他人の不幸は蜜の味、なんていうけど、僕はこの感覚は人間には当然あるんだろうなあと、否定する気持ちはない。
多かれ少なかれ、今のバラエティー番組とかでも、そういった部分が含まれていて、それで成立してるといった番組も少なくはない。

僕にもそういう気持ちはあった。でもよくよく考えてみると、それは、いわば、自分の存在に何らかの優越性を付与して、安心感を得たかったんじゃないかなあと思う。

ただ、ある日を境に自分は最低な人間だと思うようになった。自分が最低であることを受け入れたからなんだと思うけど、他人が幸せであることを妬まなくなった。

だから、その日を境に、他人の不幸を見るのが辛くなった。他人の不幸を見ると、以前の自分を思い出してしまう。それは自分が辛いことでもあるし、同時に、他人が今、僕があの時味わった苦しみを抱えていると考えると、居たたまれなくなる。

そういった理由で、バラエティみたいな番組も、細かな部分(他人の粗を探したり、不幸をネタにする)が目に付いて、純粋に見れなくなってしまった。

自分が不幸な時に、他人の不幸を求めて、それを見てざまあみろっていう風に思える人は、はたまた無邪気に笑える人は、まだ不幸じゃないんだと思う。本当に辛いことがあって傷ついた痛みがわかる人なら、他人の痛みで否応なく自分の痛みを思い出してしまうんじゃないかな。

それってすごい利己的な理由かもしれないけど、それによって変われたのだとしたら、僕はよかったと思う。

何をするにしても他人の痛みを考えて行動するのは、色んな制約(モラル)が生まれてきて、苦しかったり、それが元で他人との齟齬が生まれたりして苦労したりするけど、それは自分を守るためでもある。
そう考えると、やっぱり自分可愛さなのかなあって嫌悪感が襲ってきたりするんだけれど。

今は、人が幸せになるのを見るのが好きだ。皆が幸せになってくれればいいと思う。そして願わくば、その幸せを少しだけ分けてもらいたい。できることなら、他人の幸せに何らかの形で寄与したいなあとも思う。

人が幸せになっていくことが、僕の人生の幸せになる。
死んで楽になりたいってよく聞くけど、ほんとに楽になるのかなあ?
しんで生き返れる人なんているわけないし、死にかかった人ならいるけど死んだ後のことを知ってる人なんて、実際にはいないんだから、死んだらどうなるのかわかんないってのが実際だよね。

わかってるのは、死にかかった人たちは、意識が飛ぶ瞬間に、脳内から、ドーパミンだかなんだか、快感物質が大量に出てきて、限りない恍惚感が襲ってくるということだけ。

だから、死んだ後、楽になるという保証はどこにもない。ただ、今の苦しみから逃れられる(かもしれない)ということに希望を託して、死んだら楽になる、なんて言葉が使われるんだと思う。

でももしかしたら、死んだら、今よりももっともっと痛かったり苦しかったりするかもしれないよね。そうじゃないかもしれないけ、どっちのが可能性があるかなんてのはわかんない話だから。死にたいってことは、人は無条件に死後は楽になれると考えているところにあるんだろうね。
死後がわかんないから、人は色々好き勝手に死後の世界を考えて、それが宗教と結びついたりなんかもしたわけだけど、地獄があったり、天国があったり、はたまた何もないといってみたり。
たとえば、宗教によっては、自殺をすると地獄にいてしまうっていう風になってて、それはそれで自殺の抑止力になったりなんかもするわけなんだけど、まあ、全部、結局は人間の都合のよい解釈でしかないんだよね。
そもそも感覚がこの生きてる世にしかないと考えるのも人間の勝手な解釈であって、じつは死後の世界の感覚が本物で、今感じてるのはただの幻想に過ぎないとか、実は、死後は、今の何倍も痛覚が発達してたり、悩み苦しみ続けたりするのかもしれない。せっかく今の苦しみから逃れたのに、更なる苦しみになっちゃったら、アジャパーだもんね。
しかも今度は逃れられなかったりさ。もちろんずっと楽しいとか、心地よいとかの場合もあるわけで。

もし死後の世界が今よりもっと苦しくて、死んだらみんなそんな苦しみを味わうかもしれないのなら、今くらいの苦しみでも、生きつづけたほうがまだましなんて考えもできてしまうわけであって。

とまあ、そんなわけで、死んだら実際どうなるかわかんないんで、恐いんで、痛いのは苦しいのは嫌なんで、安全志向の僕は、今んとこ自分からは死なないことに決めてます。
僕は、誰かに頼み事をされたとき、いつもこれは自分の勉強であってやるべきことなんだと思うようにしている。
何かをしてあげる、なんて考えると、そこに何らかの犠牲の精神、耐える精神なんてものが混入してくる。どうしてもそうとしか思えない頼みごともないとはいわないけど、ほとんどのことは、自分の成長のための勉強、って概念に置き換えることができると思う。自分がするべきことなんだって考えると、率先してしたくもなるし、自分の時間が削られても苦にならないと思う。敷衍して考えれば、ボランティアだって、犠牲の精神だけじゃ限界がきちゃうもんね。マザーテレサは、貧しい人に自分は本来の人間のあるべき姿を教えてもらってるという精神で活動してた。僕も、みんなを先生と思い、自分は何らかのことを学んでいく生徒だと思えるような人間になっていきたい。それが一番自分にとっては苦しくなくて、且つ人間的な成長をなさしめる最良の姿だと思うのだ。
自分が学べて、成長できて、そして、結果として人の力にもなり喜んでもらえたら、それ以上の自分にとっての喜びってないんじゃないかなあと思うんだよね。

だから、「何で僕が〜しなきゃならない」とか「僕が〜してあげてるのに」っていったような妙な自尊心は、頼みごとに正当な理由のないときや、悪意にもとずく時のような、よっぽど理不尽な場合以外には、抱く必要のないものだと思う。

見返りを期待しても悪いことではないけれど、見返りを求めて何かをしてあげるってんじゃ、本末転倒だもんね。見返りがないからといって、憤慨したり残念がったりする必要はないのだ。
言うは易し、ってね、僕もできてるわけではないけれど。

