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●あけましておめでとうございます。
今年もよろしく。
6日も休みがあると、無職のころを思い出して胃が悪くなってくる。
傷はいまだ癒えずかぁ。
●今年はよっぽどのことがない限り去年や一昨年よりはマシな年になるだろう。
まずはいつなるか知らんが、正社員になる。ボーナスが入る。
アベノミクスで株価が上がる。
アトピーでもない、逆流性食道炎でもない。
などなど。
では、何を成し遂げよう。
スキャンをしてしまって、自分の部屋のインテリアを変える。
読書する。運動する。ストレッチにさらに精進し、ダルシムに近づく。
とりあえずこんなところか。
●大晦日から、テニスが始まった。錦織圭も始動。
勝ち進んでいる。強し。
●国木田君から借りた軽小説。
小説なのだが、ラノベは早く読める。
これは何故か考えていたが、やはり、人物がラノベ特有のルールのようなものがあってその中で登場人物が明確にテンプレ化されている、からなのかもしれない。
小説とラノベの境界があいまいになってきているように感じるが、読んでみると、やはり、小説とラノベは明確に違う。まず、ラノベは僕でもはやく読める。ジャケがたとえラノベ風でも小説にジャンル分けされる読み物は、やはり、僕は読むのが格段に遅くなる。
ここには決定的な構造の違いがある。
しかしながら、書かれている内容は、夏目漱石も昨今のラノベもそうそう変わらない。そう思う。
ラノベのほうがテンプレ化されて明確て文も平易でわかりやすいから、現在の大衆には漱石よりも共感を得られやすいのかもしれない。
漱石は職にも就かず、親のスネを齧って働きたくないとブラブラしているものを高等遊民とか自称して働かない御託を云々述べていたが、これ実にラノベの主人公によくあるやつである。
漱石の目指した絶対=客観も哲学で言えば、アートマン=ブラフマンであり、それはエヴァの人類補完計画に通じるものでもある。
ちなみに、僕も中学か高校の頃、同じような思考を持っていて、みんなが自我を捨てて、互いの我を断片ずつ補完すれば各々の自我は補完され、より他者を思いやれる完成度の高い自我が完成するとか考えていた。これすなわち中2病というやつではないか?
だからエヴァを見たときに人類補完計画だけ妙に理解できたし、漱石が絶対=客観を熱弁したことにも、みんな考えることは一緒だと非常に感動した覚えがある。
ちなみに今読んでいる軽小説は設定は完全なるラノベの定型を脱してはおらず、キャラもパクリ、とまでも言わないまでもテンプレを踏襲しているが、今まで読んだ軽小説の中では一番文体がまともである。
そして作者が真性のボッチだったことがうかがわれる。
人生を通して大半がボッチだった僕も辿った思考の過程がこのラノベには描かれており、ラノベという媒体ゆえに自虐的なギャグに仮装して軽妙なタッチで綴られてはいるが、確実に作者が描きたいことは、ボッチに対する世間の共通認識への真性ボッチが発するアンチテーゼであり、また真性ボッチを救いたいという強烈な意志が感じられる。
かつて70年代のロマンポルノがそうであったように、メジャーデビューへの裾野が広がったラノベにもまた、ラノベの定型に乗るという条件を飲むことを犠牲として自己の作家性を注ぎ込む動きが出てきているのかもしれない。
さて、そのラノベに出てくる主人公が考えることは僕が今まで考えてきたことと多くが符合する。
ボッチの考えは広いようで実は突き詰めれば収束していくのではなかろうか。
それは、作者も本作で述べているように
「本来、対人関係に割かれるべきリソースをただ自分一人に向け、内省と反省と後悔と妄想と想像と空想とを繰り返し、やがて思想と哲学とに行きつくほどに、無駄な思考力。そのすべてを費やす、あらゆる可能性を模索し、考えうる結論を反証し、否定する。
その中で否定しきれなかったものを、まるで自己弁護するかの如く全力で立証していく」
ということなのだ。
僕がこれまでやってきたこともそうであるし、今もってやっていることもこれが原型だ。
ちなみに、これは強迫の思考改善にも大変重要なことである。参考までに。
そしてまた
「昔、最低だった自分を、今どん底の自分を認められないで、いったいいつ誰を認めることができるんだ。今の自分を今までの自分を否定してきてこれからの自分を肯定することなんかできるのか」
これも、僕も考えてきたことだ。
つまり、ボッチは今も昔も行きつく考えは似通っており、夏目漱石もソクラテスもブッダも、インド哲学もエヴァもテイストは違えど、ボッチから導き出せる思考の過程にある。
夏目漱石はラノベである。
なんだこの結論。
今年もよろしく。
6日も休みがあると、無職のころを思い出して胃が悪くなってくる。
傷はいまだ癒えずかぁ。
●今年はよっぽどのことがない限り去年や一昨年よりはマシな年になるだろう。
まずはいつなるか知らんが、正社員になる。ボーナスが入る。
アベノミクスで株価が上がる。
