読書 『ピアニシモ』
2005年6月22日 読書〔小説・詩〕
ISBN:4087498115 文庫 辻 仁成 集英社 1992/05 ¥340
処女作だから、粗は目立つのかもしれないけど、処女作は、自分が一番書きたいものを書くんじゃないだろうか。作者の真の姿は、近頃よく写し出されているメディアのイメージとは違い、こういった作品で示される屈託した精神の中に、より見出すことができるように思う。
僕にはヒカルがいる。しかし、ヒカルは僕にしか見えない。伝言ダイヤルで知り合ったサキ。でも、知っているのは彼女の声だけ。あとは、冷たい視線と敵意にあふれた教室、崩壊寸前の家庭…。行き場を見失い、都会のコンクリートジャングルを彷徨する孤独な少年の心の荒廃と自立への闘い、そして成長―。ブランク・ジェネレーションに捧げる新しい時代の青春文学。第13回すばる文学賞受賞作。辻仁成の恋愛小説は読んだことないから何とも言えないけど、こっちの系列の小説は、作者の一番奥深い部分が反映されているように感じて、良いと思う。
処女作だから、粗は目立つのかもしれないけど、処女作は、自分が一番書きたいものを書くんじゃないだろうか。作者の真の姿は、近頃よく写し出されているメディアのイメージとは違い、こういった作品で示される屈託した精神の中に、より見出すことができるように思う。
ISBN:4102001026 文庫 高橋 健二 新潮社 1951/11 ¥420
デミアンは、いわばシンクレールの深層意識。彼が本当に願えば、デミアンはいつでも彼の前に現れる。
「きみが世界を単に自分の中に持っているかどうかということと、きみがそれを実際知っているかどうかということとは、大変な違いだ」
シンクレールの中にデミアンが存在しても、それを知り、存在を確信するには、長い苦悩が待っているかもしれない。
「友達たちをとほうもない毒舌で喜ばせたり、たびたび驚かせたりしてはいたものの、自分が嘲笑している全てのものに対し心の奥では尊敬の念を持っていた。そして自分の心の前に、自分の過去の前に、自分の母の前に、神の前に、内心では泣きながら額ずいていた。」
シンクレールは、デミアンを恐れ、逃避を試みたが、内心は、彼を欲していた。憧れゆえの恐れ。シンクレールは望まぬ欲望に身を浸したが、そういった行為を憎んでいたのではない。
「われわれが誰か(何か)を憎むとすれば、・・・われわれ自身の中に宿っているものを憎んでいるのだ。われわれ自身の中にないものは、われわれを興奮させはしない」
彼はよりどころとなる場所を探していたのだろう。幼い頃は両親の住む世界。その世界を出てからは、もうひとつの世界にも、嫌悪を抱きながらも足を踏み入れてみた、二つの世界を生き、そうしたもがきの中で、ついに彼は気づく。
「新しい神々を欲するのは誤りだった。世界に何らかあるものを与えようと欲するのは完全に誤りだった。目覚めた人間にとっては、自分自身をさがし、自己の腹を固め、どこに達しようと意に介せず、自己の道を探って進む、という一事以外に全然なんらの義務も存しなかった」
「詩人として、あるいは気違いとして終ろうと、預言者として、あるいは犯罪者として終ろうと・・・それは肝要事ではなかった。実際それは結局どうでもいいことだった。肝要なのは、任意な運命ではなくて、自己の運命を見出し、それを完全にくじけずに生き抜くことだった」
自らのうちに存在するデミアンへの道は開けた。後は彼が踏み出す勇気を持つだけだ。
「人は自分自身の腹がきまっていない場合に限って不安を持つ。彼らは自分自身の立場を守る決意を表明したことがないから、不安を持つのだ」
ついにシンクレールは完全に自己のうちにデミアンを見出した。彼は不安を振りほどき踏み出したのである。もう彼は再びデミアンを欲する必要はない。なぜなら自分が、デミアンであることを知っているからである。
僕は、時折、自己の内のデミアンの存在が不確かになる。この本は、そんな僕に限りない勇気を与えてくれるのだ。
ドイツのノーベル賞受賞作家ヘルマン・ヘッセの1919年、42歳の時の作品。デミアンに出会った人間は幸せだ。だけど、デミアンに会わずとも、僕達はデミアンを見つけ出すことができる。なぜならデミアンは、自分自身に他ならないから。
ラテン語学校に通う10歳の私、シンクレールは、不良少年ににらまれまいとして言った心にもない嘘によって、不幸な事件を招いてしまう。私をその苦境から救ってくれた友人のデミアンは、明るく正しい父母の世界とは別の、私自身が漠然と憧れていた第二の暗い世界をより印象づけた。主人公シンクレールが、明暗二つの世界を揺れ動きながら、真の自己を求めていく過程を描く。
デミアンは、いわばシンクレールの深層意識。彼が本当に願えば、デミアンはいつでも彼の前に現れる。
「きみが世界を単に自分の中に持っているかどうかということと、きみがそれを実際知っているかどうかということとは、大変な違いだ」
シンクレールの中にデミアンが存在しても、それを知り、存在を確信するには、長い苦悩が待っているかもしれない。
「友達たちをとほうもない毒舌で喜ばせたり、たびたび驚かせたりしてはいたものの、自分が嘲笑している全てのものに対し心の奥では尊敬の念を持っていた。そして自分の心の前に、自分の過去の前に、自分の母の前に、神の前に、内心では泣きながら額ずいていた。」
シンクレールは、デミアンを恐れ、逃避を試みたが、内心は、彼を欲していた。憧れゆえの恐れ。シンクレールは望まぬ欲望に身を浸したが、そういった行為を憎んでいたのではない。
「われわれが誰か(何か)を憎むとすれば、・・・われわれ自身の中に宿っているものを憎んでいるのだ。われわれ自身の中にないものは、われわれを興奮させはしない」
彼はよりどころとなる場所を探していたのだろう。幼い頃は両親の住む世界。その世界を出てからは、もうひとつの世界にも、嫌悪を抱きながらも足を踏み入れてみた、二つの世界を生き、そうしたもがきの中で、ついに彼は気づく。
「新しい神々を欲するのは誤りだった。世界に何らかあるものを与えようと欲するのは完全に誤りだった。目覚めた人間にとっては、自分自身をさがし、自己の腹を固め、どこに達しようと意に介せず、自己の道を探って進む、という一事以外に全然なんらの義務も存しなかった」
「詩人として、あるいは気違いとして終ろうと、預言者として、あるいは犯罪者として終ろうと・・・それは肝要事ではなかった。実際それは結局どうでもいいことだった。肝要なのは、任意な運命ではなくて、自己の運命を見出し、それを完全にくじけずに生き抜くことだった」
自らのうちに存在するデミアンへの道は開けた。後は彼が踏み出す勇気を持つだけだ。
「人は自分自身の腹がきまっていない場合に限って不安を持つ。彼らは自分自身の立場を守る決意を表明したことがないから、不安を持つのだ」
