「自分がない」、とはどういうことをいうのだろう、ということです。
僕は確かに中学生あたりまで、自分のない人間でした。
境界性人格障害の特徴はアイデンティティの欠如です。
しかし、僕は幼馴染に、障害ゆえ決別されたとき、障害を盾に取るのではなく、障害に立ち向かう形で、徹底的な内省を行い、自分自身と向き合ってきたつもりだし、自分なりのアイデンティティを作ってきたつもりです。
今では、完全ではありませんが、かなりの部分、境界的な兆候は改善できたし、自分の芯も持っている、という自負があります。
今までの僕の日記を読んでくれている人なら、僕が自分の考えを持たず、自分がないという風に捉えてはいないだろうと信じたいし、僕ももともとそういった目的、つまり自分の日常の透明化と、考えの発露の場としてここを利用しています。
しかしながら、言葉というものは難しいです。
僕はもともと言葉をよく間違えます。頭の回転がはやくないのだと思います。薬を飲んでるからか、もともとからかはわかりません。
注意が瞬時には行き届かない。だから車も事故を短期間で三回起こすし、物をよくなくすし、クイズの早押しも不得意です。
逆に家でこうやって文章を書くときは、見直しできるのでよいですね。
夢中で話しているとき、本人は至ってまじめなのに、言葉の間違いを注意されることが度々あります。
ゆえに、僕は適当だと思われることがあります。
しかしながら、僕はそれが自分のジョークとして周りを和やかにするのだったら、むしろうれしいし構いません。
それが誤解であったとしても、適当という言葉を否定する気もありません。むしろ自ら意図的に適当を装っているときも結構あります。
なぜなら、それは「瑣末」なことだからです。
人が自分の考えを貫くのは、自分の信念に抵触する事柄において最も重要であり、その他の瑣末な、世間話や、雑談においては、自分の考えを貫くことばかりが正しいことだとも思っていません。
人間はそもそも間違う生き物です。
言葉を間違ったからといって、それが自分がないわけではないと思っています。
言葉は難しい、それを痛感するのは、人によって、その言葉の受け取り方が千差万別だからです。
僕の意図したかったニュアンスが、その言葉によって、うまく伝わらないことは当然起こりえるわけです。
「気に入っている」という言葉一つにとっても、様々な意味がそこに含有されています。
会話の中で、間違いを犯したなら、その間違いを訂正しながら、相手にもっともうまく伝わるニュアンスに言い換えていく。そういう行為が必要になります。
そのときに、いかに今の会話の雰囲気を壊さずに相手に自分の意志を伝えるか、も重要だと思います。自分の人間性に抵触しない瑣末な会話に、わざわざ直接的な言辞を用いて、相手を不快にさせてまで自分の意志を伝えることを僕は良しとしません。
ですから相手の意見も肯定しつつ、自分の意見を相手に伝えるなかで、結果的に同じ言葉を相手のニュアンスにおいて使った場合、自分がさっき使った言葉を否定するという形をとる場合もあります。
それは、「こういうニュアンスで僕はこの言葉を使ったけど、あなたはこういうニュアンスでこの言葉を捉えているみたいなので、その意味においてなら、この言葉は適切でない」という僕の意志の表明でもあり、その後に代替されるべき言葉が付与されます。
しかし、その代替されるべき言葉を発する前の時間において、僕は、周りから、「自分のない人間」という風に映る危険性もあるのだということを学びました。
そういった危険性を避けるためには、やはりもっと言葉を知り、そして無意識にも言葉の誤りを犯さないようになっていくことが何よりだと考えています。
さて、瑣末なことは妥協があってもよい、ですが、自分や相手の人間性と対峙するようなときは、僕は自分の意志を妥協しません。
そういう部分に対しては、弱い心に屈したことがないとはいいませんが、努力し、貫いてきたつもりです。
たとえば、相手が僕に真剣に悩みを相談してきたときには、僕は問題をうやむやに受け流したりはしません。真剣に聞き、真剣に考え、相手にちゃんと自分の考える自分の意志を伝えます。もちろん、相手の性格や伝わりやすいと僕が考える言葉を使ってですが、伝えるべき内容に変わりはありません。
きつくいうのが効果的な相手、諭すようにいうのが効果的な相手、僕なりに判断して、じっくり話し合います。
そのときは、僕の考えが否定されても、納得のいく論理的根拠を持って僕の考えの矛盾を暴かれない限り、僕は自説をけして曲げません。
そしてもう一つ、自己の意志の発露としていうなら、僕は高校を卒業してから、ほとんど、人に対して、抽象的に相手の人間性を否定する言葉を使いません。
それを僕は中傷と解しているのですが、具体がない非難、「バカ」や「アホ」や「マヌケ」などの言葉は、ここ数年間、ジョーク(これもほとんど使いませんが)で多少使うことはあっても、まじめな場では、使ってはいないし、その方針を変えるつもりもありません。
この中傷に関しては書いている日記がありますので、折を見て載せようと思っています。
もし僕が自分がない人間であったなら、こんなことをここには書かないでしょう。
これは僕がどういった人間であるかの僕の意志の表白であり、僕の自分というものの示し方です。
僕の行動において誤解を生じる事があるなら、僕の文章をちゃんと読んでもらえればその誤解は解けるものだと思っているし、そういった誤解を生じさせないためにも僕はここにこうやって自分の意見を書くことを辞めるつもりもないし、そしてそのこと自体が、僕という個性の表明だと考えています。
瑣末なことに妥協するのは、コミュニケーションを円滑にするために僕が考え導き出した僕の意志だし、何も考えずに適当に妥協しているのでもなければ、適当に言葉を発しているつもりも毛頭ありません。
また、当然ながら僕は自分の意見を持っているし、この日記に書いたがごとく、意志を発露しているし、自分では、普通の人が持っている程度には「自分がある」という意見を持っています。
僕は確かに中学生あたりまで、自分のない人間でした。
境界性人格障害の特徴はアイデンティティの欠如です。
しかし、僕は幼馴染に、障害ゆえ決別されたとき、障害を盾に取るのではなく、障害に立ち向かう形で、徹底的な内省を行い、自分自身と向き合ってきたつもりだし、自分なりのアイデンティティを作ってきたつもりです。
今では、完全ではありませんが、かなりの部分、境界的な兆候は改善できたし、自分の芯も持っている、という自負があります。
今までの僕の日記を読んでくれている人なら、僕が自分の考えを持たず、自分がないという風に捉えてはいないだろうと信じたいし、僕ももともとそういった目的、つまり自分の日常の透明化と、考えの発露の場としてここを利用しています。
しかしながら、言葉というものは難しいです。
僕はもともと言葉をよく間違えます。頭の回転がはやくないのだと思います。薬を飲んでるからか、もともとからかはわかりません。
注意が瞬時には行き届かない。だから車も事故を短期間で三回起こすし、物をよくなくすし、クイズの早押しも不得意です。
逆に家でこうやって文章を書くときは、見直しできるのでよいですね。
夢中で話しているとき、本人は至ってまじめなのに、言葉の間違いを注意されることが度々あります。
ゆえに、僕は適当だと思われることがあります。
しかしながら、僕はそれが自分のジョークとして周りを和やかにするのだったら、むしろうれしいし構いません。
それが誤解であったとしても、適当という言葉を否定する気もありません。むしろ自ら意図的に適当を装っているときも結構あります。
なぜなら、それは「瑣末」なことだからです。
人が自分の考えを貫くのは、自分の信念に抵触する事柄において最も重要であり、その他の瑣末な、世間話や、雑談においては、自分の考えを貫くことばかりが正しいことだとも思っていません。
人間はそもそも間違う生き物です。
言葉を間違ったからといって、それが自分がないわけではないと思っています。
言葉は難しい、それを痛感するのは、人によって、その言葉の受け取り方が千差万別だからです。
僕の意図したかったニュアンスが、その言葉によって、うまく伝わらないことは当然起こりえるわけです。
「気に入っている」という言葉一つにとっても、様々な意味がそこに含有されています。
会話の中で、間違いを犯したなら、その間違いを訂正しながら、相手にもっともうまく伝わるニュアンスに言い換えていく。そういう行為が必要になります。
そのときに、いかに今の会話の雰囲気を壊さずに相手に自分の意志を伝えるか、も重要だと思います。自分の人間性に抵触しない瑣末な会話に、わざわざ直接的な言辞を用いて、相手を不快にさせてまで自分の意志を伝えることを僕は良しとしません。
ですから相手の意見も肯定しつつ、自分の意見を相手に伝えるなかで、結果的に同じ言葉を相手のニュアンスにおいて使った場合、自分がさっき使った言葉を否定するという形をとる場合もあります。
それは、「こういうニュアンスで僕はこの言葉を使ったけど、あなたはこういうニュアンスでこの言葉を捉えているみたいなので、その意味においてなら、この言葉は適切でない」という僕の意志の表明でもあり、その後に代替されるべき言葉が付与されます。
しかし、その代替されるべき言葉を発する前の時間において、僕は、周りから、「自分のない人間」という風に映る危険性もあるのだということを学びました。
そういった危険性を避けるためには、やはりもっと言葉を知り、そして無意識にも言葉の誤りを犯さないようになっていくことが何よりだと考えています。
さて、瑣末なことは妥協があってもよい、ですが、自分や相手の人間性と対峙するようなときは、僕は自分の意志を妥協しません。
そういう部分に対しては、弱い心に屈したことがないとはいいませんが、努力し、貫いてきたつもりです。
たとえば、相手が僕に真剣に悩みを相談してきたときには、僕は問題をうやむやに受け流したりはしません。真剣に聞き、真剣に考え、相手にちゃんと自分の考える自分の意志を伝えます。もちろん、相手の性格や伝わりやすいと僕が考える言葉を使ってですが、伝えるべき内容に変わりはありません。
きつくいうのが効果的な相手、諭すようにいうのが効果的な相手、僕なりに判断して、じっくり話し合います。
そのときは、僕の考えが否定されても、納得のいく論理的根拠を持って僕の考えの矛盾を暴かれない限り、僕は自説をけして曲げません。
そしてもう一つ、自己の意志の発露としていうなら、僕は高校を卒業してから、ほとんど、人に対して、抽象的に相手の人間性を否定する言葉を使いません。
それを僕は中傷と解しているのですが、具体がない非難、「バカ」や「アホ」や「マヌケ」などの言葉は、ここ数年間、ジョーク(これもほとんど使いませんが)で多少使うことはあっても、まじめな場では、使ってはいないし、その方針を変えるつもりもありません。
この中傷に関しては書いている日記がありますので、折を見て載せようと思っています。
もし僕が自分がない人間であったなら、こんなことをここには書かないでしょう。
これは僕がどういった人間であるかの僕の意志の表白であり、僕の自分というものの示し方です。
僕の行動において誤解を生じる事があるなら、僕の文章をちゃんと読んでもらえればその誤解は解けるものだと思っているし、そういった誤解を生じさせないためにも僕はここにこうやって自分の意見を書くことを辞めるつもりもないし、そしてそのこと自体が、僕という個性の表明だと考えています。
瑣末なことに妥協するのは、コミュニケーションを円滑にするために僕が考え導き出した僕の意志だし、何も考えずに適当に妥協しているのでもなければ、適当に言葉を発しているつもりも毛頭ありません。
また、当然ながら僕は自分の意見を持っているし、この日記に書いたがごとく、意志を発露しているし、自分では、普通の人が持っている程度には「自分がある」という意見を持っています。
OCD(強迫性障害)の有名人
2008年4月21日 僕について コメント (224)
意外に強迫性障害に苦しんでいる人は多いですが、その数に比べて、世間の認知というのは、圧倒的に低い障害だと思います。
OCDの自分が見ると、その人がOCD的傾向のある人かどうかけっこうわかります。しかし、それを自分が苦と感じない限り障害とは呼べませんので、強迫的な傾向という言葉を使ったわけですが。
たとえば、強迫で比較的メジャーで初期段階なのが、チックという症状ですね。
瞼を何度もパチパチやる人。
たとえば、石原慎太郎とかですね。
あと、首を何度も傾げる人。
ビート武なんかも、強迫的傾向のある人だと思います。
ビート武は、原付で事故を起こして、頭を強打したあと、その動きが見られなくなったのも興味深いことだと思います。
強迫性障害でまず思い浮かぶのが、ディカプリオ主演で映画(「アビエイター」)にもなったハワード・ヒューズというアメリカの大富豪です。
過度の潔癖症で、最後には、人と会うのを避け、ホテルを買い取って、その一室の中で20年間一人でいつづけ、孤独な最後を迎えました。
当時は強迫性障害という呼び名さえなく、単なる変な癖、奇人と捉えられていたでしょうから、さぞ辛かったでしょうね。
若い頃は、ハンサムでそして富も名声も手に入れた彼ですが、その生涯はけして幸福なものではなかったのではないでしょうか。
最近、カミングアウトした有名人といえば、なんといってもデビッド・ベッカムです。
彼は、なんていうんでしょう、整頓強迫?左右対象(シンメトリー)強迫?
