担は、大変です。
僕は当時働いてなくて、薬のおかげでだいぶ強迫も軽くなっていました。
それに何より、これは僕自身の救済でもあるように思えたのです。僕は、誰かに献身することで、裏切らないことで、人間は信じられる存在だ、ということを自分自身で証明してみたかったわけです。

K君の話す過去の話が大変辛いものであると前の日記で書きました。しかしK君とメールのやりとりをするうちに、K君のメールに矛盾が生じてきて、明らかにいくらかの部分が虚飾であることに気づきました。
なぜ嘘をつくのか。。K君の話す通りの過去ではないにしても、K君の過去、また辛さの根は深いように感じました。

僕は、K君に心を開いてもらおうと思いました。ですから、僕はK君の相談相手ではなく、友人になることを望んだのです。

過去の僕とK君が似ているのは確かです、ですから、他の人よりも自分はK君のことが理解できる自負がありましたし、K君が暴言を吐いても昔の自分の気持ちを思い出せば耐えられる。。とそのときは思っていました。

K君が自分自信と向かい合うことができれば、暴言はなくなるはずです。僕は暴言に耐えつつ、どうしたら、K君を自分と向かい合わせることができるか、試行錯誤の日々が始まりました。

まず、過去の自分、そしてK君のことをもっとよく知るために人格障害関係の本を読みあさりました。K君が、過去の自分が人格障害であるという鋳型にはめるためではありません。過去の自分やK君がどういった人格障害の傾向を持っているのかを自分なりに解釈し、その人格障害に対して現在有効だとされている治療法を応用するためです。
人格障害の傾向は一つに限定できるものではありませんが、その中で過去の自分およびK君の行動と最も多く一致する人格障害を見つけました。
それは、「境界線人格障害」です。

境界性人格障害を簡単に説明すると、
『情緒面や対人関係の変動の激しさと、周囲に対する操作的な態度が最大の特徴。つい先ごろまで機嫌がよかったかのに、相手の些細な一言で傷つくと、急に不機嫌になったり、死にかかわる挙動を示したりする。
躁鬱のように、何ヶ月という長い期間ではなく、もっと短いスパンで、気分の変調を繰り返す。
「見捨てられ抑うつ」という特性を持つ。
自分はいらない存在だ、という思いこみがあり、愛情や関心を失ったと感じることが、その思いこみを確信させ、絶望に陥らせる。これは、過去そういった経験をしたことが由来している場合が多い。
対人関係では、過度な親しみや尊敬を示したかと思うと、急に、相手を拒否したり、激しく悪態をつき始める。
その人物の人生をたどってみると、必ず、どこかに愛情を損なわれた状況が浮上してくる。』
というものです。
もちろん、僕は医者でも何でもありませんから、ただ、僕がK君は、「境界性人格障害」の傾向が強い、と感じただけです。
ですが、それが僕にとって今後の対処や選択への方向性を示してくれる指針となりました。

K君とのメールの中で、虚飾の中から見えてきた真実。それは、K君が複雑な家庭環境の中で育ったことと、身体的な障害で幼い頃に辛い虐めにあったこと。

ですから、K君は、愛情に対する不安感が常にあるのだと思いました。人が、たとえば、僕が愛情を示しても信じられず、故に虚飾で自分を飾り立て、本当の自分を隠す。自分を知られると嫌われるという不安、もしくは、この人間はまだ信じられないから、本当のことはいえない、というような感じだと思います。

信頼の欠如。愛情の永続性に対する信頼感を「対象恒常性」というそうです。愛情に対して不安感を持つK君は、この対象恒常性が欠如しています。
ですから、メールがすぐに返ってこないときなど、感情が不安定となり、暴言が始まります。