ついにシンクレールは完全に自己のうちにデミアンを見出した。彼は不安を振りほどき踏み出したのである。もう彼は再びデミアンを欲する必要はない。なぜなら自分が、デミアンであることを知っているからである。
僕は、時折、自己の内のデミアンの存在が不確かになる。この本は、そんな僕に限りない勇気を与えてくれるのだ。
読書 『月と六ペンス』
2005年6月16日 読書〔小説・詩〕
ISBN:4102130055 文庫 William Somerset Maugham 新潮社 1959/09 ¥580
平凡な中年の株屋ストリックランドは、妻子を捨ててパリへ出、芸術的創造欲のために友人の愛妻を奪ったあげく、女を自殺させ、タヒチに逃れる。ここで彼は土地の女と同棲し、宿病と戦いながら人間の魂を根底からゆすぶる壮麗な大壁画を完成したのち、火を放つ。ゴーギャンの伝記に暗示を得て、芸術にとりつかれた天才の苦悩を描き、人間の通俗性の奥にある不可解性を追求した力作。芸術は爆発だ。じゃなくて、芸術は衝動であり、本能だ、とでもいいたげなこの作品。ゴーギャンがモデルと知り、彼の絵画を眺めたりもしてみた。審美的、ではなく、美も醜も芸術であり、芸術は全ての道理を超克する、とストリックランドが考えていたのかどうかはわからないが、最終的に文明から隔絶されたタヒチに向かったのは、限りなく理性を取っ払ったところに芸術は存在し、それを実行するためには人間同士の繋がりの上に成り立った道徳、理性、哲学、文化、文明みたいなものは全て足かせでしかなかったということなんじゃなかろうか。でもタヒチにたどり着くまでに、多くの人を犠牲にしつづけたのは、彼も、その人間の不可解性に到達するまでに若干の文明に対する未練や躊躇があったからであって、そこからなかなか踏み切れなかったからなのではないかと僕は思う。
読書 『アメリカの夜』
2005年6月15日 読書〔小説・詩〕
ISBN:406273057X 文庫 阿部 和重 講談社 2001/01 ¥560
中山唯生のやっていることが、僕がやってきたことと余りにも同じであったので、他人事とは思えずに、ある種の興奮を持って読み進めた。
僕も大学3年から、4年のあいだ、読書の人であり、映画の人であったからだ。授業以外は、読書をし、疲れれば映画を見る、という日常を送っていた。そういう日常をあたかも修行のように僕は解していた。それは障害という名にコンプレックスを抱えた卑屈な青年が、異質な自分という他者との差別化により、どうせ異質でありつづけるなら、中途半端でいたくないというという幼稚で鬱屈した精神のなせる技であった。
それはまさに、この本に書かれているように、「人間」だの「存在」だのが、なにものにも庇護をうけず、それじたいで身をささえているのだと高を括っている弛緩した精神であったように思う。
その精神も今では意味合いを変容し、多少なりとも成長といえる痕跡を与えてはいるかもしれないが、それでも未だに、嘲笑されるべき戯言から、現実への昇華を信じて疑わない自分、そのことに拘泥している自分というものを否定できるまでにいたってはいない。
映画学校を卒業し、アルバイト生活を続ける中山唯生。芸術を志す多くの若者と同じく、彼も自分がより「特別な存在」でありたいと願っていた。そのために唯生はひたすら体を鍛え、思索にふける。閉塞感を強めるこの社会の中で本当に目指すべき存在とは何か?新時代の文学を切り拓く群像新人文学賞受賞作。
中山唯生のやっていることが、僕がやってきたことと余りにも同じであったので、他人事とは思えずに、ある種の興奮を持って読み進めた。
僕も大学3年から、4年のあいだ、読書の人であり、映画の人であったからだ。授業以外は、読書をし、疲れれば映画を見る、という日常を送っていた。そういう日常をあたかも修行のように僕は解していた。それは障害という名にコンプレックスを抱えた卑屈な青年が、異質な自分という他者との差別化により、どうせ異質でありつづけるなら、中途半端でいたくないというという幼稚で鬱屈した精神のなせる技であった。
それはまさに、この本に書かれているように、「人間」だの「存在」だのが、なにものにも庇護をうけず、それじたいで身をささえているのだと高を括っている弛緩した精神であったように思う。
その精神も今では意味合いを変容し、多少なりとも成長といえる痕跡を与えてはいるかもしれないが、それでも未だに、嘲笑されるべき戯言から、現実への昇華を信じて疑わない自分、そのことに拘泥している自分というものを否定できるまでにいたってはいない。
ISBN:4102010084 文庫 原 卓也 新潮社 1969/02 ¥420
ドストエフスキーは賭博壁を抜きにしては語れない。「罪と罰」も、出版者からの借金と、さまざまな、自己に不利な条件を附した上で、いわば、背水の陣のなか作り出した精神の苦悩の絞り汁である。逆にいえば、彼の賭博壁がなければ、彼の名作の何作かは歴史に存在することもなかったということだ。
彼の状況描写は、いささか読みにくいと感じることもあるが、心理描写は長けている。賭博が精神に作用する高揚感、それが徐々に噴出する様は、その賭博場にあたかも自分が存在しているかのような錯覚を起こさせるほどの見事さである。特に後半、僕は小説の中の主人公となり、またドストエフスキーとなり、彼の愉悦、苦しみ、興奮を味わった。
僕はギャンブルをほとんどしたことがないが、そんな僕にも、ギャンブルの麻薬性がいかに強力なものであるか、恐ろしさとともに、誘惑に駆られずに入られなかった。突き動かされる衝動、そういう感覚をこの小説は描き出すことに成功している。ドストエフスキーの小説の中でも、かなりのインパクトを持った傑作だと僕は思っている。
ギャンブルに興じることの多い人にとっては、その魅力を余すところなく伝えている座右の書ともなろうし、その危険性を余すところなく伝うる自戒の書にもなることだろう。
ドイツのある観光地に滞在する将軍家の家庭教師をしながら、ルーレットの魅力にとりつかれ身を滅ぼしていく青年を通して、ロシア人に特有の病的性格を浮彫りにする。ドストエフスキーは、本書に描かれたのとほぼ同一の体験をしており、己れ自身の体験に裏打ちされた叙述は、人間の深層心理を鋭く照射し、ドストエフスキーの全著作の中でも特異な位置を占める作品である。
ドストエフスキーは賭博壁を抜きにしては語れない。「罪と罰」も、出版者からの借金と、さまざまな、自己に不利な条件を附した上で、いわば、背水の陣のなか作り出した精神の苦悩の絞り汁である。逆にいえば、彼の賭博壁がなければ、彼の名作の何作かは歴史に存在することもなかったということだ。