左右対象強迫は僕も経験してきました。
ベッカムの言や文章をここに引用させてもらいます。
と同時に、潔癖症(これも強迫)も併発しているそうです。
ベッカムは、周りの協力で、チームメイトと時間を過ごせるようになったらしいです。
あと、これは個人的見解ですが、天才ピアニストのグレングールドも、過度の潔癖症で、ピアノを弾く前には、丹念に手を洗い、夏でも冬の服装をして体を守っていたことから、現在では強迫性障害と位置づけられるのではないかと思います。
彼も非常に孤独な人でしたが、それはまた今度別のところで書こうとお思います。
他にも強迫をカミングアウトしたのは、俳優のビリーボブ・ソーントン。
ウディ・アレンとかハリソン・フォードとかもいわれているらしいですが、こちらは、ほんとかわからないらしいです。
森鴎外も、細菌を気にして、火を通したもの以外の食物は食べなかったといいますから、幾分強迫の気があったのかも?
映画で強迫が取り上げられているのは、『アビエイター』『恋愛小説家』『マッチ・スティック・メン』などがあります。『恋愛小説海外』以外は見たことないので、強迫がどのように取り上げられているか興味深いところですね。
僕自身は、メジャーな潔癖強迫や確認強迫はないものの、非常に珍しい、強迫行為をしてしまいます。まあ、いずれそれはまた。
なんにせよ、昔から強迫の人間は存在していたものの、強迫が障害だと認知されたのは、非常に最近のことです。
認知度の低さからくる沢山の偏見のなか、障害者が生活していくことは非常に困難なことだと思います。
僕たち障害者は自分の障害の説明責任があると思いますし、健常者の人には、少しでも多く、強迫や強迫だけでなく他の様々な障害に対する知識を持ってもらい、偏見がなくなって生きやすい世の中になればと願っています。
もちろん、障害を負っている僕当人も、僕が抱えている障害以外の障害を知っていく行為を続けて自分の中の偏見もなくしていかなければと思っています。
OCDの自分が見ると、その人がOCD的傾向のある人かどうかけっこうわかります。しかし、それを自分が苦と感じない限り障害とは呼べませんので、強迫的な傾向という言葉を使ったわけですが。
たとえば、強迫で比較的メジャーで初期段階なのが、チックという症状ですね。
瞼を何度もパチパチやる人。
たとえば、石原慎太郎とかですね。
あと、首を何度も傾げる人。
ビート武なんかも、強迫的傾向のある人だと思います。
ビート武は、原付で事故を起こして、頭を強打したあと、その動きが見られなくなったのも興味深いことだと思います。
強迫性障害でまず思い浮かぶのが、ディカプリオ主演で映画(「アビエイター」)にもなったハワード・ヒューズというアメリカの大富豪です。
過度の潔癖症で、最後には、人と会うのを避け、ホテルを買い取って、その一室の中で20年間一人でいつづけ、孤独な最後を迎えました。
当時は強迫性障害という呼び名さえなく、単なる変な癖、奇人と捉えられていたでしょうから、さぞ辛かったでしょうね。
若い頃は、ハンサムでそして富も名声も手に入れた彼ですが、その生涯はけして幸福なものではなかったのではないでしょうか。
最近、カミングアウトした有名人といえば、なんといってもデビッド・ベッカムです。
彼は、なんていうんでしょう、整頓強迫?左右対象(シンメトリー)強迫?
左右対象強迫は僕も経験してきました。
ベッカムの言や文章をここに引用させてもらいます。
「僕は強迫性障害で、なんでもまっすぐに並んでいないと気がすまないし、なんでもペアになっていないと気がすまない」
「コーラの缶を冷蔵庫に入れるときも、もし1つ多くてペアにならないときは、それを出して、どこか別の棚に入れなくてはいけない。それが問題なんだ」
「ホテルの部屋に入ったら、まず全部のパンフレットや本を並べなおして、引き出しにしまわないとリラックスできない。すべてがパーフェクトでないといけないから」
「家の家具をまっすぐに並べ直したり、冷蔵庫に入れたものが完璧な形で並んでいるかどうかを気にして、何時間も過ごすことがある」
問題のテレビインタビューの続報で、イギリスの大衆紙『サンデーミラー』(4月2日付)は、<ベッカムがOCDではないかという噂はかねがねあったものの、公の場で語ったのはこれが初めてだ>と書いていました。ベッカムは過去にも、「すべて白で統一された家具に合わせて、家では白い服を着ている」と語ったことがあるそうなのです。
ヴィクトリア夫人は、変わった癖をもつ彼のことを「ヘンな人(weirdo)」と言い、「コーラの缶が3つあると、彼は1つを捨ててしまうの。数が合わないからよ」と語ったことがあるそうです。
と同時に、潔癖症(これも強迫)も併発しているそうです。
ベッカムは、周りの協力で、チームメイトと時間を過ごせるようになったらしいです。
あと、これは個人的見解ですが、天才ピアニストのグレングールドも、過度の潔癖症で、ピアノを弾く前には、丹念に手を洗い、夏でも冬の服装をして体を守っていたことから、現在では強迫性障害と位置づけられるのではないかと思います。
彼も非常に孤独な人でしたが、それはまた今度別のところで書こうとお思います。
他にも強迫をカミングアウトしたのは、俳優のビリーボブ・ソーントン。
ウディ・アレンとかハリソン・フォードとかもいわれているらしいですが、こちらは、ほんとかわからないらしいです。
森鴎外も、細菌を気にして、火を通したもの以外の食物は食べなかったといいますから、幾分強迫の気があったのかも?
映画で強迫が取り上げられているのは、『アビエイター』『恋愛小説家』『マッチ・スティック・メン』などがあります。『恋愛小説海外』以外は見たことないので、強迫がどのように取り上げられているか興味深いところですね。
僕自身は、メジャーな潔癖強迫や確認強迫はないものの、非常に珍しい、強迫行為をしてしまいます。まあ、いずれそれはまた。
なんにせよ、昔から強迫の人間は存在していたものの、強迫が障害だと認知されたのは、非常に最近のことです。
認知度の低さからくる沢山の偏見のなか、障害者が生活していくことは非常に困難なことだと思います。
僕たち障害者は自分の障害の説明責任があると思いますし、健常者の人には、少しでも多く、強迫や強迫だけでなく他の様々な障害に対する知識を持ってもらい、偏見がなくなって生きやすい世の中になればと願っています。
もちろん、障害を負っている僕当人も、僕が抱えている障害以外の障害を知っていく行為を続けて自分の中の偏見もなくしていかなければと思っています。
忘れないこと、忘れること
2008年4月17日 僕について16日の日記は、約一年前に書いたものです。
僕はいつからこんなふうになったんでしょう。
まあ、ずっと色んな経験してきたわけなんですけど、対人不信に決定打を与えた出来事は、たぶん高校時代に、障害の真似をされ続けたことだと思います。
そして、その中に、高校一年のときは同じテニス部で、最も仲がよかった友人がいました。
受験も近まり、僕のストレスが強迫の悪化を招いたのかはわかりませんが、おそらく隠しても隠しきれないほどの奇異な行動をとっていたのでしょう。
最も信頼していた友人に障害の真似をされたこと。
人を信じられなくなった僕は、部活の連中にさえも心を閉ざしました。
誰とも距離をとるようになりました。
大学に入っても、真似をされる声、幻聴が聞こえました。
僕はもともとそういうことを信じるたちではないのですが、幻聴というのは本当にあるのですね。
精神が相当参っていたということかもしれません。
その友人と卒業して会った事があります。
部活の同窓会に頑張って出たときです。
もしかしたら、以前の憎しみを乗り越えられるかもしれない、そう思って出たのです。
ですが、だめでした。
僕はその場で、発狂に近い醜態をさらしてしまいました。
その友人は、医者を目指していました。
僕は「人の心がわからないやつに、人の命が救えるか!」と、みんなの前で大声で糾弾してしまったのです。
そのとき、友人ははじめて自分のしでかした罪の大きさを認識したようです。
しばらくして、再び彼に会ったとき、友人は、「お前にやったことを考えると、今、生きづらい」と言いました。
現在の彼に憎しみがあるわけではありません。
しかし、高校時代、あのときの彼に対する憎しみは、そう簡単に消えてはくれません。
もう会うこともないでしょうし、会うつもりもありません。
部活の同僚にも心を開けなくなった僕は、その後誘いを一切断り、連絡を絶ちました。あの頃を思い出すことに係わって冷静でいられる自信はありません。
あのときの事を友人は忘れずに教訓とし、人の気持を第一に考える立派な医者になって欲しいと思っています。
そうなってくれることが、そして彼の行動で、僕のようになる人間を二度と出さないことこそが、あの時の罪の購いであり、僕も憎しみを消せるかもしれない唯一の可能性だと思います。
彼はあのときのことを忘れてはいけない。
僕はあのときの事を忘れるように努力しなければ。
その後のことは、また今度書こうと思います。
僕はいつからこんなふうになったんでしょう。
まあ、ずっと色んな経験してきたわけなんですけど、対人不信に決定打を与えた出来事は、たぶん高校時代に、障害の真似をされ続けたことだと思います。
そして、その中に、高校一年のときは同じテニス部で、最も仲がよかった友人がいました。
受験も近まり、僕のストレスが強迫の悪化を招いたのかはわかりませんが、おそらく隠しても隠しきれないほどの奇異な行動をとっていたのでしょう。
最も信頼していた友人に障害の真似をされたこと。
人を信じられなくなった僕は、部活の連中にさえも心を閉ざしました。
誰とも距離をとるようになりました。
大学に入っても、真似をされる声、幻聴が聞こえました。
僕はもともとそういうことを信じるたちではないのですが、幻聴というのは本当にあるのですね。
精神が相当参っていたということかもしれません。
その友人と卒業して会った事があります。
部活の同窓会に頑張って出たときです。
もしかしたら、以前の憎しみを乗り越えられるかもしれない、そう思って出たのです。
ですが、だめでした。
僕はその場で、発狂に近い醜態をさらしてしまいました。
その友人は、医者を目指していました。
僕は「人の心がわからないやつに、人の命が救えるか!」と、みんなの前で大声で糾弾してしまったのです。
そのとき、友人ははじめて自分のしでかした罪の大きさを認識したようです。
しばらくして、再び彼に会ったとき、友人は、「お前にやったことを考えると、今、生きづらい」と言いました。
現在の彼に憎しみがあるわけではありません。
しかし、高校時代、あのときの彼に対する憎しみは、そう簡単に消えてはくれません。
もう会うこともないでしょうし、会うつもりもありません。
部活の同僚にも心を開けなくなった僕は、その後誘いを一切断り、連絡を絶ちました。あの頃を思い出すことに係わって冷静でいられる自信はありません。
あのときの事を友人は忘れずに教訓とし、人の気持を第一に考える立派な医者になって欲しいと思っています。