対象恒常性を取り戻すには、K君に絶対の信頼をもてる存在を作り出すこと。。K君が自分と向き合うためには、そのことから始めなければならないと思いました。
果たして、僕がK君が信頼する人物となれるのか。なれたとして、自分が思っていたような結果になるでしょうか。
自分の覚悟が問われました。そして、これは、僕にとっても過去の自分の経験と心理だけを頼りに選択した、はなはだ頼りない先行きの不安な賭でした。。
僕は日記のタイトルにもわかるとおり、強迫性障害です。

僕は、この障害の自助サークルに入っているんです。
ある日、そこの掲示板やチャットで一人の男性と出会いました。
その男性は強迫性障害ではありませんでしたが、苦しんでいたので、サークル内の何人かで力になろうということになりました。

その男性をK君と仮名します。
K君は孤独を訴えていました。
ある日、孤独のいらだちから壁を殴って拳が折れた。。との書き込みを見て、僕は、個人的にK君とメールのやりとりをするようになりました。。

メールは、最初は、ごく平凡なものでした。K君の言葉遣いも凄く丁寧でした。K君の話す過去の話も、凄く辛いもので、よくここまで一人で頑張ってきたと思わずにはいられないものでした。

しかしです。
K君はじつは僕の他にもサークル内でメールをやりとりしている人物がいました。
ある時、僕はその人から、K君についての相談を受けました。
「K君の暴言が毎日のように送られてくる」
というものです。
そのとき、僕の脳裏に「K君はこの人に依存しているのではないか?」という疑念がわきました。
その人は、メールをするのが怖くなり、しばらく返信していないということでした。

程なくして、K君のメールに少しずつ言葉に刺が見え始めてきました。それとともに、もう一人のやりとりしていた人へのメールはほぼ途絶えました。
「依存」の対象が僕に移ったわけです。

この時点で、僕はある覚悟を決めました。それは、どんなことがあろうと彼を見放さない、というものです。
そうです。僕はK君の中に過去の自分を見いだしていたわけです。
前の日記に書いたとおり、僕は彼が決別の辛さによって自己との対面を偶然にせざる終えなくなる前に、友という形で自覚の元に自己との対面を果たさせようと思ったのです。
彼にこれ以上傷を負わせないために。

さて、事前にいっておきます。僕のこの浅はかな、そして独善的な意気込みは挫かれることになります。そう、覚悟といっていたのに、挫かれてしまったのです。
しかし、そのときに僕はまさに覚悟をしたことに偽りはありません。ですから覚悟と書いたのです。爾後、諦めてしまえば、それは覚悟でも何でもないんですけどね。

それは僕の自分に対する過信と、想定の甘さが引き起こしたのです。
うすうすは感じていても、離婚の引導を渡されるまで直せない夫の例のごとく、人間という生きものはおろかです。
自分が一番おそれていることが、今のままではいつか起こることがわかっていても、それが実際に起こるまで、その危機を確信しようとはしないんですから。

僕は見放されました。来るべき時が来たのです。
おそらく、この経験が踏み出すきっかけとなったのは、依存する相手が、一人しかいなかった。つまりその頃の僕には自分の感情をそのままにはき出せる相手が幼なじみしかいなかったからでしょう。
幼なじみを失った僕は、拠るべきもの、依存する対象がなくなりました。必然的に、僕は自己へ向かっていくしかなくなったわけです。
だから、結果的に、当時の状況は自分にとって不幸のように見えて、幸運だったのかも知れません。
もし、他に依存するべき対象を見いだしていたら、そちらに逃避し、自己を省みることはなかったでしょうから。

内省への一歩。
なぜ・・・を考える。
自分が変わっていかなければ、現状は変わらない。このことは、簡単なようで、単純なようで、実は気づくことが難しい。
そして、気づいても、自分で治そうと努力する気持ちへ持って行くことはもっと難しい。
自分自身の過ちを認め、そしてそんな自分を認め、見つめることは、並大抵の苦しさではありません。

