今日は、無事に仕事を終えられた。
休憩時間のニュースで、心のストレスで体調を崩す人が近年増えているといっていた。
僕なんかもいつそうなるかわからないと思う。
以前はそうなってたし。
母親の世代から見ても、今の時代は生きづらい世の中なのだそうだ。
今の人は忍耐がないとか心が弱いなどという人がいるが、僕はそうは思わない。人の心は時代によって形作られるものだ。
僕達が過去に生きていたら、過去の人と似た価値観を有しただろうし、過去の人が現代に生きたら、過去の人たちの多くもやはりたくさんの人が心を病んでいただろう。つまりは現代はそういう時代なのだ。
データの統計でも、自殺率が常に3万人を突破している近年。交通事故の死亡率よりも多いんだっけ?
生きづらい時代、生きがいを求めにくい時代。
僕はそれを否定しようとは思わないし、過去の時代や人間性と簡単に比較できる問題でもないのだと思う。
それだけ、生き方の幅が広がった、選択肢の多い時代に、自己の生き方と現状の狭間で葛藤する。それは、過去から見れば豊かで贅沢な悩みにうつるのかもしれないけど、そういう時代に生まれてきた人間にとっては、その中で精神性が培われたわけで、そういった時代特有の、過去とは別種の過酷さも生まれてくるのだ。

資本主義の行き着くところは拝金主義だ。
拝金主義は、激烈な競争社会の元凶だ。
そこに組み込まれた人たちの中には、いつしか疑問ももつものも現れる。自分の生きがいとはなんなのか?
生きるとはなんなのか。

僕は資本主義がきらいだ。
資本主義が嫌いだが、資本主義より合理的に機能する道を知らない。
だから資本主義に組み込まれるしかない弱者だ。
だから、僕は考えを改めた。
資本主義の中で時代の趨勢に反抗を覚えながらも流されるしかないのなら、自分も資本主義をしたたかに利用して、資本主義の中で自分の生きがい、生き方を見つけていこうと。
考えてみれば、僕の持つ夢もまた資本主義でないと成り立たない、機能しないものなのだ。

全体的には資本主義経済に組み込まれながら、細かな部分は、選択の自由、表現の自由が許されるこの社会の中で、できるだけ資本主義的でない道を探る。そのために資本主義の仕組みを利用する。

それが、僕にとっての生きる方法であり、生きがいへと続いていくのだと思っている。
僕は、自分の透明化を目指してるんですよ。
ほら、企業にしたって、財務状態とか、経営状態とか、全部ちゃんと公開してるとこの方が安心できるでしょう。
安心できれば株だって、買おうと思うわけです(笑)

だから、僕は日記に自分の日常や、考えを極力隠さずに書くように努めてるんです。(もちろん書けないことも若干ありますがW)
僕は性格上、説明のできないことはあまり好きではないので、なんとなく嫌だ、とか、そういう「なんとなく」って言うのは、自分のことではできるだけ持ち出したくないんです。
僕は物事には理由があると思っています。火のないところに煙はたたないって思っています。感情にしてもなんにしても、「理由はないけど~だ」、とか「説明できないけど~だ」、っていうのがありますが、それはつまるところ、本当に理由がないんじゃなくて、理由はあるけど、今の自分の語彙では説明できない、や、原因はあるけど、その原因が現状の自分ではわかっていない、原因を特定できていない、だけだと思っているんです。

人は秘密をたくさん持ちますが、確かに絶対に言えないようなことがないとは言いません。だけど、ほとんどのことは、言えないようなことではないと思っているんです。
「言いたくない」という感情の原因や理由を掘り下げて考えてみるわけです。すると、大体の物事は、自分のつまらない自尊心や虚栄心、または、自分で勝手にこれを言ったらみんなは自分を嫌いになるだろう、とかのネガティブな予想を立てて恐怖心から言えなかったりとかそういうことがほとんどです。
もちろん、自分にのみ関わることと、自分に関わることで他人にも関係してくることの境界は非常にあいまいで難しいので、慎重にその辺を見極めなくてはいけませんが。

でも、自分にのみ関係すると思われる物事で、秘密にしていることは、実際、自分の無駄な虚栄心や自尊心を捨て去れば、秘密にする必要のないことだと思うのです。
それでも秘密にしないといけない要因があるとすれば、それは外部的要因だと思います。
自分の考えを述べるにしても、価値観を述べるにしても、趣味を述べるにしても、そこに現在の時代や文化にのっとった大まかな基準というものが僕たちの意識の根底にあって、それが、偏見の壁を作っているのだと思います。そして、その偏見を自分自身も持っているからこそ、それに若干でも逸脱する価値観や考えを有すると自覚する場合、偏見の目にさらされることを予想し、恐れ、秘密というものを持ってしまうという場合が結構な割合を占めているんじゃないでしょうか。

そういった無自覚ではあるけど、厳然としてある偏見がほとんどの秘密を作り出しているんです。
僕は人と話しているときによく「なぜそんなことを秘密にしたがっていたのだろう?」と思うことがありますが、それは、それを話すと「僕が引いてしまうだろう」「僕が距離を置くだろう」「僕が嫌いになるだろう」「僕が軽蔑するだろう」などといった予見をしてしまっていたりするのだと思うのです。でも実は、そういう部分というのは、本当は、知って欲しい、わかって欲しいという願望の裏返しであったりもするんですよね。話すと恥ずかしい。恥ずかしいと思うのは自分の尊厳を、話すことによって否定され傷つけられることへの恐怖に基づくものがかなりの部分を占めているのだと思います。
だからそういう抑圧された感情を共感しあえる相手には、自分のすべてを出しても否定されない安心感と、今までの抑圧された感情によって生じたルサンチマンの解放によるカタルシスで、絆が深まる場合もあるのです。

実際、周りの人々が各自の価値観や考え、境遇に対して、もう少し柔軟に受容することができるならば、僕たちの持つ秘密なんてものはほんの一握りに減ってしまうだろうと思います。

僕たちは、自分達が育った中での文化、価値観、体裁などで築かれた偏見を無意識のうちに些細な表情や言動により、他者へ強制してしまっているのではないでしょうか。

政治学者のJ・S・ミルの『自由論』でも述べられているように
「人類は、自分にとって幸福に思われるような生活を互いに許すほうが、他の人々が幸福と感ずるような生活を各人に強いるときよりも一層得るところが多い」
のだと僕も思います。

僕は、できるだけ、その人本人だけに関わるようなことに対する価値観、思想などを、受け入れていきたいと思っています。
それは、自分自身が受け入れて欲しいからでもあります。
だから、自分の醜い部分や過ちなどもできるだけ開示していきたいのです。
自分を可能なかぎり表現できたなら、相手も安心して僕と接することができるのではないか?相手も自分自身でいられるのではにか?という希望があるんです。僕を開示していれば、僕という人間がわかりますから、嫌な人は接してこないでしょうし(笑)
疑問に思った部分があっても、僕という人間、考え、価値観がわかっていれば、それを相手が一人心に秘めて、思い悩んだり、悪い予想を立てたりすることも少なくなるんじゃないかと表います。