ジャイアニズムのひねくれ版っていうか、「友達の悩みは俺の悩み」みたいに思えたらいいよね。
僕は理想の一割も実行できてない。
だから、せめて思いを口に出すようにしてる。
そう、偽善者なんだ。
僕の言葉は空虚だよ。
言葉の多くは虚しいものさ。
でもね、そんな言葉でも、ごくまれに、実行を凌駕するほど人を元気付けることがある。
僕は、自分の理想と実行が伴わない偽善者だけど、そんな偽善者の発する言葉にも、口に出してれば、助けになったり、希望のきっかけになったりするかもしれない。
そう、偽善には善も含まれる。だけど、偽善を嫌い開き直った悪には善は含まれないんだ。
だから、僕は開き直るよりは偽善でいたい。
もちろん一番は理想と実行が伴うこと。僕はそうなるために偽善を実行することで善に変えていく努力をしなきゃならない。
努力はするけど、でもいつ全ての「偽」を取り払えるかなんてわかんない。一生かかっても無理かもしれない。
だから、僕はせめて僕の思う人間の理想を口にする。
偽善者でありつづけることは、善者になれない僕のせめてもの罪滅ぼしなんだ。

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体重 62.6?
体脂肪 30%
中傷からは何も生まれないし、何の解決ももたらしてはくれない。

自分の一時の感情の発散はできても、代償として、相手との溝はますます深まるばかり。

人間関係を営む限り、価値観や思考の違いから、さまざまな摩擦が生まれるのは当然の話だが、その摩擦に対して、問題の本質を指摘するのではなく、中傷しても、なんにもならない。

矛盾や、疑問を提起することと、中傷とを混同してはいけない。
そこには明確な違いがある。矛盾や疑問は、ある人がその人のある一部分に対して、価値観のずれによる齟齬の解決を目指して、何らかの説明を求める行為であるのに対して、中傷は、ある人が、その人のある部分に対しての疑問をそのままその人の人間性へと転化し、建設的な解決をないがしろにして、その人の全体を非難するという行為である。

たとえば、この違いが明確に区別できるならば、ある問題について激しい議論を展開したあとにおいても、その相手とまた何の分け隔てもなく接することができる。
しかし、この区別ができない場合、議論で言い合ったことに対して、その意見の齟齬をあたかも自分が中傷されたかのように誤解して、議論が終わったその後においても、相手に対して、怒りや怨念や敵対心を抱くことになる。

では、中傷とはいったいなんなのか?
僕は、たとえば、「バカ」、「まぬけ」、「キモイ」、「死ね」などの言葉を中傷と解している。

これらの言葉は総じて具体がなく、抽象的に相手を否定する。
たとえば、「こうこうこういった部分において、こうこうこういった理由から、あなたのこの部分は間が抜けているように思われる」と言うならわかるが、「こうだから、お前は間抜けだ」と言ってしまっては、真意はともかく、字義上は、ある部分だけの問題で、その人全体が間抜けであるような印象を免れない。

誰が何の格好をしていようと、どんな趣味があろうと、その人について公言するのであれば、中傷は、偏見や差別になる。
その人の趣味や思考が、自分とあわなくても、それはその人が「キモイ」わけではないのだ。

確かに公共の場に不適切な格好やしぐさになる場合もある。そのときも、中傷するのではなく、この場には不適切だと思う旨を伝えてあげればいいだけの話だ。
「バカ」や、「キモイ」などと言っても、何の改善も生まれない。その人に、不適切だと自分が思う部分を伝え、改善への手助けをしてあげればいいだけの話だ。

ムカツクと言って、無視したり、迫害を加えたりするのはなぜか?そこに快感を見出している人は、すでにして犯罪者と何ら変わることのない罪を犯している。
その人に不満があるなら、その人に対して、どういうところを治したらいいと自分は思うかを率直に述べてあげればいい。そして、そのことについて、議論すればいい。
その人に、不満な部分があるからと言って、その人の人間性を全て否定し、排他してよい根拠にはならない。

言葉は繊細でそれ自体に重要な意味をもっている。安易に使ってはならない。十分に留意が必要だ。その努力は、言葉を使うわれわれの義務であるはずだ。

中傷は、人間と人間との関係を崩すネガティブな作用しかもたない。
差別を憎み、偏見を嫌い、平和を願う人間ならば、使う必要のない言葉なはずだ。
言ってはならないこと、陰口。

これは中傷よりもなおたちが悪い。なぜなら、中傷は、された当人と言った者の間だけで完結する。

しかし、陰口は、憎悪の連鎖を招く。
陰口を聞いた人が陰口を言われた人を知らない場合はまだ救いがある。しかし、陰口を言われた人を、その陰口を聞く人も知っていた場合、憎悪は形をもって連鎖する。これは一種の情報操作。情報の一方通行から来るマインドコントロールである。

たとえばある問題が起こり、双方が喧嘩する。もしくは一方が片方に不満を持つ。
そこにある種の憎悪が生まれる。しかし、その憎悪はまだ当人間の問題でしかない。
もし一方が、まったく、そういった状況を知らない知人に陰口を言うとする。すると聞かされたほうは、憎悪をもっている人物が言った情報だけがインプットされ、それ以降、陰口の対象人物を無意識的にもそういった目で見ることになる。
そうすると、その人の何気ない行動やしぐさにも、その陰口のイメージがついて回り、穿った見方をしてしまうようになる。
今までは、なんとも思わなかったその人の行動が、なんだか、ほんとに腹の立つことに思え、その人に対する、憎悪が生まれる。
これが、憎悪の連鎖である。

こうやって憎悪の連鎖が広まっていった結果、陰口を言われた人物は、「嫌われ者」という烙印を押されてしまう。
差別、いじめ、全てに、この憎悪の連鎖が関係していると思う。

僕は、人を心配して相談したことも、第三者を介すると、その人を結果的に傷つけてしまうこともあるということを学んだ。

ならば、陰口などはもってのほかである。その人の不満を語ることも、してはならないのだと思う。
自分の感情の捌け口に第三者を巻き込み、憎悪を連鎖させることは卑劣であり、あってはならない。
第三者とその憎悪の対象人物が親密になるかもしれない根を摘んでしまう権利は誰にもないのだ。

喧嘩も不満も、その当人同士だけの問題にとどめるべきだ。
だから、どんなに辛くても、問題や不満は直接当人同士が話し合い解決しなければならないと思う。

もし話し合うのが辛いときは、僕は、人物を特定できるような形を取らず、人間への疑問を問い掛けるという形で示唆することにしている。そして、その疑問を気づいてくれることを願うのだ。
これなら、憎悪は連鎖していかない。
しかし、もっとも確実なのは、やはり、勇気を出して当人同士が話し合うことなのである。