そして今現在、僕が傍目には、それほど異質に映らないとすれば、それはこの自己と向き合い、変革を志したから、そしてそのきっかけとなった幼なじみとの決別があったからです。
実際には、変革は現在進行中ですが、あのきっかけがなければ、僕の現在は今よりももっと陰惨なものになっていたでしょう。

さて、以上の経緯からわかるように、僕が自己と向き合えたのは、出来事自体尾は不幸ではあってもこの場合「僥倖」とよんでも差し支えない運命の偶然によるものでした。

でも僕には一片の後悔があり、また願望の残滓があります。
それは、もし、あの当時、僕の症状を理解できる人物がいて、適切な助言を与えてくれるものがいたなら、幼なじみと決別することはなかったかも知れない。あのような辛い体験を経ずとも、自分が自分自身と対面する大切さに気づき変わり得たかも知れない。。ということなのです。

それ以来、僕はもし当時の僕と同じような人がいたら、どうにか力になって、僕が辿ってきたような辛さをあじあわせる前に、その人を自己との対面へ向かわせられないだろうかと思うようになりました。
なぜなら、偶然に拠って自己変革を気づきうるのは、ごく稀な例だと思うからです。僕は幸運だったのです。ですが偶然に頼ることは、あまりにも内省へと向かう確率が低すぎる。
それに、最悪のショックが引き金となると、自己と対峙できるようになるかもしれない代わりに、何らかの欠落を伴います。心に深い、もしかしたら一生取れない傷を負うことになるのです。

もし僕がそういった人に気づいたなら、たとえ一人でも、偶然ではなく、そして最悪の事態に追い込まれ強制的に自己変革せざる状態に陥る前に、自覚の元に内省へ促すことができないかと考えたのです。
僕が経験したような辛さを他の何人にももう味わって欲しくない。。というのははひどい思い上がりだとは思いますが、そのような切実さを持つように至ったわけです。

上記の僕の過去と心理の経緯を踏まえた上で、ある人物との出会い、そこから派生した現在直面している問題、試行錯誤や逡巡などを確認し、僕の現状の思考の立ち位置を明確にしてみたいと思います。
僕は幼い頃、自分の感情をもてあましていました。
というよりも、自分の感情をコントロールすることができませんでした。

僕の心は混沌として、嫉妬や妬みに駆られて、意図せざる暴言や暴挙に出てしまうことが度々あり、僕が望む関係性を人と形成することはあたわず、頻繁に諍いを起こしていました。

元々、人とコミュニケーションをとることが苦手でした。
自分がやっていることが、どうしてだか他の人の物笑いの種になる、もしくは、人の不興を買う。
僕には、そのなぜか。。がわかりませんでしたし、なぜか、を考えることもせず、周りの人が自分を理解してくれないと憎んでばかりいたんです。

一人のやさしい幼なじみがいました。
僕は彼に「依存」していました。彼が他の友達と仲良くしていると、嫉妬に駆られ、彼に暴言を吐くのです。ある時は、彼の頭を傘で思い切り殴りました。頭にものすごい瘤ができました。
ですが、その頃の僕は、その行為に罪を感じていませんでした。
「僕を蔑ろにして、他の人間と遊んだ彼が悪い。」
という風に考えていたんです。
自分が相手を傷つけていることはわかっていました。しかし、それは彼が僕を蔑ろにしたそれと同じ痛みを味わえ、といった酷く浅はかな復讐であったのです。今思えばそれはそのときの自分流の切実なシグナル。自分の気持ちを伝えたいシグナルであったんだろうと思います。僕はその頃、他に訴える手段を知らなかった、無知だったのです。