彼の状況描写は、いささか読みにくいと感じることもあるが、心理描写は長けている。賭博が精神に作用する高揚感、それが徐々に噴出する様は、その賭博場にあたかも自分が存在しているかのような錯覚を起こさせるほどの見事さである。特に後半、僕は小説の中の主人公となり、またドストエフスキーとなり、彼の愉悦、苦しみ、興奮を味わった。
僕はギャンブルをほとんどしたことがないが、そんな僕にも、ギャンブルの麻薬性がいかに強力なものであるか、恐ろしさとともに、誘惑に駆られずに入られなかった。突き動かされる衝動、そういう感覚をこの小説は描き出すことに成功している。ドストエフスキーの小説の中でも、かなりのインパクトを持った傑作だと僕は思っている。
ギャンブルに興じることの多い人にとっては、その魅力を余すところなく伝えている座右の書ともなろうし、その危険性を余すところなく伝うる自戒の書にもなることだろう。
読書 『かもめのジョナサン』
2005年6月12日 読書〔小説・詩〕
ISBN:4102159010 文庫 Richard Bach 新潮社 1977/05 ¥500
読んでいて、手塚治虫の「火の鳥」が頭に浮かんできた。僕の頭がジョナサンと火の鳥の何らかの連関を感じたということなのかもしれないが、よく分からない。まさか同じ鳥だからという理由だけではあるまい。おそらく意識だけになるところとかが、なんとなく、久遠な感じがしたんかな。
高校時代の卒業文集にジョナサンへの憧れを書いたクラスメイトがいた。思い起こせば、彼は確かに孤高な感じだった。
でも人間の生は長いから、ただ早く高くって感じで理想を目指すのみってわけにはいかず、ジョナサンのように全き孤高を完遂することをさせない人との繋がりがあるのだからそれを無視するわけにもいかないけどこういった理想を胸に抱きつづけるのは、美しく好もしいことであると僕は思う。
『かもめのジョナサン』原作。「ほとんどのカモメが、飛ぶことに関して学ぶのは、いちばん単純な事実だけだ。海岸から食べ物のあるところまで到達し、また戻ってくること」。ジョナサン・リビングストン・シーガルという名の風変わりな鳥を描いたこの寓話の中で、著者リチャード・バックは語る。「たいていのカモメにとって、大切なのは飛ぶことではなく、食べることだ。しかし、このカモメにとっては、食べることではなく、飛ぶこと自体が重要だった」。飛行は、まさにこの物語の意義を高める、象徴的行為である。この寓話に込められた究極の意味は、たとえ、群れや仲間あるいは隣人から自分の野心は危険だと思われても、より高尚な人生の目的を探求することは大切だ、ということだ(われらが愛するジョナサンもある時点で、自分の群れから追放される)。妥協せず自分の気高い理想を守ることで、ジョナサンは、超越という究極の報酬を得た。そして最後に愛と思いやりの真の意味を知るのである。ラッセル・マンソンによる幻想的なカモメの写真が、この物語にふさわしいイラストとなっている。ただし全体的なデザインは、多少時代遅れの感があるのは否めない(この作品の初版年度は1970年だった)。しかしながらこの作品に流れる精神は不朽であり、とりわけ、若者の心を惹きつけてやまない。
読んでいて、手塚治虫の「火の鳥」が頭に浮かんできた。僕の頭がジョナサンと火の鳥の何らかの連関を感じたということなのかもしれないが、よく分からない。まさか同じ鳥だからという理由だけではあるまい。おそらく意識だけになるところとかが、なんとなく、久遠な感じがしたんかな。
高校時代の卒業文集にジョナサンへの憧れを書いたクラスメイトがいた。思い起こせば、彼は確かに孤高な感じだった。
でも人間の生は長いから、ただ早く高くって感じで理想を目指すのみってわけにはいかず、ジョナサンのように全き孤高を完遂することをさせない人との繋がりがあるのだからそれを無視するわけにもいかないけどこういった理想を胸に抱きつづけるのは、美しく好もしいことであると僕は思う。
読書 『ジーキル博士とハイド氏』
2005年6月11日 読書〔小説・詩〕
ISBN:4102003010 文庫 田中 西二郎 新潮社 1967/02 ¥300
面白く引き込まれて、公務員学校時代に、自習時間に一気に読んでしまった。人間の光と影の部分。その問題はつねにどんな人にも付いて回る。解離性同一障害が、まだ認知されていなかった時代の小説。多重人格者は、恐らく世間では、こういう恐怖の対象として、見られていたのかもしれない。
医師ジーキルは自ら発明した秘薬によって凶悪な人物ハイドに変身するが,くり返し変身を試みるうちにやがて恐るべき破局が…….人間の二重性を描いたこの作には天性の物語作家スティーヴンスン(一八五〇―九四)の手腕が見事に発揮されており,今も変わることなく世界中で愛読されている.映画化されることに実に七十回という.
面白く引き込まれて、公務員学校時代に、自習時間に一気に読んでしまった。人間の光と影の部分。その問題はつねにどんな人にも付いて回る。解離性同一障害が、まだ認知されていなかった時代の小説。多重人格者は、恐らく世間では、こういう恐怖の対象として、見られていたのかもしれない。
ISBN:4101187045 文庫 島田 雅彦 新潮社 1995/05 ¥660
先生は、自分の欲望を自由にするために何かと理屈付けをするが、欲望に従属することが、自分自身に素直であるということであるわけがない。この社会に生きている限り、完全に自分に忠実でいるなど不可能だし、この社会の中で常識を覆し、人生のエピキュリアンたらんとすることが小説家の使命だと考えるのもお門違いだ。エピキュリアンが迫害されるとすればそれはマイノリティであるからではない。他人を傷つけて平然としているからだ。すべてはこの脆弱な先生の欲望に打ち勝てないことへの言い逃れの理屈であり、それは理屈ではなく屁理屈だ。本当に自分に忠実になりたいのであれば、人里はなれた、社会と切り離された自然に回帰すればいい。それをせずにただこの社会で、自我のみを押し付け他人を傷つけ、踏みにじり、そんな自分に哀れみをこうている先生は、ただ単に責任を回避している逃亡者に過ぎない。
自分の性欲にドンファンを持ち出し、正当化しようとしたところで、正当化されるはずもない。またそういった弱さを許しあうことが大人なのではあるまい。欲望に従属している時点で、大人としての覚悟が欠落しているのである。
理屈とは、自分の過ちを正当化するためにあるのではなく、自分の過ちを暴き、矯正するためにこそ意味を持ちうるはずだ。
ではなぜ、こんな先生に、菊人は私淑したのか。それは、何らかの意図があったのかもしれないが、僕には、語り部としての機能としか思われなかった。
以下、印象に残った文章
「正直さに勝る青二才の知恵はない」
「恋愛は運命的な一対一の出会いだと信じている者にはドン・ファンの嘲笑は聞こえないだろうが、道ですれ違う相手にいちいち発情する者にはドン・ファンの囁きが聞こえる」