そうなってくれることが、そして彼の行動で、僕のようになる人間を二度と出さないことこそが、あの時の罪の購いであり、僕も憎しみを消せるかもしれない唯一の可能性だと思います。
彼はあのときのことを忘れてはいけない。
僕はあのときの事を忘れるように努力しなければ。
その後のことは、また今度書こうと思います。
手段という木に実る、夢という果実
2008年3月26日 僕について
僕の夢は、辛い思いをしている人の生きる養分の一部として機能したい、というものです。
当然一人の人間ですから、気力体力に限界があります。
また、近年の僕は、自分自身が、他者とコミュニケートして得る幸福も追求してよいのだ、という風に考え方が変化してきています。
これは良い兆候だと思いますが、そうなると、やはり沢山の苦しむ人と深く向き合う時間はさらに削られていきます。
どうやったら、自分の生活も等閑にせず、他者への力となっていけるのか、それも出来るだけ沢山の人に。
そう考えたとき、やはり何かの部分に妥協をしなければならないでしょう。
広さをとるか、深さをとるか。
人それぞれでしょうが、僕は、経験から、広さ、を取りました。
一人一人と向き合っていくことは、その人の人生を根本的に救う可能性もありますが、自分の気力や体力の限界を見極めるのも難しいし、人間は、いくら客観的に見たとしても、最終的には主観から離れられることは出来ません。
ですから、その人の力になろうとして、結果的に自分の主張を相手に押し付けてしまい、状態をさらに悪化させる原因ともなりえます。
僕は以前、欲張って広さと深さを両方追求しました。
より沢山の人の辛さと、深く向き合っていきたい。
僕がまだ働いていない頃でしたが、それでも僕は幾人かの人をさらに傷つけてしまうという失敗を犯してしまいました。
僕はマザーテレサのように無私の心を貫き、広く深く向き合うことは出来そうにありません。
ですから、自分のさまざまな部分を鑑みた上と、今までの経験から、広さの方を自分の夢の目標に据えたのです。
僕は人の幸せな姿を見るのが好きです。
人の幸せをみると、自分も幸せになります。
そこに多少なりとも自分が関与していれば、なおさらです。
これは、幼い頃、まだ僕が自分を「物」の観点で見ていたときに、「自分に人並みな幸せというものはない。だったら、他人に幸せを分けてもらおう。人の力に、何らかの役に立つことで、自分もその人の幸せを共有させてもらおう」、という考えから生まれたものです。
価値観が変質した今でも、発端はどうあれ、人の幸せを共有したい、という気持ちは間違ってはいない、と思っています。
昔の僕と今の僕で違うのは、自分の幸せも自分自身で作ってよいのだ、という考えが付加されたことでしょうか。
僕は、何も他者の人生の真ん中に位置を据える必要はないんです。
その人の人生の、ほんの一断片、ねじの一本にでもなれればと思っています。
僕の言ったこと、考えたことが、何かの辛いとき、ふと浮かんでちょっと心強くなる、その程度のことでいいと思っています。
自分が主観から抜け出せないなら、相手の主観に自分の言葉や考えを委ねる、僕は力となりうる可能性という種を残すだけ、これが、相手を傷つけず迷惑をかけず広く多くの人の力となれる最善の方法ではないかと考え付きました。
なんにせよ、僕は、夢の実現のためにもっと勉強をしないといけないし、そのための時間も必要になって来るでしょう。
さて、夢の実現についてですが、どうすれば、沢山の人の辛さの力となりうる可能性を持つことが出来るか。
この場合、夢の到達点としてよくあげられる「〜になりたい」という表現が、実現への「手段」となってきます。〜になることが夢ではありません、それは手段であり、目標を達成するためのスタートラインに過ぎないんです。
まだ僕はその段階にもいってないわけですが。。。
僕の掲げる手段である「〜」は、幸いにも時間制限が自分の寿命と重なります。かといってそんなに悠長にもしてられないんですけどね(笑)
僕の夢の手段である「〜」はここでは伏せておきます。特に意味はありませんが。
なれたらいいな、まあ、なれなくても同じような作用をもった行動をすることは出来るわけです。ここにこうやって書いてることだって、作用としてはものすごく小規模ですが、同じ原理なわけですし。
まあ、生涯をかけて努力し追い続ける「手段」であることには変わりません。
僕は以前は無私の姿勢にあこがれていましたが、今は無私というものに幾分懐疑的でもあります。
マザーテレサを僕は無私だと表現しましたが、彼女の場合は、無私でいることで自己実現を成し遂げられる思考と環境を持っていたからです。
それは、多大な決意の元に修道僧のように一般の社会から乖離された世界に身をおいてこそ、成し遂げられるものだと思うし、そこにもやはり、家族や、自分の他のやりたいことなどを犠牲にしなければいけないという矛盾を胚胎するわけです、その矛盾は、神への奉仕という論理で埋められるわけですが、僕が生活する場所は、そのような乖離した世界ではありません、ですから、一人の人間として、自分自身もないがしろにせず、神とは違う形で、自分も救済していくのが真っ当だと考えています。
一般の中で、資本主義にのっとった方法で、他者の力となり、自分のしたいことも実現する。
幸運にも、僕の夢と、自分自身の「色んなことをもっと知っていきたい」という願望、つまり自分のしてみたいことは、地続きになっています。自分のやりたいことを続けていけば、「手段」へと収束されていく、そして、その手段は、やがて目標に据えている、「夢」へと結実するわけです。
しかし、夢という果実を立派に実らせるには、手段というたくましい木が必要ですし、たくましい木が生るためには、しっかりとした、豊穣で肥沃な土壌が必要です。
僕は現在を雌伏期と捉えています。
つまり、今は、まだ土壌を作っている段階です。
肥沃な土壌を作り上げた上で、そこに決意の一歩という種を投げ込んだなら、適宜、新たな知見という水を与えていけば、木は自ずから成長し、沢山の実を宿らせることと信じています。
そしてその果実を食べたいと思った人が、その実を食べ、乾いた体(心)を少しでも満たしてくれたならと思います。
食べずに捨てられた実も、その実が朽ち果てたのち(つまり僕の寿命が潰えたのち)、誰かの土壌の養分となってくれることを信じています。
僕の夢、その夢の実現のために、僕は僕と同じように夢を持ち、そして成し遂げた沢山の人の夢の結実である実を食べ、僕という乾いた土地を少しずつ潤していっているのです。
当然一人の人間ですから、気力体力に限界があります。
また、近年の僕は、自分自身が、他者とコミュニケートして得る幸福も追求してよいのだ、という風に考え方が変化してきています。
これは良い兆候だと思いますが、そうなると、やはり沢山の苦しむ人と深く向き合う時間はさらに削られていきます。
どうやったら、自分の生活も等閑にせず、他者への力となっていけるのか、それも出来るだけ沢山の人に。
そう考えたとき、やはり何かの部分に妥協をしなければならないでしょう。
広さをとるか、深さをとるか。
人それぞれでしょうが、僕は、経験から、広さ、を取りました。
一人一人と向き合っていくことは、その人の人生を根本的に救う可能性もありますが、自分の気力や体力の限界を見極めるのも難しいし、人間は、いくら客観的に見たとしても、最終的には主観から離れられることは出来ません。
ですから、その人の力になろうとして、結果的に自分の主張を相手に押し付けてしまい、状態をさらに悪化させる原因ともなりえます。
僕は以前、欲張って広さと深さを両方追求しました。
より沢山の人の辛さと、深く向き合っていきたい。
僕がまだ働いていない頃でしたが、それでも僕は幾人かの人をさらに傷つけてしまうという失敗を犯してしまいました。
僕はマザーテレサのように無私の心を貫き、広く深く向き合うことは出来そうにありません。
ですから、自分のさまざまな部分を鑑みた上と、今までの経験から、広さの方を自分の夢の目標に据えたのです。
僕は人の幸せな姿を見るのが好きです。
人の幸せをみると、自分も幸せになります。
そこに多少なりとも自分が関与していれば、なおさらです。
これは、幼い頃、まだ僕が自分を「物」の観点で見ていたときに、「自分に人並みな幸せというものはない。だったら、他人に幸せを分けてもらおう。人の力に、何らかの役に立つことで、自分もその人の幸せを共有させてもらおう」、という考えから生まれたものです。
価値観が変質した今でも、発端はどうあれ、人の幸せを共有したい、という気持ちは間違ってはいない、と思っています。
昔の僕と今の僕で違うのは、自分の幸せも自分自身で作ってよいのだ、という考えが付加されたことでしょうか。
僕は、何も他者の人生の真ん中に位置を据える必要はないんです。
その人の人生の、ほんの一断片、ねじの一本にでもなれればと思っています。
僕の言ったこと、考えたことが、何かの辛いとき、ふと浮かんでちょっと心強くなる、その程度のことでいいと思っています。
自分が主観から抜け出せないなら、相手の主観に自分の言葉や考えを委ねる、僕は力となりうる可能性という種を残すだけ、これが、相手を傷つけず迷惑をかけず広く多くの人の力となれる最善の方法ではないかと考え付きました。
なんにせよ、僕は、夢の実現のためにもっと勉強をしないといけないし、そのための時間も必要になって来るでしょう。
さて、夢の実現についてですが、どうすれば、沢山の人の辛さの力となりうる可能性を持つことが出来るか。
この場合、夢の到達点としてよくあげられる「〜になりたい」という表現が、実現への「手段」となってきます。〜になることが夢ではありません、それは手段であり、目標を達成するためのスタートラインに過ぎないんです。
まだ僕はその段階にもいってないわけですが。。。
僕の掲げる手段である「〜」は、幸いにも時間制限が自分の寿命と重なります。かといってそんなに悠長にもしてられないんですけどね(笑)
僕の夢の手段である「〜」はここでは伏せておきます。特に意味はありませんが。
なれたらいいな、まあ、なれなくても同じような作用をもった行動をすることは出来るわけです。ここにこうやって書いてることだって、作用としてはものすごく小規模ですが、同じ原理なわけですし。
まあ、生涯をかけて努力し追い続ける「手段」であることには変わりません。
僕は以前は無私の姿勢にあこがれていましたが、今は無私というものに幾分懐疑的でもあります。
マザーテレサを僕は無私だと表現しましたが、彼女の場合は、無私でいることで自己実現を成し遂げられる思考と環境を持っていたからです。
それは、多大な決意の元に修道僧のように一般の社会から乖離された世界に身をおいてこそ、成し遂げられるものだと思うし、そこにもやはり、家族や、自分の他のやりたいことなどを犠牲にしなければいけないという矛盾を胚胎するわけです、その矛盾は、神への奉仕という論理で埋められるわけですが、僕が生活する場所は、そのような乖離した世界ではありません、ですから、一人の人間として、自分自身もないがしろにせず、神とは違う形で、自分も救済していくのが真っ当だと考えています。