彼は、本当に優しかった。そのようなことがあったのに、未だに僕を見捨てず、友達でいてくれていたんですから。。ですが、終わりは来ました。

時は流れます。成長とともに、自分のしていることの異常性が理解できるようになっていきました。
しかし、僕は相変わらず、感情を抑えることができず、幼なじみを罵倒する日々が続いていました。
ただ、その頃になると、うすうす現状が永久に続くはずはないとわかっていたし、異常性を治す必要性も感じていました。でも、深くは考えず、そのことに踏み込みもしませんでした。なぜなら、僕のもっとも信頼を寄せる幼なじみ、つまり依存の対象が存在したからです。その人という存在がいる限りは、変わらなくても失わない(はずの)存在がある限りは、僕は変わりたくても変わることができなかった。
それが「依存」です。一歩を踏み出す恐怖や労力より、安穏と気持ちをぶつけられる対象に寄りかかってしまう。関係性を破滅へと導くのがわかっていても。。

中学一年の夏。時はきました。
その日から、僕が話しかけても、幼なじみは一言も言葉を返さなくなりました。
「ついに来たか。。」
そのとき、思ったことです。今でも忘れていません。
暴言を続けていたら、何時かは訪れる。。わかっていたことです。でも止められなかった。覚悟していたのに、止められなかった。

僕は見放されました。当然の結果です。
僕のすべてが崩壊しました。そのショックは、おそらく今までの人生でももっとも辛いものだっかもしれません。
ですが、このことが、僕の一歩。内省への旅の始まりともなったわけです。
DVD ジェネオン エンタテインメント 2003/03/28 ¥4,935
異能の人、フランソワ・オゾンがこれまでのダークな作風から一転、正攻法の語り口で巨匠の道を歩みはじめた転機的作品、それが『まぼろし』である。マリーとジャンは25年間連れ添った夫婦。例年同様に南仏でバカンスを過ごす2人だったが、何の前触れもなく、ジャンは海に忽然と姿を消してしまうのだった…。
愛する人を失い、孤独をさまよう主人公の喪失感にドラマは濃密に寄り添っていく。台詞を廃した余白の積み重ねが、いっそうの寂寥を誘う。そんな悲しみのただ中に凛としてたたずむ主人公を、シャーロット・ランプリングが円熟の名演でみせる。その視線の演技は、すべての心情を言い表しているかのよう。とりわけ、いるはずのない亡霊としての夫との語らいが印象的だ。海原の轟音がいつまでも心に残るのは、抑制された音楽演出の効果にほかならない。
フランソワ・オゾンが苦手という人にも、お薦めできる作品である。なお、前半は35ミリだが、後半は予算の関係上、スーパー16で撮影されているのだが、これがまた絶妙の効果をあげている。

「貴方はわたし。わたしは貴方。」恋愛の中での束縛の要素の一つに、この自己と他者の同一化があげられると何かのテレビで聞いた記憶があります。貴方はわたしの一部、だから貴方がわたしの見てないところで行動するのもおかしいし、わたしの望むこと以外をしてはいけない、ということなんでしょうか。
愛といっても、人によって様相は様々。
愛するからこそ、裏切りの恐怖におびえて相手を信じられないのも愛の形。
一方で、愛するからこそ、相手を心から信じられるというものそう。
この作品は、、後者に当たるんじゃないでしょうか。
ただ、その根本に自己と他者の同一化があります。
つまり、束縛を超えた究極の信頼も、この場合は同一化からきたものだと思うのです。
貴方はわたしであるから、わたしの前からいなくならない。
夫がいなくなることは半身がなくなること。同一化してしまった彼女は、夫の存在を否定することはできない。故に彼女はまぼろしを見、そして語るのではないでしょうか。

まさしくオゾンが巨匠になりえる可能性を示した傑作だと思います。
今日も全く不毛な1日。
心の疲れが最近頻繁にため息という形で出てきます。
ため息って不思議ですね。
ため息をするとちょっと心の苦しさが軽くなります。
何か溜まった苦しさをはき出してるよう。