やむなく第三者を介するのであれば、第三者は、片方から話を聞いただけで行動するのではなく、双方の言い分を聞き吟味しなければならない。何かの解決の力になろうとする場合も、片方の言い分だけで、状況を断定してしまってはならない。

「羅生門」という映画がある、この映画では、死人までもが自分に都合の良い見解を述べるという人間の業のあさましさが描かれている。

どんな人間も、そこに憎悪が混じっているのであれば、第三者に伝えるとき、無意識にも、自分に有利な解釈をしてしまうものだ。
つまり第三者は、いわば裁判官なのである。双方の言い分から、問題を照らし合わせていく努力が必要だし、その中の双方の憎悪を見抜き極力排除し、真実のみを追究していかなければならない。それをしないのであれば、他人の問題に耳を傾けるべきではない。

さて、中傷は、何の解決ももたらさない。
つまり、一番最悪なのは、中傷でもって陰口をすることである。
人間が信じられない?
人間は必ず裏切るものだって?

何をすさんでやがるんだ。
何絶望に浸ってやがるんだ。

お前がそんなこと言えた義理かよ。
お前だって、さんざん人を裏切ってきたじゃねえか。
人から信じてもらえないようなこともいっぱいしてきたじゃねえか。

そんなお前が、自分だけ無実な顔して、人が信じられないだの、裏切るものだの、ニヒリストぶりやがって。

お前はいったい何様だよ。うぬぼれるのもいいかげんにしろ。
いいか、そんなこという権利ないんだよ。お前という人間だって、沢山の人を傷つけてきたんだよ。
お前はそのことを今まで考えてきたのかよ?お前は償ってきたのかよ?

お前はそんなこと気づかずに平平凡凡と暮らしてきたんだよ。お前は、それに対する努力をしてこなかったんだよ。
そんなお前はたとえ裏切られても文句いえねーんだよ。
人を信じないでいい権利なんてねーんだよ。

人が信じられない?
じゃあまずお前が人から信じられる人間になってみろよ。

人は裏切るもの?
じゃあ、まずお前が人を裏切らないように努力してみろっつーの。

お前がもしそういう人間になってみろよ。
そしたら、ほら、いるじゃねえか。
お前だって人間なんだぜ。人間は信じられるってことになるじゃねーか。人間にも裏ぎらねーやつはいるっててめえの身で実証できるじゃねーか。

ろくでなしのお前ができたとしたら、他にも沢山そんな奴はいるって話よ。

もしそんな人間になれなくても、でくの坊のお前でも努力はできてんだから、そういう人間になるために努力してる奴なんざあ、ごまんといるってことよ。

絶望に浸ってる暇があるんだったら、そういう人間になる努力をしてみろっての。自分の身で自分のヨワッチイ心を論破してみろっての。

いいかキタム、お前は人を信じないでいいような身分じゃないんだよ。人を信じつづけろ。どんなことがあっても人間不信と戦い続けろ。

お前が人を心の底から信じつづけることができるなら、お前のことを心のそこから信じてくれる人もどこかに絶対いるってことなんだから。
僕はやさしくなりたい。

でも、そのやさしさは、相手の弱さを受け入れるというよりも、その人の持つ隠れた強さを後押しするものでありたい。

その人が頑張っていて、挫けそうなときにもう十分だというやさしさと、まだやれると叱咤し力になろうとするやさしさ。
両方ともやさしさには違いはないけれど、後者の、その人の強さを引き出そうとするやさしさには、その先に克己・克服といった本当の強さを付与してくれる。つまり、成長がある。その人の将来においても力になろうとするためにあえて、厳しいことも言ったりする。だからその分だけ、やさしさの度が強いと思う。

やさしさってあいまいで、見分けがつきにくいから、本当のやさしさとは何かを見極めなきゃならない。
相手が間違いを間違いのまま受け入れるのは、やさしさじゃない。確かに、その場の雰囲気は良くなり、問題が解決されたような雰囲気が醸成されるかもしれない。しかし、それはやさしさの仮面をかぶったまやかしに過ぎない。やさしさを掛けたと思ったほうは、自分が感謝される状況に耽溺し、良いことをやったと思い込む。しかし、実際は、やさしさをかけられたほうは、同じ問題が出来したときにまた同じ間違いを犯しつづける。
本当のやさしさとは、自己犠牲の精神無くしてはありえないのだと思う。つまり、自分のことを度外視して、相手の為を思えること。自分がたとえその人から嫌われようが、四面楚歌になろうが、真実を述べ、その人の力になろうとすることだ。

それは、弱さを撥ね付けるということではない。その人の弱さを受け入れ、しかし、受け入れただけではとどまらず、共に問題解決へと、その弱さと戦っていこうとすることだ。
仮に嫌われて、共に戦っていくことができなくなっても、自分の言ったことが、いつか将来、その人の考える糧になってくれる可能性を遺すことはできる。いつまでもその人と一緒にいたとて、言わなければ可能性は残らない。
その場の雰囲気だけを求めて、その人の根本は見ない姿勢と、いざとなれば、その人の根本に対峙する姿勢。前者は、その人の刹那の人生の一断片だけ取り繕うことをやさしさと解する。後者は、その人のこれからの人生全体への力となろうとする。
少なくとも、僕が理想とするやさしさ、そして、友情とは、後者であるのだ。

僕はそういったやさしさをもった人物になりたい。
そうなるためにはまず、自分が強くならなければならない。自分を省みない覚悟と勇気がもてるか。

僕はまだ持てていない。長い道のりになりそうだ。
自分の中の弱さと戦う。
自分の弱さを乗り越えたとき、そのとき初めて本当のやさしさでもって人と接することができるのだと思う。

葛藤

2004年8月31日 僕の思ったこと
この日記に、僕の思ったことをそのまま書くか書かないかで葛藤している。お気に入りに登録してくれている人も増えたし、その他にみてくれている人もいると思う。

ここには、普段僕が考えているけれども、普段僕があまり会話とかでは言わないことを書いていこうと思ってる。

だけど、おそらく、僕が考えていることを書いていくと、僕とネットを通じて仲良くなってくれた人の中にも、また現実の友人の中にとっても、快く思わない内容になることもあると思う。

一人一人、価値観が違うから、それはあって当然だと思う。だけれども、やっぱり恐れてしまう。僕がこの日記に書いた内容ゆえに嫌われてしまうことを。

僕はよく、僕にとっての人間の理想を日記に書く。それは、まわりの皆に向けてってのもあるけど、自分自身がそれらのことを守れていないから自分への問いかけの意味も含まれている。

