松岡修造の考え方は僕と似ている。と、
ガオラの松岡修造の番組を見ていてつくづく思う。
といっても、教え方は違う。僕が仮にテニスのジュニアに教える立場だったとしたら、あんな風に、スパルタみたいには教えない。
でも、真剣さは伝えたいから、厳しさとは違った方法で、伝える努力をすると思う。
修造と僕の似てるところ、それは、感情を思弁的に解き明かそうとするところ。
試合に負けて、悔しいと思えば、その悔しさは、何からくるのか考え、なぜ悔しさを招いたかを考え、悔しさを除去するためには、どうさせるのが良いかを考える。
松岡がジュニア達に教えたい事は、技術よりも何よりも、その自分の感情を辿る、ということだと思う。ミーティングで、そのことに気づかせようと、ジュニア達に、質問している。
一人のジュニアが、試合に負けた。
松岡は言う。
「なぜ負けた?」
ジュニアは、口篭もる。
「理由は、色々あるはずだ。自分が思ったことを言えばいい。」
「言われたことが出来なかったから」
「言われたことって何だ?」
ジュニアは再び口篭もる。
「今まで何回もたくさん教えてきたはずだ。なぜその教えてきたことが一つも出ない?」
ジュニアは、恐る恐る「思い切りが足りなかった」と小さな声で言う。
「それだけか?他にもあるはずだ。」
「足が動かなかった」
「なぜ思い切りが足りなかった?なぜ足が動かなかった?」
「なぜ今まで教えてきたことを今いえたのに、さっきはいえなかったんだ?」
こういった「なぜ?」「どうして?」という質問を浴びせ掛ける。
ジュニアはもちろん辛い。でも、これをする事は大切なのだ。
そして、すぐに口に出てこないという事は、ジュニア達が、普段、この「なぜ?」「どうして?」という思弁をを行っていない証左なのだ。
彼らは、試合に負けて悔しいと思う。しかし、悔しいと思うだけで終ってしまう。そこに上達はない。努力をするにしても、効率の良い努力には至らない。
数学の答えがわからないからといって、悔しがっているだけでは答えはみつからない。「なぜ?」「どうして?」を考え調べていくことによって、始めて答えへと、近づく。これは、すべてのことに当てはまる。もちろんテニスにも。
「なぜ?」「どうして?」と考えていくことが、悔しさを解消させる具体的な答えを導いてくれるということを松岡は教えているのだ。
考えていくくせをつけること。それは自分の弱点を浮き彫りにする。弱点が浮き彫りになって、はじめて弱点への対策を講じることができる。ただ漠然とした感情のままでは、改善点は霧の中で見えてこないのだから。
松岡は問う。
「お前はどうしていきたいんだ?」と。
ジュニアは答えられない。
どうしていきたいかということを、具体的に考えたことがないからだ。
「ここがお前の一番重要なところだぞ。お前の考えや気持ちは、お前にしか分からないし、決められない。俺が変わりに決めてやる事はできないんだ」
何かを自分で、決めるという事は、責任を伴う。そして、その責任を負っていく覚悟を伴う。
しかし、それをすることこそが、向上心の本質なのだ。
この「なぜ?」「どうして?」を考えることは、なんにつけ重要だ。
感情も例外ではない。
松岡は、この点に関して、非常に僕と似通っている。
ガオラの松岡修造の番組を見ていてつくづく思う。
といっても、教え方は違う。僕が仮にテニスのジュニアに教える立場だったとしたら、あんな風に、スパルタみたいには教えない。
でも、真剣さは伝えたいから、厳しさとは違った方法で、伝える努力をすると思う。
修造と僕の似てるところ、それは、感情を思弁的に解き明かそうとするところ。
試合に負けて、悔しいと思えば、その悔しさは、何からくるのか考え、なぜ悔しさを招いたかを考え、悔しさを除去するためには、どうさせるのが良いかを考える。
松岡がジュニア達に教えたい事は、技術よりも何よりも、その自分の感情を辿る、ということだと思う。ミーティングで、そのことに気づかせようと、ジュニア達に、質問している。
一人のジュニアが、試合に負けた。
松岡は言う。
「なぜ負けた?」
ジュニアは、口篭もる。
「理由は、色々あるはずだ。自分が思ったことを言えばいい。」
「言われたことが出来なかったから」
「言われたことって何だ?」
ジュニアは再び口篭もる。
「今まで何回もたくさん教えてきたはずだ。なぜその教えてきたことが一つも出ない?」
ジュニアは、恐る恐る「思い切りが足りなかった」と小さな声で言う。
「それだけか?他にもあるはずだ。」
「足が動かなかった」
「なぜ思い切りが足りなかった?なぜ足が動かなかった?」
「なぜ今まで教えてきたことを今いえたのに、さっきはいえなかったんだ?」
こういった「なぜ?」「どうして?」という質問を浴びせ掛ける。
ジュニアはもちろん辛い。でも、これをする事は大切なのだ。
そして、すぐに口に出てこないという事は、ジュニア達が、普段、この「なぜ?」「どうして?」という思弁をを行っていない証左なのだ。
彼らは、試合に負けて悔しいと思う。しかし、悔しいと思うだけで終ってしまう。そこに上達はない。努力をするにしても、効率の良い努力には至らない。
数学の答えがわからないからといって、悔しがっているだけでは答えはみつからない。「なぜ?」「どうして?」を考え調べていくことによって、始めて答えへと、近づく。これは、すべてのことに当てはまる。もちろんテニスにも。
「なぜ?」「どうして?」と考えていくことが、悔しさを解消させる具体的な答えを導いてくれるということを松岡は教えているのだ。
考えていくくせをつけること。それは自分の弱点を浮き彫りにする。弱点が浮き彫りになって、はじめて弱点への対策を講じることができる。ただ漠然とした感情のままでは、改善点は霧の中で見えてこないのだから。
松岡は問う。
「お前はどうしていきたいんだ?」と。
ジュニアは答えられない。
どうしていきたいかということを、具体的に考えたことがないからだ。
「ここがお前の一番重要なところだぞ。お前の考えや気持ちは、お前にしか分からないし、決められない。俺が変わりに決めてやる事はできないんだ」
何かを自分で、決めるという事は、責任を伴う。そして、その責任を負っていく覚悟を伴う。
しかし、それをすることこそが、向上心の本質なのだ。
この「なぜ?」「どうして?」を考えることは、なんにつけ重要だ。
感情も例外ではない。
松岡は、この点に関して、非常に僕と似通っている。
精神に対する肉体の優位。
快楽犯というものがひところ話題になったね。人を傷つけたり、殺したりすることに快楽を求めるらしい。それが性的な快楽なのかといえば、僕はそれに限定されるものではなく、興奮や、愉快な心地や、優越感など、様々な感情が入り混じったり、主体となったりする快楽のことをさしているんだと思う。
そして僕たちは、こぞって、気持ち悪いとか、信じられない、考えられないなどという非難、軽蔑の言葉を加害者に浴びせたわけだ。
しかし、加害者の行為の本質が、本当にありえないものであるといえるかどうかを、考えてみる。
加害者は、この場合、肉体的物質的な快楽犯となるわけで、自分の欲求や、精神を満たすために、肉体という物質に対して執着し、傷害し、快楽を得た。もちろん他人を傷つけたり、死に至らしめたんだから、紛れもない罪だ。法律上においても、自然法上においても。
では、自分の欲求や精神を満たすために精神的なものへ執着し、傷害し、快楽をえるという行為についてはどうだろう。
人間は、皆、快楽犯だと思う。多くは、精神的快楽犯。誰かを精神的に傷つけて、快楽をえている。中傷、偏見、虐め、迫害。
んで、自分も快楽犯であるのに、それに気づかずに、肉体的快楽犯がニュースに取りざたされたときに、信じられない、とか、気持ち悪いとかいう。いわば、肉体的快楽犯は快楽犯の中のマイノリティー。
肉体的なものに対する快楽犯と精神的なものに対する快楽犯、いったい何が違うのか?なぜ、一方は罪になり、一方は罪にならないのか?
肉体的なものへの加害者の行為はその「目的」が、精神的欲求の充足であり、その「手段」が、肉体の傷害へと向かったわけである。
精神的なものへの加害者は、「目的」は同じで、「手段」が精神的な傷害に向かっている。
つまり、「手段」が違うだけだ。という事は、罪の基準は手段ということになる。肉体と精神に決定的な価値の差異があるということになる。
精神に対する肉体の優位である。
しかし、本当に、精神よりも肉体のほうが重要であるのだろうか?
肉体を傷つけられれば、精神も傷つく。精神を傷つけられれば、肉体は傷つかない。しかしいずれにせよ精神は傷つく。
また、五体不満足であっても、健全な精神があれば、幸せを感じることができる。しかし、健全な体をもっていても、精神が傷ついていれば、幸せは感じられまい。
精神が人間のありようを決める。
だから、僕は肉体に対して精神は優越すると考えている。
法律に書かれたもののみが罪ではない。
肉体的な罪を責めるなら、精神的な罪も同等に目を向けるべきだ。
メディアで取り上げられた、残虐な事件に言及するなら、自分自身が同じ罪を精神的なものに犯していないか、自分自身気をつけておかなければならないだろう。
精神は、客観的に判断しにくいからこそ、さらに脆弱で、無意識に埋没しやすい。だから、蔑ろにしていいのではなく、だからこそ、さらに注意が必要なはずなのである。
他人の悪行をとやかく言う前に、僕たちは、自分自身の行動を振り返り、改善していかなければならないのだと思う。
肉体の快楽殺人犯を責めている自分が、気づかぬうちに、精神の快楽殺人を犯してしまっていたという自体を避けるためにも。
ちなみに、精神は肉体に優越するという僕の考えからすれば、精神的なものを傷つけて快楽を得る人のほうが、よっぽど恐ろしいと思う。
快楽犯というものがひところ話題になったね。人を傷つけたり、殺したりすることに快楽を求めるらしい。それが性的な快楽なのかといえば、僕はそれに限定されるものではなく、興奮や、愉快な心地や、優越感など、様々な感情が入り混じったり、主体となったりする快楽のことをさしているんだと思う。
そして僕たちは、こぞって、気持ち悪いとか、信じられない、考えられないなどという非難、軽蔑の言葉を加害者に浴びせたわけだ。
しかし、加害者の行為の本質が、本当にありえないものであるといえるかどうかを、考えてみる。
加害者は、この場合、肉体的物質的な快楽犯となるわけで、自分の欲求や、精神を満たすために、肉体という物質に対して執着し、傷害し、快楽を得た。もちろん他人を傷つけたり、死に至らしめたんだから、紛れもない罪だ。法律上においても、自然法上においても。
では、自分の欲求や精神を満たすために精神的なものへ執着し、傷害し、快楽をえるという行為についてはどうだろう。
人間は、皆、快楽犯だと思う。多くは、精神的快楽犯。誰かを精神的に傷つけて、快楽をえている。中傷、偏見、虐め、迫害。
んで、自分も快楽犯であるのに、それに気づかずに、肉体的快楽犯がニュースに取りざたされたときに、信じられない、とか、気持ち悪いとかいう。いわば、肉体的快楽犯は快楽犯の中のマイノリティー。
肉体的なものに対する快楽犯と精神的なものに対する快楽犯、いったい何が違うのか?なぜ、一方は罪になり、一方は罪にならないのか?
肉体的なものへの加害者の行為はその「目的」が、精神的欲求の充足であり、その「手段」が、肉体の傷害へと向かったわけである。
精神的なものへの加害者は、「目的」は同じで、「手段」が精神的な傷害に向かっている。
つまり、「手段」が違うだけだ。という事は、罪の基準は手段ということになる。肉体と精神に決定的な価値の差異があるということになる。
精神に対する肉体の優位である。
しかし、本当に、精神よりも肉体のほうが重要であるのだろうか?