ため息がいいというよりも、思い切り息を吸って吐き出すのがいいのかな。深呼吸とかもいいのかも知れませんね。
DVD アミューズソフトエンタテインメント 2003/07/25 ¥3,990
大学生キョヌは、電車内で酔っぱらいの美女を介抱する。翌日、その彼女に呼び出されたキョヌだが、お礼を言われるどころか彼女の横暴な言動や態度にびっくり。しかし、名前も明かさない彼女の心になにか悩みがあると気づいた彼は、言われるがままに付き合おうと決心する。
韓国で、インターネットの掲示板に載ったエピソードを基に映画化されたというユニークな一作。レストランのメニューを指示されるなんてのは序の口で、気に入らなければ殴る、川に突き落とすなど「彼女」の行動は極端だが、正義漢の一面もあり、見ていて妙にすがすがしい。2人の恋の行方が笑いを誘いながら、後半は意外な感動ストーリーへなだれこむのも本作の魅力。主演2人もチャーミングで、男、女、それぞれの立場に隠された恋愛願望が引き出され、胸にズキッとくる。
猟奇的という邦題が功を奏したというようにもいわれましたが、作品として普通に凄く良いできだと思います。あまり期待していなかった分だけ新鮮な感動がありました。
そして歌が凄く良いですね。このサントラを買おうかと思ったほどでした。実際には買ってませんけど。
彼女は猟奇的というほど暴力的ではないですよね。原題もそこまでじゃないとか。
人の性格や、態度には、必ず過去の何らかの遠因があるわけで、たとえば、そのとき凄く酷い態度をとっていたからその人は悪い人だと思うのではなく、一歩立ち止まって、その人はいったいどうしてそのような態度をとるのだろうかと考えてみたり観察(悪い表現だけど)してみると、その人の違う部分や、苦悩がわかってくるかも知れないですね。
なんか今日はテニスクラブ以外は不毛な1日でした。
ちょっと気分が落ちていて、いつものテニスマガジンのスキャンをやりませんでした。
気分が落ちるというか、不安感ですかね。
新しいラインに入るんで、どんな人と一緒になるかとか、人間関係の煩わしさ。。
でも慣れて行かなきゃですね〜、社会人として。
でも、こういった不安は、多かれ少なかれ、みんな持つでしょうし、同僚で、全く知人がいないところに移動になった人なんかも、テンションがた落ちでしたからね。
来週からは、しばらく日勤なので、生活リズムが整います。
きっと睡眠時間も少なくてすむでしょう。
ですから、しっかりテニスマガジンをスキャンして、減らしていかなければ。

いろんな人と出会う

2007年1月19日
今日で今のラインは終わります。
来週からまた新しいラインが立ち上がるので、今の仕事のメンバーはバラバラになります。
今のメンバーじゃ自分的には結構ベストだったので、残念です。
ですが、ずっと一緒に仕事ができるわけでもありませんし、新たな人脈を作りますかって感じで、まあ僕にとってはよいコミュニケーションの鍛錬場と捉えましょう。
ていっても何人かは同じですけどね。

明日も仕事なのに。

2007年1月18日
行くつもりはなかったんですが、話上断れない状況になりまして、仕事仲間大勢でボーリングに行くことになりました。
しかも仕事終わりなので、遅番のそのあとなので、午前3時からとか。
ボーリング2ゲームだけだったんですが、人数が多かったので、結構時間がかかりました。
帰り着いたのが、朝の5時で、風呂に入ってテニスの録画予約してすぐに寝ました。