「蟻の身になってものを考えられない人は結局、蟻以下のものになっちゃうのよ」
「自分の常識では理解できないこと、存在すべきでないものの方がこの世の中には多い。ひとつでも多く自分の常識を覆すことがことができれば、その人は人生のエピキュリアンといえるのではないか?そしてそういう人種は数が少なく、迫害される。しばしば、自分の生活に満足している平凡人は誰もが似たり寄ったりの悟りに到達している。いわく則天去私・・・その悟りを土足で踏みにじるのが人生のエピキュリアンだ。世界は自分のために犠牲になるべきだと考える不遜な奴。そういう人は若さで裏打ちされている。体力と知性に任せてごり押しする。そして、ある日、プツンと切れるのだ。こちら側にその人をつなぎ留めていたひもが」
「今まで通りじっと退屈に耐えろという私ともっと大胆で自由な生活を楽しめという私の戦争、過去の方から私を未来へ押し出す力と未来の方から前進を阻む力の拮抗、自分を内側に押し込めておく意志と外側へ駆り立てる意志のスクラム、他人に救いを求める誘惑と他人を拒絶する覚悟の格闘、重苦しさと軽快さのレスリングが際限もなく繰り返される」
「ストレートがゲイになろうと躍起になったり、人種偏見にさらされたマイノリティが民族主義者になったり、エコロジストが地球環境保護を掲げて、テロ活動を行ったり、寿司バーの皿洗いがアーティストを気取ったり・・・そういった生き方は全て片意地張ったフィクションではないだろうか。何らかの圧力に対抗したり、ある雰囲気に染まっているうちに、好きでもないフォルムに押し込められてしまった、そんな不幸を私は感じてしまう」
ポルノなんだか、SFなんだか、政治小説なのか、ミステリーなのかわからない不思議な恋愛小説を書いている小説家の先生は川の向う岸に住んでいる。だから…彼岸先生。東京、ニューヨークで女性遍歴を重ねたドン・ファンで、プロの嘘つきである先生を、ぼくは人生の師と見立てたのだった。ロシア語を学ぶ十九歳のぼくと三十七歳の先生の奇妙な師弟関係を描いた平成版「こころ」。泉鏡花文学賞受賞作。
先生は、自分の欲望を自由にするために何かと理屈付けをするが、欲望に従属することが、自分自身に素直であるということであるわけがない。この社会に生きている限り、完全に自分に忠実でいるなど不可能だし、この社会の中で常識を覆し、人生のエピキュリアンたらんとすることが小説家の使命だと考えるのもお門違いだ。エピキュリアンが迫害されるとすればそれはマイノリティであるからではない。他人を傷つけて平然としているからだ。すべてはこの脆弱な先生の欲望に打ち勝てないことへの言い逃れの理屈であり、それは理屈ではなく屁理屈だ。本当に自分に忠実になりたいのであれば、人里はなれた、社会と切り離された自然に回帰すればいい。それをせずにただこの社会で、自我のみを押し付け他人を傷つけ、踏みにじり、そんな自分に哀れみをこうている先生は、ただ単に責任を回避している逃亡者に過ぎない。
自分の性欲にドンファンを持ち出し、正当化しようとしたところで、正当化されるはずもない。またそういった弱さを許しあうことが大人なのではあるまい。欲望に従属している時点で、大人としての覚悟が欠落しているのである。
理屈とは、自分の過ちを正当化するためにあるのではなく、自分の過ちを暴き、矯正するためにこそ意味を持ちうるはずだ。
ではなぜ、こんな先生に、菊人は私淑したのか。それは、何らかの意図があったのかもしれないが、僕には、語り部としての機能としか思われなかった。
以下、印象に残った文章
「正直さに勝る青二才の知恵はない」
「恋愛は運命的な一対一の出会いだと信じている者にはドン・ファンの嘲笑は聞こえないだろうが、道ですれ違う相手にいちいち発情する者にはドン・ファンの囁きが聞こえる」
「蟻の身になってものを考えられない人は結局、蟻以下のものになっちゃうのよ」
「自分の常識では理解できないこと、存在すべきでないものの方がこの世の中には多い。ひとつでも多く自分の常識を覆すことがことができれば、その人は人生のエピキュリアンといえるのではないか?そしてそういう人種は数が少なく、迫害される。しばしば、自分の生活に満足している平凡人は誰もが似たり寄ったりの悟りに到達している。いわく則天去私・・・その悟りを土足で踏みにじるのが人生のエピキュリアンだ。世界は自分のために犠牲になるべきだと考える不遜な奴。そういう人は若さで裏打ちされている。体力と知性に任せてごり押しする。そして、ある日、プツンと切れるのだ。こちら側にその人をつなぎ留めていたひもが」
「今まで通りじっと退屈に耐えろという私ともっと大胆で自由な生活を楽しめという私の戦争、過去の方から私を未来へ押し出す力と未来の方から前進を阻む力の拮抗、自分を内側に押し込めておく意志と外側へ駆り立てる意志のスクラム、他人に救いを求める誘惑と他人を拒絶する覚悟の格闘、重苦しさと軽快さのレスリングが際限もなく繰り返される」
「ストレートがゲイになろうと躍起になったり、人種偏見にさらされたマイノリティが民族主義者になったり、エコロジストが地球環境保護を掲げて、テロ活動を行ったり、寿司バーの皿洗いがアーティストを気取ったり・・・そういった生き方は全て片意地張ったフィクションではないだろうか。何らかの圧力に対抗したり、ある雰囲気に染まっているうちに、好きでもないフォルムに押し込められてしまった、そんな不幸を私は感じてしまう」
ISBN:4102100040 文庫 福田 恒存 新潮社 1966/06 ¥420
ある意味で、老人の根性・意地。またある意味で、虚栄心や矜持。そしてもしかして、老人は自分の肉体に対する変化を受け入れたくないと保守的に意固地になっているのかもしれない。そんな老人に、自然は変化を受け入れろと激しく、そしてやさしく諭しているかのようだ。しかし、その老人の矜持・情熱、それらは、変化に抗えない肉体とは違い若かりし日の姿のままでいられる。本人が望むなら。
カジキマグロの肉体は、食べられ、変化してしまった。そうなることに老人は抗えなかった。しかし、骨は残った。それは、老人が戦い勝ち取ったものといえないか。あたかも老人の精神の芯のように、マグロは肉体が朽ちても骨(芯)は残ったのだ。そしてそれは、肉体はなくとも、カジキマグロの存在を他のものに示した。同時にその骨は、老人の心の強さも、若かりし日のままであると、他のものに示していたのかもしれない。
やせこけた老人。その名はサンチャゴ。しかし、海の男である彼には、不屈の闘志があった。ひとり、小舟で沖に出て1週間、つにに遭遇した巨大な、かじきまぐろ。綱を操り続け、大魚と格闘する日が続く。殺すか殺されるか―。だが、いつしか彼の心には、大魚への熱い友情が生まれていた…。アメリカの文豪、ヘミングウェイが、大自然の中で生き抜く男の、勇敢さとロマンを描き上げた不朽の名作。