自分を透明化する、そうすることで、信頼は生まれもするし、強化もされていく、そう思っています。

でもこれはあくまでも僕の考えであり、価値観であるのですよ(笑)

そういう方向を目指すにおいて、僕にはまだまだ自分の中に、無意味な自尊心、矜持、虚栄心を捨て切れていませんし、強固な偏見も巣食っています。
日記を書くという行為自体、そういうものを克服する訓練でもありますね。

この日記でも、たとえば、自分の強迫の症状がどういうものであるとかそういうことを臆することなく書くことがでるようになれればいいなと思うようになれればいいなと思います。

精神のエピキュリズム
精神のエピキュリズム
精神のエピキュリズム
今日も株が終わって眠りました。
夜からO君と映画。
名作フェスティバル最終日です。
僕は痛い勘違いをしていて、今日見る映画は一本だけと思い込んで、7時まで眠ってしまいました。

後で気づいたことですが、今日は2本見なきゃいけなかったんです見逃したのはジャック・ベッケル監督の『肉体の冠』。
ああ、後悔しても仕方ないですが、もう今後この作品をスクリーンで見る機会はないんではなかろうか残念至極

てことで、イベントを締める最後の名作は、ジャン・ルノワールの『ゲームの規則』です。
この作品は、イギリスで10年ごとに選出される世界でもっとも権威ある映画史上のベストテンで度々、オーソン・ウェルズの『市民ケーン』についで2位に選ばれている作品です。(ちなみに僕は市民ケーンはいまいち)
イベントを締めくくるにふさわしい作品じゃありませんか

この作品は、まだ貴族制が残っている時代の作品で、貴族の屋敷に呼ばれ、狩猟遊びに集った人々の公爵から使用人まで入り乱れての恋愛模様劇です。
『素晴らしき放浪者』同様、この作品においても、登場人物たちはみな善良で、そして鷹揚です。
そのおおらかさが、時代性なのかルノワールの個性なのかわかりませんが、おそらくは後者でしょう。
人の心の移ろいがこんなにも短い時間に頻繁に起こるものなのでしょうか?きっと起こるものなんでしょう。それほどに人間の心とは移ろいやすい。誰かに愛しているといっていたかと思えば、次の瞬間には違う誰かに愛しているという。最後には愛しているのかわからない、という。
つまりは愛は繊細で曖昧なもの。愛とは異性間の愛だけではなく、このドラマは恋愛が主であはあるけれど、通低しているのは人に対する愛情だと思います。じゃないと、ここまでの普遍性を持ち得ないはずです。
僕はルノワールの作品に出てくる人間が好きです。
皆大らかで寛容で、悩みさえも清々しく映ります。
もちろん、嫉妬はあります、妬みもあります、僻みや怒りもあります。それがゆえにドラマが起こるわけですが、それでもすべての人が大らかさで包まれているんです。
この柔らかさは、つまりエピキュリズム(快楽主義)だと思うのです。
ルノワールが描く人物は、自由主義のエピキュリアンだと思うのです。
もちろん、登場人物たちは自身をそうは思わないでしょうし、モラルや道徳に悩んでもいます。でも僕にはそう映ります。

怒りも過ちも、裏切りや罪でさえ寛容に受け止める大らかさ。
これは、久しく忘れていた、僕の幼いころの「物」の姿勢というネガティブなものから生まれたポジティブなやさしさを思い出させてくれました。
そして、すっと心が軽くなったのを感じたのです。

僕はもともと執着の強い、依存性のある人間でした。それゆえに人を傷つけ、自分も苦しめ、そういう自分が嫌で、いろんな理屈で自分の感情をコントロールする術を学んでいきました。
人と距離をとることも然り、常に客観的な視線の部分も持ち合わせたいと思うこと然り。
その中の一つに、このエピキュリズムや、自由主義もあったわけです。
しかしながら、僕はどちらかというとストイシズム(禁欲主義)の傾向が強い人間です。その両方ともに、自分の苦しみを救う部分があります。しかし、対極に位置する考え方ゆえ、常にこの二つの考えが、拮抗しています。この両極の二つの概念をいかに矛盾なく、自分の精神に両立させえるか、それが問題として常にありました。
そういう試行錯誤の中で、自分なりに二つの融合が不完全ながらも形になったのが今の僕の思考に繋がっているわけで、以前に比べれば随分柔らかい人間になれたと思っています。ですが、それでもやはり僕にはストイシズムのほうの傾向が強く、このエピキュリズムとリベラリズム(自由主義)の概念が思考の中で影を潜めていたことに、この映画を見て気づいたわけです。

一概に快楽といっても、その定義は人それぞれでしょう。
僕にとっての快楽とは、自分にとって幸せであることです。
ルノワールの『ゲームの規則』を見て、気づいたことは、登場人物たちは、皆のことが好きなのです。もっと広い概念でいえば、人間が好きなのです。だから誰彼愛してる、といえるし、その言葉に嘘はないのだと思います。
この「人が好き」「皆が好き」という捉え方が、ルノワールの場合、嫉妬や執着ではなく、「鷹揚さ」であるのです。
これは、僕にとっては、まさしく、正しく理想的な愛の形になります。

「愛」とは何かを考えます。
人には執着や妬み、僻み、そういった感情があります。それは自然なことですが、それゆえに自分も相手も幸福になれないのであれば、それは僕にとって「愛」を意味しません。
「愛」とは愛する人の幸せを願うことです。
相手が幸せであることが、自分の幸せになるのです。
ならば執着や僻みによって相手が幸せでないのであれば、好きな人と一緒にいてもそれは自分が幸せなことには繋がりません。
僕は、人によって性格が合う合わないがありますが、そういうものをひっくるめて「人間」が好きです。
だから皆幸せになってほしい。

ルノワールの素晴らしいところは、人間は間違いを犯し、心が移ろいやすい不完全な存在である、という着眼点から出発していることです。
そこから理想の人物像を監督なりに描いているのです。
ですから、愛する「人」が幸せであるために、過ちも罪も大らかに受け入れるのです。
精神とはもともと自由なものである、ゆえにいくら束縛したところで、逸脱は起こりえる。
その逸脱を圧伏するのではなく、許容する、なぜならそれが、愛する「人」が選んだ幸福なのだから。

つまり、愛は、状態に作用されるのではなく、自分の中で普遍のものである、ことが理想であろうということなのだと思います。
そして、そうであるためには、精神の自由を賛美するエピキュリアンでなければできないのです。

僕の事でいうならばこういうことです。
僕は幼いころ、母と兄がうらやましかった。仲が良かったから。
僕は兄のようになれなかった。それが悔しく、妬み、僻みが生まれ自分を苦しめていた。
ですが、あるときからこう思いました。
確かに母と兄は仲が良い、だからといって母が僕を愛していないわけではない。人間だから、たとえ親子でも波長が合う合わないがあるのは当然。それでも自分と母は親子であるに変わりない。自分なりの接し方でよいのだと。
そう思ってから、僕は母からの愛を求める渇望が収まりました。
僕は十分に母から愛を受けているのですから。兄とはまた違った形で。
僕は母からの愛を兄と比較することによって図っていたので、嫉妬や妬みが生まれたのです。