肉体を傷つけられれば、精神も傷つく。精神を傷つけられれば、肉体は傷つかない。しかしいずれにせよ精神は傷つく。
また、五体不満足であっても、健全な精神があれば、幸せを感じることができる。しかし、健全な体をもっていても、精神が傷ついていれば、幸せは感じられまい。
精神が人間のありようを決める。
だから、僕は肉体に対して精神は優越すると考えている。
法律に書かれたもののみが罪ではない。
肉体的な罪を責めるなら、精神的な罪も同等に目を向けるべきだ。
メディアで取り上げられた、残虐な事件に言及するなら、自分自身が同じ罪を精神的なものに犯していないか、自分自身気をつけておかなければならないだろう。
精神は、客観的に判断しにくいからこそ、さらに脆弱で、無意識に埋没しやすい。だから、蔑ろにしていいのではなく、だからこそ、さらに注意が必要なはずなのである。
他人の悪行をとやかく言う前に、僕たちは、自分自身の行動を振り返り、改善していかなければならないのだと思う。
肉体の快楽殺人犯を責めている自分が、気づかぬうちに、精神の快楽殺人を犯してしまっていたという自体を避けるためにも。
ちなみに、精神は肉体に優越するという僕の考えからすれば、精神的なものを傷つけて快楽を得る人のほうが、よっぽど恐ろしいと思う。
法律の勉強なんかしててふと思ったけど、例えば法律に定められたことが罪なのではなくて、罪の中に法律が包含されてるというのが正しいはずだよね。
だから、もちろん、法にかかれていないことでも、罪となることはたくさんあって、よく耳にする、「法には触れてないんだからいいじゃないか」というのは、まったく人間の善の概念を蔑ろにした、まさに、法がすべての罪の根拠であるという考えであり、まったくもっていただけないのは、法の穴を掻い潜ってあらぬことをする輩が瀰漫するこの社会を見るにつけ一目瞭然。
さて、刑法を勉強していて、その制裁の対象が、ほぼ肉体的な侵害で占められているという事実。名誉毀損だとか、精神的なことに対する法規定は、相対的に見て、甚だ少ない(単に僕が勉強してなくて知らないだけかもしれないけど)。
精神的自由とは国がもっとも制約できない自由だけれど、それほどに大事であるはずの精神が侵害されたとき、守られる術が、肉体的侵害よりも少ないというのは、なんだか矛盾であるように思えてならない。
とは言いつつも、国も少しづつ、精神的な部分の法律の充足という必然性に迫られて、受益的な分野の進展は、知る権利だとかなんだとかで、結構進んできていると思われ、今後は、さらに規制的な分野も、具体化されなきゃいけなくなってくるんじゃないかと思う。
でも、精神的侵害の罪を規定するって、難しい。肉体的な侵害なら、客観的な判断基準が存在する。多くの人が危険だと思う、もしくは危害が加わったと思う行為は判断できるから。
でも精神的な事は以前も書いたけと、きわめて抽象的であって、どこからどこまでが、精神的侵害かってのは個人の人生も加味されるし、何より、それは個人でしかわからない絶対的なことだから、それを客観化し制裁のための規定を設ける事は限界があろうし、そもそもそれをしてしまったら、精神的自由の抵触につながるわけであって。
精神的侵害に対する対処が、そのまま精神的自由の侵害に当たるというジレンマを抱えるがゆえに、やはり、刑法にしろ他の法律にしろ、精神的な分野に踏み込みづらいんだろうなあ、なんて思った。
かなり前だけど、虐めで被害者を自殺に追い込んだとして、始めて、加害者に賠償命令を命じた判決があったよね。かなり踏み込んだなあ。ちなみに、精神的侵害を法で規制するにしたら、虐めによる自殺とかで、その原因の因果関係を認めたにしても、ほとんどが、過失致死みたいな判決になるだろうね。故意であっても、加害者にしかわかんないし。
だからこそ、法律じゃ縛れない精神的分野を守る術として、道徳や哲学なんかが存在しうるんじゃないかなあ、なんて。
でも、そういったものも今や危機に瀕して、貧すりゃ鈍す(これは違うか)、とにかく、法律だけを一つの道徳と見る向きがあるように感じて、そうすると、精神に対する肉体の優位。
あっ、その事はまた今度にでも書こうかな。
だから、もちろん、法にかかれていないことでも、罪となることはたくさんあって、よく耳にする、「法には触れてないんだからいいじゃないか」というのは、まったく人間の善の概念を蔑ろにした、まさに、法がすべての罪の根拠であるという考えであり、まったくもっていただけないのは、法の穴を掻い潜ってあらぬことをする輩が瀰漫するこの社会を見るにつけ一目瞭然。
さて、刑法を勉強していて、その制裁の対象が、ほぼ肉体的な侵害で占められているという事実。名誉毀損だとか、精神的なことに対する法規定は、相対的に見て、甚だ少ない(単に僕が勉強してなくて知らないだけかもしれないけど)。
精神的自由とは国がもっとも制約できない自由だけれど、それほどに大事であるはずの精神が侵害されたとき、守られる術が、肉体的侵害よりも少ないというのは、なんだか矛盾であるように思えてならない。
とは言いつつも、国も少しづつ、精神的な部分の法律の充足という必然性に迫られて、受益的な分野の進展は、知る権利だとかなんだとかで、結構進んできていると思われ、今後は、さらに規制的な分野も、具体化されなきゃいけなくなってくるんじゃないかと思う。
でも、精神的侵害の罪を規定するって、難しい。肉体的な侵害なら、客観的な判断基準が存在する。多くの人が危険だと思う、もしくは危害が加わったと思う行為は判断できるから。
でも精神的な事は以前も書いたけと、きわめて抽象的であって、どこからどこまでが、精神的侵害かってのは個人の人生も加味されるし、何より、それは個人でしかわからない絶対的なことだから、それを客観化し制裁のための規定を設ける事は限界があろうし、そもそもそれをしてしまったら、精神的自由の抵触につながるわけであって。
精神的侵害に対する対処が、そのまま精神的自由の侵害に当たるというジレンマを抱えるがゆえに、やはり、刑法にしろ他の法律にしろ、精神的な分野に踏み込みづらいんだろうなあ、なんて思った。
かなり前だけど、虐めで被害者を自殺に追い込んだとして、始めて、加害者に賠償命令を命じた判決があったよね。かなり踏み込んだなあ。ちなみに、精神的侵害を法で規制するにしたら、虐めによる自殺とかで、その原因の因果関係を認めたにしても、ほとんどが、過失致死みたいな判決になるだろうね。故意であっても、加害者にしかわかんないし。
だからこそ、法律じゃ縛れない精神的分野を守る術として、道徳や哲学なんかが存在しうるんじゃないかなあ、なんて。
でも、そういったものも今や危機に瀕して、貧すりゃ鈍す(これは違うか)、とにかく、法律だけを一つの道徳と見る向きがあるように感じて、そうすると、精神に対する肉体の優位。
あっ、その事はまた今度にでも書こうかな。
夏目漱石は、エゴイズムをどうやって倫理的に解決していけるかを模索しつづけていたらしいね。
目下僕の悩みもほぼ同じようなこと。
漱石は、晩年、則天去私という造語で到達点をみいだしたけど、結局自身の神経衰弱は治ることもなかったんだよなあ。彼ほどの人物でも悟りは啓けなったのか。
でも悟りを形を想像するまでにいたったのだとしたら、それはそれで凄い救いになったろうな。理想とは希望で、希望とは生きる上で、意味性を付与してくれるから。
エゴに苦しむのは、自分の人生や歴史というもの大半がエゴの物語だから。
記憶が桎梏となり苦しみつづけるのが人の生だし、一方で記憶があるから人間は人生の素晴らしさをかみ締められる。
記憶を捨てたいという欲求と持ち続けたいという欲求に、人は身動きが取れなくなり、苦悩してきたし、苦悩しつづける。
目下僕の悩みもほぼ同じようなこと。
漱石は、晩年、則天去私という造語で到達点をみいだしたけど、結局自身の神経衰弱は治ることもなかったんだよなあ。彼ほどの人物でも悟りは啓けなったのか。
でも悟りを形を想像するまでにいたったのだとしたら、それはそれで凄い救いになったろうな。理想とは希望で、希望とは生きる上で、意味性を付与してくれるから。
エゴに苦しむのは、自分の人生や歴史というもの大半がエゴの物語だから。
記憶が桎梏となり苦しみつづけるのが人の生だし、一方で記憶があるから人間は人生の素晴らしさをかみ締められる。
記憶を捨てたいという欲求と持ち続けたいという欲求に、人は身動きが取れなくなり、苦悩してきたし、苦悩しつづける。
日本では、精神的な障害に対する根強い偏見があるよね。
それが、カミングアウトしづらくしちゃってるわけで。
でもこのカミングアウト。そもそも、精神的疾患であると公言することをカミングアウトと認識してしまう時点で、僕達は、すでに、精神的疾患を偏った目で見てしまっているということになるんじゃなかろうか。
偏見がそのまま、民衆の共通認識になったら、その壁はなかなか打ち破られづらくなるわけで、その壁を前に、障害を持った人は、自分の障害をネガティブに見たくなくても、結果的に外部に対してカミングアウトという形を通してしか、障害を公開できなくなってるんだよね。胸襟を開く、っていうのは、普段は閉じて隠していないと攻撃してくる何らかの外部の要素があるからな訳だし。
でもはたして精神的障害とは、限られた人しかかからない異端視するものであるのかといえば、そうでない。
精神的な障害っていうのは、先天的なものを除いては、ほぼ人間の全員がなる確立のあるものなんだよね。
そりゃ、風邪を引きにくい引きやすいがあるように、精神的疾患に陥りやすい人と陥りにくい人はいるだろうけど、絶対にならないという人はいない。
僕は、心が弱い人がなる病気ととるか、誰もがなる可能性のある病気ととるかが、精神疾患罹患者に対する価値観を形成しているんだと思う。
そして日本は、いうまでもなく、前者の見方が強い。
日本は、悩みやストレスを、どう融解させるかではなくて、どう克服させるかと考える傾向があるよね。
耐えろ!頑張れ!ってやつ。
というか、頑張る、という行為が耐えることオンリーになってるんであって、問題の解決はたなざらし。根性論。
根性が悪いというわけじゃない。ただ、その根性に根拠がない。
根拠を考える、もしくは知っておくって事は、理解に何よりも重要なことだともう。
欧米らへんは、精神を非常に医学的、科学的に扱っている。だから、必然的に、物事の根拠が判明される。
精神も心も、みえないものじゃない。心とは、脳の機能の一分野なのであって、精神的疾患は、脳の機能障害であるというのが、一般的な認識としてかなり普及しているように思う。
今は常識だけど、脳も筋肉も同じ細胞なんだから、休みも栄養も必要なわけで、どんな頑丈な人でも、毎日、筋肉に負荷をかけつづけていれば、筋肉は壊れていくばかり。筋肉が再生する休みと、再生に効果的な栄養を摂取しなけりゃならない。
精神、すなわち脳も同じこと、毎日、ストレスばかりを与えてたら、どんなに強い人でもいつか精神まいっちゃう。
筋トレしつづけることで筋肉が強くなるわけじゃないように、耐えつづけることで、精神力がつくというわけじゃない。
重要なのは、筋肉にどういった栄養を与えるか、どのくらい休憩するかで、以前よりも強い筋繊維に生まれ変わるのであって、同様に、精神も、問題にどういった対処策を講じるか、どのような栄養(対人的なコミュニケーションや薬)を与えるかによって、精神の耐性というのも向上するだろうし、脳の機能も回復していくであって。
つまり、欧米あたりは、精神的疾患に対する偏見が日本よりもないのは、ようは、皆がなりえる病気だから、ととらえている人が多いということなのだ。
わかりやすい事例でいえば、日本で、就職面接で、自分は精神疾患者であって、精神科に通い、そういったサークルで助け合っています。なんて言ったらどうなるんだろう?まず、有利にとられる事はないんじゃないだろうか。そういうのは言わずに、黙って耐えられる人が凄い人、みたいな。
でも、例えばオーストラリアなんかは、精神科に通ったり、サークルで活動したりすることが、評価の対象になりえるんだよね。なぜなら、それは誰もがかかりうる病気に対して、積極的に立ち向かってると、とられるわけだから。
そして、ついには、そういった精神的疾患を治癒するにいたった人なんかは、「サバイバー」といわれ、尊敬を集めるんだって。サバイバー。つまり困難な状況を乗越えてきたつわもの。凄い人ってことでね。
確かに、色々なストレスをおくびにも出さず、飄然としていられる人は凄いと思う。
でも、精神的疾患を治そうと病院に行ったりしながら、日々を送っている人もまた「心が強い」人だとは思いませんか?
それが、カミングアウトしづらくしちゃってるわけで。
でもこのカミングアウト。そもそも、精神的疾患であると公言することをカミングアウトと認識してしまう時点で、僕達は、すでに、精神的疾患を偏った目で見てしまっているということになるんじゃなかろうか。
偏見がそのまま、民衆の共通認識になったら、その壁はなかなか打ち破られづらくなるわけで、その壁を前に、障害を持った人は、自分の障害をネガティブに見たくなくても、結果的に外部に対してカミングアウトという形を通してしか、障害を公開できなくなってるんだよね。胸襟を開く、っていうのは、普段は閉じて隠していないと攻撃してくる何らかの外部の要素があるからな訳だし。
でもはたして精神的障害とは、限られた人しかかからない異端視するものであるのかといえば、そうでない。
精神的な障害っていうのは、先天的なものを除いては、ほぼ人間の全員がなる確立のあるものなんだよね。
そりゃ、風邪を引きにくい引きやすいがあるように、精神的疾患に陥りやすい人と陥りにくい人はいるだろうけど、絶対にならないという人はいない。
僕は、心が弱い人がなる病気ととるか、誰もがなる可能性のある病気ととるかが、精神疾患罹患者に対する価値観を形成しているんだと思う。
そして日本は、いうまでもなく、前者の見方が強い。
日本は、悩みやストレスを、どう融解させるかではなくて、どう克服させるかと考える傾向があるよね。
耐えろ!頑張れ!ってやつ。
というか、頑張る、という行為が耐えることオンリーになってるんであって、問題の解決はたなざらし。根性論。
根性が悪いというわけじゃない。ただ、その根性に根拠がない。
根拠を考える、もしくは知っておくって事は、理解に何よりも重要なことだともう。
欧米らへんは、精神を非常に医学的、科学的に扱っている。だから、必然的に、物事の根拠が判明される。
精神も心も、みえないものじゃない。心とは、脳の機能の一分野なのであって、精神的疾患は、脳の機能障害であるというのが、一般的な認識としてかなり普及しているように思う。
今は常識だけど、脳も筋肉も同じ細胞なんだから、休みも栄養も必要なわけで、どんな頑丈な人でも、毎日、筋肉に負荷をかけつづけていれば、筋肉は壊れていくばかり。筋肉が再生する休みと、再生に効果的な栄養を摂取しなけりゃならない。
精神、すなわち脳も同じこと、毎日、ストレスばかりを与えてたら、どんなに強い人でもいつか精神まいっちゃう。
筋トレしつづけることで筋肉が強くなるわけじゃないように、耐えつづけることで、精神力がつくというわけじゃない。
重要なのは、筋肉にどういった栄養を与えるか、どのくらい休憩するかで、以前よりも強い筋繊維に生まれ変わるのであって、同様に、精神も、問題にどういった対処策を講じるか、どのような栄養(対人的なコミュニケーションや薬)を与えるかによって、精神の耐性というのも向上するだろうし、脳の機能も回復していくであって。
つまり、欧米あたりは、精神的疾患に対する偏見が日本よりもないのは、ようは、皆がなりえる病気だから、ととらえている人が多いということなのだ。
わかりやすい事例でいえば、日本で、就職面接で、自分は精神疾患者であって、精神科に通い、そういったサークルで助け合っています。なんて言ったらどうなるんだろう?まず、有利にとられる事はないんじゃないだろうか。そういうのは言わずに、黙って耐えられる人が凄い人、みたいな。
でも、例えばオーストラリアなんかは、精神科に通ったり、サークルで活動したりすることが、評価の対象になりえるんだよね。なぜなら、それは誰もがかかりうる病気に対して、積極的に立ち向かってると、とられるわけだから。
そして、ついには、そういった精神的疾患を治癒するにいたった人なんかは、「サバイバー」といわれ、尊敬を集めるんだって。サバイバー。つまり困難な状況を乗越えてきたつわもの。凄い人ってことでね。
確かに、色々なストレスをおくびにも出さず、飄然としていられる人は凄いと思う。
でも、精神的疾患を治そうと病院に行ったりしながら、日々を送っている人もまた「心が強い」人だとは思いませんか?