ある意味で、老人の根性・意地。またある意味で、虚栄心や矜持。そしてもしかして、老人は自分の肉体に対する変化を受け入れたくないと保守的に意固地になっているのかもしれない。そんな老人に、自然は変化を受け入れろと激しく、そしてやさしく諭しているかのようだ。しかし、その老人の矜持・情熱、それらは、変化に抗えない肉体とは違い若かりし日の姿のままでいられる。本人が望むなら。
カジキマグロの肉体は、食べられ、変化してしまった。そうなることに老人は抗えなかった。しかし、骨は残った。それは、老人が戦い勝ち取ったものといえないか。あたかも老人の精神の芯のように、マグロは肉体が朽ちても骨(芯)は残ったのだ。そしてそれは、肉体はなくとも、カジキマグロの存在を他のものに示した。同時にその骨は、老人の心の強さも、若かりし日のままであると、他のものに示していたのかもしれない。
読書 『夏の庭―The Friends』
2005年5月23日 読書〔小説・詩〕
ISBN:4101315116 文庫 湯本 香樹実 新潮社 1994/03 ¥420
子供の好奇心ほど残酷なものはなく、そしてまた純粋で暖かいものもない。好奇心とはさみは使いよう、なんてね。
多くの人は、自分の子供時代を少年たちに重ねて読んだことだと思うし、僕もそうだけど、それがいつの日が老人に重ねて読む日も訪れるんだろうな。
僕も子供のころ、二件隣の家のおじいさんに会いに行ってた。何の会話をしたのかは覚えてないけど、僕が行くといつもおじいさんは、お菓子のポーロをくれた。大人が食べるものじゃないだろうし、僕のために買っておいてくれたのかも。僕は、おじいさんを友達と思ってた。
成長して、僕はおじいさんにいつのまにか会いに行かなくなって、ある日おじいさんの死んだことを知った。僕にとっての身近な死は、今思えばあのおじいさんだったなんだな。
子供は、残酷だけど、純粋だ。その残酷さを知ることで、子供は純粋じゃなくなっていくけど、それを成長っていうんだよ。
ひとり暮らしの老人と子どもたちとの奇妙な交流を描いた中編小説。世界各国でも翻訳出版され、映画や舞台にもなった児童文学の名作である。アパートの大家のおばあさんと少女のふれあいをつづった『ポプラの秋』や、「てこじい」という異形の老人が印象的な『西日の町』など、死に直面した老人と子どもというモチーフは、著者が一貫して描きつづけているテーマである。子どもだけではなく、幅広い年齢層に支持されている本書は、その原点となる作品だ。
小学6年の夏、ぼくと山下、河辺の3人は、人が死ぬ瞬間を見てみたいという好奇心から、町外れに住むおじいさんを見張ることにする。一方、観察されていると気づいたおじいさんは、憤慨しつつもやがて少年たちの来訪を楽しみに待つようになる。ぎこちなく触れあいながら、少年達の悩みとおじいさんの寂しさは解けあい、忘れられないひと夏の友情が生まれる。
少年たちがおじいさんから学ぶのは、家の手入れの仕方や包丁の使い方、草花の名前、そして戦争の悲惨さである。物語の終盤、父親に将来の夢を聞かれ、小説家になりたいと答えるぼくは「忘れられないことを書きとめて、ほかの人にもわけてあげたらいい」と語る。少しだけ大人になった少年たちを、目を細めて見つめるおじいさんの姿が目に浮かんでくるようで、思わず目頭が熱くなる場面だ。本書は、他人への思いやりと、世代の異なる者同士が語り合い、記憶を語り継ぐことの大切さを説いているのである。
子供の好奇心ほど残酷なものはなく、そしてまた純粋で暖かいものもない。好奇心とはさみは使いよう、なんてね。
多くの人は、自分の子供時代を少年たちに重ねて読んだことだと思うし、僕もそうだけど、それがいつの日が老人に重ねて読む日も訪れるんだろうな。
僕も子供のころ、二件隣の家のおじいさんに会いに行ってた。何の会話をしたのかは覚えてないけど、僕が行くといつもおじいさんは、お菓子のポーロをくれた。大人が食べるものじゃないだろうし、僕のために買っておいてくれたのかも。僕は、おじいさんを友達と思ってた。
成長して、僕はおじいさんにいつのまにか会いに行かなくなって、ある日おじいさんの死んだことを知った。僕にとっての身近な死は、今思えばあのおじいさんだったなんだな。
子供は、残酷だけど、純粋だ。その残酷さを知ることで、子供は純粋じゃなくなっていくけど、それを成長っていうんだよ。
読書 『異人たちとの夏』
2005年5月22日 読書〔小説・詩〕
ISBN:4101018162 文庫 山田 太一 新潮社 1991/11 ¥420
映画を見てから、ふと以前友達にもらった同名の小説があったことを思い出して、引っ張り出して読んだ(といってもかなり前だけど)。山田太一の文章は、読んだのはこの一冊だけだけど、脚本家だからか、簡潔で、読んでて、「動」より「静」な感じがして、好きだ。映画もよかったけど、ラストの部分の幽霊との対峙の部分が映像的に違和感あって、小説で読んだほうが無理なくリアリティと結びついた。想像は、ときとして、映像よりリアルなのだ。だから、小説のほうが印象が強い。
妻子と別れ、孤独な日々を送るシナリオ・ライターは、幼い頃死別した父母とそっくりな夫婦に出逢った。こみあげてくる懐かしさ。心安らぐ不思議な団欒。しかし、年若い恋人は「もう決して彼らと逢わないで」と懇願した…。静かすぎる都会の一夏、異界の人々との交渉を、ファンタスティックに、鬼気迫る筆で描き出す、名手山田太一の新しい小説世界。第一回山本周五郎賞受賞作品。
映画を見てから、ふと以前友達にもらった同名の小説があったことを思い出して、引っ張り出して読んだ(といってもかなり前だけど)。山田太一の文章は、読んだのはこの一冊だけだけど、脚本家だからか、簡潔で、読んでて、「動」より「静」な感じがして、好きだ。映画もよかったけど、ラストの部分の幽霊との対峙の部分が映像的に違和感あって、小説で読んだほうが無理なくリアリティと結びついた。想像は、ときとして、映像よりリアルなのだ。だから、小説のほうが印象が強い。
読書 『グレープフルーツ・ジュース』
2005年5月20日 読書〔小説・詩〕
ISBN:4062637642 文庫 南風 椎 講談社 1998/04 ¥680
想像しなさい すべての意味は 想像から生まれるということを
この本を燃やしなさい。読みおえたら。──あまりにも衝撃的なオノ・ヨーコの「グレープフルーツ」。東京で、のち英語版として世界で発売されたこの1冊に刺激されて、ジョン・レノンは名曲「イマジン」を生み出しました。その中から言葉をえらんで訳しなおした、33人の写真家との素敵なコラボレーション!!