さっきも言ったように「愛」は状態に左右されないし、相対的なものではないと思います。

しかしながら、僕にも依然として嫉妬、妬み、また道徳の縛りというものがあります。「~でなければならない」これはストイシズムの弊害といえるのかもしれません。
ですから、この映画を見たことは、僕にとって一つの開放となってくれたのです。

嫉妬も執着も、妬みもひがみも、怒りも、現状がそうしているのではなく、自分の心がそうしているのです。自分が選択し、それゆえに苦しんでしまうのは、精神の自由を拒絶しない鷹揚さの欠如ゆえだと思うのです。

愛する人達へ
『僕を必要としてくれるときに僕と一緒に楽しんでくれたらうれしいそしてそれが一生続くならなおうれしい。
だけど、人の心は移ろいやすい。
僕を嫌いになるときもあるだろう。
友人と思えなくなるときもあるだろう。愛情を示せなくなるときもあるだろう。そんなときは、僕をほっぽってくれればいい。そしてまた、僕を必要としてくれたときに僕と遊んでくれればいい。僕はそれを受け入れる。
なぜならそれが君が選んだ幸せだから。
そして僕にも同じようにうつろう可能性があるのだから。
そしてなにより、僕は君の幸せを願うから。
君が今、僕を嫌いであっても、あの当時の僕に示してくれた友情は、また愛情は本物なのだから。
君が僕を嫌いになったとて、それはただの状況で、僕が君を友人としてみていることには変わりない。その愛情は状況によって変わりない。
僕がその愛情が変質するときがあるのであれば、それはそういった状況にではなく、僕自身の心が君を嫌いになることを幸福として選んだとき以外にありえない。
僕は君を大切に思う。同様に、そして同等に僕は僕を大切に思う。
どちらに上も下もない。
僕は人間が好きだ。人間には自分も含まれる。でもそれ以上でもそれ以下でもない。だから僕は僕を特別扱いしないし、同様に君も特別扱いしない。家族、親戚、恋人、見知らぬ人々、形式は違っても、愛の形状は違っても、その愛に優劣はない。
僕は君が幸せなら幸せだ。願わくば、僕が幸せであれば君も幸せであってほしい。でもそうでなくても構わない。』

上に記したことが、僕の幸福に対する解釈です。
あくまで理想ではありますが、こうなることができるなら、僕はもう嫉妬や妬み、僻み、怒りに苦しむこともなくなるでしょう、
一生孤独でも、周りに友人がいても、心は常に寂しくなく、幸福でいられることでしょう。

すべてのことを幸福へと導く感情の選択をする。
それが僕の考える快楽(エピキュリズム)であり、それはすなわち精神の自由を受け入れる鷹揚さ他なりません。

ルノワールの『ゲームの規則』で僕が得たこと、登場人物たちの大らかさに僕が久しく忘れていたことを気づかされました。


「人生の幸福を欲するのであれば、精神のエピキュリアンたれ」


ちなみに、映画を見終わった後に、その鷹揚さについてO君も同じ感想を述べたことが非常にうれしかったです

本を読むという行為は、どういうことなのかを考えていました。
本の中にはさまざまな価値観が含まれています。
たくさんの価値観を知る、そういう意味においては本をたくさん読むことは読まないよりも有用であるとがいえると思います。

しかしながら、一般に言われる、本を読むと感受性が豊かになる、とか、人間性が培われる、というのは、一概に言えることではない、と思っています。

確かに、長い年月を経ていまだ読み継がれている古典といわれるものは、最終的には、人間がどう生きるか、善に根ざした人間の普遍性といったものに収束されていっているように思います。

だけど、たとえそういった本を読んでいたとしても、その本に書かれているようなことを実際の生活上において実践している人は少ないでしょう。
僕が学生時代に疑問に思ったことは、すごく成績のよかった人でも、僕の強迫を真似していたということです。
そのころの僕は、成績がよい=国語などにおいても読解力がある、読解力がある人=物事の真偽、善悪を見分ける能力(道理)に優れている、そしてそういう意味で感受性が豊かである、と思い込んでいました。

しかしながら、実際は、成績のよかった人であっても、僕の強迫を真似するという行為に罪悪感を感じなかった(感じていたとしても止めることはなかった)。

だから、僕は現在学問ができる人が必ずしも頭のよい人ではないと思っています。
「頭がよい」と一言で言ってもさまざまな解釈がありますが、僕が思う頭のよい人というのは、つまり「学んだことや物事を多角的に捉えることができ、そしてそこから得たことを実生活において実践できる、している人」のことです。

同様の意味において僕は、「哲学者」と「哲人」を分けています。
哲学者は、哲学を学問する人、哲人は哲学を実践する人です。

哲学者は世の中にたくさんいますが、哲人はそういるものではありません。ソクラテスは、そう考えると真の「哲人」を目指したのだと思います。

それを踏まえた上で読書という行為を考えてみると、やはり読書にも同じことがいえるのだと思います。
読書を読むにも、そこから何かしらを得るにも、読む人の嗜好、また志向に偏るということです。
学問の学問のためにだけ読書をする人、倫理観を高めたり感受性を養うために読書をする人、自分の考えを正当化し強化するために読書をする人、純粋に楽しむためにだけ読書をする人、というように。

まあ、きっちりと分けられる人というのもまた少なく、多くの人は、これらの志向性が混合している状態だと思いますが。

ただそこから言えることは、読書をしたからといって、必ずしも人間性が深まるというわけではない、ということです。

ヒトラーは読書家でしたが、自分の主張を強化する部分だけ拾い読みする、という読み方だったそうです。

つまり、本というものは、啓蒙や精神の涵養などは、そこに含まれる選択しうる特長の一部に過ぎず、他のメディアが氾濫する現在においては、そのメディアの一部を構成する、著者自身の考えた倫理や物語を効率よく伝える合理的な手段に過ぎない、といえるのかもしれません。

ですから、著者がその内容と正反対の行為を行っていても、彼は小説家、またはエッセイストであって哲人ではないのだから当然といえば当然なのかもしれないですね。

夏目漱石は、多読をするのではなく、一冊の本を熟読吟味し、思考する、そういった人物を低徊派と呼びました。漱石自身、低徊派であると思います。

ようは、何を読んだか、ではなく、どう読んだか、がその人の姿勢や得るものを決定すると思います。
それは何も読書だけのことではなく、生活、映画、すべてのことにいえるのかもしれませんね。
本を読む人の中に悪逆非道な人、道理に反する矛盾ばかりを胚胎する人がいると思えば、本をまったく読まない人に、驚くべき哲人を見出すこともあるでしょう。

本は、今やメディアの媒体の一つでしかなく、本を読んだからといって、頭がよくなるものでも、感受性が深まるものでも、人間的に成長するものでもない。博学になるかならないかすら本人の嗜好(志向)しだいである、というのが僕の出した結論です。(もちろん、また変わるかも知れませんが)