一般の中で、資本主義にのっとった方法で、他者の力となり、自分のしたいことも実現する。
幸運にも、僕の夢と、自分自身の「色んなことをもっと知っていきたい」という願望、つまり自分のしてみたいことは、地続きになっています。自分のやりたいことを続けていけば、「手段」へと収束されていく、そして、その手段は、やがて目標に据えている、「夢」へと結実するわけです。
しかし、夢という果実を立派に実らせるには、手段というたくましい木が必要ですし、たくましい木が生るためには、しっかりとした、豊穣で肥沃な土壌が必要です。
僕は現在を雌伏期と捉えています。
つまり、今は、まだ土壌を作っている段階です。
肥沃な土壌を作り上げた上で、そこに決意の一歩という種を投げ込んだなら、適宜、新たな知見という水を与えていけば、木は自ずから成長し、沢山の実を宿らせることと信じています。
そしてその果実を食べたいと思った人が、その実を食べ、乾いた体(心)を少しでも満たしてくれたならと思います。
食べずに捨てられた実も、その実が朽ち果てたのち(つまり僕の寿命が潰えたのち)、誰かの土壌の養分となってくれることを信じています。
僕の夢、その夢の実現のために、僕は僕と同じように夢を持ち、そして成し遂げた沢山の人の夢の結実である実を食べ、僕という乾いた土地を少しずつ潤していっているのです。
僕はずっと奇人に見られていたこともあり、自分は人から好もしく思われない人間だ、という思いが、心の根っこの深い部分にあります。
表層意識が変わってもなかなか、根っこの部分まで変わってはくれないようで、それが対人恐怖のようなものの源泉になっているのだと思います。
そんな僕でも、人間として存在する価値は最低限有している、とは思えるようになりました。
ですが、幼い頃に作られた、自分は「物」である、という観念から抜けだせずに、僕は人に迷惑をかけることを極端に恐れてしまいます。
迷惑をかけずに存在するだけでも、自分の幸せは追求していける。
過去の自分が、こういう思いから、一人でも楽しめる読書や映画に傾斜していったことも自然だといえるのかもしれません。
社会に出て、そんな僕もずいぶん変わってきたように思います。
ですが、まだまだ道は長いです。
僕には、対象恒常性というものが欠如しています。
対象恒常性とは、相手との関係(友情でも愛情でも信頼でも)が継続しているという感覚のことです。
僕はこの対象恒常性がすぐに揺らぎます。
これは境界性人格障害の人が不安定になる原因にあげられるのですが、些細な言動や、行動によって、すぐに対象恒常性が揺らぎ、精神的に均衡が崩れてしまうんです。
僕は内省による論理という武器を手に、そういった感情を論破することで、かなりの部分克服したんですけど、この対象恒常性というやつはなかなかドスンと根を張ってはくれません。
欝のように長くはなく、一日の中で短いスパンで現れます。
内面の変調は、自分でも自覚できますから、まさにそのとき僕の中で不安定な感情とさまざまな論理の武器が戦いを繰り広げてられるわけです。
しゃべれなくなったり、目を合わせられなくなったり突然なってしまうのは、相手にとってはなんともない仕草や言動に、僕の境界的な内面が敏感に反応してしまうが故なのです。
僕の対象恒常性はすぐに揺らぎますが、多くのボーダーの人に見られるように、再び安定するのに多くの時間を要しません。
これは、僕が長いことかけて築き上げた論理のおかげだという自負があります。
ボーダーの人は、核となるアイデンティティが一貫していない傾向にありますが、僕は自分でアイデンティティとなりうる考えを導き出すことが出来たので、何かのきっかけがあれば、比較的早く、精神的な不安定を解消することが出来るようになりました。
ですが、僕が不安定になっている間に接した人々は不快を覚えることもあろうかと思います。
それを思うと申し訳ない気持ちで一杯です。
僕の情緒の変調は、どこの誰のせいでもなく、100%、僕自身の弱さからきており、僕自身の責任以外の何ものでもありません。
ですから、僕がこれから乗り越えていかなければならない大きな壁なのです。
僕のこの精神的な不安定さに付き合ってくのは大変だろうと思います。自分自身しんどいですから。
そんな中、こんな僕に対して友人でい続けてくれる人たち皆に、僕は感謝の念を禁じえません。
友人でいてくれて、ありがとう。
表層意識が変わってもなかなか、根っこの部分まで変わってはくれないようで、それが対人恐怖のようなものの源泉になっているのだと思います。
そんな僕でも、人間として存在する価値は最低限有している、とは思えるようになりました。
ですが、幼い頃に作られた、自分は「物」である、という観念から抜けだせずに、僕は人に迷惑をかけることを極端に恐れてしまいます。
迷惑をかけずに存在するだけでも、自分の幸せは追求していける。
過去の自分が、こういう思いから、一人でも楽しめる読書や映画に傾斜していったことも自然だといえるのかもしれません。
社会に出て、そんな僕もずいぶん変わってきたように思います。
ですが、まだまだ道は長いです。
僕には、対象恒常性というものが欠如しています。
対象恒常性とは、相手との関係(友情でも愛情でも信頼でも)が継続しているという感覚のことです。
僕はこの対象恒常性がすぐに揺らぎます。
これは境界性人格障害の人が不安定になる原因にあげられるのですが、些細な言動や、行動によって、すぐに対象恒常性が揺らぎ、精神的に均衡が崩れてしまうんです。
僕は内省による論理という武器を手に、そういった感情を論破することで、かなりの部分克服したんですけど、この対象恒常性というやつはなかなかドスンと根を張ってはくれません。
欝のように長くはなく、一日の中で短いスパンで現れます。
内面の変調は、自分でも自覚できますから、まさにそのとき僕の中で不安定な感情とさまざまな論理の武器が戦いを繰り広げてられるわけです。
しゃべれなくなったり、目を合わせられなくなったり突然なってしまうのは、相手にとってはなんともない仕草や言動に、僕の境界的な内面が敏感に反応してしまうが故なのです。
僕の対象恒常性はすぐに揺らぎますが、多くのボーダーの人に見られるように、再び安定するのに多くの時間を要しません。
これは、僕が長いことかけて築き上げた論理のおかげだという自負があります。
ボーダーの人は、核となるアイデンティティが一貫していない傾向にありますが、僕は自分でアイデンティティとなりうる考えを導き出すことが出来たので、何かのきっかけがあれば、比較的早く、精神的な不安定を解消することが出来るようになりました。
ですが、僕が不安定になっている間に接した人々は不快を覚えることもあろうかと思います。
それを思うと申し訳ない気持ちで一杯です。
僕の情緒の変調は、どこの誰のせいでもなく、100%、僕自身の弱さからきており、僕自身の責任以外の何ものでもありません。
ですから、僕がこれから乗り越えていかなければならない大きな壁なのです。
僕のこの精神的な不安定さに付き合ってくのは大変だろうと思います。自分自身しんどいですから。
そんな中、こんな僕に対して友人でい続けてくれる人たち皆に、僕は感謝の念を禁じえません。
友人でいてくれて、ありがとう。
ジライヤジライヤ〜♪
2008年1月17日 僕について地雷バトン踏んじゃいました。
てことでスタート!
1お住まいは?
大分県大分市
2血液型は?
O混じりのA型
3チャームポイントは?
二重?歯並び?
4ペット歴を教えて下さい
ザリガニ、金魚
5好きな物を教えて
季節:夏
場所:喫茶店、自室、テニスコート
映画:『素晴らしき哉、人生!』『山椒大夫』『アンドレイ・ルブリョフ』『カビリアの夜』『道』『砂の女』『切腹』『ヒポクラテスたち』『鏡』『ゴッドファーザー』『情婦』『炎628』『西鶴一代女』『幕末太陽伝』『奇跡』etcetc・・・ありすぎる
本:ユゴー『レ・ミゼラブル』、ドストエフスキー『白痴』『悪霊』、カミュ『異邦人』、三島由紀夫 『仮面の告白』、村上龍『コインロッカーベイビーズ』、辻仁成『海峡の光』、プラトン『ゴルギアス』etcetc...
漫画:『家栽の人』『水古風』『火の鳥』『アドルフに告ぐ』『鉄コン筋クリート』
キャラクター:トトロ
テレビ番組:ドキュメンタリー、料理、スポーツ全般
色:黒、紺、青
言葉:
「聖者たるは異例なり、正しき人たるは常則なり。道に迷い、務めを欠き、罪を犯すことはあれども、しかも常に正しき人たれ」
「もしも無限にその自我がないとするならば、この我なる自我がその範囲となるだろう。無限は無限でなくなるだろう。言い換えれば無限は存在しなくなるだろう。しかるに無限は存在する。ゆえにそれは一つの自我を持つ。この無限の自我、それが神である」
「海洋よりも壮大なる光景、それは天空である。天空よりも壮大なる光景、それは実に人の魂の内奥である」
「一個の人間は一団の民衆よりもさらに大なる深さを有している」
「世の中は、いつだって思い通りに動かない、だから私も、世の中の思い通りになんか動かない」
「君は草や木と何が違う?」
6嫌いな物を教えて
季節:春(花粉症があるから)、冬
場所:人混みの場所
映画: 作家性の感じられない映画
本:作家性の感じられない本
漫画:商業主義にのっとった漫画
キャラクター:無し
テレビ番組:好きなもので挙げた以外全般
色:無し
言葉:具体のない中傷。自己を省みない愚痴の類。
7苦手な物は?
玉ねぎ、すぐに噛む凶暴な犬
8行ってみたい国は?
ヨーロッパ全般
9あなたの座右の銘を教えて下さい
「和して同ぜず」「過ちては則ち改めるに憚ること勿れ」
10カラオケは好きですか?
好き
11あなたの18番は?
理屈をこねる。深く深く考える。
12今一番欲しいものは?
人を信じられる心
13プチ野望は?
夢の達成
14有名人や動物に似ていると言われた事はありますか?
中川家の兄貴、阪神の藤本、グレムリン、ミニラ
15常にそばにあるもの手放せない物は?
携帯、文庫本
え〜、これは本来地雷バトンで見た人はやらなきゃならないらしいけど、僕は強制とか好きじゃないので、興味があってやってみたい人がいたらやってみてください。
てことでスタート!
1お住まいは?
大分県大分市
2血液型は?
O混じりのA型
3チャームポイントは?
二重?歯並び?
4ペット歴を教えて下さい
ザリガニ、金魚
5好きな物を教えて
季節:夏
場所:喫茶店、自室、テニスコート
映画:『素晴らしき哉、人生!』『山椒大夫』『アンドレイ・ルブリョフ』『カビリアの夜』『道』『砂の女』『切腹』『ヒポクラテスたち』『鏡』『ゴッドファーザー』『情婦』『炎628』『西鶴一代女』『幕末太陽伝』『奇跡』etcetc・・・ありすぎる
本:ユゴー『レ・ミゼラブル』、ドストエフスキー『白痴』『悪霊』、カミュ『異邦人』、三島由紀夫 『仮面の告白』、村上龍『コインロッカーベイビーズ』、辻仁成『海峡の光』、プラトン『ゴルギアス』etcetc...