想像しなさい すべての意味は 想像から生まれるということを
読書 『目覚めよと人魚は歌う』
2005年5月17日 読書〔小説・詩〕
ISBN:4101164517 文庫 星野 智幸 新潮社 2004/10 ¥340
これって、ほんの三日間の間の話だったんだね。読んでる間は、何週間も滞在しているように感じたんだけれど。擬似家族、かあ。ほんとにこういう関係性の中にある人たちっているんだろうかなあ。
ごく理性的なことを言ってしまうなら、糖子も大人でありながらやはり覚悟が足りなかったということなんだろう。つまり、ヒヨヒトとアナを子供だと思う糖子もまた、自分を包んでくれる大人を求めている一人の子供で、子供である糖子が子供を持ったところで親にはなりきれなかった。それを自覚しながらも夫であり、自分の理解者(親)でもあった密夫の影にすがりながら、擬似的な家族、亡霊の日常の中で、自らも亡霊となり、思い出に逃げ込み生きていることをやめられずにいる。
ヒヨヒトとアナはその場に足を踏む入れた。彼らもまた隔離された日常を送り自分を亡霊とする三日間、しかし、ヒヨヒトとアナは抜け出した。抜け出さなければならないと気づいたからだ。
「外と切れている糖子に、せめてその切れた傷口は外の風に吹きさらされると激しく痛むことを、知らしめたかったからだ」
ヒヨヒトが、わざと傷を刺激することによって、糖子に傷を自覚させ、いつまでも思い出に浸ってるだけじゃなく、踏み出さなければいけないよ、と言っているように感じた。
女は壊れた愛の記憶にとり憑かれ、亡霊のように息を潜めていた。男は日系ペルー人の宿命に翻弄され、ぎりぎりまで追い詰められていた。居場所のない魂が出逢い、触れ合った世界の果ての3日間。第13回三島由紀夫賞受賞。
これって、ほんの三日間の間の話だったんだね。読んでる間は、何週間も滞在しているように感じたんだけれど。擬似家族、かあ。ほんとにこういう関係性の中にある人たちっているんだろうかなあ。
ごく理性的なことを言ってしまうなら、糖子も大人でありながらやはり覚悟が足りなかったということなんだろう。つまり、ヒヨヒトとアナを子供だと思う糖子もまた、自分を包んでくれる大人を求めている一人の子供で、子供である糖子が子供を持ったところで親にはなりきれなかった。それを自覚しながらも夫であり、自分の理解者(親)でもあった密夫の影にすがりながら、擬似的な家族、亡霊の日常の中で、自らも亡霊となり、思い出に逃げ込み生きていることをやめられずにいる。
ヒヨヒトとアナはその場に足を踏む入れた。彼らもまた隔離された日常を送り自分を亡霊とする三日間、しかし、ヒヨヒトとアナは抜け出した。抜け出さなければならないと気づいたからだ。
「外と切れている糖子に、せめてその切れた傷口は外の風に吹きさらされると激しく痛むことを、知らしめたかったからだ」
ヒヨヒトが、わざと傷を刺激することによって、糖子に傷を自覚させ、いつまでも思い出に浸ってるだけじゃなく、踏み出さなければいけないよ、と言っているように感じた。
読書 『悲しみよこんにちは』
2005年5月14日 読書〔小説・詩〕
ISBN:4102118012 文庫 Francoise Sagan 新潮社 1955/06 ¥460
たいした感慨が起こらなかったのは、この劣悪な日本語訳のせいでもあるのだと思う。避暑地だとかなんだとかで、戯れることができるほどに優雅な生活を送れる人間は、いらぬ嫉妬心や欲望で遊ぶ時間があるからエスカレートしすぎちゃうんだよ。
若く美貌の父親の再婚を父の愛人と自分の恋人を使って妨害し、聡明で魅力的な相手の女性を死に追いやるセシル……。太陽がきらめく、美しい南仏の海岸を舞台に、青春期特有の残酷さをもつ少女の感傷にみちた好奇心、愛情の独占欲、完璧なものへの反撥などの微妙な心理を描く。発表と同時に全世界でベストセラーとなり、文壇に輝かしいデビューを飾ったサガンの処女作である。
たいした感慨が起こらなかったのは、この劣悪な日本語訳のせいでもあるのだと思う。避暑地だとかなんだとかで、戯れることができるほどに優雅な生活を送れる人間は、いらぬ嫉妬心や欲望で遊ぶ時間があるからエスカレートしすぎちゃうんだよ。
読書 『ニッポニアニッポン』
2005年5月11日 読書〔小説・詩〕
ISBN:4101377243 文庫 阿部 和重 新潮社 2004/07 ¥380
鴇にたいする執着のバックグラウンドがその名前という一点にしか見出せないのは、恐らくは、作者が意図的に仕組んだことで、実際、鴇じゃなくてもよく、人間というものは、常に、何らかの象徴を心に作り出し、それに執着することで、楽しみ、苦しみ、生きがいを見出したり、アイデンティティなんてもののよりどころにしてしまったりする。
天皇であれ、鴇であれ、イデオロギーであれ、象徴としてそれは実在していて、実在していない。現実の虚構性と、虚構の現実性とに違いがあるとすれば、前者はその象徴の有り様を無自覚に受け取っていて、後者は疑義を呈しているという差でしかないのかもしれんな。
しかし、疑義を呈し、現実の虚構を暴いたところで、彼の生きる虚構を形作る現実性もまた、現実の中の象徴を否定するために、自己のアイデンティティのために拵えた象徴としての思想でしかないのだ。
インターネットという、いわば、虚構と受け止められかねない世界を中心に生きる引きこもりと、現実として認識されるこの社会という現状との乖離を浮き彫りにしている作品だと、僕は受け取ってる。
本編ではないが、解説の精神科医の言葉が印象に残った。
・ほんらい妄想とは、論理的徹底性の産物なのだ。臨床的にも、パラノイアが治りにくいのは、彼がわれわれ以上に、厳密に論理的な考えかたをするためだ。
論理的に考える必要のないと思えるものにまで、厳密に論理的な思考で、遠く隔たっている事象を結びつける妄想力。それは、一方で、偉大な芸術を生み出し、学問の源泉をなすが、一方で、大いなるタブーに踏み込んだり、思考のカオスを招いたりする。
だから、そのような妄想力を持ちうる者は、世間一般でいうアウトサイダーとみなされるか、自ら感ずるか、はたまた、偉人となったり、この作品の青年のような結果(犯罪)を招くことにもなる。
著者は、渋谷を舞台としたプルトニウムをめぐる攻防を刺激的に描いた『インディビジュアル・プロジェクション』で注目を集めた「J文学」の旗手。第125回芥川賞候補作となった本書は、国の天然記念物「トキ」をテーマに、日本という「国家」の抱える矛盾をあぶりだした中編小説だ。
17歳の鴇谷(とうや)春生は、自らの名に「鴇(とき)」の文字があることからトキへのシンパシーを感じている引きこもり少年。日本産のトキの絶滅が決定的であるにもかかわらず、中国産のトキによる保護増殖計画に嬉々とする「欺瞞」に違和感を抱いていた春生は、故郷を追われたことをきっかけに「トキの解放」を夢想しはじめる。その選択肢は「飼育、解放、密殺」のいずれか。「ニッポニア・ニッポン問題の最終解決」という自らが描いたシナリオを手に、スタンガン、手錠、催涙スプレーで武装した春生は、やがて佐渡トキ保護センターを目指す…。