人って、嫌う理由は無いとこから勝手にこさえちゃうのに、好きになる理由はごろごろあっても見ようとしないんだね。
顔がむかつく、声がむかつく、仕草がむかつく。なんとなくむかつく。そんなことが嫌う理由として正当化されたら、えらいことなっちゃうって。
その顔が、その声が、その仕草が、人に害を及ぼすわけじゃないのに。
その人の考え、思い、言っている内容に目を向けてみれば、きっとたくさん良いとこ見つけられるよ。
人って、集団になると、平気で、誰かを嫌うよね。無いところから、理由をこさえて、輪の中から、わざわざ誰かをはみ出させる。何でそんなことするんだろう。
そんなにその人のことを知らないのに、いや、知らないからこそ嫌えるのかな。周りの言うこと鵜呑みにしてれば、話題も合わせられるもんね。自分がそうならなきゃ、実際どうでもいいんだね。
話題の一つ、ゴシップと同じ、ストレス発散。
ゲーム、遊び道具、たとえそれが人間でも。
ちりも積もれば山、ボディーブローも受けつづければカウンターと同じだよ。ささいな言葉も毎日続けば生き地獄さ。
壊れたときに、壊した人は、気づくかな。みんながいっせいに壊したら、誰が壊したのかわからないからうやむやにしちゃうのかな。自分が壊したのかもと、良心に訴える人はいないかな。壊れたものを拾って直そうとする人はいるのかな。
でも何よりも、壊れなきゃ、誰も気づかないって、悲しいね。
みんな幸せが何よりで、誰も傷つかず、穏やかにいれたらいいなあ。っていうのは、みんなが望んでることじゃないのかな?違うのかな。
刺激を求めてんのかな?
誰かを犠牲にしてまで求めていい刺激ってあるのかな。
誰かを犠牲にしてまで求める笑いってあるのかな。
どうしてわざわざ、無いとこから理由をこさえて嫌うんだろう。
顔がむかつく、声がむかつく、仕草がむかつく。なんとなくむかつく。そんなことが嫌う理由として正当化されたら、えらいことなっちゃうって。
その顔が、その声が、その仕草が、人に害を及ぼすわけじゃないのに。
その人の考え、思い、言っている内容に目を向けてみれば、きっとたくさん良いとこ見つけられるよ。
人って、集団になると、平気で、誰かを嫌うよね。無いところから、理由をこさえて、輪の中から、わざわざ誰かをはみ出させる。何でそんなことするんだろう。
そんなにその人のことを知らないのに、いや、知らないからこそ嫌えるのかな。周りの言うこと鵜呑みにしてれば、話題も合わせられるもんね。自分がそうならなきゃ、実際どうでもいいんだね。
話題の一つ、ゴシップと同じ、ストレス発散。
ゲーム、遊び道具、たとえそれが人間でも。
ちりも積もれば山、ボディーブローも受けつづければカウンターと同じだよ。ささいな言葉も毎日続けば生き地獄さ。
壊れたときに、壊した人は、気づくかな。みんながいっせいに壊したら、誰が壊したのかわからないからうやむやにしちゃうのかな。自分が壊したのかもと、良心に訴える人はいないかな。壊れたものを拾って直そうとする人はいるのかな。
でも何よりも、壊れなきゃ、誰も気づかないって、悲しいね。
みんな幸せが何よりで、誰も傷つかず、穏やかにいれたらいいなあ。っていうのは、みんなが望んでることじゃないのかな?違うのかな。
刺激を求めてんのかな?
誰かを犠牲にしてまで求めていい刺激ってあるのかな。
誰かを犠牲にしてまで求める笑いってあるのかな。
どうしてわざわざ、無いとこから理由をこさえて嫌うんだろう。
感情は相対的か絶対的か?
2005年3月27日 僕の思ったこと感情というものに対する疑問。
人はよくこのくらいのことで悲しむな、傷つくなみたいなことを言うわけだけど、そういった場合、自分の哀しみの尺度を基準として相手の悲しみを相対的に判断しているわけで、それって僕は間違ってるんじゃないかって思うわけ。
喜びや哀しみの感情って、ある一定の区別は判断できるよね。だから、映画にしても娯楽物や悲哀物とジャンル分けされてるわけで。だけどそれはあくまでもある一定の、大まかな区切り(総人間的)においてであって、そういう場合の感情は、まあ、相対的に判断することができるよね。こういう場面では多くの人は笑うだろうなあ、幸せに感じるだろうなあ。傷つくだろうなあ。悲しむだろうなあ。というようないわば「感情の種類」。
感情の種類は人はある程度特定できるんだと思う。
そして、僕はこの感情の種類を、マクロ的な感情、って定義したい。そして、このマクロ的に見た感情は相対的といっていいと思う。
マクロがあればミクロもあるわけで、ミクロ的に見た感情っていうのは、個人的な経験に根ざした「感情の深さ」のことだと思う。
冒頭に記したように、人が、他人の悲しみに対して、この程度のことで悲しむなっていう場合には、明らかにこの感情の深さ、に言及しているわけなんだけど、悲しんでいる人の悲しみが、どのくらい深い悲しみなのかってことは、その人の人生を送ってみないと、その人自身になってみないと完全には理解しようがないわけでしょう。過去の経験により、他の人にはささいなことでも、その人には立ち直れないくらい傷ついちゃうこともあるわけなんだから。
僕達は、その場の状況だけでは、どういった種類の感情かはある程度判断できても、それがそれぞれの人にどのくらいの深さの感情を喚起させるのかってことは、みんなの育ってきた人生だけ様々な種類の深さがあるんだから、判断の仕様がないし、基準もないよね。
それなのに、冒頭のように自分の感情の深さを基準として、相手の感情の深さの高低を決めるのは明らかに間違ってるでしょ。
感情の深さは、ミクロ的な感情は、その人自分自身だけが判断できる絶対的なものだと僕は思う。つまり、その人がとても悲しいと感じるなら、どんな状況であっても、どんなささいなことであっても、その人にとってはとても悲しいということは紛うことない真実なんだよね。
だから、僕達が相手の感情に何か言及するとしても、何か力になるとしても、例えば悲しんだり苦しんだりしている人に、僕達がやるべきことは、自分の感情で相手の感情を判断することではなくて、一旦自分の感情を度外視して、相手自身の絶対的な感情、哀しみや苦しみの深さを可能な限り理解しようと努力することなんじゃないだろうか。
もちろん絶対的な感情ゆえ、その人にならない限り、完全な理解は出来ないが、せめて相手の気持ちに少しでも近づけることができれば、それだけ、理解ある発言ができ、結果、相手の共感を得られたり、力になれたりする可能性も高まるのではないだろうか。
人はよくこのくらいのことで悲しむな、傷つくなみたいなことを言うわけだけど、そういった場合、自分の哀しみの尺度を基準として相手の悲しみを相対的に判断しているわけで、それって僕は間違ってるんじゃないかって思うわけ。
喜びや哀しみの感情って、ある一定の区別は判断できるよね。だから、映画にしても娯楽物や悲哀物とジャンル分けされてるわけで。だけどそれはあくまでもある一定の、大まかな区切り(総人間的)においてであって、そういう場合の感情は、まあ、相対的に判断することができるよね。こういう場面では多くの人は笑うだろうなあ、幸せに感じるだろうなあ。傷つくだろうなあ。悲しむだろうなあ。というようないわば「感情の種類」。
感情の種類は人はある程度特定できるんだと思う。
そして、僕はこの感情の種類を、マクロ的な感情、って定義したい。そして、このマクロ的に見た感情は相対的といっていいと思う。
マクロがあればミクロもあるわけで、ミクロ的に見た感情っていうのは、個人的な経験に根ざした「感情の深さ」のことだと思う。
冒頭に記したように、人が、他人の悲しみに対して、この程度のことで悲しむなっていう場合には、明らかにこの感情の深さ、に言及しているわけなんだけど、悲しんでいる人の悲しみが、どのくらい深い悲しみなのかってことは、その人の人生を送ってみないと、その人自身になってみないと完全には理解しようがないわけでしょう。過去の経験により、他の人にはささいなことでも、その人には立ち直れないくらい傷ついちゃうこともあるわけなんだから。
僕達は、その場の状況だけでは、どういった種類の感情かはある程度判断できても、それがそれぞれの人にどのくらいの深さの感情を喚起させるのかってことは、みんなの育ってきた人生だけ様々な種類の深さがあるんだから、判断の仕様がないし、基準もないよね。
それなのに、冒頭のように自分の感情の深さを基準として、相手の感情の深さの高低を決めるのは明らかに間違ってるでしょ。
感情の深さは、ミクロ的な感情は、その人自分自身だけが判断できる絶対的なものだと僕は思う。つまり、その人がとても悲しいと感じるなら、どんな状況であっても、どんなささいなことであっても、その人にとってはとても悲しいということは紛うことない真実なんだよね。
だから、僕達が相手の感情に何か言及するとしても、何か力になるとしても、例えば悲しんだり苦しんだりしている人に、僕達がやるべきことは、自分の感情で相手の感情を判断することではなくて、一旦自分の感情を度外視して、相手自身の絶対的な感情、哀しみや苦しみの深さを可能な限り理解しようと努力することなんじゃないだろうか。
もちろん絶対的な感情ゆえ、その人にならない限り、完全な理解は出来ないが、せめて相手の気持ちに少しでも近づけることができれば、それだけ、理解ある発言ができ、結果、相手の共感を得られたり、力になれたりする可能性も高まるのではないだろうか。
黒澤明は、
「僕らがやさしいといっても、例えば大変な悲惨なものを見たとき目をそむけるようなそういうやさしさだが、あの人は目をそむけないで見てしまう、一緒に苦しんでしまう。そういう点、人間じゃなくて神様みたいな素質を持っている」
とドストエフスキーのことを言っていたし、黒澤自身もそういう人間の理想に根ざした映画を撮りつづけてきた。
中島みゆきは、こういっている。
「私は元来もたもたしているので、時代の先端を走ることはできない。変わりに、そういった流れから置いていかれたもの、零れ落ちたもの達を拾って歩いていきたい」
ドストエフスキーと中島みゆきの姿勢。これは表現は違えど、一緒だと思う。皆が捨ててしまうものとは、世の中で皆が見たがらないもの。語りたがらないこと。大多数の人々が否定すること。そういったものに目を向けていきたい。
今の時代、先端を行く、流行を先どる物はあふれている。いくらでもチョイスできる。普通に感動したり、笑ったり、喜んだりできるものは世の中にあふれている。
でも、世の中には、そういったものでは救われない人もまたいる。
明日の命さえもわからない人たち。人間のあさましさに妥協できずにもがきつづける人たち、人生のトラウマにより、日常の出来事では、感情を動かすことが出来なくなってしまった人たち。人間を信じることが出来なくなってしまった人たち。
世間から置いてけぼりになってしまった人たちのために、ドストエフスキーも中島みゆきも、流れから零れ落ちたものを拾って作品を作る。そういった作品は、多くの人からは目を向けられず、日の目を見ることはない。
だが、零れ落ちた、取り残されたものに目を向け、そしてそれによって救われる人々も、必ずいるのだ。
誰もが要らないと、考えたくないと捨ててしまった物によって命をつなぎとめる人たちがいる。しかし、零れ落ちたものを拾い、その人たちに渡してあげる人がいなければ、その人たちはどうなるだろう?
僕達は、前ばかりを見て走っているけど、遅れた人たちを見殺しにしていいのだろうか?
捨てていったものは本当にいらないものだったんだろうか?つまり、考える必要のないもの。見なくていいもの。否定すべきもの。だったのだろうか?
前を向いて走る僕達には必要ないかもしれないことでも、もし、僕達が足をくじいたら?捨てたものが必要になるかもしれない。皆においてかれそうになったとき、皆が振り向いて手を取ってくれることを望まない人がいるだろうか?
だから、世の中に考えなくてよいことなんてない。いや、考えたくないっていって誰もが目を向けないような部分を積極的に表現していく人は凄いと思う。
人の死を歌にし、あさましさを小説にし、世に考えてくれと問い掛ける。先端を走り、後ろを振り向かない人は、きっとそういうことを暗い、とかつらい、とか言って捨てちゃうのだろう。だけど、それが必要な人にとっては、光であり、それを持つ事が、幸福へ繋がるのだ。
実は、零れ落ちたものを必要としている人って、今の時代、案外多いんじゃないかと思う。
いずれにしろ、僕は零れ落ちたものを拾い、そして置いてけぼりになった人々のために振り向き手をとる人たちが好きだ。
そして僕も、そんなに速く走らなくていいから、なるたけこぼすを物を少なく、後ろを振り返りながら歩んでいきたいなあって思う。
「僕らがやさしいといっても、例えば大変な悲惨なものを見たとき目をそむけるようなそういうやさしさだが、あの人は目をそむけないで見てしまう、一緒に苦しんでしまう。そういう点、人間じゃなくて神様みたいな素質を持っている」
とドストエフスキーのことを言っていたし、黒澤自身もそういう人間の理想に根ざした映画を撮りつづけてきた。
中島みゆきは、こういっている。
「私は元来もたもたしているので、時代の先端を走ることはできない。変わりに、そういった流れから置いていかれたもの、零れ落ちたもの達を拾って歩いていきたい」
ドストエフスキーと中島みゆきの姿勢。これは表現は違えど、一緒だと思う。皆が捨ててしまうものとは、世の中で皆が見たがらないもの。語りたがらないこと。大多数の人々が否定すること。そういったものに目を向けていきたい。
今の時代、先端を行く、流行を先どる物はあふれている。いくらでもチョイスできる。普通に感動したり、笑ったり、喜んだりできるものは世の中にあふれている。
でも、世の中には、そういったものでは救われない人もまたいる。
明日の命さえもわからない人たち。人間のあさましさに妥協できずにもがきつづける人たち、人生のトラウマにより、日常の出来事では、感情を動かすことが出来なくなってしまった人たち。人間を信じることが出来なくなってしまった人たち。
世間から置いてけぼりになってしまった人たちのために、ドストエフスキーも中島みゆきも、流れから零れ落ちたものを拾って作品を作る。そういった作品は、多くの人からは目を向けられず、日の目を見ることはない。
だが、零れ落ちた、取り残されたものに目を向け、そしてそれによって救われる人々も、必ずいるのだ。
誰もが要らないと、考えたくないと捨ててしまった物によって命をつなぎとめる人たちがいる。しかし、零れ落ちたものを拾い、その人たちに渡してあげる人がいなければ、その人たちはどうなるだろう?
僕達は、前ばかりを見て走っているけど、遅れた人たちを見殺しにしていいのだろうか?