そりゃあ、いろんな人とのやり取りがそのことを考えるきっかけになることはある。だからといって、僕はその人に向けてだけ問い掛けているわけでも、ましてや非難したり、そのことだけでその人の人間性を全否定してしまったりは決してしない。

つまり、僕のスタンスは、日記にかかれる意見が人それぞれ違ったとしても、それだけでその人を嫌ったり怒ったりする理由にはならないってことなんだけど、まさに僕が恐れているのは、価値観が人それぞれであるなら、僕が書いたことを自分のことと受け取ってしまったり、意見の違いにより、僕を嫌ってしまったりする人も必ずいるだろうってことなのだ。

確かに僕にとっての人間の理想像を書いてるわけだから、そこには普遍的な善への追求と符合する部分も出てくると思う。当然人間は完全じゃないわけだから、理想を歌い上げること自体が、人間の不完全性や矛盾への糾弾という形にもなるわけである。

概して、人間は欠点を指摘されると怒る。ここらへんのなぜ怒るのかってことは、また後日書きたいのだけども、とにかく、怒る人もいる。

つまり、僕の日記に書いていることを自分に向けてかかれているというように思われて、そこから、生産的な思考をたどることなく、怒りへと直結されてしまったら、誤解の始まりだ。きっと僕は嫌われてしまうんだろう。

でも、好き好んで嫌われたいと思う人間なんているだろうか?
僕はできることなら誰からも嫌われたくない(理想論に過ぎるが)。
だから、僕は、皆がこういった人間になったら皆今より仲良くやっていけるんじゃないかっていう僕が考えた人間像を書いて、考えてもらいたいわけなのであって、そこには、今の社会に見られる不条理や矛盾を糾弾する部分が出てくるのは当然であって、しからば読んでくれる人たちにとっても結果的に矛盾を突いたり、糾弾してるという形を取ることになる部分も出てくるのはしょうがないわけであって、当然その中には、僕に対する糾弾も含まれているわけなのである。

そして、僕だけでなく皆ができるだけ人を嫌いにならないように願うからこそ、自分の考えを嫌われても書いていくことが、必要なことじゃないかって思う。嫌われたくないから、理想を書く。そして書いて嫌われる。でもそこを乗り越えなきゃいけないんだろう。

でもやっぱり嫌われたくないから、皆に問い掛けたくても、問い掛けなかったことや、先延ばしにしてきたこともある。
これからは、勇気出して書いていきたいなあ。
それで嫌われちゃったら、悲しいけれど、しょうがないのかなあ。

日記に書いていることは僕の紛れもない一部分である。
願わくば、僕のこの日記に自分の意見と違うこと書かれていても、皆さん嫌わないでくださいね(苦笑)。
「憲法対論」の中で、自明性の暴力という表現が、印象に残った。

つまり、たとえば「オタク」という言葉を使うことが暴力なのではなく、「オタク」という言葉自体に、一般的な自明の暴力が含まれている。ということである。

これはフェミニズムから生まれてきた概念だけれど、確かに、僕たちは言葉自体の自明性に支配されている暴力を野放しにしているきらいはあると思う。

自分が「ゲイ」であるということを、人前で言うことがはばかられるのは、まさに、「ゲイ」であることをタブー視するというわれわれの自明性がなさしめている。

ただ、今現在だんだんとその垣根は低くなっている、というか、まだら模様になってきてると宮台氏は言う。
つまり、われわれの中にも、それ自体を「暴力」という自明性を持たないものとして捉える人が出てきているということである。
だから、そういう人に、思い切って、自分はゲイだ、と告白したとしても、その人は「だから?」ということになる。

その人は、ゲイをタブー視することはなく、ゲイでもいいじゃん。また、オタクでもいいじゃん。とそれ自体に暴力性をもたないのである。

それは歓迎すべきことだけれど、やはり今はまだまだら状態というべきで、相対的に自明性の暴力が支配している割合のほうが高いだろう。

フェミニズムの運動で、たとえば、ポルノグラフィーに対して、女性に対する暴力だという自明性が支配しているわけである。だから、ポルノは違法である。というのがフェミニストの一部が主張することである。

これが、女性の性の解放が進み、女性向けポルノグラフィーが男性向けと同じ割合で市場に出回るようになり、女性はポルノを見てはならない、という自明性の束縛がなくなれば、おそらくそれ自体の暴力性は消滅するのだろう。

もしくは、男性むけポルノグラフィーを全面的に規制して、今の女性と同じ立場に男性の状況を持っていくことでも、自明性の暴力はなくならないが、その男女間の差別は解消するわけである。

後者はまずもってありえない話だけど。

とにかく、今、厄介なのは、その言葉自体の自明性の暴力に支配されている人といない人がまだら的に存在しているため、その使い分けを状況に応じて求められるということである。
まあ、常識だけども、約束って、それが履行できないのであれば、相手が事に足を突っ込む前に、その旨を伝えなければならない。

逆にいえば、約束を白紙に戻さなければならないことに正統な理由があり、相手がそのことを実行に移していないうちであれば、信頼を失うことなく約束を取り消すことができるということである。

相手がその約束事を実行に移した後ならば、約束を履行できなかった片方は、どんなに正統な理由があろうと、担保としての信頼を失いたくないのであれば、何らかの補填をおこなわなければならない。

それは、履行できなかった状況の説明責任と、その理由が、自分が非を伴うものかどうかを相手と共に検証していくことである。
当然、たんなる感情の変化などの利己的な理由は、正統な理由とならないし、他に約束を履行できる可能性があったにもかかわらず、それを見逃していた場合も自己の過失として非を免れない。

もし履行できない恐れのある場合は、事前にその恐れの可能性を相手に認証させておくなどの処置も必要だろう。
なお、相手がことを実行するとは、その準備もまた含まれると解するべきであり、非を認めた場合には、素直に謝まらなければならない。
しかし、自分が約束を破った側だからといって、自分の言い分を述べずに全てを非として謝る必要はない。自分に非があったとされる部分をお互いに吟味し見極めて、その部分において非を認めれば事足りる。そのためにも、理由を説明、そして自分の考えを述べることはぜひとも必要だし、それをしないのは更なる無責任なのである。