ですが、本(もしくは文章)には、他のメディアに勝るアドバンテージがあります。
それは、もっとも合理的に情報を詰め込むことができる、ということです。つまり最もたくさんの情報を短時間で伝達することに秀でているわけです。

だから、本を読んで感受性が養われる、もしくは道理に通じる、人間性が深まる、というのは神話に過ぎなくても、そうなりうる可能性を有した情報はもっとも含有されているわけです。

ここからは僕の独断と願望になるのですが、やはり、そういった特性を持つ本という媒体にせっかく触れるのであれば、生きるうえで、得たもの(知識、哲学、倫理、価値観等)を活用、実践させていかなければもったいないと思うのです。


僕自身のことで言うなら、僕はこれ以上人を傷つけたくはない、また自分の苦しみの解放を求めて本を読み始めました。
そういった目的で本を読み出したことは間違っていないと思うし、実際にたくさんの事を得て、人間的に成長しえたとも思っています。

もし僕と同じような目的で読書をする人がいるのだとしたら、「どう読むか」に意識を働かせてほしい、そして常に生きるうえでの実践を心に描いていてほしい、と願います。


(この日記を書いたのは、僕の中に依然として「文学が好き=道理に通じて感受性が豊か、人を傷つける理不尽な事によく気づき、行わない」だろうという固定観念が巣食っていて、それゆえに少しショックなことを経験して落ち込んだからですw)

苦しさ、悲しみ、苦悩、そういった「辛さ」をどうやって克服するか、という方法は、様々ありますが、森田療法は「受け流す」部類に入ると思います。
考えない、ということではありません。
一旦自分のうちにある苦悩を、人間は苦悩を持つ生き物だ、と受け入れる。つまり、苦悩の存在価値を認めることにあるのだと解釈しています。
苦に対する一般の人間の姿勢は、抗い、です。苦しみに抗い、忌避しようとするから、人間は辛さを感じる、ということでしょうか。
森田療法は、苦と共存するわけです。飼いならす、といってもいいかもしれませんが。
苦に抗うことを止め、身を委ねることで、それは、「当然のこと」となり、辛さという感情の変化を発生させないということだと思います。
苦が辛くなければ、それはもう「苦」ではなくなります。
それが、森田療法のいう「あるがまま」ということだと思います。

これは、非常に日本的な療法だと思います。

一方、多く見られる克服方法といえば、「辛さ」に抗うという方法だと思います。
論理的に「苦」を掘り下げ、「辛さ」にいたる思考の歪みを発見し、または矛盾を暴きだし、矯正していくという僕がよく使う方法も、この抗う部類に属すと思います。

この二つの方法には、良い部分と悪い部分が両方ともに存在します。
何かしらの障害や問題に対して、この双方のどちらが絶対的に正しいとか適切であるとか、そういうことはありえないと思っています。

どちらの方法も、個々人によって合う合わない、また一個人においても状況や問題、症状によってそれぞれ効果のある方法が異なってくる、これが僕の見解です。

ですから、「苦」に対する克服を目指すのであるなら、どちらかの方法に固執したり盲信したりするのではなく、双方を様々な苦に対して試してみて、それぞれの問題に対して適切な対応を見出し、使いこなしていく、それが正しいやり方だと思っています。

ある問題に効果がなかったからといって、それはたまたまその方法がその問題に対して適切でなかった、ということであってそれが故にその方法が全般的に「効果がない」訳ではありませんから。

一つの方法に支配されるのではなく、柔軟な姿勢で両極端、相反するような方法も自分の中の手段として保存しておくことができれば、それだけ自分の「苦」に対する克服の可能性を広げることができるというものです。

最終的な目的が、自分が楽になる、幸せになる、ことであるなら、その過程に発生することやもの(対処法も含む)にたいして、自ら新たな「苦」をこしらえる必要もないでしょう。すべてことは、「幸」に通じるための養分とできるはずです。自分の姿勢次第で。
特別な刺激もいらない、過激な笑いもいらない。

ただ毎日穏やかに過ごせたらそれでいい。
陽だまりの草むらに寝っころがってるような、干したあとの柔らかい布団にくるまれてるような、誰も傷つかず、誰もいがみ合わず、いつも心がほぐれていて、みんな自然に笑みが出る。

みんながみんなを受け入れて、話し上手な人も、話しべたな人も、そのままの自分でいられて、話す内容も、些細なことでいいじゃない。

みんながみんなに対して、誰にも変わらず接することができて、ゆったりと時間が過ぎて、たまに旅行いったり、自然と触れて、歴史に触れて、雨の日は読書して、静かな音楽が流れてて、週末は映画見て。

そんな日々が送れることが、僕の理想なのかもしれないなぁ。
学生の頃は毎日聴いていた。
辛いとき、僕を支えてくれていた。

今はあまり聞かなくなったけど、ふと急に無性に聴きたくなるときがある。

中島みゆきの歌を。

ここ数日、ずっと聴いている。今日の仕事の作業中も1日歌っていた。
聴きたくなるときは、きっと心が乾いているときなんだろうな。
大切な何かを忘れかけたとき、彼女の歌は、その大切な何かを思い出させてくれる。
心を豊かに、前向きにしてくれる。

それにしても、中島みゆきのファンは多いはずなんだけど、ことリアルな場で出くわしたことがあまり無い。

これは僕にもいえることだけど、中島みゆきを聴く人は、聴いていることを隠す傾向にある。

これは、世間に中島みゆきが「暗い」だの「重い」だのいうドロドロしたイメージがあるからなんじゃないか。

おそらくそれは、中島みゆきが出した一枚のアルバム『生きていてもいいですか』に起因しているんだと思う。

僕が中島みゆきの歌に出会ったのは、小学生の頃。『時代』だった。
以後、彼女の歌は、その歌詞は、辛いとき、僕の支えとなってくれた。

高校のとき、部活の顧問に、中島みゆきを聴く、というと「中島みゆきを聴くやつは暗いんだぞ」と言われた。
僕はこのような偏見を持ったものが教師をして、生徒を正しく導くことができるのかといぶかしく思うとともに、似たようなことが何度かあったのち、自然と公言をしなくなっていった。

そのものを吟味もしないうちにイメージを持つ人間はなんて浅はかなんだと思った。
そして、イメージから勝手な評価を下す人間はなんて愚かなんだろうと思った。

中島みゆきの歌は、明るく、力があり、前向きな曲が多い。
しかし、中島みゆきが主に歌を捧げている対象は、弱者や、苦難のうちにあるもの、絶望の内にあるものに対してだ。