捨てていったものは本当にいらないものだったんだろうか?つまり、考える必要のないもの。見なくていいもの。否定すべきもの。だったのだろうか?
前を向いて走る僕達には必要ないかもしれないことでも、もし、僕達が足をくじいたら?捨てたものが必要になるかもしれない。皆においてかれそうになったとき、皆が振り向いて手を取ってくれることを望まない人がいるだろうか?
だから、世の中に考えなくてよいことなんてない。いや、考えたくないっていって誰もが目を向けないような部分を積極的に表現していく人は凄いと思う。
人の死を歌にし、あさましさを小説にし、世に考えてくれと問い掛ける。先端を走り、後ろを振り向かない人は、きっとそういうことを暗い、とかつらい、とか言って捨てちゃうのだろう。だけど、それが必要な人にとっては、光であり、それを持つ事が、幸福へ繋がるのだ。
実は、零れ落ちたものを必要としている人って、今の時代、案外多いんじゃないかと思う。
いずれにしろ、僕は零れ落ちたものを拾い、そして置いてけぼりになった人々のために振り向き手をとる人たちが好きだ。
そして僕も、そんなに速く走らなくていいから、なるたけこぼすを物を少なく、後ろを振り返りながら歩んでいきたいなあって思う。
無頼は認めることが出来ない。
2005年3月2日 僕の思ったことなんかの番組で、某アナウンサーが、無頼派のことを、何にも頼らない人だって言ってて、疑問に思って、無頼を調べてみたところ、
(1)正業につかず、無法な行いをする者。
(2)頼るべきところのないこと。
という風に二通りの意味があった。
アナウンサーは、坂口安吾のことをそういってたわけだけど、文士に対して無頼派という場合、その意味は、後者ではなくあきらかに前者であるはずだ。
だって、坂口安吾は、書くためにアルコールに頼り、眠るために睡眠薬に頼っていた。人間に頼ることのないという意味だとしても、彼もしくはその他の文士達は所帯を持ち、子を宿したりしていたわけで、家族を持ちつつ家庭を放棄することが無頼ですか、そんならそもそも家庭なんて持たなきゃいいのに。
何より、作家という職業自体が、この経済や社会に寄りかかって成り立っているんだから、後者の意味で捕らえるには甚だ無理がある。それはいわば、暴走族やチンピラとその意味合いにおいて変わることがない、中途半端なファッションでしかないんだと思う。無頼という言葉は跡付け的であるから、本人達が意識していたかどうかはわからないが、そんな無頼のやからが一端の道徳論を振りかざすところにそもそもの自己矛盾があるわけで、小説に人間の希望を描くのであるなら、無頼を気取るべきではないし、自らが、その希望に向かって努力しなきゃいけないと思う。
坂口安吾の子供はあんな父親をもう二度と持ちたくないって言ってるし、太宰治は小説のネタを作るために何度も自殺未遂して、挙句の果てに人を道連れにしてるし、檀一雄も家族を蔑ろにしてたし、言い方にもよるけれど、結局は責任放棄、自分勝手な生き様を良しとしちゃってるだけであって、単なる不良。無頼に憧れた長渕剛は、励ましの歌歌いながらも矛盾のある言動行動繰り返し、それを良しとしてる。
無頼に憧れる気持ちはわかる、それは悪ぶる人間がかっこよく見えるのと同じだから、でも、みんな既成の社会に寄りかかってるなかで悪ぶってて中途半端。
そんな中途半端な無頼を認めちゃ、良いも悪いも道徳もなくなってニヒリズムに陥っちゃうよ。
開き直りの罪深さ。俺は、もしくは人間は弱い生き物だから、なんてってそれに甘んじることは、結局は誰かを切り捨てちゃうことで、いくら公益を語っても、自分は私益を優先してることになるわけだからさ。だから無頼は何だかんだで、中途半端な逃避をかっこよく形容してるだけなんだと思うわけ。
じゃあ、人間は弱いけど、そこで止まらずに強くなるために努力しましょうよ。公益と私益の両立を図りましょうよ。開き直らずにさ。かっこつけずにさ。
知行合一ですよ。ソクラテスは偉い。
うひゃあ、支離滅裂。
(1)正業につかず、無法な行いをする者。
(2)頼るべきところのないこと。
という風に二通りの意味があった。
アナウンサーは、坂口安吾のことをそういってたわけだけど、文士に対して無頼派という場合、その意味は、後者ではなくあきらかに前者であるはずだ。
だって、坂口安吾は、書くためにアルコールに頼り、眠るために睡眠薬に頼っていた。人間に頼ることのないという意味だとしても、彼もしくはその他の文士達は所帯を持ち、子を宿したりしていたわけで、家族を持ちつつ家庭を放棄することが無頼ですか、そんならそもそも家庭なんて持たなきゃいいのに。
何より、作家という職業自体が、この経済や社会に寄りかかって成り立っているんだから、後者の意味で捕らえるには甚だ無理がある。それはいわば、暴走族やチンピラとその意味合いにおいて変わることがない、中途半端なファッションでしかないんだと思う。無頼という言葉は跡付け的であるから、本人達が意識していたかどうかはわからないが、そんな無頼のやからが一端の道徳論を振りかざすところにそもそもの自己矛盾があるわけで、小説に人間の希望を描くのであるなら、無頼を気取るべきではないし、自らが、その希望に向かって努力しなきゃいけないと思う。
坂口安吾の子供はあんな父親をもう二度と持ちたくないって言ってるし、太宰治は小説のネタを作るために何度も自殺未遂して、挙句の果てに人を道連れにしてるし、檀一雄も家族を蔑ろにしてたし、言い方にもよるけれど、結局は責任放棄、自分勝手な生き様を良しとしちゃってるだけであって、単なる不良。無頼に憧れた長渕剛は、励ましの歌歌いながらも矛盾のある言動行動繰り返し、それを良しとしてる。
無頼に憧れる気持ちはわかる、それは悪ぶる人間がかっこよく見えるのと同じだから、でも、みんな既成の社会に寄りかかってるなかで悪ぶってて中途半端。
そんな中途半端な無頼を認めちゃ、良いも悪いも道徳もなくなってニヒリズムに陥っちゃうよ。
開き直りの罪深さ。俺は、もしくは人間は弱い生き物だから、なんてってそれに甘んじることは、結局は誰かを切り捨てちゃうことで、いくら公益を語っても、自分は私益を優先してることになるわけだからさ。だから無頼は何だかんだで、中途半端な逃避をかっこよく形容してるだけなんだと思うわけ。
じゃあ、人間は弱いけど、そこで止まらずに強くなるために努力しましょうよ。公益と私益の両立を図りましょうよ。開き直らずにさ。かっこつけずにさ。
知行合一ですよ。ソクラテスは偉い。
うひゃあ、支離滅裂。
かっこいいとか、わるいとか
2005年2月16日 僕の思ったことずっと疑問に思ってることがある。
かっこいいとかわるいとか、美人とが美人じゃないとかっていうのと、色が白い、黒い、とかいうことの違いっていったいなんなんだろう?ってこと。
あの人はかっこいいから、美人だから好き。っていうのは、あの人は白人だから好きっていうのとどう違うのだろう?
なぜ、白人だったら好き、黒人だったら嫌い、という人は、差別する人として軽蔑されるのに、あの人はかっこいいから好き、という人は差別する人として軽蔑されず、やもするとかっこよさが商売になったり、その風袋がお笑いで話のネタになったりするのだろう。
人の容姿って生まれつき決まってる。黒か白かも生まれつき決まってる。
容姿は努力すればかっこよくなるんだよっていう意味と、努力すれば白くなるんだよっていう意味の違いってなんなんだろう?
髪型や服装を直せば少しはかっこよくなるよっていう人は、同じように黒人に白粉塗れば少しは白人に近づくよっていうんだろうか。いや、きっとそんなこという人を軽蔑するんだろうな。
じゃあ、その違いってなんなんだろうね。
マイケル・ジャクソンのように肌を白く変える人もいれば、整形で、生まれつきの顔を変える人もいる。その根底にあるのって、コンプレックスなんだろうな。
じゃあコンプレックスは何から引き起こされるのかっていえば、大なり小なり、そこには差別が働いてるってことでしょう。
かっこよければ徳をする。なんて、平気に話題として登場するけれど、言ってることは、白人だったら得をするって言ってることと変わんないんじゃないのかな。
小さい頃貧弱でいじめられてたのに、筋トレして逞しくなると誰もいじめなくなった。なんて、それは問題が解決されたわけじゃなく、人間は常に外見で差別を行っているってことを示してるだけなんだよね。
差別が、公然と職になると、タレントになっちゃうわけだ。
タレントって、「才能」って意味だよね。
なら、外見ではなく、その人間性、内面で判断されるべきなんじゃないかなあ、とか思って。
え?外見も、「才能」ですかあ。
じゃあ、やっぱり白人であることも才能ということになって、アパルトヘイトが正当化されちゃうことになるんじゃないのかなあ。
人間はきっと、どこかで差別と区別の境界線を作ってるんだろうなあ。あれは差別、これは区別っていう風に。
その境界線って、自分に影響が無いことは傍観者面していればいいわけだから、差別でも区別でもどっちでもいいんだろうね。
そして、自分に被害が伴って迫害を受けてたりなんかすると差別に対して、敏感になるんだろうし。
そして、そこまで差別にしちゃうと自分の生活が気を使いまくりで息苦しくなっちゃうよってことには、たとえそれが差別であっても区別と判断して、都合よく差別を隠蔽してるんだろうなあ。
そして、その隠蔽された影で、区別の名で差別された人々が、それが差別と気付かないままに迫害され、コンプレックスを抱えて、容姿でいえば、つまり、整形をするほどに重大な問題となってしまうんだろうね。
差別であることに気付かないってのは、問題だよね。だってそれは差別をされてる人もまた気付かずに同じ内容で誰かを差別してる可能性もあるわけなんだから。
黒人が黒人を軽蔑し白人に憧れるのは、黒人である自分が黒人を差別してるってことだものね。
僕は、差別したくないんで、やっぱり、人間性を重視したいなと思うのです。だから、タレントで誰が好み?って聞かれても、正直なところ、そのタレントの人となりを知らないので、答えられないよう。
ただ、演技力とかで、凄いなって思う人はいるけどね。
かっこいいとかわるいとか、美人とが美人じゃないとかっていうのと、色が白い、黒い、とかいうことの違いっていったいなんなんだろう?ってこと。
あの人はかっこいいから、美人だから好き。っていうのは、あの人は白人だから好きっていうのとどう違うのだろう?
なぜ、白人だったら好き、黒人だったら嫌い、という人は、差別する人として軽蔑されるのに、あの人はかっこいいから好き、という人は差別する人として軽蔑されず、やもするとかっこよさが商売になったり、その風袋がお笑いで話のネタになったりするのだろう。
人の容姿って生まれつき決まってる。黒か白かも生まれつき決まってる。
容姿は努力すればかっこよくなるんだよっていう意味と、努力すれば白くなるんだよっていう意味の違いってなんなんだろう?