漫画:『家栽の人』『水古風』『火の鳥』『アドルフに告ぐ』『鉄コン筋クリート』
キャラクター:トトロ
テレビ番組:ドキュメンタリー、料理、スポーツ全般
色:黒、紺、青
言葉:
「聖者たるは異例なり、正しき人たるは常則なり。道に迷い、務めを欠き、罪を犯すことはあれども、しかも常に正しき人たれ」
「もしも無限にその自我がないとするならば、この我なる自我がその範囲となるだろう。無限は無限でなくなるだろう。言い換えれば無限は存在しなくなるだろう。しかるに無限は存在する。ゆえにそれは一つの自我を持つ。この無限の自我、それが神である」
「海洋よりも壮大なる光景、それは天空である。天空よりも壮大なる光景、それは実に人の魂の内奥である」
「一個の人間は一団の民衆よりもさらに大なる深さを有している」
「世の中は、いつだって思い通りに動かない、だから私も、世の中の思い通りになんか動かない」
「君は草や木と何が違う?」
6嫌いな物を教えて
季節:春(花粉症があるから)、冬
場所:人混みの場所
映画: 作家性の感じられない映画
本:作家性の感じられない本
漫画:商業主義にのっとった漫画
キャラクター:無し
テレビ番組:好きなもので挙げた以外全般
色:無し
言葉:具体のない中傷。自己を省みない愚痴の類。
7苦手な物は?
玉ねぎ、すぐに噛む凶暴な犬
8行ってみたい国は?
ヨーロッパ全般
9あなたの座右の銘を教えて下さい
「和して同ぜず」「過ちては則ち改めるに憚ること勿れ」
10カラオケは好きですか?
好き
11あなたの18番は?
理屈をこねる。深く深く考える。
12今一番欲しいものは?
人を信じられる心
13プチ野望は?
夢の達成
14有名人や動物に似ていると言われた事はありますか?
中川家の兄貴、阪神の藤本、グレムリン、ミニラ
15常にそばにあるもの手放せない物は?
携帯、文庫本
え〜、これは本来地雷バトンで見た人はやらなきゃならないらしいけど、僕は強制とか好きじゃないので、興味があってやってみたい人がいたらやってみてください。
買っちまった。。。&エゴグラム
2008年1月15日 僕について
仕事が終ってヤマダ電機へ。
ビデオカメラをDVDデッキにつなぐケーブルを購入。
これで、多分ダビングできるようになると思うので、夏の海に行った。ビデオや、この前の忘年会のビデオをDVDにできると思うw
テニス録画の合間にやっていこう〜。
ついでに、ニンテンドウDSのソフトをも一つ買おうと思って見てたら、欲しいものがありすぎて、むくむくと購買欲が。
ええい、どっちみち買うのだし、一気買いだってソフト5個も買ってしまった。。。計1万5千円カードで2回払い。
買ったソフトは、「詳細世界史」「詳細日本史」「TOEIC TEST DSトレーニング」「250万人の漢検」「いまさら人には聞けない大人の常識力トレーニング」。
先週、あんまり暇だったんで、統括がみんなにエゴグラムをやらした。昔、病院でカウンセリングの時にロールシャッハテストはやったことあるけど、エゴグラムは初めて?ロールシャッハも散々だったけど、エゴグラムもかなり辛辣。
なので、公開w
職業のヤクザって何だw
自分的には結構当たってる部分もあるかな。。
だけど、僕は決して日和見主義者ではないつもりだけどなぁ。自分の芯(主体性)だってちゃんと持ってるつもりだけどなぁ。
エゴグラム・・侮れん。
ビデオカメラをDVDデッキにつなぐケーブルを購入。
これで、多分ダビングできるようになると思うので、夏の海に行った。ビデオや、この前の忘年会のビデオをDVDにできると思うw
テニス録画の合間にやっていこう〜。
ついでに、ニンテンドウDSのソフトをも一つ買おうと思って見てたら、欲しいものがありすぎて、むくむくと購買欲が。
ええい、どっちみち買うのだし、一気買いだってソフト5個も買ってしまった。。。計1万5千円カードで2回払い。
買ったソフトは、「詳細世界史」「詳細日本史」「TOEIC TEST DSトレーニング」「250万人の漢検」「いまさら人には聞けない大人の常識力トレーニング」。
先週、あんまり暇だったんで、統括がみんなにエゴグラムをやらした。昔、病院でカウンセリングの時にロールシャッハテストはやったことあるけど、エゴグラムは初めて?ロールシャッハも散々だったけど、エゴグラムもかなり辛辣。
なので、公開w
1.性格
心の優しいことは結構なのですが、その上、他人に良く思われようとする気持ちも、非常に強い方なので、主体性というものが殆ど無くなり、右顧左眄しなければならなくなるのが、最大の欠点です。会社の中間管理職の様な立場に立たされた時、上下左右の板ばさみとなって、ノイローゼや心身症になる可能性すらあるタイプです。現在の貴方に、最も必要な心構えは物事を割り切って考えるという習慣を身につけることです。今の世の中で、右も左も良くなったり、何にも犠牲にしないで、、大きな収穫が得られたり、四方八方が丸く収まったりする結構なことが、そうしょっちゅう有る筈が無いのです。何かにつけて、そういう旨い話や円満解決を期待する貴方のライフ・スタイルを、今、根本的に問い直す時であると思います。
2.恋愛・結婚
男女に限らず、尽くすタイプです。相手の意向をまず、優先さすという傾向が強いので、相手次第では亭主関白や、かかあ天下にさしてしまう可能性が少なくないでしょう。度を超した妥協や引き下がりを繰り返すという事は、所詮、一時凌ぎの解決法であって、相手は益々図に乗るでしょうし、貴方の我慢にも限度がありますので、最後には、一挙に決定的な破局を迎えるという、最悪の道程を辿る事も少なくありませんので、用心してください。
3.職業適性
絶対に不向きな仕事を列記します。
1.警察官
2.検事
3.個人的な町の金融業
4.看守
5.政治家
6.軍人
7.ヤクザ
貴方に向いている職業は、上に列記した仕事の特性と正反対な性質のもの程、適正があるということになります。保母(父)、看護婦(士)、サービス業などが、その例です。
4.対人関係
他人を見る目をもう少し厳しく、主体性を持った人付き合いを心がけて行くべきでしょう。心優しきことは美しき哉、と澄まし込んでばかりもいられません。貴方が人に騙されたり、裏切られたりして傷を負えば、貴方一人が苦しむだけでは済まないのが普通です。その時は、配偶者や家族が共に苦しむのだと云う事を、肝に銘じておけば、自ずからどういう生き方をしなければならないか、という自覚も湧いてくるはずです。
職業のヤクザって何だw
自分的には結構当たってる部分もあるかな。。
だけど、僕は決して日和見主義者ではないつもりだけどなぁ。自分の芯(主体性)だってちゃんと持ってるつもりだけどなぁ。
エゴグラム・・侮れん。
昨日、母がガストに夕飯を食べに行こうと行ったので連れて行った。
そこで、母が、一年早く、今年の3月に仕事を辞めるといった。
母ももう60歳だし、40年以上、よく勤めたと思う。
63になるまで、年金は60%しかもらえない。
10万いくかいかないかだ。
退職金は、マンションのローンに消える。
ということで、これからは僕がマンションの実際の世帯主となる。
つまり、光熱費とかマンション管理費を僕が払うことになる。
今年の4月から。
光熱費はアパートより高いだろうけど、マンション管理費は月に1万数千円。食費と合わせて、だいたいアパートで一人住まいするのと同じくらいかかるじゃないだろうか。
でもまあ、マンションの良い部屋に住むことができるのだからいいよね。
一つ言えることは、あと3ヶ月後には、もう今までのように自分の金を使えなくなるだろうな節約節約
そしてもう一つ話があった。
僕の父と母は、来年父が60になったら恐らく離婚する。
当人同士ではすでにそういう話になっているようだ。
主な原因は、父が家庭を顧みないことと、ギャンブル依存にあると思う。
父はどこかで借金をしている。
その額がいくらなのかはわからない。
今も、金があればパチンコ。金が少なくなれば、雀荘に入り浸っている。
母は、そういったことで、毎日ストレスを抱えていたし、マンションを買ったのも、実家に帰りたくないのと、もし借金が莫大であれば、実家を売らなければいけないという危惧からである。
気がかりなのは、祖母だ。父は自分の母であるにもかかわらず、土日も祖母を一人にして、ギャンブルに興じている。
母は、平日はマンションで、土日は、実家に帰っているが、帰るのも祖母がいるから。
祖母に罪はない。祖母がいなければ、母は、実家に帰ることもないだろうと思う。
離婚となれば、祖母がかわいそうだ。だから、離婚後も、祖母の面倒をみていくことは確かだと思う。
僕はこの離婚(まだ決まったわけではないが)は仕方がないと思う。
どちらかが病気で倒れたとかそういうことではない。
母は、父に猶予を与えた。
父が変わり、ギャンブルを控え、家庭を大事にするなら離婚はしないつもりでいたのだ。
しかし、父は変らない。変るつもりも毛頭ないらしい。
片方が努力しても、もう片方が努力しないのでは埒があかない。
僕はもう成人しているし、あとは母と父の問題だ。僕は両親の決定に従うし、僕自身としても、今のままだと母は精神的につぶれていくと思うので、離婚する方がよいと考えている。
父はギャンブル依存症だ。しかし、家族が説得しても病院には行かない。
父は愛情表現が下手だ。
父が僕たちを愛してないとは思わない。
しかし、父は下手なりに努力することを放棄し、家庭から逃げた。
その責任は自分で負わなければならない。
離婚しても僕にとって父であり、母であることは変わりない。
どちらかが、病で倒れることがあれば、僕は最後まで看病するつもりだ。だけど、父の借金に対しては、僕たちが背負って、自分の人生を壊す気など毛頭ない。
これは、僕の父に対する愛だ。
親だからといって、いや、親だからこそ、自分のしでかしたことに責任を持たなければならないのだ。
母がかわいそうでならない。母は、若い頃、自分の母と色々あり、そのことを一人で抱え、わだかまりが解けないうちに母(僕にとって母方の祖母)は自殺した。
家にいても、頼れる父はいなく、離婚という結果に行き着いた。
そして、僕自身も、強迫性障害と鬱を煩い、母に多大な苦労をかけた。
母の人生とはなんだったのか?