「俺を一人にしたことを、この国の連中すべてに後悔させてやる」と決意する春生は、拠るべき場所もなく孤独にさいなまれながら生きる現代人の「いらだち」を増幅させた人物。現実と虚構との境界が崩れてしまった若者だ。本書がきわめてスリリングなのは、その虚構への扉が読み手にも開かれている点だ。春生が情報収集するサイトは、ほとんどが現実に存在する。「虚構」の象徴とされるインターネットが、本書では読み手と春生をリアルにつなぐ重要な接点となっている。読み手をたえず挑発し、いつしか作品世界へと巻き込んでしまう快作だ。
鴇にたいする執着のバックグラウンドがその名前という一点にしか見出せないのは、恐らくは、作者が意図的に仕組んだことで、実際、鴇じゃなくてもよく、人間というものは、常に、何らかの象徴を心に作り出し、それに執着することで、楽しみ、苦しみ、生きがいを見出したり、アイデンティティなんてもののよりどころにしてしまったりする。
天皇であれ、鴇であれ、イデオロギーであれ、象徴としてそれは実在していて、実在していない。現実の虚構性と、虚構の現実性とに違いがあるとすれば、前者はその象徴の有り様を無自覚に受け取っていて、後者は疑義を呈しているという差でしかないのかもしれんな。
しかし、疑義を呈し、現実の虚構を暴いたところで、彼の生きる虚構を形作る現実性もまた、現実の中の象徴を否定するために、自己のアイデンティティのために拵えた象徴としての思想でしかないのだ。
インターネットという、いわば、虚構と受け止められかねない世界を中心に生きる引きこもりと、現実として認識されるこの社会という現状との乖離を浮き彫りにしている作品だと、僕は受け取ってる。
本編ではないが、解説の精神科医の言葉が印象に残った。
・ほんらい妄想とは、論理的徹底性の産物なのだ。臨床的にも、パラノイアが治りにくいのは、彼がわれわれ以上に、厳密に論理的な考えかたをするためだ。
論理的に考える必要のないと思えるものにまで、厳密に論理的な思考で、遠く隔たっている事象を結びつける妄想力。それは、一方で、偉大な芸術を生み出し、学問の源泉をなすが、一方で、大いなるタブーに踏み込んだり、思考のカオスを招いたりする。
だから、そのような妄想力を持ちうる者は、世間一般でいうアウトサイダーとみなされるか、自ら感ずるか、はたまた、偉人となったり、この作品の青年のような結果(犯罪)を招くことにもなる。
読書 『パーク・ライフ』
2005年5月5日 読書〔小説・詩〕
ISBN:4167665034 文庫 吉田 修一 文芸春秋 2004/10 ¥410
日比谷公園付近に住んでいる人には、親近感沸きそうな作品。文章自体は、上手いのだと思う。比喩を用いた心理描写は、村上春樹よりもくどくなくて好きだ。
表題作のパークライフは、男女というか、人間同士の距離感が上手く表せていたと思う。でも、普遍小説というよりは、まさしく現代小説だなあと。
情景がすんなり頭に浮かんではくるが、その情景が少しリアリティーにかけドラマじみていた。
停車してしまった日比谷線の中で、間違って話しかけた見知らぬ女性。知り合いのふりをしてくれた彼女は同じ駅で降り…。東京のド真ん中「日比谷公園」を舞台に男と女の「今」をリアルに描く、第127回芥川賞受賞作。
日比谷公園付近に住んでいる人には、親近感沸きそうな作品。文章自体は、上手いのだと思う。比喩を用いた心理描写は、村上春樹よりもくどくなくて好きだ。
表題作のパークライフは、男女というか、人間同士の距離感が上手く表せていたと思う。でも、普遍小説というよりは、まさしく現代小説だなあと。
情景がすんなり頭に浮かんではくるが、その情景が少しリアリティーにかけドラマじみていた。
読書 『猛スピードで母は』
2005年5月1日 読書〔小説・詩〕
ISBN:4167693011 文庫 長嶋 有 文芸春秋 2005/02 ¥400
表題作と、「サイドカーに犬」、両篇とも繊細で、好感が持てた。
両作とも子供から見た親、子供と親の関係を扱っている。
大人の事情に直面するときの子供ごころ、その戸惑いや落ち着き、寂しさや逞しさを作者は上手く描いていて、僕の幼い頃を思い返しても、そんな感じだった、と感情に心地よく響いてくる。
「サイドカーに犬」は、幾分ノスタルジックでもあり、その分表題作よりも、好きかもしれない。
文學界新人賞受賞作「サイドカーに犬」と芥川賞受賞作「猛スピードで母は」がカップリングされた長嶋有の第1作品集。
「サイドカーに犬」は、語り手の女性が小学4年生の夏休みに体験した、母親の家出に始まる父親の愛人との共同生活を回顧(懐古)する物語。ムギチョコや500円札、パックマンといったアイテムとともに描かれる1980年代初頭の時代風景が懐かしさをそそる。父の若い愛人である洋子さんの強烈な個性と存在感は、「猛スピードで母は」の母親の姿と相まって、自立的で自由な新しい女性のイメージを提示している。「サイドカーに犬」というタイトルには、大人と子どもの間の微妙な距離感がメタファー(暗喩)として込められている。大人と子どもの相互的なまなざしの交錯が、すぐれて文学的な「間」を演出している。
「猛スピードで母は」は、北海道で暮らす小学5年生の慎と母親の1年あまりの生活を描いた作品。大人の内面にはいっさい立ち入らず、慎の視線に寄り添う三人称体による語りが、子ども独特の皮膚感覚や時間感覚をうまく描き出している。さまざまな問題に直面しながらも、クールに現実に立ち向かう母親の姿を間近で見ることで、自らも自立へと誘われていく慎の姿が感動的だ。先行する車列を愛車シビックで「猛スピード」で追い抜いていく母親の疾走感覚は、この作品のテーマに直結している。物語の結末で示される国道のシーンは、読者の心に強く残るだろう。
表題作と、「サイドカーに犬」、両篇とも繊細で、好感が持てた。
両作とも子供から見た親、子供と親の関係を扱っている。
大人の事情に直面するときの子供ごころ、その戸惑いや落ち着き、寂しさや逞しさを作者は上手く描いていて、僕の幼い頃を思い返しても、そんな感じだった、と感情に心地よく響いてくる。
「サイドカーに犬」は、幾分ノスタルジックでもあり、その分表題作よりも、好きかもしれない。
読書 『海辺のカフカ (下)』
2005年4月25日 読書〔小説・詩〕
ISBN:4101001553 文庫 村上 春樹 新潮社 2005/02/28 ¥780
結果として、村上作品の中では、比較的好きな部類には入るのだが、だからといって特別に気に入ったというわけでもない。