そういうもの者に力を与える言葉は、人間の隠したがる辛いことや、避けたがる汚いこと、弱い部分に触れないわけにはいかない。

それに触れずして、うわべだけの言葉を並べ立てて、どうしてそういうものたちの共感を得られようか。

だからそういう状態に無い者が聞く場合、重苦しい雰囲気を挺しているように感じてしまうのかもしれない。

しかし、辛い状況にいるものにとって、彼女の歌は、限りない力を持って光の中へ導いてくれる。

人間を根底から救い出そうとするために、他の人間が避ける闇の部分までも詩にし歌に託す中島みゆきが、どうして暗く、重いことがあろうか。

彼女は、誰にもまして、人を命を支えうる力を持った、明るく、そして絶望の人を背中から押す力強さのある、前向きな歌手なのである。

ということで、僕の好きな彼女の歌をたまにこの日記で紹介していこうと思う。
中島みゆきの歌に「Tell Me,Sister」という歌があります。
簡単な歌詞ですが、その歌には一つの物語があります。
僕なりの解釈でそのストーリーを語ってみたいと思います。

一人の女性がいました。
その女性は、自分が嫌いでした。
自分の人生を呪っていました。
自分を軽蔑し、憎むことで、私はこんな私じゃないと思うことで違う自分でいられると思い込もうとしました。
そしてそうすることが彼女にとって唯一の逃げ道でした。
自分の低い鼻を憎みました。
クセの髪を嫌いました。
もしこんな風じゃなかったら、自分の人生はどんなに違っただろうと思いました。

そんなある日、彼女の前に一人の完璧な女性が現れます。
その女性は、彼女に無いすべてのものを備えていました。
どんな男でもその女性に夢中になりました。
すべての他の女もその女性には挑もうとせず、妬みもしませんでした。

「誰からも悪口を言われない運命ってあるんだな、そしてその逆があたしなんだ」
彼女はそう思いました。
彼女は、その女性を真似たかった。
その女性に追いつきたかった。
でもそれは無理な話、どんなに頑張ってもあの女性のようにはなれない。。。

そんな彼女に対して、女性は優しく微笑みかけるのでした。
「そのままでいいのに」と。
そして女性は、私には何も無いの。。と悲しげな顔をします。
私は、幸せな未来が訪れる日を夢に見ているの。

彼女には理解できませんでした。すべてを備えている女性が、悲しげに「何もない」という意味が。

月日は流れます。

ある日、彼女は、その女性が自ら命を絶ったことを知りました。

彼女は、この世にもういない女性に問いかけます。
「ねえ、教えてよ、完璧だったあなたが、幸せじゃなかったのなら、恵まれてるっていったい何なの?私は何を真似ればいいの?」

しかし、それに答える女性はもういません。
彼女には、その女性の「そのままでいいのに」といいながら微笑む姿だけが、その微笑だけが残ったのでした。


この歌には、答えは示されていません。
自分を嫌った女性は、自分が幸せになれると信じていた存在の死を知って、自分の信じる幸せの否定という形で困惑の内に歌は終わります。

しかしながら、この歌は逆説的にもう一つの意味が含有されています。
裕福であること、美貌であること、悪口を言われないこと、それらすべてが備わっていたとして、それが幸せであるとは限らない。ということです。
幸せとはなんなのでしょう。
それは人それぞれで違うものだと思います。
人は自分の持っていないものに憧れます。

それを持てば幸せになれると思い込みます。
しかし本当にそうでしょうか。

すべてを持った女性は「自分には何も無い」と言いました。
どんな状況にいても、どんな人がうらやむものを持っていたとしても、自分を好きになれないものは幸せではない。幸せにはなれない。

例え、どんな状況にいても、例えみんなが劣等を抱くものを多く持っていたとしても、心が幸せなら、自分を好きでいれたなら、その人は、まわりからどんな風に見えても、幸せなのです。恵まれているのです。

中島みゆきは、女性の口を通して、我々に語りかけます。

そのままでいいのに

と。

そのままでいいのに、と優しく微笑んでいるのです。

僕はこの歌をこういう風に捉えています。

*なおこの歌の詩に対する解釈はあくまで僕個人のものなので、正確ではない部分があるかもしれません。
たとえば、ある人が悩んでいて病んでいたとする。
僕はその理由も知っているのに、あまり話したことないゆえに助けようとする勇気を持ち得ないのであれば、やはり自分は最低の人間だと思う。
そうすることで、僕は過去の自分をも見放している。
そのような己の弱さに屈して、他者の痛みを、そのシグナルを無視して汲み取ることができないのであれば、それは他人事だと傍観視しているのと変わらない。そんな僕に「あの時誰も助けてくれなかった、とか理解してくれなかった」と言う資格などない。
もっと強くなりたい。

話は変わるが、僕は映画は生きるうえでの教材だという観点で見ている。娯楽の要素も含まれるがそれだけではない。
自分の辛さを忘れさせたり、軽くさせてくれるものだけでもない。
映画には、作者の訴えたいこと、考え、価値観、登場人物の人生、生き様、そういうものが詰まっている。
たとえば、ある映画を見て人のやさしさを知る。残酷さをしる。世の中のすばらしさを知る。世の不条理を知る。
自分もこうありたいと思う。自分はこうありたくないと思う。世の中に感謝する。世野中の不条理に憤る。
しかし、映画を見終わり、1日たつと、その作品で感じたことは忘却に帰し、平常の生活の中で、これまでと変わらぬ自分がいる。
それじゃあ、映画が報われない。監督の思いが、登場人物が報われない。

どんなに勉強ができる人も、それが勉強のためだけに留まっているのであれば無用の長物だ。
自分がこうありたいと思うなら、そうなるように努力する。
こうありたくないと思うなら、作品を教訓として、同じ轍を踏まぬようにする。
落ち込んだとき、映画で見た世の中のすばらしさを思い出し、まだまだ捨てたもんじゃないと思う。
憤るなら、その不条理と闘おうとする。

作中人物がかわいそうだった。そう思うだけで終わってしまうのではなく、なぜかわいそうなのか、なぜあの人物はそうならざるをえなかったのか。じゃあ、自分はどうすべきなのか。
そういう風に敷衍して考えていく。
映画から得られるものは、自分の人間性を高めてくれる。成長させてくれる。人生を深みのあるものにしてくれる。
僕は人間的に成長したい。
人生をより濃密に、そして、より正しいものを見極めて生きていきたいと思っている。

同じことは読書にもいえる。
他者の生き方、人生、考え、価値観から、自分の生き方を学ぶ。

だから僕は映画を見続けるし、読書をし続ける。
昨日の夜、情緒が不安定で、不遜な態度を取ってしまった同僚に勇気を出して謝罪し、状況と自分の考えを述べ、話し合った。

おかげで、いつもどおりの関係で、今日は気分よく仕事が出来た。

同じ作業場で作業する人間の数が多くなれば多くなるほど、人間関係というものは、複雑になっていく。
だけど、以前にも書いたけど、人間関係のいざこざは、そのほとんどが双方の認識のずれから来る、思い込みや誤解が原因だと思う。

それぞれの人が、他人の色々な思いを推測し、いつしかそれが真実のように感じられてきてしまう。
その思いをそれぞれ吐露しあう場を設けずに、それぞれが、自分の推測を推測のままに溜め込んでしまうと、自分自身の心も疲弊していってさらに思考がネガティブなものとなるし、それぞれがそれぞれの思惑を誤解しあったままで解けることもない。

誰も何も悪いことなどしていないのに、何故か関係が悪化していき、最後には憎悪に変わる、などという事態も、この思い込みと、自分自身だけで溜め込んでしまうことに起因しているのだと思う。

思えば、これほど無意味で、馬鹿馬鹿しくて、残念なこともない。
誤解が解ければ、たちどころに解決できることも、多くの人間(自分を含めて)は、なかなか誤解を解くための行動を実行する勇気を持ち得ない。

なぜ勇気を持ち得ないのか?