確かに母にも自分の考えを曲げないなど悪いところはある。しかし、そういった卑屈の性格を作りあげたのも、原因を辿れば父なのだ。
「このまま、お互いが潰れていくのがわかっているのに一緒にいるのが辛い」と母はいった。
離婚をすることが切っ掛けで、母が少しでもその荷を下ろしてくれることになればいいと思っている。
一番良いのは、父が変ってくれて、離婚することなく済むことなんだけどね。。。
父がたの祖母も苦労の人だった。
夫は、酒と女遊びで、裕福だった家を三軒つぶし、親戚の家に住まわせてもらった。その惨めさで、ますます酒を飲んで、酒を飲んだときは祖母に暴力をふるった。結局、僕が生まれる前に祖父は酒でこの世を去った。
そんな祖父を見ていたのに、父は、同じ道を歩んでいる。
僕にも、放蕩の血が受け継がれているのか。そう思うと恐い。
ギャンブルは否定しないが、僕も兄もギャンブルに手を出すことはしない。
父は、幼い頃から僕の反面教師だった。
祖母は言う、「あの子(父)もかわいそうなこなんよ」と。
かわいそうかもしれない。かわいそうだと思う。
だからこそ、僕は、この放蕩の血を僕で止めなければならないのだ。
そこで、母が、一年早く、今年の3月に仕事を辞めるといった。
母ももう60歳だし、40年以上、よく勤めたと思う。
63になるまで、年金は60%しかもらえない。
10万いくかいかないかだ。
退職金は、マンションのローンに消える。
ということで、これからは僕がマンションの実際の世帯主となる。
つまり、光熱費とかマンション管理費を僕が払うことになる。
今年の4月から。
光熱費はアパートより高いだろうけど、マンション管理費は月に1万数千円。食費と合わせて、だいたいアパートで一人住まいするのと同じくらいかかるじゃないだろうか。
でもまあ、マンションの良い部屋に住むことができるのだからいいよね。
一つ言えることは、あと3ヶ月後には、もう今までのように自分の金を使えなくなるだろうな節約節約
そしてもう一つ話があった。
僕の父と母は、来年父が60になったら恐らく離婚する。
当人同士ではすでにそういう話になっているようだ。
主な原因は、父が家庭を顧みないことと、ギャンブル依存にあると思う。
父はどこかで借金をしている。
その額がいくらなのかはわからない。
今も、金があればパチンコ。金が少なくなれば、雀荘に入り浸っている。
母は、そういったことで、毎日ストレスを抱えていたし、マンションを買ったのも、実家に帰りたくないのと、もし借金が莫大であれば、実家を売らなければいけないという危惧からである。
気がかりなのは、祖母だ。父は自分の母であるにもかかわらず、土日も祖母を一人にして、ギャンブルに興じている。
母は、平日はマンションで、土日は、実家に帰っているが、帰るのも祖母がいるから。
祖母に罪はない。祖母がいなければ、母は、実家に帰ることもないだろうと思う。
離婚となれば、祖母がかわいそうだ。だから、離婚後も、祖母の面倒をみていくことは確かだと思う。
僕はこの離婚(まだ決まったわけではないが)は仕方がないと思う。
どちらかが病気で倒れたとかそういうことではない。
母は、父に猶予を与えた。
父が変わり、ギャンブルを控え、家庭を大事にするなら離婚はしないつもりでいたのだ。
しかし、父は変らない。変るつもりも毛頭ないらしい。
片方が努力しても、もう片方が努力しないのでは埒があかない。
僕はもう成人しているし、あとは母と父の問題だ。僕は両親の決定に従うし、僕自身としても、今のままだと母は精神的につぶれていくと思うので、離婚する方がよいと考えている。
父はギャンブル依存症だ。しかし、家族が説得しても病院には行かない。
父は愛情表現が下手だ。
父が僕たちを愛してないとは思わない。
しかし、父は下手なりに努力することを放棄し、家庭から逃げた。
その責任は自分で負わなければならない。
離婚しても僕にとって父であり、母であることは変わりない。
どちらかが、病で倒れることがあれば、僕は最後まで看病するつもりだ。だけど、父の借金に対しては、僕たちが背負って、自分の人生を壊す気など毛頭ない。
これは、僕の父に対する愛だ。
親だからといって、いや、親だからこそ、自分のしでかしたことに責任を持たなければならないのだ。
母がかわいそうでならない。母は、若い頃、自分の母と色々あり、そのことを一人で抱え、わだかまりが解けないうちに母(僕にとって母方の祖母)は自殺した。
家にいても、頼れる父はいなく、離婚という結果に行き着いた。
そして、僕自身も、強迫性障害と鬱を煩い、母に多大な苦労をかけた。
母の人生とはなんだったのか?
確かに母にも自分の考えを曲げないなど悪いところはある。しかし、そういった卑屈の性格を作りあげたのも、原因を辿れば父なのだ。
「このまま、お互いが潰れていくのがわかっているのに一緒にいるのが辛い」と母はいった。
離婚をすることが切っ掛けで、母が少しでもその荷を下ろしてくれることになればいいと思っている。
一番良いのは、父が変ってくれて、離婚することなく済むことなんだけどね。。。
父がたの祖母も苦労の人だった。
夫は、酒と女遊びで、裕福だった家を三軒つぶし、親戚の家に住まわせてもらった。その惨めさで、ますます酒を飲んで、酒を飲んだときは祖母に暴力をふるった。結局、僕が生まれる前に祖父は酒でこの世を去った。
そんな祖父を見ていたのに、父は、同じ道を歩んでいる。
僕にも、放蕩の血が受け継がれているのか。そう思うと恐い。
ギャンブルは否定しないが、僕も兄もギャンブルに手を出すことはしない。
父は、幼い頃から僕の反面教師だった。
祖母は言う、「あの子(父)もかわいそうなこなんよ」と。
かわいそうかもしれない。かわいそうだと思う。
だからこそ、僕は、この放蕩の血を僕で止めなければならないのだ。
よく話す人は、作業が終っても比較的話せるのだけど、作業場が、離れている人は、心が開かないで話せない。
場面緘黙なんだよな。
よく話さない人でも、ひとたび職場を離れると話せたりする。
なんで話せないんだろね。
作業終って近くの人と話してて、遠くで作業してた人が輪に加わってくると、途端に話せなくなって、居たたまれなくなって、その場をはなれてしまう。
これじゃあ、その人が僕から嫌われていると勘違いしかねないダロって。
バカだバカだバカだ。
だけど、それまでぺらぺら話してたのが、作業場が遠い人が来たから突然話さなくなるのも、その人にとって失礼だよね。
だから、居たたまれなくなるんだけど。
それに、僕は人見知りする人しない人がいて、自分でも不思議なんだけど、作業場がはなれてても、ずっと人見知りせずに話せる人もいるんだよね。
自分がわからん。
うんざりするね。
場面緘黙なんだよな。
よく話さない人でも、ひとたび職場を離れると話せたりする。
なんで話せないんだろね。
作業終って近くの人と話してて、遠くで作業してた人が輪に加わってくると、途端に話せなくなって、居たたまれなくなって、その場をはなれてしまう。
これじゃあ、その人が僕から嫌われていると勘違いしかねないダロって。
バカだバカだバカだ。
だけど、それまでぺらぺら話してたのが、作業場が遠い人が来たから突然話さなくなるのも、その人にとって失礼だよね。
だから、居たたまれなくなるんだけど。
それに、僕は人見知りする人しない人がいて、自分でも不思議なんだけど、作業場がはなれてても、ずっと人見知りせずに話せる人もいるんだよね。
自分がわからん。
うんざりするね。
ヤマアラシで痙攣で緘黙
2007年7月10日 僕について人見知りの僕も、どうにかこの部署で、だいたいの人と仲良く接することができるようになりました。
だけど、まだ、二人ほどうまく話すことができない人がいます。
作業中の場所が遠いので、作業中に話す機会はほとんどありません。
初めの頃に話す機会を失うと、話しづらくなります。
それに僕は、対人恐怖がありますから、顔面痙攣を恐れて目を合わせたりできない。
作業で隣とかだと、目を合わせないで済むので、話せて、そのうちに僕の心も開いてくれて、いつの間にか目を合わせても顔面痙攣が起こらずに話せるようになるんですけど。
顔面痙攣のことばかり気になって、話そうと思っても緊張して言葉が出てこなくて緘黙症のようになってしまいます。
これは相手に誤解を与える危険があります。
今日、普段話さない二人のうちの一人が、僕が他の人と話しているときに会話に加わってきたんですけど、僕はその途端言葉が出てこなくなって、その人を避けているような感じになってしまったんです。目の前にいるのに、目も合わさずに話し掛けもしないなんて、相手はどう思うでしょう。
僕もほんとは話したいのに、なんでこんな風になるのか。。。
せっかく人間関係が良好になってきているのに、こんなことで人に不快感を与えたくありません。
でも言葉が出てこないし、相手の目を見ることもできない。
頭の中は「痙攣が起こったらどうしよう」ってことでいっぱい。
相手にばつの悪い思いをさせたこととと自分の心のふがいなさに、そのあとかなり落ち込みました。
これは一種のやまあらし症候群です。
克服していかないといけません。
だけど、まだ、二人ほどうまく話すことができない人がいます。
作業中の場所が遠いので、作業中に話す機会はほとんどありません。
初めの頃に話す機会を失うと、話しづらくなります。
それに僕は、対人恐怖がありますから、顔面痙攣を恐れて目を合わせたりできない。
作業で隣とかだと、目を合わせないで済むので、話せて、そのうちに僕の心も開いてくれて、いつの間にか目を合わせても顔面痙攣が起こらずに話せるようになるんですけど。
顔面痙攣のことばかり気になって、話そうと思っても緊張して言葉が出てこなくて緘黙症のようになってしまいます。
これは相手に誤解を与える危険があります。
今日、普段話さない二人のうちの一人が、僕が他の人と話しているときに会話に加わってきたんですけど、僕はその途端言葉が出てこなくなって、その人を避けているような感じになってしまったんです。目の前にいるのに、目も合わさずに話し掛けもしないなんて、相手はどう思うでしょう。
僕もほんとは話したいのに、なんでこんな風になるのか。。。
せっかく人間関係が良好になってきているのに、こんなことで人に不快感を与えたくありません。
でも言葉が出てこないし、相手の目を見ることもできない。
頭の中は「痙攣が起こったらどうしよう」ってことでいっぱい。
相手にばつの悪い思いをさせたこととと自分の心のふがいなさに、そのあとかなり落ち込みました。
これは一種のやまあらし症候群です。
克服していかないといけません。
人に簡単に心を開けない自分がいます。
開いた方が愉快だし楽になれるとわかっているのに、開けない。
勝手に体や心が動いて拒否してしまう。
開いていたと思った心が、突然しまって、周りの人間に対して不安がつのり、話せなくなることもある。
心を開けたと思った人と、しばらく話さなかったら、また心を閉ざしてしまっている自分がいる。
どうして、口が痙攣する。なんでそんなに人を恐れてるんだろう?
心を開きたい。
開きたいと願っているのに、どうして閉ざしてしまうのか、もっと自分の心を、体をコントロールできるようになりたい。
開いた方が愉快だし楽になれるとわかっているのに、開けない。
勝手に体や心が動いて拒否してしまう。
開いていたと思った心が、突然しまって、周りの人間に対して不安がつのり、話せなくなることもある。
心を開けたと思った人と、しばらく話さなかったら、また心を閉ざしてしまっている自分がいる。
どうして、口が痙攣する。なんでそんなに人を恐れてるんだろう?
心を開きたい。
開きたいと願っているのに、どうして閉ざしてしまうのか、もっと自分の心を、体をコントロールできるようになりたい。
※しおんさんから頂きました^^
●あなたの性格を一言!
一言じゃいえません。真面目、人見知り。だけど、社交的といわれることもある。理屈っぽい。大雑把でおおらかと言われることもある。
強いて一言で言うなら、よくわからない。
●薄い顔?濃い顔?
確実に濃いです。
阿部寛系と言われます。
●背はいくつ?
157です。ほんとは170あったんですが、先天的に背骨が曲がって生まれたので、足と手だけ170?の人並みに長いです。
●自分の体で嫌いなとこは?
頸が短いところ。左右のバランスが、とれていないところ。
●あだ名は?
会社ではキタムー。ネットではキタム、きたむん。
●男性(女性)の好きな髪型は?
昔はショートが好きでしたが、今はどっちも好きです。
似合えばいいと思います。
●背は何センチから何センチの人が好き?
やはり、僕よりも低いか同じくらい?
●趣味は?
映画と読書とテニスとウェイトトレーニングです。
この四つを柱に他にも色々。だから暇という時間はありません。
●特技は?
突き詰めて考えるw
●マイミクで会いたい人は?
僕を受け入れてくれる人ならどなたでもあってみたいです。
ただ、人見知りなので、そういう部分も受け入れてくれるという意味で。
●淋しいと思う時は?
些細な理由で人が嫌い合うとき。人見知り故、自分の意図と違うニュアンスが相手に伝わって誤解が生じるとき。話し合えばとける誤解なのに相手が話し合いに応じず、不必要な溝が生じたとき。
●あなたが一番したいことは?
読書と映画に思い切り没頭したい。
●今一番気になることは?