髪型や服装を直せば少しはかっこよくなるよっていう人は、同じように黒人に白粉塗れば少しは白人に近づくよっていうんだろうか。いや、きっとそんなこという人を軽蔑するんだろうな。
じゃあ、その違いってなんなんだろうね。
マイケル・ジャクソンのように肌を白く変える人もいれば、整形で、生まれつきの顔を変える人もいる。その根底にあるのって、コンプレックスなんだろうな。
じゃあコンプレックスは何から引き起こされるのかっていえば、大なり小なり、そこには差別が働いてるってことでしょう。
かっこよければ徳をする。なんて、平気に話題として登場するけれど、言ってることは、白人だったら得をするって言ってることと変わんないんじゃないのかな。
小さい頃貧弱でいじめられてたのに、筋トレして逞しくなると誰もいじめなくなった。なんて、それは問題が解決されたわけじゃなく、人間は常に外見で差別を行っているってことを示してるだけなんだよね。
差別が、公然と職になると、タレントになっちゃうわけだ。
タレントって、「才能」って意味だよね。
なら、外見ではなく、その人間性、内面で判断されるべきなんじゃないかなあ、とか思って。
え?外見も、「才能」ですかあ。
じゃあ、やっぱり白人であることも才能ということになって、アパルトヘイトが正当化されちゃうことになるんじゃないのかなあ。
人間はきっと、どこかで差別と区別の境界線を作ってるんだろうなあ。あれは差別、これは区別っていう風に。
その境界線って、自分に影響が無いことは傍観者面していればいいわけだから、差別でも区別でもどっちでもいいんだろうね。
そして、自分に被害が伴って迫害を受けてたりなんかすると差別に対して、敏感になるんだろうし。
そして、そこまで差別にしちゃうと自分の生活が気を使いまくりで息苦しくなっちゃうよってことには、たとえそれが差別であっても区別と判断して、都合よく差別を隠蔽してるんだろうなあ。
そして、その隠蔽された影で、区別の名で差別された人々が、それが差別と気付かないままに迫害され、コンプレックスを抱えて、容姿でいえば、つまり、整形をするほどに重大な問題となってしまうんだろうね。
差別であることに気付かないってのは、問題だよね。だってそれは差別をされてる人もまた気付かずに同じ内容で誰かを差別してる可能性もあるわけなんだから。
黒人が黒人を軽蔑し白人に憧れるのは、黒人である自分が黒人を差別してるってことだものね。
僕は、差別したくないんで、やっぱり、人間性を重視したいなと思うのです。だから、タレントで誰が好み?って聞かれても、正直なところ、そのタレントの人となりを知らないので、答えられないよう。
ただ、演技力とかで、凄いなって思う人はいるけどね。
僕はネットをし始めて結構なるけど、ずっと傍観者だったわけであって、こんな風に日記を書いたり、障害の自助グループに入ったりと、パソコンという媒体で人と積極的にコミットしだしたのはこの二年間くらいのこと。
それ以前は、僕は常に一人だと思ってた。友達はいたけど、何かこう、ありのままの自分のまま入っていける関係性を求めてた。ネットという世界は、チャットや掲示板から知り合ったりする場合がほとんどだと思うけど、それはつまり、内面から知っていくということだと思う。そして、自分で自分をさらけ出せるコミュニティーをより詳細に選択できるし、自分を完全に偽るも、ありのままの自分でいるのもリアルな現実よりも自由が利く世界。まあ、それがネットに対する批判ともなっているわけだけれど、僕は、コミュニケーションの一つの可能性を示してくれていると、肯定的にとらえてる。それは僕自身がネットによって救われた一人だし、自分の考えをもっとも裸のまま披瀝できるのもこのネットという世界だからなんだ。
僕はこの世界でかけがえのない友人とたくさん出会い、こんな僕でも気にかけてくれる人がいると実感できた。僕はまだ存在していていいんだと、存在する価値があるんだと思うことができるようになった。
どの世界にも、心無い人はいるけど、僕はネットに、僕と同じように現実の世界でまとった衣服を脱いだ真実の姿をした人たちをたくさん見た。ネットでは、相手の姿は見えにくいけど、その代わりたくさんの心を見つけた。現実の世界よりもはっきりとしたその人の心が。
僕はその心に接し、助けられ、支えられている。
ありがとう。
友人たちに、感謝を込めて。
それ以前は、僕は常に一人だと思ってた。友達はいたけど、何かこう、ありのままの自分のまま入っていける関係性を求めてた。ネットという世界は、チャットや掲示板から知り合ったりする場合がほとんどだと思うけど、それはつまり、内面から知っていくということだと思う。そして、自分で自分をさらけ出せるコミュニティーをより詳細に選択できるし、自分を完全に偽るも、ありのままの自分でいるのもリアルな現実よりも自由が利く世界。まあ、それがネットに対する批判ともなっているわけだけれど、僕は、コミュニケーションの一つの可能性を示してくれていると、肯定的にとらえてる。それは僕自身がネットによって救われた一人だし、自分の考えをもっとも裸のまま披瀝できるのもこのネットという世界だからなんだ。
僕はこの世界でかけがえのない友人とたくさん出会い、こんな僕でも気にかけてくれる人がいると実感できた。僕はまだ存在していていいんだと、存在する価値があるんだと思うことができるようになった。
どの世界にも、心無い人はいるけど、僕はネットに、僕と同じように現実の世界でまとった衣服を脱いだ真実の姿をした人たちをたくさん見た。ネットでは、相手の姿は見えにくいけど、その代わりたくさんの心を見つけた。現実の世界よりもはっきりとしたその人の心が。
僕はその心に接し、助けられ、支えられている。
ありがとう。
友人たちに、感謝を込めて。
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メールのやり取りをしていた境界性人格障害の友人から、「キタム君に頼っていたら俺は永遠に自立できない気がする。受信拒否をしてくれ」と言われた。
今まで、いわば彼は僕に依存状態だった。その彼が僕にそんなことを言ってくるなんて思ってもいなかったから驚いた、そして動揺した。
僕との連絡を絶つことで、彼は感情を発散させる場所を無くす。彼ははたしてやっていけるのか?でもこのままでも彼は変われない。彼は一歩踏み出して、障害と戦おうとしているのかもしれないのに、僕はそのことに躊躇している。
自分の心を見つめる。
確かに彼を心配する気持ちはある、しかし何より僕が彼との連絡を躊躇しているのは、僕が彼に依存される状態に依存しているからだと気づいた。
今回の決断は、彼の前進であり、僕のリハビリでもあるのかもしれない。
今まで、いわば彼は僕に依存状態だった。その彼が僕にそんなことを言ってくるなんて思ってもいなかったから驚いた、そして動揺した。
僕との連絡を絶つことで、彼は感情を発散させる場所を無くす。彼ははたしてやっていけるのか?でもこのままでも彼は変われない。彼は一歩踏み出して、障害と戦おうとしているのかもしれないのに、僕はそのことに躊躇している。
自分の心を見つめる。
確かに彼を心配する気持ちはある、しかし何より僕が彼との連絡を躊躇しているのは、僕が彼に依存される状態に依存しているからだと気づいた。
今回の決断は、彼の前進であり、僕のリハビリでもあるのかもしれない。
人間関係にキャラはいらない。
2005年1月11日 僕の思ったこと コメント (4)こういう逸話がある。
ある病院に行ってうつ病と診断された患者に、医者が、「○○というお笑い芸人のテレビを見なさい、元気が出ますから」。
すると患者が、「先生、その○○が私なんです」・・・。
さて、お笑いブーム真っ盛りだが、お笑いはプロが人を笑わせるために作られた職人芸なわけで、当然そこには役割分担があってしかるべきだし、いわばお笑い官僚制とでもいうか、笑わせることにきわめて合理的な役割配分がなされているわけだけれど、これはいわば職業として作りこまれた人格。だから、当然、その日の気分で、キャラを変えることは許されない。それは、職場放棄を意味するからである。だから、ストレスもかかり、最初に述べたようなエピソードも生まれてきたりするわけだ。
だが、当然職業ではない筈の私的人間関係の場においても、キャラというものが存在する。いじられ役、いじり役、盛り上げ役、突っ込み役。そしてこのキャラというものが、人間関係というものを窮屈にしているのだと思う。キャラが一旦固定されると、相手は対象人物をそのキャラと認識をした対応をしてくる。もし、対象とされた人物がそのキャラ設定が不本意なものでも、まわりの期待に添わずして、違うキャラになったりすると、まわりは、「何だこいつ?」と興ざめしてしまったり腹を立てたりする。でも腹を立てることのほうがお門違いなのであるが。
そもそも人間は一つの人格のみ持ちうるわけではないのに、一つの人格を貫くことを強いられる中で、私的人間関係までもが職業的になり官僚化していっているのである。飲み会でいつも盛り上げる人がおとなしいと、みんな「どうした?」といい、いつもいじられている相手が、反発していじり返したら、場をわきまえない奴、みたいになってみんな憤慨する。
人間関係の中でもキャラの役を期待され、役を演じつづけないと人間関係を保てないのであれば、この世で自分でいられる場所はどこにもなくなってしまう。
僕は、高校三年のときに半年間強迫の真似を半分の男子にされ、その中には、僕が友達だと思っていた人間もいたわけだが、後年あって、そのときの僕の心境を述べたところ、友達はさも意外な顔をしながら、「あれはお前のキャラだろう?」という。
僕がいつそんなキャラを望んだ?あれは迫害以外の何ものでもないじゃないか!
高校を卒業をしようとしている年の人間の集団が、何の疑いもなく、恣意的なキャラ付けをおこない、その行為に疑いの念ももたない。キャラ付けは、人間関係を窮屈にするだけならまだしも、時として、人間の心をもズタズタにするのだ。
お互いにあって語らい、自分のままでいられ、安らげる。それが理想の人間関係ではないか?
人間は多面的な生き物である。
お笑い芸人は、客にわかりやすく見せるために、人間の一面ずつを切りとって役割分担し、誇張して見せているのである。お笑い芸人のキャラは現実の人間のほんの一面を写し取った鏡に過ぎない。
だから、画面の中で、汚れを演じているお笑いタレントは、それはいわば職業上の顔であり、私的生活において、その人物が汚れであるとか、気持ち悪いなどということはないのである。
だから、私的人間関係にキャラ付けはいらない。あの人は、ある時は場を盛り上げ、ある時は落ち着いている。あの人は人をいじるときもあればいじられるときもある。その時々によって人は様々な面をもつ。相手をキャラ付けして見なければ、どんな面をその人が出しても、その人として受け入れることができるはずだ。
ある病院に行ってうつ病と診断された患者に、医者が、「○○というお笑い芸人のテレビを見なさい、元気が出ますから」。
すると患者が、「先生、その○○が私なんです」・・・。
さて、お笑いブーム真っ盛りだが、お笑いはプロが人を笑わせるために作られた職人芸なわけで、当然そこには役割分担があってしかるべきだし、いわばお笑い官僚制とでもいうか、笑わせることにきわめて合理的な役割配分がなされているわけだけれど、これはいわば職業として作りこまれた人格。だから、当然、その日の気分で、キャラを変えることは許されない。それは、職場放棄を意味するからである。だから、ストレスもかかり、最初に述べたようなエピソードも生まれてきたりするわけだ。
だが、当然職業ではない筈の私的人間関係の場においても、キャラというものが存在する。いじられ役、いじり役、盛り上げ役、突っ込み役。そしてこのキャラというものが、人間関係というものを窮屈にしているのだと思う。キャラが一旦固定されると、相手は対象人物をそのキャラと認識をした対応をしてくる。もし、対象とされた人物がそのキャラ設定が不本意なものでも、まわりの期待に添わずして、違うキャラになったりすると、まわりは、「何だこいつ?」と興ざめしてしまったり腹を立てたりする。でも腹を立てることのほうがお門違いなのであるが。
そもそも人間は一つの人格のみ持ちうるわけではないのに、一つの人格を貫くことを強いられる中で、私的人間関係までもが職業的になり官僚化していっているのである。飲み会でいつも盛り上げる人がおとなしいと、みんな「どうした?」といい、いつもいじられている相手が、反発していじり返したら、場をわきまえない奴、みたいになってみんな憤慨する。
人間関係の中でもキャラの役を期待され、役を演じつづけないと人間関係を保てないのであれば、この世で自分でいられる場所はどこにもなくなってしまう。
僕は、高校三年のときに半年間強迫の真似を半分の男子にされ、その中には、僕が友達だと思っていた人間もいたわけだが、後年あって、そのときの僕の心境を述べたところ、友達はさも意外な顔をしながら、「あれはお前のキャラだろう?」という。
僕がいつそんなキャラを望んだ?あれは迫害以外の何ものでもないじゃないか!
高校を卒業をしようとしている年の人間の集団が、何の疑いもなく、恣意的なキャラ付けをおこない、その行為に疑いの念ももたない。キャラ付けは、人間関係を窮屈にするだけならまだしも、時として、人間の心をもズタズタにするのだ。
お互いにあって語らい、自分のままでいられ、安らげる。それが理想の人間関係ではないか?
人間は多面的な生き物である。
お笑い芸人は、客にわかりやすく見せるために、人間の一面ずつを切りとって役割分担し、誇張して見せているのである。お笑い芸人のキャラは現実の人間のほんの一面を写し取った鏡に過ぎない。
だから、画面の中で、汚れを演じているお笑いタレントは、それはいわば職業上の顔であり、私的生活において、その人物が汚れであるとか、気持ち悪いなどということはないのである。
だから、私的人間関係にキャラ付けはいらない。あの人は、ある時は場を盛り上げ、ある時は落ち着いている。あの人は人をいじるときもあればいじられるときもある。その時々によって人は様々な面をもつ。相手をキャラ付けして見なければ、どんな面をその人が出しても、その人として受け入れることができるはずだ。
僕もよく使う勉強という言葉、ほんとは使いたくないんだよね。
勉強って何だ?っと思ってるから。
辞書で引いてみると、「学問や技術を学ぶこと」ってある。
じゃあ、学問って何だ?って思うわけ。
だから今度は学問ってのを調べてみると、「一定の理論に基づいて体系化された知識と方法」ってある。哲学や史学や文学・社会科学・自然科学などの総称なんだって。
はて?とここで疑問に思う。
一定の理論に基づいて体系化された知識と方法なんて、上に述べたこと意外にもごまんとあるのに、なぜに上記の科目だけを学問と呼ぶのか?ということなのである。
だってそうじゃない。たとえばドラクエのクリアの仕方だって一定の理論に基づいて体系化された理論と方法といえるわけだし、文学があるなら、マンガ読むことだって学問ととらえることができるわけじゃない。
いったい僕たちは何を持って学問というものを規定しているのかってことなわけで。僕が思うに、この世のほとんどのものは体系化できると思っているので、そこから一定の知識や方法も導きだせるわけで、それを思えば、森羅万象の物事は学問として成立するわけなのだ。
よく、趣味は学問なんていう場合があるけど、この世のすべてのものが学問になるなら、この趣味は学問っていうのは成立しないわけで、なんとならば趣味は全部ですっていってるのと同じになっちゃうから。
趣味に学問が包含されるのじゃなくて、学問に趣味が包含されているというのが正しいんだと僕なんかは思うのだけど。