それは、自分の悩みや、弱さを人に知られることが恥ずかしい。といったような不必要なプライド(自尊心)と、人に悩みを相談すると、その人がその話題から話をそらそうとするのではないか、じっくりと向き合ってくれないのではないか?以後関係がさらに悪化するのではないか?という恐怖心と、逆に自分がそういった相談をされたときに、その悩みに付き添える覚悟が持てるか否かの確信がもてないことへの不安感、からではないだろうかと思う。

もともと人間は弱い生き物だから、無理に自分を強くあろうと見せるのではなく、弱いことを認めることが本当の強さだと思うし、思い込み(推測)というものは、そのほとんどがその時の心理状態を肯定する作用を持っているので、ネガティブなときは、そのネガティブな気持を正当化するように思い込むもので、それは負の連鎖を生む馬鹿らしい行為であることに気付かなければならない。

客観的、複眼的な視座を持ち、自己の考え方の矛盾や過ちを冷静に判別できる思考を持つことは一つの対抗できる武器となる。
だが、それだけでは十分でない。

このような人間関係のいざこざにおける思い込みや誤解を断ち切るために我々がするべきことは、何よりも、他人の悩みや相談に対して、真正面から向き合う覚悟、そして話し合いの中で、利己的な損得勘定を廃し、真実は何かを見極めようとする冷静な判断力、それに伴う、自分の過ちは過ちとして認めうる姿勢を持つことであり、そして何よりそういった考えを外部に表明することである。

自分は、相談や悩み、不安などにも真剣になって聞き、真剣に考えるし、お互い納得いくまでしっかり話し合うよ。そのことを話してくれたからといって、その後、あなたを受け入れないというようなことはないよ。人間は弱い生き物だから、間違いや弱さを恥ずかしいと思うことはないんだよ。

という自分のスタンスを鮮明にしておけば、相手も安心して、胸襟を開けるので、誤解や思い込みに至る前に不安になれば聞くことが出来るし、溜め込んで気分が打ちひしがれることも、感情が負の連鎖に陥っていくことも極力回避できる、と思っている。

上に述べたことは、僕のスタンスの表明でもあるわけだけど、誤解による無意味な溝などは、片方だけでなく双方が自分のスタンスを表明しない事にはその先の方向性は定まっていかない。
もちろん僕と違うスタンスの人間は、多種多様にいるわけで、それぞれの人の考えがわからない限り、その人に対する対処法も確実にはわからない。

「わからない」ということが、人が行動する際、勇気を強いるわけで、気持を自ら表明するということは、社会という中での人のしがらみを排除し円滑にするためには、まず最初に克服しなければならない僕たちの課題といえるのかもしれない。

という僕だって、ここ(日記)以外で自分の考えを表明できていないんだけどね。
それは、やっぱり、「周りの人のスタンスがわからない」事から勇気を持ち得ない弱さであるわけだ。

自戒の意味も込めて。
昨日みんなで晩飯食べた後、用事があって三週間仕事を休んだ同僚の家に行った際、また膝を詰めて、まじめな話を午前6時くらいまでした。
僕と同僚は似ている部分がある。
だから、同僚の現在の気持もよくわかる。
心の作用というのは、強固で、自分がどんなに頑張ってもどうにもなってくれないということがある。
ある時突然体が動かない。
自分がやろうと思っていたことと真逆に体が動いてしまう。
必死に抗ってもどうにもならない。
そういう状態を僕は知っている。
でもすぐに変えていくことは無理だけど、努力することによって少しづつでも変わっていける。これは確実なことだ。。。と僕は信じてる。

現状ではすぐには抗ってもどうにも出来ない心の作用がある一方、適宜意識していくことで比較的すぐに改善できる部分がある。

それは、無意識裡に現れる自我防禦機能である。
自分の中の得体の知れない恐怖心から、人は無意識のうちに自己を守っている。
それは誰にでも備わっている、ある意味人間として当然の機能である。
たとえば、試験の日に、「俺勉強してこんかったけん絶対点数悪いわぁ」という言葉も、無意識裡に、点数が悪かったときの自己の心の衝撃を緩和するために事前に心に仮定を植えつけるという自我の防禦機能である。
しかしながら、それが無意識裡に「顕著」に現れてしまう場合、周りの共通認識との誤差が生じ、その人の人間性を歪曲させてしまう結果にもなりうる。
無意識裡に自己の責任を他者へと転嫁させてしまうというのも、現状を遮断することで自我を守る逃避についても、皆が日常生活で、共通認識の許容範囲の中で多かれ少なかれ常に行っている行為だが、それが過剰になりすぎると、世間との共通認識の許容範囲を逸脱して、他者に不快を与える結果ともなるもので、修正の必要が生じてくる。

これは自分がその無意識の行為に内省などを行う、もしくは他者からの指摘により客観的な評価を加えられることで、意識化でき、修正していける脆弱な自我防衛機能だ。

Mr.Xだけでなく、僕自身もまだまだそのような無意識下の自己防御を「顕著」に沢山行ってしまう部分がある。
すぐに改善していける部分、無意識の自我防御を意識化することにより、その意識を武器に脆弱な自我防御機能を、共通認識の許容範囲内にまで修正していくという作業が結果的には、意識しても抗えない強固な防御機能を打ち崩す礎になると考えている。

僕たちが行うべき最重要課題は、そういった無意識に潜む自己の過剰防衛に注意を向け、気付いていくことにあると思う。
仕事場で、隣の同僚と話の中で、同僚が面白いことを言った。
「自分は仕事を楽しいと思ったことなど一度もない」、というのだ。
それにしてはいつもテンション高く、楽しそうだ。
だっていつも笑ってるやン、と言うと、
「面白いけど、楽しくはない。笑ってはいるが、心は満たされない」とのこと。

僕はこれを大変興味深いと思った。
僕は同僚のいつも笑っている、面白がっている姿だけを見て、勝手に彼は楽しいと解釈していた。
しかし、よくよく考えてみると、面白いということが、すなわち楽しいということではない。
確かに、人は悲しみの中にも楽しみを見いだす。恐怖の中にさえ。
だから、映画や読書にも、サスペンスやホラー、猟奇殺人を扱ったもの、哀愁漂うもの、悲劇などのジャンルがあるわけだし、刺激を求め、ジェットコースターに乗ったり、果ては窃盗をするものもいる。
悲劇のヒロイン、なる言葉も、自身が劣等の境遇や感情を有する状態を無自覚に楽しんでいることに対するアイロニーであるとも言える。
同僚の考えでは、「楽しい」とはすなわち「心を満たす」ことであるようだ。
なるほどと思う。
楽しみ、をそう解釈するなら、確かに「面白さ」が心を欠損させる場合もあれば、「悲しさ」や「怖さ」や「苦痛」が心を充足させる場合もあるわけだ。