アトピーでもない、逆流性食道炎でもない。
などなど。
では、何を成し遂げよう。
スキャンをしてしまって、自分の部屋のインテリアを変える。
読書する。運動する。ストレッチにさらに精進し、ダルシムに近づく。
とりあえずこんなところか。
●大晦日から、テニスが始まった。錦織圭も始動。
勝ち進んでいる。強し。
●国木田君から借りた軽小説。
小説なのだが、ラノベは早く読める。
これは何故か考えていたが、やはり、人物がラノベ特有のルールのようなものがあってその中で登場人物が明確にテンプレ化されている、からなのかもしれない。
小説とラノベの境界があいまいになってきているように感じるが、読んでみると、やはり、小説とラノベは明確に違う。まず、ラノベは僕でもはやく読める。ジャケがたとえラノベ風でも小説にジャンル分けされる読み物は、やはり、僕は読むのが格段に遅くなる。
ここには決定的な構造の違いがある。
しかしながら、書かれている内容は、夏目漱石も昨今のラノベもそうそう変わらない。そう思う。
ラノベのほうがテンプレ化されて明確て文も平易でわかりやすいから、現在の大衆には漱石よりも共感を得られやすいのかもしれない。
漱石は職にも就かず、親のスネを齧って働きたくないとブラブラしているものを高等遊民とか自称して働かない御託を云々述べていたが、これ実にラノベの主人公によくあるやつである。
漱石の目指した絶対=客観も哲学で言えば、アートマン=ブラフマンであり、それはエヴァの人類補完計画に通じるものでもある。
ちなみに、僕も中学か高校の頃、同じような思考を持っていて、みんなが自我を捨てて、互いの我を断片ずつ補完すれば各々の自我は補完され、より他者を思いやれる完成度の高い自我が完成するとか考えていた。これすなわち中2病というやつではないか?
だからエヴァを見たときに人類補完計画だけ妙に理解できたし、漱石が絶対=客観を熱弁したことにも、みんな考えることは一緒だと非常に感動した覚えがある。
ちなみに今読んでいる軽小説は設定は完全なるラノベの定型を脱してはおらず、キャラもパクリ、とまでも言わないまでもテンプレを踏襲しているが、今まで読んだ軽小説の中では一番文体がまともである。
そして作者が真性のボッチだったことがうかがわれる。
人生を通して大半がボッチだった僕も辿った思考の過程がこのラノベには描かれており、ラノベという媒体ゆえに自虐的なギャグに仮装して軽妙なタッチで綴られてはいるが、確実に作者が描きたいことは、ボッチに対する世間の共通認識への真性ボッチが発するアンチテーゼであり、また真性ボッチを救いたいという強烈な意志が感じられる。
かつて70年代のロマンポルノがそうであったように、メジャーデビューへの裾野が広がったラノベにもまた、ラノベの定型に乗るという条件を飲むことを犠牲として自己の作家性を注ぎ込む動きが出てきているのかもしれない。
さて、そのラノベに出てくる主人公が考えることは僕が今まで考えてきたことと多くが符合する。
ボッチの考えは広いようで実は突き詰めれば収束していくのではなかろうか。
それは、作者も本作で述べているように
「本来、対人関係に割かれるべきリソースをただ自分一人に向け、内省と反省と後悔と妄想と想像と空想とを繰り返し、やがて思想と哲学とに行きつくほどに、無駄な思考力。そのすべてを費やす、あらゆる可能性を模索し、考えうる結論を反証し、否定する。
その中で否定しきれなかったものを、まるで自己弁護するかの如く全力で立証していく」
ということなのだ。
僕がこれまでやってきたこともそうであるし、今もってやっていることもこれが原型だ。
ちなみに、これは強迫の思考改善にも大変重要なことである。参考までに。
そしてまた
「昔、最低だった自分を、今どん底の自分を認められないで、いったいいつ誰を認めることができるんだ。今の自分を今までの自分を否定してきてこれからの自分を肯定することなんかできるのか」
これも、僕も考えてきたことだ。
つまり、ボッチは今も昔も行きつく考えは似通っており、夏目漱石もソクラテスもブッダも、インド哲学もエヴァもテイストは違えど、ボッチから導き出せる思考の過程にある。
夏目漱石はラノベである。
なんだこの結論。
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コメント
コメントありがとうございました^^
なかなか面白い解釈ですね。
私はしばらく本を読んでいないので、漱石も忘れてしまっていました(^^ゞ
機会があったら視点を変えて読んでみようかな?
ちと、無理っぽいですが、、、(苦笑)
では、今年もよろしくお願いします。
あけましておめでとうございます。
いえいえ、なかなかコメントできずに申しわけありません。
面白い解釈というか捻くれた解釈かもしれません(笑)
やっぱり、自分が考えてきたことと同じことが書いてるとどうしてもそういう部分に意識が向いてしまいますね。記憶にもそういう部分ばかりが残ってしまいます。
今年もまた、なにとぞよろしくお願いいたします。