ただ、学問をどうしても一定の範囲の事物に限定したいなら、区別するために対概念というものが必要になってくるわけで、ひとつの可能性として、趣味と学問を対概念として成り立たせてみると、趣味は能動的な態度で摂取する知識や方法。学問は、受動的な態度で摂取する知識や方法。という風に選別できるわけで、この場合、自分が英語が好きで率先してやることが苦にならなければ、英語はもう学問ではなくて趣味ということになる。
まあ、これは学問を定義づける場合の一例だけど。
僕の立場としては、やはり、この世のすべての物事は学問だということなのでね。遊ぶにしても、その遊びのルールを覚えるために僕たちは学ぶわけで、考えたり、覚えたりしなきゃならないわけで、それはつまり学問なわけであって、僕たちは遊びを勉強してるといえる。
だから、まず前提として学問というこの世の体系化された方法や知識があり、その中で僕たちは好きになったものを趣味と呼び、楽しむことを遊びといってるんだと思う。
つまり、インテリなんて言葉は皆が嗜好しない珍しい学問を遊びとするマイノリティに対する差別用語であり、また、インテリと呼ばれうる人たちはマイノリティでありながら大衆という差別用語を他の人に当てはめる。その区別は単に何を嗜好しているか?の違いだけであり、どちらが頭がよいも悪いもないのである。ゲームに詳しい人がいたら、その部分に関して、他の人よりも彼は抜きん出て頭がいいといえるし、数学ができる人は、その部分において抜きん出ているというだけであって、数学ができる人の方が勉強ができるとか、頭がいいとかいうのはまったくないわけだ。
ただ、社会でどちらのほうが有用であるか、つまりマジョリティに対して、彼の持っている知識が必要とされる度合いに応じて、彼の知識に需要の差が生じ、需要が多いことが、それぞれの学問の付与価値となり、その学問の価値に対して人々のコンセンサスが生まれ、その価値が高いとされるにいたった学問を習熟しているものが勉強ができるとかいわれて、そこに価値意識の差別により階級化がなされるわけであり、本来なら何ら一人間としてはえらくない人間なんかが、社会の需要によって与えられた地位によって立派な人物なんてな特権意識が醸成されていくわけである。
知識人なんて人は、どの分野にもいるわけで、ゲームが詳しい人は、詳しくない人にとってはゲームの知識人であり、それはゲームを知らない人すべてに対してゲームの知識人として成立するのである。だから、朝まで生テレビに出ている知識人と呼ばれる人たちも、その分野に関してだけの知識人であり、社会の流行に対しては、女子高校生のほうが彼らよりもよほど知識人なのである。自分の知らないことをひとつでも知っている人がいたら、その時点で知らない人より知っている人のほうがその部分だけにおいては知識人といえるわけである。つまりこの世の中、みんな知識人であるから、知識人なんていう呼称は意味がないし必要ない。
頭がいいなんていう概念も、みんなに適応できるのだから、意味がない。そして、誰も彼も尊敬できる部分とできない部分を持ち合わせているので、人は自分が嗜好している部分に対してあの人は尊敬できるといえるだけで、すべてにおいて尊敬できる人などいない。
そして、いち人間としての価値で比較して、誰が誰よりも偉いということもいっさいない。
勉強しなきゃ、勉強してる、とかいう言葉を言ったりする場合、「えらいなあ」とか「すごいなあ」とかいう言葉が返ってくることもままあるけれど、何ら勉強することが偉いことではなく、凄いことでもなく、みんながそれぞれの物事でやっているのと同じことであり、偉いとか凄いとかいう人も、同様に偉く凄いのであり、ただ、それぞれが嗜好しないことを勉強しているから、自分が好きでないことを率先してやる姿が、偉く、凄く映るというだけの話なのである。
勉強って何だ?っと思ってるから。
辞書で引いてみると、「学問や技術を学ぶこと」ってある。
じゃあ、学問って何だ?って思うわけ。
だから今度は学問ってのを調べてみると、「一定の理論に基づいて体系化された知識と方法」ってある。哲学や史学や文学・社会科学・自然科学などの総称なんだって。
はて?とここで疑問に思う。
一定の理論に基づいて体系化された知識と方法なんて、上に述べたこと意外にもごまんとあるのに、なぜに上記の科目だけを学問と呼ぶのか?ということなのである。
だってそうじゃない。たとえばドラクエのクリアの仕方だって一定の理論に基づいて体系化された理論と方法といえるわけだし、文学があるなら、マンガ読むことだって学問ととらえることができるわけじゃない。
いったい僕たちは何を持って学問というものを規定しているのかってことなわけで。僕が思うに、この世のほとんどのものは体系化できると思っているので、そこから一定の知識や方法も導きだせるわけで、それを思えば、森羅万象の物事は学問として成立するわけなのだ。
よく、趣味は学問なんていう場合があるけど、この世のすべてのものが学問になるなら、この趣味は学問っていうのは成立しないわけで、なんとならば趣味は全部ですっていってるのと同じになっちゃうから。
趣味に学問が包含されるのじゃなくて、学問に趣味が包含されているというのが正しいんだと僕なんかは思うのだけど。
ただ、学問をどうしても一定の範囲の事物に限定したいなら、区別するために対概念というものが必要になってくるわけで、ひとつの可能性として、趣味と学問を対概念として成り立たせてみると、趣味は能動的な態度で摂取する知識や方法。学問は、受動的な態度で摂取する知識や方法。という風に選別できるわけで、この場合、自分が英語が好きで率先してやることが苦にならなければ、英語はもう学問ではなくて趣味ということになる。
まあ、これは学問を定義づける場合の一例だけど。
僕の立場としては、やはり、この世のすべての物事は学問だということなのでね。遊ぶにしても、その遊びのルールを覚えるために僕たちは学ぶわけで、考えたり、覚えたりしなきゃならないわけで、それはつまり学問なわけであって、僕たちは遊びを勉強してるといえる。
だから、まず前提として学問というこの世の体系化された方法や知識があり、その中で僕たちは好きになったものを趣味と呼び、楽しむことを遊びといってるんだと思う。
つまり、インテリなんて言葉は皆が嗜好しない珍しい学問を遊びとするマイノリティに対する差別用語であり、また、インテリと呼ばれうる人たちはマイノリティでありながら大衆という差別用語を他の人に当てはめる。その区別は単に何を嗜好しているか?の違いだけであり、どちらが頭がよいも悪いもないのである。ゲームに詳しい人がいたら、その部分に関して、他の人よりも彼は抜きん出て頭がいいといえるし、数学ができる人は、その部分において抜きん出ているというだけであって、数学ができる人の方が勉強ができるとか、頭がいいとかいうのはまったくないわけだ。
ただ、社会でどちらのほうが有用であるか、つまりマジョリティに対して、彼の持っている知識が必要とされる度合いに応じて、彼の知識に需要の差が生じ、需要が多いことが、それぞれの学問の付与価値となり、その学問の価値に対して人々のコンセンサスが生まれ、その価値が高いとされるにいたった学問を習熟しているものが勉強ができるとかいわれて、そこに価値意識の差別により階級化がなされるわけであり、本来なら何ら一人間としてはえらくない人間なんかが、社会の需要によって与えられた地位によって立派な人物なんてな特権意識が醸成されていくわけである。
知識人なんて人は、どの分野にもいるわけで、ゲームが詳しい人は、詳しくない人にとってはゲームの知識人であり、それはゲームを知らない人すべてに対してゲームの知識人として成立するのである。だから、朝まで生テレビに出ている知識人と呼ばれる人たちも、その分野に関してだけの知識人であり、社会の流行に対しては、女子高校生のほうが彼らよりもよほど知識人なのである。自分の知らないことをひとつでも知っている人がいたら、その時点で知らない人より知っている人のほうがその部分だけにおいては知識人といえるわけである。つまりこの世の中、みんな知識人であるから、知識人なんていう呼称は意味がないし必要ない。
頭がいいなんていう概念も、みんなに適応できるのだから、意味がない。そして、誰も彼も尊敬できる部分とできない部分を持ち合わせているので、人は自分が嗜好している部分に対してあの人は尊敬できるといえるだけで、すべてにおいて尊敬できる人などいない。
そして、いち人間としての価値で比較して、誰が誰よりも偉いということもいっさいない。
勉強しなきゃ、勉強してる、とかいう言葉を言ったりする場合、「えらいなあ」とか「すごいなあ」とかいう言葉が返ってくることもままあるけれど、何ら勉強することが偉いことではなく、凄いことでもなく、みんながそれぞれの物事でやっているのと同じことであり、偉いとか凄いとかいう人も、同様に偉く凄いのであり、ただ、それぞれが嗜好しないことを勉強しているから、自分が好きでないことを率先してやる姿が、偉く、凄く映るというだけの話なのである。
僕はいったい何をしてるのだ?ということなのである。
公務員を目指すという名目のうちに寝たいだけ寝て、読書に耽り、かれこれもう3年目。
自分の中でがむしゃらさというものがないことを、ともすれば、障害や鬱の影にしまいこんで言い訳をし、自身の心までもよく鑑みもせずに正当化してしまっているのではないか。という疑念が湧いてきて、果たして自分のがんばりががんばりと呼べるほどに精一杯のものであったのか?と自問自答してみたところ、そのような自己に対する闘争をほぼ放棄していたという結論に達することをごまかすことができないほどに自分は堕落しきっているとを認めざるをえないのである。
かかる態度は、闘うべき相手であり、また共存していかなければならない自分の障害に対しても、不遜な態度であるといえる。なぜなら僕は障害を治すために、戦っているという態度を闡明しつつ、その実、自分の都合の悪いときには障害というものに寄りかかり、味方に引き入れ行動を正当化するための盾としているのであるから。
つまり、自分ががんばっていると、そして障害と闘っていると偽りなくいえるためには、まさに字の如く自分の怠惰に常に闘いつづけていなければいけないのである。
怠惰に負けるときがあったとしても、闘う前から怠惰という誘惑に赴いてしまっている自分の態度に、がんばりという言葉を冠するのは、まことに適当でない。
もし今のまま偽りのがんばりに満足した自分でいれば、公務員になること以前に何ごとも成し遂げられぬであろう。
と思ったので、本当にがんばらなければと、自己の怠惰と戦おうと、休憩なしでできるまで勉強をがんばることにした。8時間で集中が切れた。しかし、8時間できた。やればできるじゃないか。自分はこの場において、8時間より後の怠惰に負けて勉強を止めたが、それは自分の怠惰という欲望と闘って力尽きたわけであるから、ここにおいて、初めて自分は真実でがんばった、といえるわけである。そしてそれは障害を言い訳にしない意味において、障害とも闘ったということであり、障害に対しても誠実な態度となりえるわけである。
8時間勉強できたという気力があるのに、安易に寝たいだけ寝ている現状が続く限り、僕は周りだけでなく僕自身に嘘をつきつづけてい分けである。怠惰と戦いつづけつことだけが、自己に正当性を付与できるのだ。がんばらねば。
公務員を目指すという名目のうちに寝たいだけ寝て、読書に耽り、かれこれもう3年目。
自分の中でがむしゃらさというものがないことを、ともすれば、障害や鬱の影にしまいこんで言い訳をし、自身の心までもよく鑑みもせずに正当化してしまっているのではないか。という疑念が湧いてきて、果たして自分のがんばりががんばりと呼べるほどに精一杯のものであったのか?と自問自答してみたところ、そのような自己に対する闘争をほぼ放棄していたという結論に達することをごまかすことができないほどに自分は堕落しきっているとを認めざるをえないのである。
かかる態度は、闘うべき相手であり、また共存していかなければならない自分の障害に対しても、不遜な態度であるといえる。なぜなら僕は障害を治すために、戦っているという態度を闡明しつつ、その実、自分の都合の悪いときには障害というものに寄りかかり、味方に引き入れ行動を正当化するための盾としているのであるから。
つまり、自分ががんばっていると、そして障害と闘っていると偽りなくいえるためには、まさに字の如く自分の怠惰に常に闘いつづけていなければいけないのである。
怠惰に負けるときがあったとしても、闘う前から怠惰という誘惑に赴いてしまっている自分の態度に、がんばりという言葉を冠するのは、まことに適当でない。
もし今のまま偽りのがんばりに満足した自分でいれば、公務員になること以前に何ごとも成し遂げられぬであろう。
と思ったので、本当にがんばらなければと、自己の怠惰と戦おうと、休憩なしでできるまで勉強をがんばることにした。8時間で集中が切れた。しかし、8時間できた。やればできるじゃないか。自分はこの場において、8時間より後の怠惰に負けて勉強を止めたが、それは自分の怠惰という欲望と闘って力尽きたわけであるから、ここにおいて、初めて自分は真実でがんばった、といえるわけである。そしてそれは障害を言い訳にしない意味において、障害とも闘ったということであり、障害に対しても誠実な態度となりえるわけである。
8時間勉強できたという気力があるのに、安易に寝たいだけ寝ている現状が続く限り、僕は周りだけでなく僕自身に嘘をつきつづけてい分けである。怠惰と戦いつづけつことだけが、自己に正当性を付与できるのだ。がんばらねば。
人間としての平等。
僕は区別と差別を分けている。
厳密な意味は違うのかもしれないけど、僕はこう捉えている。
区別は、肉体的な部分や、変えられない部分を考慮して、必然的な要請として分けられること。
差別は分ける必然性がないのに、何らかの権力や、慣習によって、外部の専断的な意志によって分けられているもの。
区別は、極力減らしたほうがいいが、あってはならないものではなく、社会の営みを円滑にするためには、また、一人一人人間は違うのだから、あるのは当然で仕方のないものだ。
だが、差別はあってはならない。
たとえば、彼は〜君で、彼女は〜さん。これは変えようがない。区別である。彼は男性で、彼女は女性、というのもそう。男性のほうが総体的に見て、肉体労働に向いている。というのも区別。
白人はここに住んでもいいが、黒人は駄目、というのは、白人の権力による明らかな差別。女性はこうでなければならない、男性はこうでなければならない、というのも差別。
ただ、差別と区別は流動的で、その時代によって移り変わる。
たとえば、大昔、労働が仕事としての大部分を占めていたころは、狩りや肉体労働が男性のほうが効率的であったことから、今でいう仕事は男性、女性は家事と育児、というのは、区別であった。
しかしそのような生物の本能的な慣習のまま人間が進化して、社会が形成されたことにより、差別が生まれてきた。当然法律は仕事の中から生まれ、男性の価値観が社会を形成する一般的常識として敷衍していく。そこに、男性の権力的による多くの差別が胚胎する。
だが、経済が発展していく中で、仕事の内容は、肉体労働だけではなくなる。サービス産業、第三次産業において、男女の能力格差は、基礎的学力を培った後においてはなくなる。その学力も、義務教育や福祉が充実することによって、今や、格差など皆無に等しい。こうした過程によって、女性は今や、守られる消極的な存在ではなく、自ら経済主体として社会に進出できる積極的な存在となりえるようになった。もはや、仕事においては男性の肉体的優位を誇示できる余地はないほどに職種の選択肢は増えている。
こうした現実の変化に対応することが出来ずに、制度と、価値観が未だに旧態依然としたまま差別として残っているのである。なぜ女性の総理大臣が出ないのか?なぜ、会社における女性の重役比率が圧倒的に低いのか?なぜ女性がお茶をくまなければならないのか?なぜ、世界の様々な競技において、その賞金に男女格差があるのか?
そして、なぜ、共働きの夫婦なのに、家事は女性が受け持たなければならないのか?
