●安定剤を飲んで寝た後、今日の心境はというと、昨日の不安はそれほど気にならなくなった。
やはりというか、僕の心の状態が、ある特定の状況下で物事を誇大な、または歪ませた解釈に至らせている傾向が見受けられる。
感情が状況を支配しているのである。
抑鬱症状の患者への治療法のひとつに認知療法があるが、認知療法の解釈は状況が感情を生み出すのではなく、感情が状況を生み出す、というところからきている。
二元論では決められないと思うが、昨日の状況は、まさしくこの認知の歪みに寄る部分が大きい。
感情というのはいわいる脳の作用であるから、昨日の脳の体調がそういう思考や感情を生み出しやすい状態にあったということなのかもしれない。
神経衰弱だのノイローゼだのパラノイアだの色々あるが、僕の場合はそれほどに重篤なものではなく、只の神経症の類だろう。
しかし、これは薬の恩恵をなくしては語れない。
というのは、一年前の状況を見てみればいい。
僕は薬を飲んでおらず、ある対人関係の問題が発端となり、逆流性食道延を発症し、激烈な対人恐怖陥り、前後不覚。この状態を見たものは家族のほかはいないのだが、まさに常軌を逸していたらしい。
しかしながら、この一年前の事件を境に、僕の対人恐怖的なものは、少し深刻の度が増したようにも感じられる。
昨日の日記に、何を恐れているのが、何が起こることを恐れているのかわからないと書いたが、理屈で論じるなら大筋は理解できている。
僕は人に対する対象恒常性が欠如している。
安定した対人関係を築ける人間は、幼少期から誰かしら、強い愛情関係の信頼でつながれた関係がある。それは、大筋において両親になるのだろうが、それ以外でもそういう存在がいれば、揺るがぬ愛情に信を置けるような経験が自我の年輪の深遠な部分に構築される。
しかしながら、僕は幼少期にこうした愛情関係の構築がうまくいかなかった。
それは、学生期に、母の兄と自分との対応の差に潜在的な嫉妬を感じており、それが、近年の僕が抑欝状態に陥った際の献身的な家族の犠牲を目の当たりするまで続いていた兄との不和からも象徴される。
通常なら克服されるべきエディプスコンプレックスを克服できぬままでいたことが、この対象恒常性の欠如をもたらしているわけである。
と理解したところで、その先、がなければ空疎である。
その先とは、では、今現在エディプスコンプレックスをどう克服し、対象恒常性を身につけることが出来るのか、ということである。
それを導き出すことが出来なければ、その過程までを証明したところで、わからない、と同義である。
また僕が目指す精神的な境地は、エピキュリズムであり、このことは以前の日記(http://37292.diarynote.jp/200901181519329936/)にも書いた。
エピキュリアンたらんとするなら、精神はどうあるべきか。
そのことも、自分の中ではある程度の整理はついているのだ。
しかしながら、どうやったらそうなっていけるのか、そこまでの証明はまだ終わっていない。
つまり、わからない。
方法の一つとして、僕は積極的に功利主義を利用している。
功利主義といっても最大多数の最大幸福的なものではなく、いわばプラグマティズムである。
ただ、それだけでもまだ不十分だ。
理屈は心にはなかなか適応しがたいのである。
やはりというか、僕の心の状態が、ある特定の状況下で物事を誇大な、または歪ませた解釈に至らせている傾向が見受けられる。
感情が状況を支配しているのである。
抑鬱症状の患者への治療法のひとつに認知療法があるが、認知療法の解釈は状況が感情を生み出すのではなく、感情が状況を生み出す、というところからきている。
二元論では決められないと思うが、昨日の状況は、まさしくこの認知の歪みに寄る部分が大きい。
感情というのはいわいる脳の作用であるから、昨日の脳の体調がそういう思考や感情を生み出しやすい状態にあったということなのかもしれない。
神経衰弱だのノイローゼだのパラノイアだの色々あるが、僕の場合はそれほどに重篤なものではなく、只の神経症の類だろう。
しかし、これは薬の恩恵をなくしては語れない。
というのは、一年前の状況を見てみればいい。
僕は薬を飲んでおらず、ある対人関係の問題が発端となり、逆流性食道延を発症し、激烈な対人恐怖陥り、前後不覚。この状態を見たものは家族のほかはいないのだが、まさに常軌を逸していたらしい。
しかしながら、この一年前の事件を境に、僕の対人恐怖的なものは、少し深刻の度が増したようにも感じられる。
昨日の日記に、何を恐れているのが、何が起こることを恐れているのかわからないと書いたが、理屈で論じるなら大筋は理解できている。
僕は人に対する対象恒常性が欠如している。
安定した対人関係を築ける人間は、幼少期から誰かしら、強い愛情関係の信頼でつながれた関係がある。それは、大筋において両親になるのだろうが、それ以外でもそういう存在がいれば、揺るがぬ愛情に信を置けるような経験が自我の年輪の深遠な部分に構築される。
しかしながら、僕は幼少期にこうした愛情関係の構築がうまくいかなかった。
それは、学生期に、母の兄と自分との対応の差に潜在的な嫉妬を感じており、それが、近年の僕が抑欝状態に陥った際の献身的な家族の犠牲を目の当たりするまで続いていた兄との不和からも象徴される。
通常なら克服されるべきエディプスコンプレックスを克服できぬままでいたことが、この対象恒常性の欠如をもたらしているわけである。
と理解したところで、その先、がなければ空疎である。
その先とは、では、今現在エディプスコンプレックスをどう克服し、対象恒常性を身につけることが出来るのか、ということである。
それを導き出すことが出来なければ、その過程までを証明したところで、わからない、と同義である。
また僕が目指す精神的な境地は、エピキュリズムであり、このことは以前の日記(http://37292.diarynote.jp/200901181519329936/)にも書いた。
エピキュリアンたらんとするなら、精神はどうあるべきか。
そのことも、自分の中ではある程度の整理はついているのだ。
しかしながら、どうやったらそうなっていけるのか、そこまでの証明はまだ終わっていない。
つまり、わからない。
方法の一つとして、僕は積極的に功利主義を利用している。
功利主義といっても最大多数の最大幸福的なものではなく、いわばプラグマティズムである。
ただ、それだけでもまだ不十分だ。
理屈は心にはなかなか適応しがたいのである。
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