人は夜寝るもの。

2007年1月17日
遅番はですね、きついです。
きついというか、睡眠時間が長くなってしまいます。
早く起きてデイトレしようと思っても起ききれません。
早番なら5時間ですむ睡眠時間が遅番だと最低7時間。今日は9時間も寝てしまいました。
つまり仕事から帰って寝て起きて仕事って感じです。
テニマガの1日1スキャンもできません。
あ、でも、録画したテニス中継の編集と新たな録画予約はしています。
最近は会社で一食食べるだけですね。
さすがにお腹が減るので、明日は会社に行ってすぐに何か食べようかな。
ipodを車で聞けるように、FMとばしを買おうかと思っていたわけですが、どうせ長く使うものだからよいものを買うことにしました。
テキストディスプレイがついたやつで、drive+playって名前、ネットipodストアで購入しました。
届くのは数日後です。ちゃんと接続できるかなあ。
オーストラリアンオープンが始まりました。
今日から2週間、ほぼテニス漬けの毎日になります。
テニスに株に。。
といっても見る暇はありません。
もっぱら録画と編集作業に追われます。
いつか見ようと思いつつも、去年の大会も全く見ていません。
じゃあ、とることに意味があるのか?って聞かれれば、ないのかもしれません。50年後に、今録画している映像を見たいと思うとは思えません。
でも、止められません。今、この時点で起こっているテニスへの欲求が僕を録画に駆り立てるんです。
おそらく、娯楽としての機能より、資料的な意味しかもう持っていないのかもしれません。
もちろん、娯楽として楽しみたい気持ちは強くありますが、学生時代のようにテニスだけに拘泥することができなくなりましたから。
見て楽しむテニス中継を、録画することで満足するようになった僕は、テニス中毒者から、テニス録画中毒者になっています。
それは、テニスの情熱というよりも、データを収集することへの執着です。その先に何があるんでしょう。何もないでしょうね。
ですが、生きることとはつまりそういうことの積み重ねなんだとも思うわけです。
だからそれでもいいのかなあ、と最近刹那に思うこともあります。その逆も然り、ですので、結論なんか出ませんけどね。
あっ!体が痛い。
全身筋肉痛です。
でも心地よい。
ウエイトトレーニングしてた大学時代は毎日が筋肉痛でした。

背骨さえ曲がってなくて筋肉が左右均等につく体だったら、間違いなくボディビルダー並みに鍛えてただろうなぁ。
自分の体のこと考えると落ち込むだけなので、止めます。

3月にテニスの試合があるんです。
それまでに走りこみとかして体を作らないと、一回戦負けでしょう。わかってるんですけど、どうにもそこまでの気力が^^;
でもテニスで勝ちたいもんなあ。

てことで、今日は、朝まで起きてたんで、それから寝て夜の7時に起きてしまったんで、別に何もしなかったです、やったのは、WOWOWであったアガシの特集を録画したのと、テニスマガジンを2冊スキャンしたくらいですね。
1レッスンが90分あります。
そのレッスンを4レッスン受けました。

今日は昼に起きて、そのままテニスクラブへ。マンションにあるテニスのビデオで、もうDVDへの移行が完了した分、全体のやく4分の1位を持って行きました。
そのまま捨ててしまうのがもったいないので、テニスクラブに寄贈するのです。
今後、テニスクラブのテレビには、僕の長年取りためたテニスのビデオが流れ、活躍してくれることでしょう。

1レッスン終わってから、次のレッスンまで、読書して、またレッスン受けて、そのあと一旦夕食を食べに近くのファミレスへ。朝食を食べていなかったので大量に食べてしまいました。そのあとトイレいってから再びテニスクラブにもどって、残り連続2レッスン。
最後の方はもう疲れて、手のひらの豆も潰れて、へろへろで痛くて、自分が何をやっているのかよくわかりませんでした。
コーチも一日中いる僕の姿に驚いてましたね。

昼にいって、帰ったのがよるの11時。
なぜかそれから朝まで眠りませんでした。
先月が忙しかったためか、今月は、仕事が週に四日だけだったりすると、楽に感じますね。
本当は、今週三連休のはずらしかったんですけど、月曜日に休日出勤が入りました。まあ、いつものことですがね。
昼までだからいっかあ。

明日は、今まで溜まった分のテニスクラブを消化します。
多分豆も1日でできて1日でつぶれるでしょう。
次の日筋肉痛で動けないでしょう。
でもいいんです。テニス頑張ります。
働きながら、株で短期の取引をするってなかなか難しくて、僕も試行錯誤の連続です。