これらは、すべて差別である。現代においては、あってはならない差別なのである。
こう並べると、確かに僕は女性を擁護してるように映ってしまうかもしれない。だけど、僕はあくまで人間としての平等を求めているので、女性の優遇についても疑問に思うことはいくらでもある。
なぜ、レストランは、女性だけにサービスするのか?とか、レディーファーストは何ゆえか?とか、経済的な地位が確立された社会人としての男女同士のデートにおいて、男性がおごるべきという価値観が未だに根強くあることに対して、やはり同じように差別的な部分を感じるのだ。
ただ、文化と差別は相互に関連している場合が多く、そこが大変厄介なのだ。トラディショナルなものは、保守的であり、それがたとえ、偏見や差別から生まれたとしても、現在において、は文化として定着してしまっていれば、差別とは見なされない傾向にあるのだ。ただ、そういう価値観を無条件に受け入れることは、そこからはみ出た価値観に対する新たな差別を生み出す危険があるということを忘れてはならない。伝統的な価値観を自分が尊重するのは結構だが、そうではない人の価値観をむやみに差別化しないように心がけるべきである。
仮に、レディーファーストを実践しない男性がいたとしても、欧米のマナーにとっては差別的だと映るかもしれないが、それは、欧米の文化が生み出した差別が文化として根付いたがゆえのマナーであって、そこに合理性が見出されない限りは、一人間としてみた場合は、そのマナーのほうが差別であるという事実は揺るがず、その男性の価値観にはレディーファーストをしない人間が失礼だという観念はなく、女性が相手の態度に憤慨する場合は、相手の価値観を差別しているということになるわけである。
だから、我々は、価値観をよくよく吟味していくことが要請される。それを怠っている限り、この世から、偏見や差別はなくならないだろう。特に女性は男性が作り出した差別を文化として無条件に受け入れていることが多いので、それが果たして現代に即した価値観であるのかを見抜いていって欲しいと願っている。じゃないと、男性の決めた枠の中で、それと気づかずに、僕の母親のように虐げられ、出口の見えぬまま、もがき苦しむことになってしまう。
女性が家事をする時代ではない。これが僕の出した結論であり、世界の動向も今やその方向になりつつある。女性だけが育児をする時代でもない。日本だけが、結婚出産を機に女性の離職率が一気に高くなっている。男性が仕事をし、女性が家事をする場合においても、女性の家事は仕事として割り振るべきだ。聞くところによると、一ヶ月の家事を月収として換算してみると、38万円くらいになるそうだ。男性が食わしているという価値観は差別だ。女性の家事も無収入ではあるが、列記とした仕事であり、男性のもらう給料の半分は専業主婦の給料として割り当てられてしかるべきだ。
当然、仕事を怠けるものもいるから、家事を怠けるものもいるだろうが、半分が自分の給料として割り当てられるという観念が一般的な価値観として定着するなら、家事にもプロ意識がでるだろうし、男性も家事という職種に進出しよう選択するものがでてくるはずだ。といったことは僕の楽観論に過ぎないが、それが現実となることを説に願わずにいられない。
すべては、人間的平等のために。区別はあっても差別は根絶させるべき。
僕は区別と差別を分けている。
厳密な意味は違うのかもしれないけど、僕はこう捉えている。
区別は、肉体的な部分や、変えられない部分を考慮して、必然的な要請として分けられること。
差別は分ける必然性がないのに、何らかの権力や、慣習によって、外部の専断的な意志によって分けられているもの。
区別は、極力減らしたほうがいいが、あってはならないものではなく、社会の営みを円滑にするためには、また、一人一人人間は違うのだから、あるのは当然で仕方のないものだ。
だが、差別はあってはならない。
たとえば、彼は〜君で、彼女は〜さん。これは変えようがない。区別である。彼は男性で、彼女は女性、というのもそう。男性のほうが総体的に見て、肉体労働に向いている。というのも区別。
白人はここに住んでもいいが、黒人は駄目、というのは、白人の権力による明らかな差別。女性はこうでなければならない、男性はこうでなければならない、というのも差別。
ただ、差別と区別は流動的で、その時代によって移り変わる。
たとえば、大昔、労働が仕事としての大部分を占めていたころは、狩りや肉体労働が男性のほうが効率的であったことから、今でいう仕事は男性、女性は家事と育児、というのは、区別であった。
しかしそのような生物の本能的な慣習のまま人間が進化して、社会が形成されたことにより、差別が生まれてきた。当然法律は仕事の中から生まれ、男性の価値観が社会を形成する一般的常識として敷衍していく。そこに、男性の権力的による多くの差別が胚胎する。
だが、経済が発展していく中で、仕事の内容は、肉体労働だけではなくなる。サービス産業、第三次産業において、男女の能力格差は、基礎的学力を培った後においてはなくなる。その学力も、義務教育や福祉が充実することによって、今や、格差など皆無に等しい。こうした過程によって、女性は今や、守られる消極的な存在ではなく、自ら経済主体として社会に進出できる積極的な存在となりえるようになった。もはや、仕事においては男性の肉体的優位を誇示できる余地はないほどに職種の選択肢は増えている。
こうした現実の変化に対応することが出来ずに、制度と、価値観が未だに旧態依然としたまま差別として残っているのである。なぜ女性の総理大臣が出ないのか?なぜ、会社における女性の重役比率が圧倒的に低いのか?なぜ女性がお茶をくまなければならないのか?なぜ、世界の様々な競技において、その賞金に男女格差があるのか?
そして、なぜ、共働きの夫婦なのに、家事は女性が受け持たなければならないのか?
これらは、すべて差別である。現代においては、あってはならない差別なのである。
こう並べると、確かに僕は女性を擁護してるように映ってしまうかもしれない。だけど、僕はあくまで人間としての平等を求めているので、女性の優遇についても疑問に思うことはいくらでもある。
なぜ、レストランは、女性だけにサービスするのか?とか、レディーファーストは何ゆえか?とか、経済的な地位が確立された社会人としての男女同士のデートにおいて、男性がおごるべきという価値観が未だに根強くあることに対して、やはり同じように差別的な部分を感じるのだ。
ただ、文化と差別は相互に関連している場合が多く、そこが大変厄介なのだ。トラディショナルなものは、保守的であり、それがたとえ、偏見や差別から生まれたとしても、現在において、は文化として定着してしまっていれば、差別とは見なされない傾向にあるのだ。ただ、そういう価値観を無条件に受け入れることは、そこからはみ出た価値観に対する新たな差別を生み出す危険があるということを忘れてはならない。伝統的な価値観を自分が尊重するのは結構だが、そうではない人の価値観をむやみに差別化しないように心がけるべきである。
仮に、レディーファーストを実践しない男性がいたとしても、欧米のマナーにとっては差別的だと映るかもしれないが、それは、欧米の文化が生み出した差別が文化として根付いたがゆえのマナーであって、そこに合理性が見出されない限りは、一人間としてみた場合は、そのマナーのほうが差別であるという事実は揺るがず、その男性の価値観にはレディーファーストをしない人間が失礼だという観念はなく、女性が相手の態度に憤慨する場合は、相手の価値観を差別しているということになるわけである。
だから、我々は、価値観をよくよく吟味していくことが要請される。それを怠っている限り、この世から、偏見や差別はなくならないだろう。特に女性は男性が作り出した差別を文化として無条件に受け入れていることが多いので、それが果たして現代に即した価値観であるのかを見抜いていって欲しいと願っている。じゃないと、男性の決めた枠の中で、それと気づかずに、僕の母親のように虐げられ、出口の見えぬまま、もがき苦しむことになってしまう。
女性が家事をする時代ではない。これが僕の出した結論であり、世界の動向も今やその方向になりつつある。女性だけが育児をする時代でもない。日本だけが、結婚出産を機に女性の離職率が一気に高くなっている。男性が仕事をし、女性が家事をする場合においても、女性の家事は仕事として割り振るべきだ。聞くところによると、一ヶ月の家事を月収として換算してみると、38万円くらいになるそうだ。男性が食わしているという価値観は差別だ。女性の家事も無収入ではあるが、列記とした仕事であり、男性のもらう給料の半分は専業主婦の給料として割り当てられてしかるべきだ。
当然、仕事を怠けるものもいるから、家事を怠けるものもいるだろうが、半分が自分の給料として割り当てられるという観念が一般的な価値観として定着するなら、家事にもプロ意識がでるだろうし、男性も家事という職種に進出しよう選択するものがでてくるはずだ。といったことは僕の楽観論に過ぎないが、それが現実となることを説に願わずにいられない。
すべては、人間的平等のために。区別はあっても差別は根絶させるべき。
抑圧されたフェミニズム
2004年11月18日 僕の思ったこと母は自分では認めないが、ガチガチのフェミニストだ。
だから、ことごとくどんな物事も男性社会と結び付けてしまう。
しかし、そうなるのもわかる気がする。母と父は共働きなのに、父はパチンコに出かけ、家事育児は母親が一手に引き受けていた。
祖母とは何かと折り合いが悪く、それは祖母がやはり実子の父のほうをかばってしまうことにある。
母の性格は、長年そういう中で耐えてきたせいか、卑屈になって、どうせ自分なぞ、という感じになってる。その鬱憤が、最近爆発している感じだ。
積年の不満が、フェミニズム的な思考と結びついてしまったのだ。
つまり、母は、女性差別がはなはだしい時代から公務員として働いてきた中で女性の待遇に対して、不満を抱え、落ち着けるはずの家でも、自分を守ってくれるはずの家族もおらず、何よりも家庭を顧みない父を、男性の一般的典型と見なすようになってしまった。
そして、自分がこうであるのは、父のような一般男性の価値観が占める世の中のせいである、という結論に至った。
それが、反骨精神に向けばいいのだが、母の場合それが自己卑下という方向に向かってしまった。父や祖母と対決するのではなく、自分の不満を溜め込み、自分の殻にとじこもってしまった。
たとえ、自分を守るすべであったとしても、はたから見ると、その姿は非常に痛々しい。
人が何気なくいった言葉にも過剰に反応して、言葉の裏を探り、自分で、自分に悪い解釈をして、ますます、どうせ私が悪いのだ、とか、私がガマンすればいいんでしょ。みたいな考えになってしまう。
父とは対決しないが、それは小言となってあらわれる。
自分を少しづつ傷つけながらも、そん状態を保っているのは、対決することで、さらに事態が悪化することからの恐怖心である。
母もそれを自覚している。
僕の考えはというと母は父に対して、律儀に家事をするのではなくて、家事を一度放棄してみればいい、と思う。
しかし、母は自分にはそれをする勇気がないという。一歩踏み出すのはそれだけエネルギーを使う。その先に自己の解放が待っているとわかっていても、すでに母の考えは保守的になってしまって、どうにも変えられないところまで来ている。
僕はそんな母に楽になって欲しくて、どうにか、もっと大雑把になるように仕向けようと思っている。他人が何を言おうが、どうでもいい。という風に考えられれば、家事にしても、自分で決めたルールをきっちりしてしまうのではなくて、この程度でいいや、と思えるようになれば、どんなに母は救われることだろう。
そもそも、父と母が共働きなのに、母だけが家事をするというのがおかしいことぐらい、子供心に僕にもわかった。だから、僕も幼いころからフェミニズム的な思考が芽生えていたはずだし、まして母の育児で育った僕は他人から見れば、かなりのフェミニスト、に見えるのかもしれない。ただ、僕は女性の擁護を唱えるわけではない、あくまで、肉体的な差異を別とすれば、現代は男女間の確固とした能力的な差異なんてないという考えのもとから、男女ではなくいち人間として考えていくべきだと思っているだけだ。
だから、たまに人に「なぜ女性の肩ばかりを持つ?」と聞かれるが、けして女性の肩をもっているわけではなく、その部分が男性に対して女性のほうがどう見ても不平等だと思われるからだ。
逆に、男性の方が不平等だと感じれば僕は男性を擁護する。
全体的に女性の肩を持っているように見えるならば、それはまだ現実として、女性の不平等の方が多いからなのだろう。
閑話休題
とにかく母は、そんな不平等により自虐思考へ陥ってしまった。
だから、僕のほうから一歩を踏み出した。勇気を出して、母が避けたがっている問題の話をして母をその問題と対峙させた。
それよって母が傷つくことは僕も辛かったが、母を救うにはそれを乗り越えるしかなかった。何度か、泣きあって話し合った。
それは考えた通り、よい方向へと向かった。
僕は母の鬱憤を発散できる相手になりたかった。
僕が母と喧嘩をするときは、母が自分を溜め込んで、自虐思考に陥ってしまうときだ。僕はそうやって母が自分を傷つけるのが絶えられない。悲しくなるし、腹が立つ。
今、母は徐々に自分を解放させていると感じる。好きなことを積極的にしだしたし、まだまだ道は長いが、以前より、人生を楽しみだした。
母が僕に鬱憤を貯めず、正直な気持ちを話してくれるときが、何よりうれしい。
母にはこれからは、自分のために生きて欲しい。
だから、ことごとくどんな物事も男性社会と結び付けてしまう。
しかし、そうなるのもわかる気がする。母と父は共働きなのに、父はパチンコに出かけ、家事育児は母親が一手に引き受けていた。
祖母とは何かと折り合いが悪く、それは祖母がやはり実子の父のほうをかばってしまうことにある。
母の性格は、長年そういう中で耐えてきたせいか、卑屈になって、どうせ自分なぞ、という感じになってる。その鬱憤が、最近爆発している感じだ。
積年の不満が、フェミニズム的な思考と結びついてしまったのだ。
つまり、母は、女性差別がはなはだしい時代から公務員として働いてきた中で女性の待遇に対して、不満を抱え、落ち着けるはずの家でも、自分を守ってくれるはずの家族もおらず、何よりも家庭を顧みない父を、男性の一般的典型と見なすようになってしまった。
そして、自分がこうであるのは、父のような一般男性の価値観が占める世の中のせいである、という結論に至った。
それが、反骨精神に向けばいいのだが、母の場合それが自己卑下という方向に向かってしまった。父や祖母と対決するのではなく、自分の不満を溜め込み、自分の殻にとじこもってしまった。
たとえ、自分を守るすべであったとしても、はたから見ると、その姿は非常に痛々しい。
人が何気なくいった言葉にも過剰に反応して、言葉の裏を探り、自分で、自分に悪い解釈をして、ますます、どうせ私が悪いのだ、とか、私がガマンすればいいんでしょ。みたいな考えになってしまう。
父とは対決しないが、それは小言となってあらわれる。
自分を少しづつ傷つけながらも、そん状態を保っているのは、対決することで、さらに事態が悪化することからの恐怖心である。
母もそれを自覚している。
僕の考えはというと母は父に対して、律儀に家事をするのではなくて、家事を一度放棄してみればいい、と思う。
しかし、母は自分にはそれをする勇気がないという。一歩踏み出すのはそれだけエネルギーを使う。その先に自己の解放が待っているとわかっていても、すでに母の考えは保守的になってしまって、どうにも変えられないところまで来ている。
