友人の視点から見た一考察
2006年2月24日 僕の思ったこと
やはり一週間に二日は休みがほしいところです。贅沢でしょうかね。
でも、日本人はどうもいっぱい働いている人が一人前というような価値観が敷衍している様に思えて、疑問に思います。
以前友人と呑んだときに、友人に、やはり残業して休日出勤とかもありーのがサラリーマンとして普通の実態なのかなあ?と聞いてみたところ、「普通じゃない」と言いました。普通という状態が麻痺して、価値観の顛倒が起っているのだと。
友人の捉え方では、そもそも普通とは、法に示されるとおり8時労働で週に二日は休み、サービス残業は無しのことです。しかし、資本主義的競争社会の極まった現今の日本の状態にあっては、その至極真っ当な「普通」を口にすること自体、社会人としての自覚にかける落伍者としての烙印を捺されかねないといった異常な状態にあります。そしてその状態の継続に日本人の精神は麻痺し異常を普通と認識するにいたり、法を無視した自虐的忍耐的精神論の礼賛という価値観の顛倒が起っているのです。
「下ばかりと比べていたらいけない」といった友人の言葉の意味するところの「下」とは、つまり大企業でいくら給料が高くても、そういった法や労働倫理を蔑ろにしている企業のことであり、そういう企業の実像を普通であると信じこむ、忍従精神礼賛の輩の仕事至上主義的人生観であるらしい。そういう輩にとっては、現在跋扈するフリーターは言わずもがな、「普通」の権利を普通に主張する社会人もまた軟弱であり、「現今の日本での普通」に耐えられず会社を辞めていく人物もまた落伍者に映るのでしょう。
正当な権利の行使を訴える者、その正当な権利からはみ出すことこそ旨とする者。はたしてどちらが立派な社会人であるかといえば、日本では明らかに後者になってしまっているのである。
友人の視点はある意味真っ当であると思いました。
友人は今も「上」(つまり友人の視点での普通)の会社を夢見ながら、普通ではない会社の中で働きつづけているわけです。その現状を、みんなそうだ、当たり前だと考えるとすれば、それはやはり現行の日本の意識全体が顛倒している一つの象徴だといえるのかもしれません。
近年増えているスローライフといったライフスタイルなどは、そういった顛倒に疑問を感じた人たちの「普通」への回帰の一つの模索の表れではないかと僕は思っています。
でも、日本人はどうもいっぱい働いている人が一人前というような価値観が敷衍している様に思えて、疑問に思います。
以前友人と呑んだときに、友人に、やはり残業して休日出勤とかもありーのがサラリーマンとして普通の実態なのかなあ?と聞いてみたところ、「普通じゃない」と言いました。普通という状態が麻痺して、価値観の顛倒が起っているのだと。
友人の捉え方では、そもそも普通とは、法に示されるとおり8時労働で週に二日は休み、サービス残業は無しのことです。しかし、資本主義的競争社会の極まった現今の日本の状態にあっては、その至極真っ当な「普通」を口にすること自体、社会人としての自覚にかける落伍者としての烙印を捺されかねないといった異常な状態にあります。そしてその状態の継続に日本人の精神は麻痺し異常を普通と認識するにいたり、法を無視した自虐的忍耐的精神論の礼賛という価値観の顛倒が起っているのです。
「下ばかりと比べていたらいけない」といった友人の言葉の意味するところの「下」とは、つまり大企業でいくら給料が高くても、そういった法や労働倫理を蔑ろにしている企業のことであり、そういう企業の実像を普通であると信じこむ、忍従精神礼賛の輩の仕事至上主義的人生観であるらしい。そういう輩にとっては、現在跋扈するフリーターは言わずもがな、「普通」の権利を普通に主張する社会人もまた軟弱であり、「現今の日本での普通」に耐えられず会社を辞めていく人物もまた落伍者に映るのでしょう。
正当な権利の行使を訴える者、その正当な権利からはみ出すことこそ旨とする者。はたしてどちらが立派な社会人であるかといえば、日本では明らかに後者になってしまっているのである。
友人の視点はある意味真っ当であると思いました。
友人は今も「上」(つまり友人の視点での普通)の会社を夢見ながら、普通ではない会社の中で働きつづけているわけです。その現状を、みんなそうだ、当たり前だと考えるとすれば、それはやはり現行の日本の意識全体が顛倒している一つの象徴だといえるのかもしれません。
近年増えているスローライフといったライフスタイルなどは、そういった顛倒に疑問を感じた人たちの「普通」への回帰の一つの模索の表れではないかと僕は思っています。