約束を破られたほうにも求められる態度というものがある。それは安易な感情に流される前に相手の言い分をきき、お互いに検証していくという行為を行うことである。問答無用などいうのは、たんなる自分の有利な立場を利用し相手に服従を強いる暴挙であり、戦勝国は戦争犯罪までも免除される、という理屈と変わらない。その際、理由を説明しようとする相手の言い分を弁解などという穿った解釈は、するべきでない。そこに、なんの真実味もないこじ付けの理論であった場合に、初めて弁解という言葉を使うべきであり、弁解である理由を相手に論証しない限りその弁解という定義づけもまた詭弁でしかなくなる。約束を破られた側が最もやってはならないことは、相手が信頼を回復しようとする行為に、まったく耳を傾けないということだ。

約束一つにとっても、これだけの(おそらくこれ以上の)マナーが存在し、それを怠るということがすなわち信頼の上にあぐらをかくということである。
約束とは、相手の信用・信頼を担保にして行われる。

当然破れば、担保にしていたぶんの信頼は失われる。

信頼の担保の場合特殊なのは、担保にする信頼の度合いを、約束する相手側が決めて、こっちはその度合いを推量はできても確かな度合いを知ることはできないということである。

普通、親密であればあるだけ、相手に担保する信頼の度合いは多くなる。だからこそ、重要な他の人に知られたくないようなことも、その人には言えたりするわけだ。

だから、友人だから、これくらいの約束は破ってもかまわないという考えは、間違いである。
友人だからこそ、些細な約束であれ、相手は全信頼を担保にしているかもしれないからだ。

約束を破ってもかまわないと考え、友情の上にあぐらをかき続けるという怠惰な態度をとっているうちに、相手に対する自分の信頼は底をついていた、なんてことになる。このような信頼に対する過信は、明らかに信頼に対する解釈の履き違えである。
親密なもの同士が、はたから取るに足らないと思われる約束の破綻で、一転犬猿の仲になったりするのは、この信頼に対する解釈の履き違えによって起こるのだ。

信頼は、強固な壁なのではなくて、常に削られる、資本なのである。
なぜなら、本来信頼とは、「約束を守る」という意味も包含されているのであり、また約束を根拠付けるバックグラウンドであるべきものだからだ。
約束が守られないのに、信頼は変わらず存立する、と考えることは矛盾を生じるのだ。

約束を破ったとき、常に信頼が友情の補填として足りうると考えるのは、逆説として、自分の信頼が相手にとってそれほど大きくないといっているようなものだ。相手が自分にとってかけがえのない友だと思うなら、むしろ、約束は破ってはいけないのである。

これが、僕の考える約束の拘束力に対する正当性である。
男遊び、女遊び、という言葉に抵抗がある。

この言葉には、男「と」遊ぶ、女「と」遊ぶではなく、男「を」遊ぶ、女「を」遊ぶ、というニュアンスが含まれているように思えるからだ。

そこには、相手の感情というものが含まれず、単なる刹那の遊び道具、物としての視点しか感じられない。

だから、『〜「を」遊ぶ』の立場では、関係性が崩れることを『捨てる』って言うんだと思う。

では、「と」の面からこの『捨てる』に対応する言葉があるとすれば、『別れる』となるだろうか。しかし、『別れる』という言葉のその前提としての言葉は、「遊ぶ」ではなく、「付き合う」であるはずだ。ということは、『〜「を」遊ぶ』に対応する言葉は、『〜「と」遊ぶ』ではなく、『〜「と」付き合う』となるのは必然といえそうだ。

纏めると

『〜「を」遊ぶ』⇔『〜「と」付き合う』
  ↓        ↓
『捨てる』   ⇔『別れる』

となるわけだ。

では、『〜「と」遊ぶ』という言い方は、どういう場合使われるかといえば、おそらく、お互いが、『〜「を」遊ぶ』という認識で一致している場合、もしくは、友達間、ということになろうか。
肉体関係、いな、肉体関係が例えなかったにしろ、異性間に何か特別な関係性がもたれた場合、持ったほうは、「遊ぶ」という表現は決して使わないだろう。そして、それを恋愛感情とか何とか呼ぶことになるんだと思う。

だから、相手の感情を考慮に入れない『〜「を」遊ぶ』の立場にたつ限り、向こうも同様の思惑ならばうまく事が運びもしようが、向こうが、人間としての対等な『〜「と」付き合う』の関係性を求めていた場合、その関係性が崩れた場合「と」の者は深く傷つくことになるだろう。

男遊び、女遊びをする人々は、すなわち、図らずも相手の人間を家畜化、玩具化、人間性の搾取、どういっても良いが、自分の欲望によって人の感情を度外視するという小規模の専制君主となっているといえるんじゃあないだろうか。

友達

2004年7月13日 僕の思ったこと
ずっと以前のことだ。
友達間でチェーンメールが送られてきた。

「・・・このメールを友達5人に〜時までに送らないと、あなたに不吉なことが起こる」

といったような文面だった。
僕は、深く考えずに、面白おかしく、ある友達に送った。
そして、反応を予想して、楽しみにしていた。しかし、友達は、僕の予想していた反応とは違い、怒っていた。

友達は、僕の行為は間違いであると、非難の言葉を述べた。
そのときになっては初めて、僕は冷静に物事の成り行きについて目を向けた。全面的に僕に非があった。友達の言うことは真っ当だった。

僕は、友達だからといって、そのようなメールを送った自分を恥じた。そして、躊躇なく、自分の考えを述べてくれた友達に深く感謝した。感謝と共に、僕はこんな友達を持てて、なんて幸せなんだと思った。

自分の意見を隠さず述べてくれて、そして、過ちを指摘してくれる友達。本当の友達だと思った。

たとえ、お互いの考えが異なろうと、意見を戦わそうと、それはその場、そのことだけ。お互いが依然友達なことに変わりはない。いや、おそらくはもっと強い絆で結ばれた友達になる。

意見をあわすばかりが友達ではない。まして自分の非を受け入れてくれる者が友達だろうか?
正直な心と心で対峙しあうのこそ本当の友達ではないのか。だから、本当の友情には隠し事など存在しない。こう思うのは、あまりにも理想論にすぎるのだろうか?