幸福とは面白さのみをいうのではない。
その人各人により、様様な感情が「楽しみ」へと変質する可能性を持つわけである。
心とは、げに複雑なものだ。
僕は、面白さの一面のみによって彼の感情を断定した自分の浅薄さを恥じぬ訳にはいかなかった。

では同僚は、どういう場合に心を満たすのだろうか。
試しに、パチンコで大当たりしているときは?と問うてみた。
彼は、「それは心が満たされ、楽しい」と即答したのであった(笑)
ジグソーパズル
人生はジグソーパズル。
出会った人ひとりひとりが人生を構成する1ピース。

そう、例え僕という人間を嫌う人がいたとしても、その人は僕の人生の一部を構成してる。
だれか一人欠けても、僕の人生という絵は完成しない。
一つ欠ければ、そこから僕の人生は瓦解する。
ぱらぱらと崩れ落ちる。

僕には君が必要。
君がいなければ、僕の人生は成り立たないのだから。

君は一人じゃない。
なぜなら、君の人生は、沢山の出会いの集積だ。
君の人生は今まで接してきた大勢の人で出来ている。
その中に僕もいる。
僕は君の人生の1ピース。
だから、君には僕が必要。

君は、自分が一人だと思っているのかい?
必要のない人間だと思っているのかい?

ここにこうして、君を必要としている人間がいるというのに。

人間は繋がっている。意識しようがしまいが、その事実は揺るがない。

僕は出会った人の人生の一部分となる。だからここにいなきゃいけない。
出合った人は、僕の人生の一部分となる。だからそこにいてもらわなきゃ困る。

僕は君の為に生きる。それは、僕の為に生きると同義。

僕は自分の人生が好きだ。
たとえ周りからどんなに惨めに、滑稽に、馬鹿らしく映ろうとも。
たとえ苦悩や悲しみに苛まれていたとしても。
僕は僕の人生に誇りを持っている。

なぜなら、僕の人生に君がいるから。
君という人間が好きだから。
君を誇りだと思うから。

僕の人生には、まだまだ沢山の君が待っている。
沢山の君が1ピースとして、僕の人生に当てはまっていく。
僕の人生に意味のないピースはない。
意味のない君などいない。

人間は繋がっている。
僕は一人じゃない。
だから君も一人じゃない。

この世界に、存在しないでいい人間など、存在しない。
数日前から薬を再び飲み始めましたけど、この薬は効き出すのに2週間くらいかかるはずなんですが、まあ、断薬して一ヶ月くらいしかたっていなかったせいか、もう効いてくれているようです。

それで思ったのですが、やはり、僕はまだ薬がないとダメだってことですね。
かなり気分が浮上してきています。何かしようという気力も湧いてきています。薬を飲み続けていると麻痺してわからなくなりますが、今回ばかりは薬の効力を認めないわけにはいきません。

また、気分の上下を繰り返すこともあろうかと思いますが、現在も以前のように爽快な気分とはいきませんが、辛い中でも断薬していたときの辛さとは明らかに異なっています。

そして、今このような気分の中、抑うつの時の思考を思い起こしてみると、いかに自分が物事に対する認識をゆがめていたかがわかります。
視野が狭量で、一面的な、しかも自分に都合の悪いネガティブな側面で見てしまっているんですね。
ですから、友人に相談したことも、今の自分なら自己解決できるようなことですし、むしろ、一面的に捉えすぎていて、なんでそんなこと相談したのかと恥ずかしくなってきてしまいます。
ですが、これが結果的に自分の障害を告白する機会になったのも事実ですから、抑うつ傾向が、普段の意味合いとはまた違った「勇気」や「行動力」を与えてくれたとも言えるわけです。
それもある意味驚くべきパワーを持って。
それを考えると、鬱の人が全てのことに対して、無気力になるというのは間違いかもしれませんね。
鬱になったら、鬱の人にしか持ち得ない気力を喚起する物事があるでしょう。その一つが、死の恐怖への超克です。これはけしてよい意味ではありませんが、僕が考えるのは、こういった、ネガティブによって引き出されるパワーを、どうにかして生への原動力へと転換させる方法があるのではないかということです。
芸術にしてみたって、ネガティブな思考が、偉大な作品の源泉となっている例は枚挙にいとまがありません。

さて、僕が最近、試しているのは、自分のゆがんだ認識を正しいものへと自分で導いていく認知療法というものですが、それができるようになった暁には、今度は、認知療法をもう一つ進化させて、自分のゆがんだ認識を認知し、コントロールし利用できるまでになりたいですね。
果たしてそんなことができるのかなんてわかりませんが、そう考えてみたら面白いじゃないですか。
抑うつ的思考にしか生み出せないパワーを無駄にする手はありませんから。ネガティブな認知をポジティブなことに積極利用する。

もちろん、完全な自己のコントロール下に置かなければ危険なこと請け合いですが。

まあ、カミングアウトは、無意識のネガティブのポジティブ積極利用だったわけですが、それを自覚的にできるのならもう恐いもの無しです(笑)
人の噂を安易に信じないほうが良いですね。
誰かに対するイメージは人によって変わります。
噂は、良い噂でも悪い噂でもその人のイメージを画一化させる方向に向かいますから。
自分でその人と接する前からその人の噂を耳にすると、その人をみる目にフィルターがかけられます。
純粋に自分の判断で、その人の人間性を把握できなくなってきます。うがった見方をしてしまったり、何気ない行動でも、その噂と関連づけたりしてしまいます。
良い噂は、構わないと思いますが、悪い噂は、非常にたちが悪い。
疑心暗鬼。。なんてのも、噂によって醸成されることが多いんではないでしょうか。

しかし、人間を判断するのはあくまで自分です。他人の言動のみで他の人の判断をしてしまうのは、危険です。
悪い噂で、噂されている人の人間性を疑うのは馬鹿げています。

疑うことがあるとすれば、むしろそんな噂をしている人の人間性をであるべきです。
現在の中島みゆきの歌はあまり聞いていないので何ともいえないのですが、昔の中島みゆきの歌に支えられた時期が、僕には確かにありました。

中島みゆきの歌を聴くと「落ちる」、というようによく言われますが、僕はこうとらえています。

ドストエフスキーは、農奴解放、改革を目指していた時期に徒刑になり、囚徒として罪期を過ごしましたが、その中で、本物の農民たちと同じ目線で平均化され、インテリゲツェアとしての自分がいかに傲慢な視点から彼らを理解しようとしていたかを認識したのでした。