僕はそんな母に楽になって欲しくて、どうにか、もっと大雑把になるように仕向けようと思っている。他人が何を言おうが、どうでもいい。という風に考えられれば、家事にしても、自分で決めたルールをきっちりしてしまうのではなくて、この程度でいいや、と思えるようになれば、どんなに母は救われることだろう。
そもそも、父と母が共働きなのに、母だけが家事をするというのがおかしいことぐらい、子供心に僕にもわかった。だから、僕も幼いころからフェミニズム的な思考が芽生えていたはずだし、まして母の育児で育った僕は他人から見れば、かなりのフェミニスト、に見えるのかもしれない。ただ、僕は女性の擁護を唱えるわけではない、あくまで、肉体的な差異を別とすれば、現代は男女間の確固とした能力的な差異なんてないという考えのもとから、男女ではなくいち人間として考えていくべきだと思っているだけだ。
だから、たまに人に「なぜ女性の肩ばかりを持つ?」と聞かれるが、けして女性の肩をもっているわけではなく、その部分が男性に対して女性のほうがどう見ても不平等だと思われるからだ。
逆に、男性の方が不平等だと感じれば僕は男性を擁護する。
全体的に女性の肩を持っているように見えるならば、それはまだ現実として、女性の不平等の方が多いからなのだろう。
閑話休題
とにかく母は、そんな不平等により自虐思考へ陥ってしまった。
だから、僕のほうから一歩を踏み出した。勇気を出して、母が避けたがっている問題の話をして母をその問題と対峙させた。
それよって母が傷つくことは僕も辛かったが、母を救うにはそれを乗り越えるしかなかった。何度か、泣きあって話し合った。
それは考えた通り、よい方向へと向かった。
僕は母の鬱憤を発散できる相手になりたかった。
僕が母と喧嘩をするときは、母が自分を溜め込んで、自虐思考に陥ってしまうときだ。僕はそうやって母が自分を傷つけるのが絶えられない。悲しくなるし、腹が立つ。
今、母は徐々に自分を解放させていると感じる。好きなことを積極的にしだしたし、まだまだ道は長いが、以前より、人生を楽しみだした。
母が僕に鬱憤を貯めず、正直な気持ちを話してくれるときが、何よりうれしい。
母にはこれからは、自分のために生きて欲しい。
僕は誰かに必要とされたい。必要とされることで、自分の存在が確かめられる。安心する。
しかし、自分が必要とされていると実感するためには、何らかの他の人との扱いに差異化がみられないとわかりえない。
差異化が図られるとは、卑俗な言い方をすれば、特別扱いをされるということである。いかに心に強い信念を抱いていたとしても、相対的に判断しえる確信がなければ、人間は脆い。
君が必要なんだ。君が誰よりも大切なんだといわれたい欲求は、僕の中に厳然と巣食い、そして時に不全感という姿に変わって、心を蝕む。
一方で、僕は必要とされない立場も知っている。必要とされない辛さ。自分の存在価値が揺らぐ。そしてそれもまた、相対的に差異化という形で、視覚化されたときには、よりその傷を深くする。
だから、僕は平等に固執してしまう。
皆に平等に接することが出来れば、誰も傷つかないのじゃないかといった思いを捨てられずにいる。
自分の中に、特別扱いされたい自分と、そんな自分に嫌悪し、平等を求める自分がいる。
平等である限り、見捨てられることはない。だが、必要とされているという確信をもつための他者との差異化がないため、不全感も埋まらない。
特別扱いをされれば、必要とされている確信を差異化によって確認でき、不全感は収まる。しかし、それは自分が不平等を是認しているということになり、自分が必要とされている一方で、僕よりも必要とされていない人があらわれることを認め、その人が傷つく代償として、自分の幸福を得るということになる。
そもそも、アイデンティティを他者の対応に求めてしまうということが原因なのだが、人間は多かれ少なかれ他者に寄りかかって生きている。
全き孤独の中でも平然としていられる人間など、そんなに多いものではない。当然、僕も耐えられない。つまり、人は、どこかで、他者の反応により、自己の存在を確かめているといっていいと思う。
人間は結局利己主義に堕する。そういいきってしまうことは僕にできない。しかし、自分が納得しなくとも、特別扱いを求めれば、客観的に、そう判断せざるを得なくなる。
だから、僕は、平等と、不全感の狭間で身動きが取れなくなる。
片方を充足させれば、片方が僕を苦しめる。
自分の幸せを求めることは、すなわち自分を包含した人間の善の限界を露呈させることになってしまうからだ。
しかし、自分が必要とされていると実感するためには、何らかの他の人との扱いに差異化がみられないとわかりえない。
差異化が図られるとは、卑俗な言い方をすれば、特別扱いをされるということである。いかに心に強い信念を抱いていたとしても、相対的に判断しえる確信がなければ、人間は脆い。
君が必要なんだ。君が誰よりも大切なんだといわれたい欲求は、僕の中に厳然と巣食い、そして時に不全感という姿に変わって、心を蝕む。
一方で、僕は必要とされない立場も知っている。必要とされない辛さ。自分の存在価値が揺らぐ。そしてそれもまた、相対的に差異化という形で、視覚化されたときには、よりその傷を深くする。
だから、僕は平等に固執してしまう。
皆に平等に接することが出来れば、誰も傷つかないのじゃないかといった思いを捨てられずにいる。
自分の中に、特別扱いされたい自分と、そんな自分に嫌悪し、平等を求める自分がいる。
平等である限り、見捨てられることはない。だが、必要とされているという確信をもつための他者との差異化がないため、不全感も埋まらない。
特別扱いをされれば、必要とされている確信を差異化によって確認でき、不全感は収まる。しかし、それは自分が不平等を是認しているということになり、自分が必要とされている一方で、僕よりも必要とされていない人があらわれることを認め、その人が傷つく代償として、自分の幸福を得るということになる。
そもそも、アイデンティティを他者の対応に求めてしまうということが原因なのだが、人間は多かれ少なかれ他者に寄りかかって生きている。
全き孤独の中でも平然としていられる人間など、そんなに多いものではない。当然、僕も耐えられない。つまり、人は、どこかで、他者の反応により、自己の存在を確かめているといっていいと思う。
人間は結局利己主義に堕する。そういいきってしまうことは僕にできない。しかし、自分が納得しなくとも、特別扱いを求めれば、客観的に、そう判断せざるを得なくなる。
だから、僕は、平等と、不全感の狭間で身動きが取れなくなる。
片方を充足させれば、片方が僕を苦しめる。
自分の幸せを求めることは、すなわち自分を包含した人間の善の限界を露呈させることになってしまうからだ。
人間に対してロマンチズムを抱く場合、どうしても社会主義というものは理想的に映る部分があり、多かれ少なかれ左翼的になってしまう部分を否定は出来ないだろう。だから僕も心情的には左翼ということになるのかもしれない。
僕は、どんな人も傷つくべきではないし、平等であるべきだと思っている。
だから、人の価値観を否定はしたくない。
しかし、人の価値観を受け入れるとなると、人を傷付けてもかまわないとする人の価値観をも受け入れなければならなくなり、それを否定すると、そこに差別が生じ、平等ではなくなる。かといって否定しなければ、その人によって他の人が傷つくことになり、そこに差別が生まれ、やはり平等ではなくなる。
このジレンマを打破するために、多くの独裁者は、自分の価値観と近づけるために、はたまた、人間間の差異を極力なくすように勤めることになって、そして、弾圧、虐殺、言論封鎖なんてことになり、独裁者は専制者に変わってしまう。そして、理想はいつしか、正反対の、もっともその独裁者が嫌悪していた差別を自ら胚胎させることになる。
ああ、パラドックス。
人間が全員、聖人君子であれば、神であれば、過ちを犯さない哲人であれば、みんなの価値を受け入れ、且つ差別も生み出さず、誰も傷つかないという世の中も可能だろう。でも実際にはそんなこと不可能だ。
ああ、人間は度し難いなあ。
僕は、どんな人も傷つくべきではないし、平等であるべきだと思っている。
だから、人の価値観を否定はしたくない。
しかし、人の価値観を受け入れるとなると、人を傷付けてもかまわないとする人の価値観をも受け入れなければならなくなり、それを否定すると、そこに差別が生じ、平等ではなくなる。かといって否定しなければ、その人によって他の人が傷つくことになり、そこに差別が生まれ、やはり平等ではなくなる。
このジレンマを打破するために、多くの独裁者は、自分の価値観と近づけるために、はたまた、人間間の差異を極力なくすように勤めることになって、そして、弾圧、虐殺、言論封鎖なんてことになり、独裁者は専制者に変わってしまう。そして、理想はいつしか、正反対の、もっともその独裁者が嫌悪していた差別を自ら胚胎させることになる。
ああ、パラドックス。
人間が全員、聖人君子であれば、神であれば、過ちを犯さない哲人であれば、みんなの価値を受け入れ、且つ差別も生み出さず、誰も傷つかないという世の中も可能だろう。でも実際にはそんなこと不可能だ。
ああ、人間は度し難いなあ。
社交辞令ほど傷つくことはない。
社交辞令ほど卑劣なことはない。
まだ双方が社交辞令だと認識しているならまだしも、片方はほんとの約束だと思ったときのショックは、何よりも大きいと思う。
「今度バッティングセンターにいこう」
「今度一緒にテニスをしよう」
そんなことを自分のほうから言っといて、僕が何度誘ってもいくことはない。なぜ?と聞くと「たまたま誘ったときが都合悪かった」と言う。
かといって都合の悪くないときに自分のほうから行こうとも言ってこない。
結局その約束は二度と履行されることはない。
僕は何よりも正直を尊ぶ。
たとえ、僕の考えと正反対のものであっても、嘘をつくよりは正直にそれを言ってくれる人のほうがよっぽど信頼が置ける。
友達という社交辞令。
あたかも君は友達、という顔をしておきながら、中で選り好みをする。
皆で集まるときに、友達であるはずの僕は呼ばれることはない。誰も僕の名前を出さない。
それは僕を呼びたくないから。呼びたくないのに友達?
いや、それは友達じゃない。友達という表現の社交辞令に過ぎない。
そして、そのことがばれた時にはきまって取り繕う。
あくまで、最後まで自分はそんな事をする人間ではないという善人の仮面をかぶる。
そんな人に比べれば、善人であろうと努力している悪人のほうが、遥かに善人である。
テニスをしたくないなら最初から言わなければいい。
バッティングセンターに行く気がないのに、なぜ自分のほうからそんなことをいったんだ?
友達だといわれながら、差別されるくらいなら、嫌いだといわれたほうが全然マシだ。
もう一度言う、僕は何よりも正直を尊ぶ。
飲み会に誘わなかったときは、正直に「お前は〜君とはあわないと思ったから誘わなかった」とか、「この飲み会はお前にあわないと思った」と正直に言えばいい。
色んな理由で取り繕うのではなくて、正直に、「テニスをするのはめんどくさい」といえばいい。
正直であるということは、それだけ、自分の言葉や態度に責任を伴う。
だから、人は、正直な心を巧みに隠し、責任を回避する社交辞令を使うんだろう。責任をとらないでいい場所にいれば、外見上は悪人には見えないからだ。
しかし、責任をとらない以上、その人はどんなによい人に見えようと、絶対に善人であることはない。そして、善人になることもない。
「確かにあの時、僕は君を誘いたくなくて、誘わなかった。それは君の〜の部分が受け入れられなかったからなんだ。許してくれ」
「バッティングセンターに行こうという気力がわかなかった。そのうちにその約束がどうでもよくなってしまったんだ。確かに君に対して怠惰な態度だった」
上のように、自分の言動に責任をもち、しっかり正直な気持ちを述べ、責任を果たすものは、結果悪人に見えたとしても、本心において、善人であり、又、そもそも社交辞令に陥ることもないだろう。
正直であるには、自分の心の弱い部分とも対峙し、その部分を認めていかなければならない。認めるということは自分の問題を把握できるということである。把握できるということは、その問題に対処し、克服も出来るということである。自分の怠惰な心を超克する、約束を果たしていく。つまり、自分の悪を受け止め、責任をもつことで、善人にもなりえるの可能性があるのである。
社交辞令ほど卑劣なことはない。
まだ双方が社交辞令だと認識しているならまだしも、片方はほんとの約束だと思ったときのショックは、何よりも大きいと思う。
「今度バッティングセンターにいこう」
「今度一緒にテニスをしよう」
そんなことを自分のほうから言っといて、僕が何度誘ってもいくことはない。なぜ?と聞くと「たまたま誘ったときが都合悪かった」と言う。
かといって都合の悪くないときに自分のほうから行こうとも言ってこない。
結局その約束は二度と履行されることはない。
僕は何よりも正直を尊ぶ。
たとえ、僕の考えと正反対のものであっても、嘘をつくよりは正直にそれを言ってくれる人のほうがよっぽど信頼が置ける。
友達という社交辞令。
あたかも君は友達、という顔をしておきながら、中で選り好みをする。
皆で集まるときに、友達であるはずの僕は呼ばれることはない。誰も僕の名前を出さない。
それは僕を呼びたくないから。呼びたくないのに友達?
いや、それは友達じゃない。友達という表現の社交辞令に過ぎない。
そして、そのことがばれた時にはきまって取り繕う。
あくまで、最後まで自分はそんな事をする人間ではないという善人の仮面をかぶる。
そんな人に比べれば、善人であろうと努力している悪人のほうが、遥かに善人である。
テニスをしたくないなら最初から言わなければいい。
バッティングセンターに行く気がないのに、なぜ自分のほうからそんなことをいったんだ?
友達だといわれながら、差別されるくらいなら、嫌いだといわれたほうが全然マシだ。
もう一度言う、僕は何よりも正直を尊ぶ。
飲み会に誘わなかったときは、正直に「お前は〜君とはあわないと思ったから誘わなかった」とか、「この飲み会はお前にあわないと思った」と正直に言えばいい。
色んな理由で取り繕うのではなくて、正直に、「テニスをするのはめんどくさい」といえばいい。
正直であるということは、それだけ、自分の言葉や態度に責任を伴う。
だから、人は、正直な心を巧みに隠し、責任を回避する社交辞令を使うんだろう。責任をとらないでいい場所にいれば、外見上は悪人には見えないからだ。
しかし、責任をとらない以上、その人はどんなによい人に見えようと、絶対に善人であることはない。そして、善人になることもない。
「確かにあの時、僕は君を誘いたくなくて、誘わなかった。それは君の〜の部分が受け入れられなかったからなんだ。許してくれ」
「バッティングセンターに行こうという気力がわかなかった。そのうちにその約束がどうでもよくなってしまったんだ。確かに君に対して怠惰な態度だった」
上のように、自分の言動に責任をもち、しっかり正直な気持ちを述べ、責任を果たすものは、結果悪人に見えたとしても、本心において、善人であり、又、そもそも社交辞令に陥ることもないだろう。
正直であるには、自分の心の弱い部分とも対峙し、その部分を認めていかなければならない。認めるということは自分の問題を把握できるということである。把握できるということは、その問題に対処し、克服も出来るということである。自分の怠惰な心を超克する、約束を果たしていく。つまり、自分の悪を受け止め、責任をもつことで、善人にもなりえるの可能性があるのである。