僕は、友達が僕を友達だと思ってくれたからこそ、真剣に注意してくれたその誠意に、正直な自分の気持ちを返すという誠意で応えた。

僕は、自分の非を友達に謝罪し、そして感謝の意を述べた。

プライドは正直な心をゆがめる。プライドの多くは無益なものだ。
もし高校時代の僕なら、そのような自尊心にかられ、自分のこの恥の感情や、自分の非を隠すために反駁し、友達との仲も裂け、自分も、冷静に物事を見つめ、訂正し、成長するということもなく、同じ過ちを犯しつづけたことだろう。

確かに僕はあの時、遊びの連帯感情の中で自分の感覚を麻痺させ、過ちを犯した。
だがしかし、友達の言葉に、無益なプライドからくる怒りではなく、素直に自分の非を認め、友達に感謝の気持ちを持てるようになった、その部分。。その部分に関してのみは、自分の成長を感じ、少しだけ、ほんの少しだけ自分を、誇らしく思った。
僕は、警察や、教師ってのは、単なる職であってはならないと思う。そういった職に就く者は他の職種よりも、より人格的な資格を問われてしかるべきだと思う。

最近、警察内でのいじめにより、自殺した人がいたよね。本来取り締まる立場の人間が、そんなことやってるんだもんね。しかも、そのやり口も稚拙だよね。まず人間として、大人としても、成熟してないよね。

僕が高校時代のテニス部の副顧問の先生に、僕が中島みゆきの歌が好きだといったら、その先生「中島みゆきを聞くやつは暗いんだぞ」なんていってるの。僕はこんな人が先生やってるかと思うと、大変情けなくなったね。僕の中で先生ってのは、決してそういった偏見によって物事を見る人ではないと思ってただけに、ショックだった。
こういった先生が、戦争はいかん、差別はいかんなんていってる時点で、偽善だよね。だって自分も中島みゆきを聞いてる人を差別してるじゃん。

ただ自分の担当の科目が教えられればそれで先生になるのか。マックスウェーバーはそうだって言ってるけど、まあ、大学ならそれはまだわかる。義務教育じゃないから。その先生の授業を選択しない自由があるもんね。
ただ、小、中、そしておそらくは高までの学校ではやはり教師として、より高い倫理性を求められるべきなんじゃないかな。自分の行動に対する矛盾に常に気をつけておかないとね。
特に小学校なんて、一人がほとんどの授業を教えるわけなんだから、そこには、人間性の教育も当然含有されているわけでしょう。

平気で、人を仲間はずれにしたり、自分の感情のみで相手を見下したり、よくそのものを吟味もせずに、あしざまに罵ったりするものは、教師となる資格はないと思う。そういったことに、嫌悪ではなくて快感をえていることに疑問をもたないとしたら、そんな人間に教育を施されるなんて怖いことだもんね。

教師になる人は並べて人格者であれ、とまでは言わないけれど、そうあろうとする努力を怠らない人じゃないといけないとは思うよ。

某友人の日記に先生間の確執が書いてあった。影で、一生懸命やっている人を「きもい」呼ばわりする人間が、どうして、人にものを教える立場になれようか。教師たるもの、そんな無意味な中傷なんてものは、言っちゃあいけないんだよ。
「和して同ぜず」・・・意見が同じならば他人と協調するが、おもねって妥協することはない。

この言葉が好きだ。座右の銘といってもいい。
だが、この言葉のとおりにやると現在では、社会的にも人間的にも抹殺される。これを行動に移していた人が、公務員学校の講師でいたのだが、僕はものすごく尊敬していたが、生徒からの評判は悪く、翌年解雇された。

だから、総ての面にこの言葉を当てはめるのは、正しいことではないと思う。では、どういう場面でこの言葉を戒めとするべきか。
それは、自己の核心に対して妥協を迫られたときである。

妥協というものは決して不必要なものではない。人間は村・国・社会を形成する過程ですでにして自然状態を放棄して、社会契約という妥協を行っている。

つまり、瑣末なこと、自己の人間性を決められてしまうような核心の変革を求められるようなこと以外には、僕は自説を曲げて、妥協するのはあっていいと思う。

ただ、自分が決して間違っていないと思い、また、自分に落ち度が見出せなければ、その部分は決して妥協するするつもりはない。

前回のこととも関連するが、なぜならその核心こそがこの「僕」を作っているからだ。それを安易に妥協することは僕のアイデンティティが崩壊してしまう(このアイデンティティという言葉にも最近懐疑的ではあるが)ことを意味する。もちろん、徹底的に話し合い、その自己の核心に潜む矛盾を白日の下にさらされ、自己の過ちを認識せざるを得なくなれば、そのときの変革は、新たなる核心の誕生として受け入れるべきものではあるが。

だから、僕の矛盾を突いてくれる言葉は大歓迎である。そうやって核心に対する確信が完全ではないことがわかれば、新たなる、そしてさらに強固な核心=より成長した自己、への萌芽となってくれるから。

核心への矛盾を指摘された場合、一見、自己の存在価値を否定されたように見えることから、腹が立ったりするが、落ち着いてみてみれば、それはむしろ上記の理由から感謝すべきことなのである。
僕は言葉というものは種類がいくつかあるのだと思っている。

少なくとも二つはある。

ひとつは、思考を伝える言葉であり、もうひとつは、伝える技術としての言葉である。

僕は、人によって、言葉使いを変える。
これは、その人に最も伝わりやすい、そしてコミュニケーションをとりやすい会話の形というものがあるからだ。
俺ともいう場合があれば、僕ともいう場合がある。
個人的な好みはもちろんあって、僕の理想は、昭和初期のような、学友の中にも、礼節を重んずるような言葉遣い。それに、「俺」というより「僕」というほうが好きだ。

だけど、よほどの理由がない限り、僕は言葉遣いを変えることに抵抗は感じない。なぜなら、それは、単に技術の話でしかないからだ。
相手にもっとも伝わる言葉を使うことが、なにより、自分の心情を伝えるには適切だし、それは、「八方美人」にはならない。

僕は、「人がら」とは、話し方ではなく、その話す節々の内容に現れると考えている。
「八方美人」と言われる人は、話し方は変わらずとも、接する人によって180度話す内容や、信念、思考が変わってしまう人のことを言うんだと思う。人におもねり、信念を場所によって変えていく。信念とは個性を形成する基底だと考えている。信念を持たぬ人は自己不在の変幻自在なカメレオンなのだ。