同様に中島みゆきの歌も、気持ちの落ちた(たとえば絶望や、悲しみ)状態の人と同じ目線に立っています。上からでも下からでもなくその人の悲しみと同じ目線に。

「落ちる」という表現は、状態が上にある時に使われる言葉だと思います。
悲しみの極限にあるような人は、俗な言い方をすればすでに落ちているのですから、中島みゆきが悲しみに対して歌っている曲を聴いて「落ちる」と感じることもないし、そういった表現も使わないでしょう。
そんなときに聞いた彼女の歌は、慰め、叱咤し、元気づけてくれているように僕は感じました。
悲しんでいる人と同じ立場にまず立つ、そこから理解は生まれます。人間の闇の部分をあえて避けず歌詞にして、その人たちの気持ちへの認識を示し、そこで初めて背中を押すのです。

「落ちた」状態にない人は、そういう歌を聴くと、気持ちが落ちる、と感じたり、暗い、といったりするのでしょう。

落ちてない状態の人も、落ちた状態になったことはあるはず、少し想像力を働かせれば、彼女の歌がどういう立場を想定しているのかわかるはずです。そしてその立場に自分が立つ、もしくは想像することができるなら、その歌と同じ視点から本来の意味合いを認識できるはずです。

上から見ている限りは、中島みゆきの歌はいつまでも「落ちる」歌にしか聞こえないでしょう。しかし、視点を変えれば、その歌の対象とおなじ視点に立ったなら、彼女の歌は、「浮上」の歌であることが理解できます。

まあ、彼女の歌すべてにいえるわけではないですけどね。
僕はよく作業中に歌を口ずさんだりしているけど、歌う歌の中に古い歌も混じっているので、年齢より上にみられたりします。
若い、若くない、のとらえ方が、僕は根本的に周りと違うのかもしれません。

僕は基本的に文化に時代の垣根を作りません。
一人一人の価値観が違うように、一つ一つの事象や対象も、「新しいからよい」「古いから悪い」というわけではないと思っているからです。
ですからはやりに乗ることもごく稀ですし、流行を文化の摂取目的の一番の理由には置いていません。

僕にとって、自分が良いと感じるもの、それこそが対象物を選択するときの第一事由となります。

歌や映画を例にとっても、多くの人はある一定の敷居を作っています。しかし、自分の感性に調和するもの、影響を与えるもの、宝物となり得るものが「今の時代の文化」にだけあるとも限らないし、あるかどうかも定かではありません。
時代に敷居を設けることは、自分の成長する、もしくは幸せになる、楽しむ、そういった可能性を自らの手で閉ざしてしまっていることになるのだと僕はとらえているのです。

自分の世界を広げる、そのためには、自分の中に植え込まれたネガティブな偏見を克服しなければいけません。人間は自分がふれたことのない未知なものに対して拒否反応を起こしがちですが、たとえば「映画は白黒はつまらない」や、「古いものは自分に合わない」などは、根拠のない偏見に過ぎません。
そして、それをいう人の多くは、おそらくそういったものに多く触れたことがない人が多いのではないでしょうか。

「古い」や「新しい」、「人気がある」や「人気がない」は自分の感性とは無関係です。だから、自分にとってその作品を計る基準にもなりませんし、良し悪しをそれによって判断することもできないと思います。
自分の感性と合うもの、心地よいもの、時代に関係なくそういったものが良いものではないでしょうか。

さて、僕は古い歌を知っていることで実年齢よりも上にみられましたが、そもそも「若い」とはどういうことをいうのでしょうか。
柔軟に、幅広く吸収できる好奇心にあふれた様を「若い」と呼ぶのであれば、今の時代ばかりを追って昔を「古い」と切り捨てる態度は、保守的に凝り固まった堅い心を想起させます。
新しい時代、最先端を走っているから「若い」訳ではないでしょう。偏見を持たず、好奇心を持って幅広く世界、または世代の垣根を跳び越えて文化を摂取できる心を持つことこそ、まさに「若い」人であると僕は捉えているわけです。
僕にも、信仰している神があります。
それは、仏陀でもキリストでもマホメットでもありません。
その神は、僕の心の中にだけ存在します。

名前をつけるとすれば、僕の「心」以外にありません。
ときとして、神様は、キリストと同じ考えをしたり、仏陀であったり、はたまた、誰にも当てはまらなかったりします。

ただ、僕の神について言えることはといえば、僕の良心の部分と多大に抵触しているということ、前向きであるということだと思います。

僕は根から前向きな人間ではありません。むしろ、ネガティブで、マイナス思考が人一倍強い方です。だからこそ、僕は、この神様を信仰しているのです。
日々、この信仰が強固なものになっていくのがわかります。

18歳の同僚は、前向き症候群と自分のことをいいます。
僕から言わせれば、それは、彼自身が彼の神に近い存在であるということになります。根から前向きな人は、信仰する必要はないでしょう。それは僕にはうらやましい限りです。
彼のようになれればと思います。

僕は僕の神がこのような存在であることをうれしく思います。
いつか僕の神に僕が少しでも近づける存在になれることを願う気持ちがある限り、この信仰が途絶えることはないでしょう。

僕はこの神のおかげで、以前よりも早く立ち直ることができるように思えます。

ある本に、
「神々が人間に、憤怒や復讐の感情から、憎悪の気持ちまで付与されたからには、そうした感情が人間生活に必要欠くべからざる要素だから」
と書かれてありましたが、悲しみや、悔しさや慚愧の念にも同じことが言えます。

神がこれらの感情を付与してくれたのは、僕にとって必要だったから、それ以外にありません。

苦悩の中にあっても、前向きであり続けること、両者は決して相容れないものではなく、両立するものであると信じます。
僕の中の神は、苦悩を否定しません。
苦悩を受け入れられるようになること、そして希望を失わないこと。自分を信じられること。
そうなっていくことこそが、僕の中の神に、僕が近づくことなのだと思います。

この二日間は、久しく忘れていた「考える」という行為を思い出させてくれました。忙しい中にあっても、自分にとっては疎かにしてはいけない、重要な所作であることを再認識しました。
価値観が合わなくても

性格が合わなくても、

どんな人でも、人を嫌わず、陰口をたたかない人は皆いい人だと思います

価値観が合わないことは、嫌う理由になりません

性格があわないことは嫌う理由になりません

だってそれが故に自分が中傷されたわけではないのですから

そんな理由でわざわざ人を嫌おうとする心理に、差別の根源が潜んでいるのだと思います

対人的な恐怖は相手に嫌われるかどうかが大半だと思います

嫌われないとわかっていれば性格の違いや価値観の違いもそれほど苦にはならないはず

嫌われないなら自分を隠す必要はないからです

自分が人をそんな理由で嫌えば、他人も同様の理由で自分を嫌う可能性を自ら立証してしまいます

自分はその立場ではないが、その人の立場を否定しない

みんながそんな風であれば、世の中の苦はずいぶん減るのにあと思う今日この頃です

もちろんそうなると、「ある種」の避けられないジレンマに陥るのですが

立場を否定しないという立場と、みんながそうであることを願う希求の念は相容れないのかを考えてみなければなりません
自分は自分

自分は自分

自分じゃなくて好かれるよりは、

自分で結果嫌われたとしてもそれのがいい

僕はジョナサン

カモメのジョナサン

言い聞かせても

今の僕はジョナサンにはなりきれてないなあ

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