僕の未来。
●今年、一番したい事は?
人間的成長と株の再開。
●ケンカした時、自分から謝れる?
客観的に考えて、自分が悪い部分は謝る。お互いに話し合い、ともに成長できるならそれが理想。
●男女に友情はあり?なし?
あります。
ないなんて切なすぎる。
●理想を5つ
夢を叶える。
みんなが幸せになる。
平和で穏やかな牧歌的生活。
誰もがいがみ合わない。
自分自身でいる
●理想の人は出会っていますか?
理想の部分を持ち合わせている人、それに向かって努力している人は沢山出会ってきたと思います。
●恋愛と結婚は別ですか?
理想は一緒ですよね。
●バトンを回してきたあの人…
しおんさん、お互いに焦らずにゆっくりと、自分の歩調で人生という道を歩いていきましょうね^^
●マイミクであなたを一番理解している人は誰ですか?
僕自身、まだ自分を全然理解しきれていないです^^;
●バトンタッチ☆(各項目3名以上で)
興味を持たれた方がいましたらやってみてください^^
しおんさん、バトンありがとうございました〜♪
●あなたの性格を一言!
一言じゃいえません。真面目、人見知り。だけど、社交的といわれることもある。理屈っぽい。大雑把でおおらかと言われることもある。
強いて一言で言うなら、よくわからない。
●薄い顔?濃い顔?
確実に濃いです。
阿部寛系と言われます。
●背はいくつ?
157です。ほんとは170あったんですが、先天的に背骨が曲がって生まれたので、足と手だけ170?の人並みに長いです。
●自分の体で嫌いなとこは?
頸が短いところ。左右のバランスが、とれていないところ。
●あだ名は?
会社ではキタムー。ネットではキタム、きたむん。
●男性(女性)の好きな髪型は?
昔はショートが好きでしたが、今はどっちも好きです。
似合えばいいと思います。
●背は何センチから何センチの人が好き?
やはり、僕よりも低いか同じくらい?
●趣味は?
映画と読書とテニスとウェイトトレーニングです。
この四つを柱に他にも色々。だから暇という時間はありません。
●特技は?
突き詰めて考えるw
●マイミクで会いたい人は?
僕を受け入れてくれる人ならどなたでもあってみたいです。
ただ、人見知りなので、そういう部分も受け入れてくれるという意味で。
●淋しいと思う時は?
些細な理由で人が嫌い合うとき。人見知り故、自分の意図と違うニュアンスが相手に伝わって誤解が生じるとき。話し合えばとける誤解なのに相手が話し合いに応じず、不必要な溝が生じたとき。
●あなたが一番したいことは?
読書と映画に思い切り没頭したい。
●今一番気になることは?
僕の未来。
●今年、一番したい事は?
人間的成長と株の再開。
●ケンカした時、自分から謝れる?
客観的に考えて、自分が悪い部分は謝る。お互いに話し合い、ともに成長できるならそれが理想。
●男女に友情はあり?なし?
あります。
ないなんて切なすぎる。
●理想を5つ
夢を叶える。
みんなが幸せになる。
平和で穏やかな牧歌的生活。
誰もがいがみ合わない。
自分自身でいる
●理想の人は出会っていますか?
理想の部分を持ち合わせている人、それに向かって努力している人は沢山出会ってきたと思います。
●恋愛と結婚は別ですか?
理想は一緒ですよね。
●バトンを回してきたあの人…
しおんさん、お互いに焦らずにゆっくりと、自分の歩調で人生という道を歩いていきましょうね^^
●マイミクであなたを一番理解している人は誰ですか?
僕自身、まだ自分を全然理解しきれていないです^^;
●バトンタッチ☆(各項目3名以上で)
興味を持たれた方がいましたらやってみてください^^
しおんさん、バトンありがとうございました〜♪
感じたままを書きたいのに、感じたことを分析して書いてしまう。
2007年6月6日 僕について僕は全然詩的な文章が書けません。
論理的すぎるのです。
これは文章を書く上で致命的なことだと常々思っているのですが、そういった文章の感性というやつは、生来の才能なのか、努力で向上するものなのか。
そもそも僕の思考回路自体が論理的すぎて、抒情的ではあっても情緒がない。
だから、親書やエッセイを読むのははやいけど、詩や小説を読むのはとたんに遅くなるのです。
だから、意識して小説の類を読んでいかないととか思っています。
詩的な文章みると、羨ましくなりますね。
論理的すぎるのです。
これは文章を書く上で致命的なことだと常々思っているのですが、そういった文章の感性というやつは、生来の才能なのか、努力で向上するものなのか。
そもそも僕の思考回路自体が論理的すぎて、抒情的ではあっても情緒がない。
だから、親書やエッセイを読むのははやいけど、詩や小説を読むのはとたんに遅くなるのです。
だから、意識して小説の類を読んでいかないととか思っています。
詩的な文章みると、羨ましくなりますね。
僕の趣味はそもそも純粋な楽しみとして始めたものはなくて、テニスは、そのときの僕の逃避場所で、テニスをしている間は、ボールを打っている間は、僕は嫌なこと、疎外感、すべてを忘れていられた。だからテニスにのめり込んだ。
筋トレにはまったのは、僕の弱い心を外見を変えることで筋肉をつけることで、少しは強くなれるかという思いからだった。幼い頃の僕は貧弱で誰よりも痩せていて誰よりも小さかった。
僕が読書や、映画にのめり込んだのは、自分の苦悩や、哀しみから解放される答え、自分が生きていく上での意味が、そこにあるんじゃないかという思いからだった。
純粋に楽しむ、という形での趣味はない。
僕がのめり込んだものは、常にそのとき、なくては僕が壊れそうだったとき、柱となってくれた。
今でも、僕はすべてを忘れるためにテニスをし、強い心を持ちたいから、筋トレをし、ストレス発散や楽しためではなくて、何か僕の魂に成長や、解放を与えてくれるものを探しながら映画を見る。
この四つの、僕がはまった、そして今でものめり込んでいることは、僕の命の恩人というわけだ。
テニス、筋トレ、映画、読書。どれかがなくても、僕はどこかで壊れていただろうなと思う。
筋トレにはまったのは、僕の弱い心を外見を変えることで筋肉をつけることで、少しは強くなれるかという思いからだった。幼い頃の僕は貧弱で誰よりも痩せていて誰よりも小さかった。
僕が読書や、映画にのめり込んだのは、自分の苦悩や、哀しみから解放される答え、自分が生きていく上での意味が、そこにあるんじゃないかという思いからだった。
純粋に楽しむ、という形での趣味はない。
僕がのめり込んだものは、常にそのとき、なくては僕が壊れそうだったとき、柱となってくれた。
今でも、僕はすべてを忘れるためにテニスをし、強い心を持ちたいから、筋トレをし、ストレス発散や楽しためではなくて、何か僕の魂に成長や、解放を与えてくれるものを探しながら映画を見る。
この四つの、僕がはまった、そして今でものめり込んでいることは、僕の命の恩人というわけだ。
テニス、筋トレ、映画、読書。どれかがなくても、僕はどこかで壊れていただろうなと思う。
違う部署の女の子のこから、僕は中川家の兄に似ているといわれました。
これは、僕自身もそう思ったことあるのですが、他人からいわれたのは初めてです。
それまで言われたことあるといえば、フェールド・オブビューのボーカル、阪神の藤本(これは檄似らしいです)、グレムリン、ミニラ、くらいですかね。
自分では阪神の藤本にはあまり似ていないと思うのですが、笑ったりすると、そっくりだと何人もの人に言われました。
中川家の兄貴とは、背の高さまで似ていますね〜。
ちなみに、違う部署の僕の同僚が、僕はマイペースだと言います。
そんなところが、O型と思われるんでしょうか。
僕の隣の人によると、僕は、今の時代では損をする性格なのだそうです。あと人の言うことを信じすぎるので、だましやすいのだそうです。
これは、僕自身もそう思ったことあるのですが、他人からいわれたのは初めてです。
それまで言われたことあるといえば、フェールド・オブビューのボーカル、阪神の藤本(これは檄似らしいです)、グレムリン、ミニラ、くらいですかね。
自分では阪神の藤本にはあまり似ていないと思うのですが、笑ったりすると、そっくりだと何人もの人に言われました。
中川家の兄貴とは、背の高さまで似ていますね〜。
ちなみに、違う部署の僕の同僚が、僕はマイペースだと言います。
そんなところが、O型と思われるんでしょうか。
僕の隣の人によると、僕は、今の時代では損をする性格なのだそうです。あと人の言うことを信じすぎるので、だましやすいのだそうです。
どうせ大雑把になるなら、対人にたいしてがいい。
2007年4月16日 僕についてバイクで帰りを送ってくれている同僚が、僕はO型だと思ったといいます。
実際の僕は、A型です。
なぜO型?と聞くと、「おおらかでおおざっぱ」だからなのだそうです。
でも、僕をよく知る友人や、僕の隣で作業している人などは、僕は典型的なA型だといいます。いつも一緒に作業したり話したりしていると、よく分かるんだそうです。
僕自身も、自分のことをA型以外にないと思っています。几帳面ですし、完璧主義者できまじめ。
幼い頃は、相当に神経質でした。
ただ、生真面目に理詰めで論理を構築していったので、現在のおおらかと思われる性格にたどり着いたのだと思います。
つまりは、僕の場合O型に間違えられたのは、A型であったからこそといえるわけですね。
さて、僕の隣のそのまた隣の同僚は、僕のことをB型だといいました。うむむ、どうやら、血液型と性格は、さほど関係ないのかもしれませんね。
実際の僕は、A型です。
なぜO型?と聞くと、「おおらかでおおざっぱ」だからなのだそうです。
でも、僕をよく知る友人や、僕の隣で作業している人などは、僕は典型的なA型だといいます。いつも一緒に作業したり話したりしていると、よく分かるんだそうです。
僕自身も、自分のことをA型以外にないと思っています。几帳面ですし、完璧主義者できまじめ。
幼い頃は、相当に神経質でした。
ただ、生真面目に理詰めで論理を構築していったので、現在のおおらかと思われる性格にたどり着いたのだと思います。
つまりは、僕の場合O型に間違えられたのは、A型であったからこそといえるわけですね。
さて、僕の隣のそのまた隣の同僚は、僕のことをB型だといいました。うむむ、どうやら、血液型と性格は、さほど関係ないのかもしれませんね。
壊してみるのも一つの手さ。
壊してみると、今まで自分が守ってきたものが、ほんの些細なことだったってことが分かるさ。
それで、君の世界は大きくなる。
今まで君が苦しんできたものが、いったい何だったのか。
そんなもので苦しむ必要なんて無かったんだと気がつくさ。
君は、それにより、人とのコミュニケーションも円滑になり、本来の君を発見するだろう。明るく、楽しく、人見知りなぞしない、君を、思いやれる君を。無駄に、君の思いとは逆の結果に導いてしまう、その君の強固な対人不信とももうおさらばだ。
もう誰も、君を嫌わない。誰からも好かれる君が待ってるんだ。
ストレスにならず、自分の思い通りの仕草を取れるようになるんだ。それで、君は君の本心とは違う結末、好かれたいのに、嫌われるという不本意な結果を回避できるんだ。
さあ、試してごらんよ。壊してごらんよ。
。
。
。
。
。
。
。
。
。
君はなぜ今までそれを守ってきたのかな?
それは、そんなに簡単に壊してしまえるほど君にとってどうでもいいものだったのだろうか。もう一度じっくり考えてごらん。
君は、それを持ち続けてきたから、君自身でいられたんだろう。
君のアイデンティティを君は壊していいのかい?