コミュニケーションが複数人となったときに齟齬が生まれるのは、どちらの種類の言葉からか、言わずもがなである。

ですます調の言葉を使うもの同士が、ため口をききあうものよりも仲が深くないなどという理屈は全く根拠がない。

話し方が変わっても話す内容が一貫していればよい。
僕は人によって言葉遣いは変えるが、「八方美人」にはなりたくない。
何かを誰かに紹介する場合、紹介する人が最も伝いたい部分が伝わるように演出が施される。これは、総てのことに当てはまるが、もっとも顕著な形で見て取れるのは当然メディアにおいてだろう。たとえ事実を伝えることを主眼に置いた報道においても、その局の色というものが明確に現れる。それは、物事を多面的に捉えるのには役立つだろう。そして、そのものの本質を捉える手段としての技術というのが演出の利点でもある。
しかしながら、演出というものは、当然独善的になりがちであり、そこには受け取る側のリテラシーも要求されるわけである。

演出に潜む危険とは、時として、その伝える対象ではなくその演出的な状況が気づかぬうちに主体となってしまうことにある。対象の不在である。アメリカの行動に対しての報道も国が違えば正義にも悪にもなる。
対象の不在とは、対象の本質の不在のことである。では、アメリカの行動の本質とは何なのか?それはその人の取るアメリカに対するポジションによって変わってくるわけであり、本当の意味で、それの正誤を判断はしえないところである。
ただ、その人の取っているアメリカに行動に対する本質の解釈が、報道いかんによってころころと変わってしまうことに危険があるのだ。それはいわばリテラシーの欠如を意味するわけである。しかし、本人はそのことに気づかずに、漫然と演出を受け取っているという状態は、安易にマインドコントロールという操作をされえる状態にあるともいえる。

さて、政治などの問題の場合は、それ専門の知識がある程度要求されるので、本質不在の状況に陥ることもやむをえないといえばやむをえない。ではもっとわれわれに身近な問題ではどうだろうか。

僕がふと気づいたのは、バラエティーで使われる対象と、NHKなどのドキュメントで使われる対象が同一のものである場合である。そして、同じ対象を扱っているのにもかかわらず、受けとっいる同一人物が、バラエティーでは笑い、ドキュメントでは泣いている場合である。同じ問題や、同じ対象物に対して、その人が番組という状況いかんによって、泣くかと思えば笑いもする。これこそまさに、対象が不在な状況といえる。そして、対象ではなく状況がその人の感情の変化の主体へと転化しているのだ。
つまり、その人がその対象物に対して持っている固定的な本質などというものが存在していないのか、もしくはこれほど脆くも変化しえるものだということを暗に示している。

たとえばの話し、僕も抱えている強迫性障害を、あるお笑いバラエティーで笑う人がいる。その人が、障害というものの本質を、軽蔑的なものと捉えている場合、いたって、健全な反応であるといえる。ならば、その人は、強迫性障害のドキュメントなど、吐いて捨て、感動など微塵もしないであろう。逆に、ドキュメントで涙した人なら、そのバラエティーを嫌悪感を持って眺めるに違いない。これが、本質に対するポジションというものであり、自分の意見となり、リテラシーの根拠となる。

僕は、本質は定義できないといったが、それでもそのものの本質にある一定の範疇を設けることはできると考えている。それはそのものの矛盾を論理的に突き詰める作業を要するのだが、そうした中で見えてくるある一定の人間的感情にのっとった普遍性。というものがそれである。
そのような普遍性の観点から、ある程度は、善悪の正誤の判断はつくものだ。
そして、その作業を行うことが、受け手側の求められるリテラシーである。
ある番組をみているとき、見ている観客全員がひとつの感情で埋め尽くされるというのは、壮観であるが、一方でゾッとするほど恐ろしい。もしその埋め尽くされた感情に埋没して抹殺されるであろう存在に、そういった状況に疑義を呈する人物が一人もいないというのは、その延長線上に全体主義を感じずにいられない。
そして、問題はその対象そのものも、状況に飲み込まれる場合があるということである。
それこそ、大勢の観衆によって埋没する個の感情であり、自分の非や欠点ををネタに周りが笑っているときにその対象とされた人物が例えどんなに正論をぶったところで、おそらくは場を弁えない悪者として抹殺されてしまうであろう。こうして、一人は多勢の感情に追随し、自虐的な笑いを行わざるをえなくなったときに、対象人物が笑う、という行為を目の当たりにした観衆は自分の感情に間違いは無いという浅薄な確信とともに、状況はいっそうエスカレートしていくのだ。

こういった状況に僕がなぜ危惧を感じるかというと、状況を重視する傾向が安易な享楽へと向き、普遍的な倫理に対する我々が持っていた本質的なポジションが、瓦解していっているように感じるからである。
そこに何が生じるかといえば、差別や偏見である。それも、最もたちの悪い無自覚から派生する差別や偏見。そして、ひとたび自分に対象の矛先が向けば、その人は、初めて他人の差別を非難するだろう。今までの自分の行為は棚に上げ、というより自分のやってきたことが彼らと同種のことであったとは全く気づかずに。これは、明らかな利己主義である。自分が他人にしているのに、他人からされてはいけないなどと、どうしていえる権利があろうか。

なお、この対象の不在という現象は、誰にも、どんな人にも起こる問題だと思っている。全知全能の神でもない限り、どこかで人は操られる。が、その頻度を減らすことはできる。これには不断の努力が要するが、自分がこういった問題(偏見や差別)を起こす側になるのを極力回避し、また自分が被害者となったときに反論できる権利の確保を持っていたいのであれば、やっていかなくてはならないと思っている。

その努力とは、常に、状況ではなく、そのものの本質を見ていこうとすること。自分が、その対象物に対して、どういったポジションで本質を捉えているのかを、絶えず意識して、判断していくということである。つまり、バラエティーやドキュメントだからということではなく、その取り扱われている対象に対して、自分がどういった印象を抱いているのかを意識しておくことである。
なお、本質とは、当然自分にとってのその対象物の本質のことである。
できるだけ、普遍的な本質を探っていった上での、という前提は言うまでも無いが。

以前このことを一人の友人に話したことがあるが、そこまで気をつけていたら、疲れるだろう、という言葉が返ってきた。なるほど、彼が、僕のこの考えに対して抱いている本質は、否定的なものらしい。ならば、彼は、差別されても、誰にも文句を言わずに飄々としていられるということなのだろう。

この僕の文章を読んでくれる人がいるなら、ただ漫然と読むだけではなくて、考察し、肯定でも否定でも、自分の中でのこの文章に対する自分としての本質を見極めて、あるいは探っていってほしい。
これは、日記を書いている僕からのリテラシーの要求である。