ただ、作品の細部に、あきらかに「アンダーグラウンド」以降の変化は捉えることができるけど。作者の作品に一貫する若者の内省的な空虚感以外に社会性というものが多少なりとも仄見えるのは、サリン事件や、9.11なんかも、影響しているんだと思う。
ナカタさんは、僕たち大衆であり、ジョニーウォーカーは、得体の知れない強制力だ。中身を持たない、空虚で思考できない僕たちは、強制力に抗う術えを持たない。考えなければならない。
でも、やっぱり、村上作品ってどうも必然性に乏しいような気がする。一つのファンタジーとして読めばそれはそれでいいのだけど。
少々印象に残った文章
「もしそこに呪いがあるのなら、それを進んで引き受けようと思う」
「いいかい、戦いを終らせるための戦いといういうようなものはどこにもないんだよ」
結果として、村上作品の中では、比較的好きな部類には入るのだが、だからといって特別に気に入ったというわけでもない。
ただ、作品の細部に、あきらかに「アンダーグラウンド」以降の変化は捉えることができるけど。作者の作品に一貫する若者の内省的な空虚感以外に社会性というものが多少なりとも仄見えるのは、サリン事件や、9.11なんかも、影響しているんだと思う。
ナカタさんは、僕たち大衆であり、ジョニーウォーカーは、得体の知れない強制力だ。中身を持たない、空虚で思考できない僕たちは、強制力に抗う術えを持たない。考えなければならない。
でも、やっぱり、村上作品ってどうも必然性に乏しいような気がする。一つのファンタジーとして読めばそれはそれでいいのだけど。
少々印象に残った文章
「もしそこに呪いがあるのなら、それを進んで引き受けようと思う」
「いいかい、戦いを終らせるための戦いといういうようなものはどこにもないんだよ」
読書 『海辺のカフカ (上)』
2005年4月8日 読書〔小説・詩〕
ISBN:4101001545 文庫 村上 春樹 新潮社 2005/02/28 ¥740
文庫になるの早くないか?まあいいけど、上巻読んだ感じでは、今までの村上作品の中では結構好きなほうに入るかも。でも、まだ全部読んでみないとわかんないけどね。
ちょっと印象に残った言葉
・差別されるのがどういうことなのか、それがどれくらい深く人を傷つけるのか、それは差別された人間にしかわからない。痛みというのは個別的なもので、そのあとには個別的な傷口が残る。だから公平さや公正さを求めるという点では、僕だって誰にもひけをとらないと思う。ただね、僕がそれよりもさらにうんざりさせられるのは、想像力を欠いた人々だ。T・S・エリオットの言う〈うつろな人間達〉だ。その想像力の欠如した部分を、うつろな部分を、無感覚な藁くずで埋めて塞いでいるくせに、自分ではそのことに気づかないで表を歩き回っている人間だ。そしてその無感覚さを、空疎な言葉を並べて、他人に無理に押し付けようとする人間だ。
・俺は別に頭なんて良かねえよ。ただ俺には俺の考え方があるだけだ。だから良くみんなによくうっとうしがられる。あいつはすぐにややこしいことを言い出すってさ。自分の頭でものを考えようとすると、だいたい煙たがられるものなんだ。
15歳の誕生日、少年は夜行バスに乗り、家を出た。一方、猫探しの老人・ナカタさんも、なにかに引き寄せられるように西へと向かう。暴力と喪失の影の谷を抜け、世界と世界が結びあわされるはずの場所を求めて。
文庫になるの早くないか?まあいいけど、上巻読んだ感じでは、今までの村上作品の中では結構好きなほうに入るかも。でも、まだ全部読んでみないとわかんないけどね。
ちょっと印象に残った言葉
・差別されるのがどういうことなのか、それがどれくらい深く人を傷つけるのか、それは差別された人間にしかわからない。痛みというのは個別的なもので、そのあとには個別的な傷口が残る。だから公平さや公正さを求めるという点では、僕だって誰にもひけをとらないと思う。ただね、僕がそれよりもさらにうんざりさせられるのは、想像力を欠いた人々だ。T・S・エリオットの言う〈うつろな人間達〉だ。その想像力の欠如した部分を、うつろな部分を、無感覚な藁くずで埋めて塞いでいるくせに、自分ではそのことに気づかないで表を歩き回っている人間だ。そしてその無感覚さを、空疎な言葉を並べて、他人に無理に押し付けようとする人間だ。
・俺は別に頭なんて良かねえよ。ただ俺には俺の考え方があるだけだ。だから良くみんなによくうっとうしがられる。あいつはすぐにややこしいことを言い出すってさ。自分の頭でものを考えようとすると、だいたい煙たがられるものなんだ。
ISBN:4167653036 文庫 町田 康 文藝春秋 2004/04/07 ¥450
でも実は、僕の思考と似てるところがあって、結構、町田康の文体は僕に合う。
一貫して退廃的な人生を描き続けるのは、作者本人の憧憬からか。
デカダンを気取ったところで何もないことを知りつつもなぜ人間は憧れるのか。人間の本質は怠惰そのものであるということを諦観を交え描きつつ、しかしながら、作者の嘆きもその背後に感じられぬでもない。
「きれぎれ」はともかく、「人生の聖」は、ほんとに薬やりながら書いたんちゃうけ?
「―― 大きい俺や小さい俺、青空に円形に展開、みな、くわっとした格好で中空に軽くわなないている ――」。親のすねをかじりながら無為の日々を送っていた「俺」はかつて、ともに芸術家を志し、その才能を軽視していた友人が画家として成功したことを知る。しかも、美貌と評判高い彼の妻は、「俺」が見合いをして断った女だという。よじれて歪んだ心が生むイメージが暴走した果てに「俺」が見たものは…。母いわく、ラリッた状態で書いたような文体。
著者は、パンク歌手であり詩人であり俳優であるという異色作家。『夫婦茶碗』 『へらへらぼっちゃん』など、独特のビート感あふれる作品を意欲的に発表し、個性派作家として注目を浴びている。若い世代を中心に「ストリート系」、「J文学」などともてはやされる一方で、ナンセンスなストーリー展開やメッセージ性の希薄さなどから「キワモノ」であるという冷ややかな評価も受けていた。ところが、一見、一貫性を欠いているようにも思われる言葉の連射の間隙に、透明感を与えることに成功した本作で芥川賞を受賞したことで評価は一変し、純文学の新たな地平を開く作家としての栄誉を得た。好悪の分かれる作家ではあるが、繰り出される言葉のリズムに身をまかせて一種のカタルシスを得ることができるか、違和感を抱くか、それは作品に触れて確かめてほしい。
でも実は、僕の思考と似てるところがあって、結構、町田康の文体は僕に合う。
一貫して退廃的な人生を描き続けるのは、作者本人の憧憬からか。
デカダンを気取ったところで何もないことを知りつつもなぜ人間は憧れるのか。人間の本質は怠惰そのものであるということを諦観を交え描きつつ、しかしながら、作者の嘆きもその背後に感じられぬでもない。
「きれぎれ」はともかく、「人生の聖」は、ほんとに薬やりながら書いたんちゃうけ?