壊してできあがる君はもう君じゃない。
楽になる?分からない。君が築き上げてきた論理、倫理。すべてが瓦解するのに楽になると思うかい?
君は、楽になどなりはしない。君は、それを壊すことにより、今までの君と正反対の君にならざるを得ない。
君が今までそれを守ってきたのは、君をこんな風にした奴らと同じにはなりたくなかったからなはずだ。
君がそれを壊すということは、君は奴らと同じになるということ。君は君の過去を見放す。過去のない君はもう君じゃない。
君は、もう誰かを傷付けても苦しまないだろう。君を傷付けた奴らと同じ人間になってしまった君は、もう誰かを傷付けることに呵責を感じる正当性を失うからだ。
君はいうだろう。人間は弱いから仕方ないんだ。人間とは元々そういう生き物だ。
君は、それで楽になれるか?君が望んだ解放とはそれなのか?
君は、それを壊すべきじゃない。それは、君自身が一番よく知っているはずだ。
。
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壊してごらん。。。。。。。。。。守るんだ。。。。。。。
壊してみると、今まで自分が守ってきたものが、ほんの些細なことだったってことが分かるさ。
それで、君の世界は大きくなる。
今まで君が苦しんできたものが、いったい何だったのか。
そんなもので苦しむ必要なんて無かったんだと気がつくさ。
君は、それにより、人とのコミュニケーションも円滑になり、本来の君を発見するだろう。明るく、楽しく、人見知りなぞしない、君を、思いやれる君を。無駄に、君の思いとは逆の結果に導いてしまう、その君の強固な対人不信とももうおさらばだ。
もう誰も、君を嫌わない。誰からも好かれる君が待ってるんだ。
ストレスにならず、自分の思い通りの仕草を取れるようになるんだ。それで、君は君の本心とは違う結末、好かれたいのに、嫌われるという不本意な結果を回避できるんだ。
さあ、試してごらんよ。壊してごらんよ。
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君はなぜ今までそれを守ってきたのかな?
それは、そんなに簡単に壊してしまえるほど君にとってどうでもいいものだったのだろうか。もう一度じっくり考えてごらん。
君は、それを持ち続けてきたから、君自身でいられたんだろう。
君のアイデンティティを君は壊していいのかい?
壊してできあがる君はもう君じゃない。
楽になる?分からない。君が築き上げてきた論理、倫理。すべてが瓦解するのに楽になると思うかい?
君は、楽になどなりはしない。君は、それを壊すことにより、今までの君と正反対の君にならざるを得ない。
君が今までそれを守ってきたのは、君をこんな風にした奴らと同じにはなりたくなかったからなはずだ。
君がそれを壊すということは、君は奴らと同じになるということ。君は君の過去を見放す。過去のない君はもう君じゃない。
君は、もう誰かを傷付けても苦しまないだろう。君を傷付けた奴らと同じ人間になってしまった君は、もう誰かを傷付けることに呵責を感じる正当性を失うからだ。
君はいうだろう。人間は弱いから仕方ないんだ。人間とは元々そういう生き物だ。
君は、それで楽になれるか?君が望んだ解放とはそれなのか?
君は、それを壊すべきじゃない。それは、君自身が一番よく知っているはずだ。
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壊してごらん。。。。。。。。。。守るんだ。。。。。。。
今まで強迫のことばかり調べてきて、顔面痙攣のことをまじめに調べたことがありませんでした。
そのことを今、激しく後悔しています。
今回、調べて、僕の痙攣はおそらくこれであろうと、いや、ほぼこれだと思われます。
「顔面神経痙攣」
顔面神経が脳幹部から出現した近くで、動脈により圧迫されるために発生するそうです。
緊張すると血圧が上がり、神経を圧迫している圧があがるため、痙攣が増悪する特徴があって、必ず左右どちらか一方に発生するそうです。ちなみに、僕は右側です。
治療方法は、ボトックス(ボツリヌス菌)の注射、もしくは手術だそうです。ボトックスは3ヵ月毎の注射が必要なことと多数回の注射により効果が減弱することが欠点です。
根本の治療はやはり手術でしょう。
僕を苦しめてきたこの痙攣とサヨナラできるなら。。
とりあえず、大分でこの症状を扱っている病院を探すところから始めないと。
そのことを今、激しく後悔しています。
今回、調べて、僕の痙攣はおそらくこれであろうと、いや、ほぼこれだと思われます。
「顔面神経痙攣」
顔面神経が脳幹部から出現した近くで、動脈により圧迫されるために発生するそうです。
緊張すると血圧が上がり、神経を圧迫している圧があがるため、痙攣が増悪する特徴があって、必ず左右どちらか一方に発生するそうです。ちなみに、僕は右側です。
治療方法は、ボトックス(ボツリヌス菌)の注射、もしくは手術だそうです。ボトックスは3ヵ月毎の注射が必要なことと多数回の注射により効果が減弱することが欠点です。
根本の治療はやはり手術でしょう。
僕を苦しめてきたこの痙攣とサヨナラできるなら。。
とりあえず、大分でこの症状を扱っている病院を探すところから始めないと。
人を信じることができずに距離をとってしまうことは、もちろん自分自身にも当てはまります。
自分に対しても距離をとってしまうのです。
ですが、そのおかげで、自分のことを客観的に見る癖がつきました。
人間ですから人を妬んだり恨んだりはあります。
でも、そのほとんどは、自分もやっている、あるいはやった経験があることです。
絶望の淵で、人を信じられないなどという権利がはたして自分にあるのだろうかと思いました。
自分だってやっている、そのことが自分に降りかかったから恨むのは傲慢以外のなにものでもない。そんな自分が人のことをとやかく思える権利はない。
僕はそれまでずっと、人にこうなって欲しい、ああなればいいのに、と思ってばかりいました。
これはある意味、人間が自分の思い通りでなければならないといっているみたいなもの。
でもその中に自分は含まれていなかったんです。
人に変わるよう望む前に、自分は果たしてそうなのか?
自分は人から信じられる存在なのか?
この疑問が、僕に気づかせてくれました。
人を信じたければ、まず人たる自分自身から変えていくべきだ、と。
まず、自分が、自分にとって信じられる人間になる、そうすれば、世の中に一人は、確かに信じられる人間が存在することになります。自分が変わる方が、他人に望むよりも意志をコントロールできるから遙かに容易なはずです。
そして、努力してはじめて、他の人間に対しての希望の筋が立つというものです。
自分が変わることこそが、自分の希望を確信へと誘う最初の一歩です。そしてその努力を続けていけば、けして希望の火は途絶えることがありません。
自分は変わらない、変わることができないと、あきらめることは、他者から希望の火を消されるのではなく、自分で消してしまうことです。ですから、その火を絶やさぬために映画を見、読書をし、考えるわけです。
仮に自分があきらめてしまうようなことなら、そもそも他者に求めること自体が無理難題であり、贅沢な願いです。
未だ自分自身を信じられるに至っていないですが、努力はしていかなければ。
僕が自分の中のモラルに強烈に固執し、強迫観念にまでなってしまっているのは、そういうわけです。
他者への憎しみを感じるとき、その行為を自分に置き換えたら、自分への憎しみに変わります。そんな僕に、他者をどうこう言う権利はありません。
僕は自分自身をどうこうしないといけないんですから。
未だ道は長いですが、自分という希望は何より確かな希望であると思っています。
自分に対しても距離をとってしまうのです。
ですが、そのおかげで、自分のことを客観的に見る癖がつきました。
人間ですから人を妬んだり恨んだりはあります。
でも、そのほとんどは、自分もやっている、あるいはやった経験があることです。
絶望の淵で、人を信じられないなどという権利がはたして自分にあるのだろうかと思いました。
自分だってやっている、そのことが自分に降りかかったから恨むのは傲慢以外のなにものでもない。そんな自分が人のことをとやかく思える権利はない。
僕はそれまでずっと、人にこうなって欲しい、ああなればいいのに、と思ってばかりいました。
これはある意味、人間が自分の思い通りでなければならないといっているみたいなもの。
でもその中に自分は含まれていなかったんです。
人に変わるよう望む前に、自分は果たしてそうなのか?
自分は人から信じられる存在なのか?
この疑問が、僕に気づかせてくれました。
人を信じたければ、まず人たる自分自身から変えていくべきだ、と。
まず、自分が、自分にとって信じられる人間になる、そうすれば、世の中に一人は、確かに信じられる人間が存在することになります。自分が変わる方が、他人に望むよりも意志をコントロールできるから遙かに容易なはずです。
そして、努力してはじめて、他の人間に対しての希望の筋が立つというものです。
自分が変わることこそが、自分の希望を確信へと誘う最初の一歩です。そしてその努力を続けていけば、けして希望の火は途絶えることがありません。
自分は変わらない、変わることができないと、あきらめることは、他者から希望の火を消されるのではなく、自分で消してしまうことです。ですから、その火を絶やさぬために映画を見、読書をし、考えるわけです。
仮に自分があきらめてしまうようなことなら、そもそも他者に求めること自体が無理難題であり、贅沢な願いです。
未だ自分自身を信じられるに至っていないですが、努力はしていかなければ。
僕が自分の中のモラルに強烈に固執し、強迫観念にまでなってしまっているのは、そういうわけです。
他者への憎しみを感じるとき、その行為を自分に置き換えたら、自分への憎しみに変わります。そんな僕に、他者をどうこう言う権利はありません。
僕は自分自身をどうこうしないといけないんですから。
未だ道は長いですが、自分という希望は何より確かな希望であると思っています。
僕が映画を見出したのは、人間が信じられなかったから。
信じたくて、見始めたんです。
読書も同じです。
それらの作品には、僕の希望する人間の思いが形になってできあがったものがたくさんあります。
作品の中に描かれた登場人物もそう。そしてそれを作った監督達。
彼らのなかに、僕と同じ絶望、また希望を見いだすことができるからです。
人間に対する絶望を描いた作品にも、登場人物達のあらがう姿があります。それは監督の思いです。監督のあらがいであり、希望が形となって現れてきたものです。
つまり、僕と同じように人間を信じたいと欲し、苦しんでいる人間がいるのです。
そんな作品を世に出す人がいるから、僕はまだこの世界で生きていこうと思えるんです。たとえ、今誰も芯から信じることができず、そんな自分が悔しくて、惨めで消えてしまいたくても、それでも人間への希望で命をつなぐことができるのです。
僕の根に巣くう人に対する不信感は強固です。
不信感にあらがうための、僕の信じたいと願う心を絶やさぬために、映画や読書は、養分や水を希望という形で注いでくれるのです。
信じたくて、見始めたんです。
読書も同じです。
それらの作品には、僕の希望する人間の思いが形になってできあがったものがたくさんあります。
作品の中に描かれた登場人物もそう。そしてそれを作った監督達。
彼らのなかに、僕と同じ絶望、また希望を見いだすことができるからです。
人間に対する絶望を描いた作品にも、登場人物達のあらがう姿があります。それは監督の思いです。監督のあらがいであり、希望が形となって現れてきたものです。
つまり、僕と同じように人間を信じたいと欲し、苦しんでいる人間がいるのです。
そんな作品を世に出す人がいるから、僕はまだこの世界で生きていこうと思えるんです。たとえ、今誰も芯から信じることができず、そんな自分が悔しくて、惨めで消えてしまいたくても、それでも人間への希望で命をつなぐことができるのです。
僕の根に巣くう人に対する不信感は強固です。
不信感にあらがうための、僕の信じたいと願う心を絶やさぬために、映画や読書は、養分や水を希望という形で注いでくれるのです。