*なお、リテラシーを僕はここでは、情報を読み取る能力、や、意味を考察していくという行為、というような概念で使っています。
以前にも紹介したが、メンズリブという活動がある。
いわいるウーマンリブの男性版。「男性解放」である。
こういった運動がうまれた背景に、ドメスティックバイオレンス(以後DVと表記)がある。DVをするに至る多くの男性が、この社会の、世間の無自覚に形成されてきた価値観という枷をはめられ苦しんでいる。それは、男はこうでなければならない、または夫はこうでなければならないといった見えざるプレッシャーである。
DVは、親から良い子を求められた子供が突然切れる状況と似ている。
この運動は男性らしさという社会の価値観の規制、例えば、男は泣いてはいけない、愚痴をこぼしてはいけない、良き夫を務め続けなければならない、などから男性を開放させることにより、障害の回復を図っている。実際、多くのDV患者が、この会に入ることにより、心の枷を取り去り、DVを克服している。
男性の解放なるものが最近話題になりだしたからといって、それが現在に特有の問題であるとはいいきれない。僕は以前から、変わらずに存在していたと考えている。
ただ、男性の昔なら看過されていた暴力が、看過され得ないくらいに女性の社会的地位が浮上してきた結果、その原因を探っていくと実は男性も社会の価値観の抑圧に苦しめられていたという問題が顕在化してきたということなのだろう。つまりは、男性の解放が、ひいては女性の更なる地位向上を促す鍵になっているともいえる。
そして、それは、男性と女性の役割分担が曖昧化してきている時代の要請でもあるだろう。つまり、男性は肉体労働にで、女性は家を守るという構図が、現在では、通用しなくなっているのである。第3次産業全盛の現代において、社会的な男女の格差は(未だに厳然としてあるが)、以前に比べれば各段に好転してきている。男性は攻撃的である必要はなくなり、女性は保守的である必要もなくなってきた。そういう意味で、女性と男性の区別すらももはや以前ほど明確ではないのである。この場合、僕がいっている男女の区別とは、生物学的な意味においてのセックスのことではなく、当然、社会的、文化的な意味においてのジェンダーである。しかし、そういった時代の要請にもかかわらず、価値観は未だに旧態依然としたものであるがゆえに、引き起こされる問題のいち断片として、このDVという問題もあるのである。

さて、僕がここで提起したいのは、DVのことではなく、その根源的な問題としてのジェンダーである。男性らしさ、女性らしさといった社会的形成物に対して、僕は甚だ懐疑的なのだ。例えば個性尊重を訴える者が、ジェンダーに対して、敷居を設けた場合、僕はそこに欺瞞を感じずにはいられない。もちろんジェンダーのうちにも社会的にまだ峻別する必然性を持ったものはある。しかし、その他の部分についての区別に果たして何らの意味があるのか?それは個性の否定となんの違いがあるのだろう?セックス(体格)に男女違いがあるのは当然である。だが、その精神において、男女はさほどの違いがあるものなのか?
仕種やものの言い方などの部分のジェンダーはある程度男女間の区別もあるだろう(僕はこれもさほど必要だとは思わないが)。しかしもっと根源的な精神において、例えば、涙もろい男性、しおらしい男性、たくましい女性、そのような個々の違いがあってもそれは当然ではないのか。人間的に精神が弱い強いというのはあるだろう。しかし精神(根源的な)における男らしさとは、女らしさとはいったいなんなのか?
現代においてそんなものの区別はありはしないのではないだろうか。
「みっともない」や「情けない」などの言葉を使う場合注意しなければならないのは、それが根源的なジェンダーの差別に拠るものなのか、ひとりの人間としてみた場合によるものなのかということである。前者であるなら、それは今まで述べてきたことから、僕は承服できない。後者であるなら、それが人間としての社会的価値観の必要性を勘案した上で、まだ、許容できる余地がある。

「雄雄しい」を辞書で調べると、男らしい、勇ましい、健気だ、という意味らしい。一方「女々しい」は柔弱である、いくじがない、未練がましいとある。
このように、「女々しい」という言葉を男性に使う場合にしても、既にして、男尊女卑的な社会的な概念の縛りが含まれていることを忘れてはならない。

まあ、いわいるひとつの、ジェンダーフリー。
僕は小さい頃、ビックリマンシールを集めてた。
沢山沢山集めてた。
小遣いを全部つぎ込んで、そして、机にぺたぺた張った。
でも、それは、本当に好きなものではなかった。
僕は友達の話しに合わせ、そして、友達に対向し、自慢するために集めてたのだ。
ブームは去った。
僕に残ったのはもはや、無用の大量のシールと、もはや自分の感性では恥ずかしく感じる机に張りまくったシール。
僕はそのシールを一枚一枚はがしていった。
僕の机は、無残な姿だった。
その時、僕は、本当に自分の好きなことを探していこうと思った。人に自慢したり、対向したりするためではなく、本当に好きなものを追い求めていこうと。
周りの流行りにばかり目をむけ、そのことに費やした時間は、買ったものは、流行りがすぎるとただの虚無になる。
だけど、本当に自分が好きなことに費やした時間、そして集めたものは、いつまでたっても自分の中で色あせない宝物となる。
だから僕は、人に天邪鬼と呼ばれようと、自分の本当に好きなものを追求していった。
だから、僕は、時代に境をつけない。
だって、自分の好きなことが、最近の事物にあるとは限らないから。
もし、僕が昔のものというだけで、目を向けなかったとしたら、自分の偏見によって、自分の本当に熱中できるものがあることを見逃しているかもしれない。自分が生涯の生きがいを探す選択の幅を自ら狭めているかもしれない。
だから、僕は、自分の知らないことをどんどん知っていきたい。古いもの。例えば僕の祖母が聞いていた歌を僕は聞いてみたい。昔の無声映画を見てみたい。僕の感性に、消しがたい感動が、宝がそこに隠されているかもしれないから。
実際に、僕は白黒映画に、人生観を変えてくれる沢山の作品を見出した。古典の書物の中に、僕の考えを変えてくれる沢山の箴言があった。
大昔の歌から、僕の感情を揺さぶる沢山の旋律と歌詞に出会った。
もちろん最近のものにも沢山そういったものに出会えた。
良いものは、昔も今も関係ないのだ。

その時代の流行の中だけでなく、視野を広げて、他の時代にも他の文化にも、他のジャンルにも目を向けてみる。
時代性ではなく、自分の感性でものごとを見ていく。

そうすることで、人生はさらに豊かになっていくと僕は信じている。

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