最近は、直近の新興株やってます。1日の値幅が結構ぶれるので、仕事の休憩とかに株価を見て、急激に下がっている株を購入します。すると、引けで値を戻していたりなんかして、株価自体は下げていても、結構利益が出たりします。

今年は最初からこのやり方でやっていますが、今のところ損失は出てません。このやり方でしばらくやってみようかな。。
案の定、仕事がはじまると、ゲームをする暇がなくなりますね。

年が明けてからは、残業がありません。いいことです。
給料は安くなりますが、1日が仕事だけで終わらないのはいいことです。

でも、ひとり暮らしをしている人には、日給月給で残業や休出が少ないのは問題らしいです。一月は休みが多いので、その分残業で稼ぎたいらしいのです。
ここらへんが、月給じゃないところの弊害ですね。

うちの会社は昇級がありませんので、人がどんどんやめていきます。僕の隣の人も辞める旨を上司に伝えたらしいです。
だいたい、二年くらいでみんなどこかに行ってしまいます。僕もおそらくそのくらいになるでしょう。
会社は考えないといけないかもしれません。現状でも4人、人が足りていないらしいです。
僕に至っては、入社した時期が悪く、昇級もないだけでなく、さらにボーナスもありません。ライン作業に仕事の質の差はありません。そのなかでこのような格差が生まれると、やはり、不満を持つものは会社を離れていくでしょうし。

一応正社員を歌っていますが、その実態は、派遣とそれほど変わらないと思います。
今年に入って、もう5人辞めました。しかもこの工場ができたくらいからいたベテランが3人入っています。しかもリーダーが二人。
ベテランが去っていく会社では人が育ちません。新人ばかりでは、仕事が滞ります。
このようなことをしている会社の未来は見えているような気がします。
断薬をし始めてから、明らかに強迫の症状が出てきてます。
行きのバスの中や仕事中に良く出ます。

断薬を決めた理由は、症状がほぼ治まったので、このまま薬をやめても大丈夫なのではないか?と思ったのと、薬を取りに行く暇がなかなかないのと、出費がもったいないからです。

でも、やっぱり薬は飲み続けないといけないかもしれません。
まだ、それほど症状が強いわけではありませんが、このまま徐々に強くなっていくようなら。。

そのこともありますが、もう一つ、薬を飲んでいるときには、あまりなかった、抑鬱的な感情が結構頻繁に襲ってくるのです。
これは、薬をやめたせいでセロトニンの生成に影響が出ているのかもしれません。

あの、鬱になっていくときの心にどーんと重い、というか何かが詰まっているような息苦しさとともに、心臓がどきどきしはじめて、ネガティブな思考に支配されるのです。

強迫よりも、これが今のところ一番辛いかもしれません。
息苦しさが、襲ってきて、これが恒常的に続くようになると、僕の場合、鬱になっていきます。
息苦しさがよく出るのは朝。息苦しく、胸が重くなる度に、このままではやばいなあ、と思ってます。

もうしばらく様子を見ようと思います。

裏と表

2007年1月8日
おそらくは、僕の家族よりもここの日記を読んでいる人たちの方が僕のことを知っているだろうと思います。かろうじて、僕の心の若干深いところまで知っているのは母親だけ。

僕はどうも、友人達の前では、屈託なく笑えるのに、家族の前では笑えません。それは親戚でも同じです。
だからといってどっちの時の僕が本当とかはなく、どっちも素の自分なんです。

なぜ、家族や親族達の前ではこうなってしまうのか、自分でもわかりません。
ですから、親族の集まりは辛いですね。
兄は、母親や、親戚と仲がいいです。そんな風にできればいいと思ったこともありますが、僕は家族や親戚の前で、前だからこそ、演技をしたくありません。

どうして、家族や親族には、明るい部分の自分を出すことができなくなったんでしょうね。家族や親族だからこそ、心の根っこに近い人間不信の自分が出てしまうのかな。

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