11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち
11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち
11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち
●僕は後年の作品群を読んでいないので、はなはだ見当違いの考えを三島由紀夫に対して抱いているのかもしれないが。
三島由紀夫はともすれば国粋主義者、過激なナショナリストとして描かれるのであるが、では、三島由紀夫は内心から国粋主義者であり、日本の当時の現状を憂いていたのだろうかという疑問が
常にある。

僕には、どうしても三島の盾の会や、天皇制に対する考えも、自分の死の演出装置にしか思えないからだ。

三島は、初めての自慰の体験が「聖セバスチャン」であることは有名だ。
彼はセバスチャンの何に興奮し、美を見出したのだろうか。

「セバスチャンー若い近衛兵の長ーが示した美は、殺される美ではなかったか。(中略)彼自身もまたおぼろげに予知していた。彼の行手にあって彼を待つものは殉教にほかならないことを。凡俗から彼を分け隔てるものはこの悲運のしるしにほかならぬことを。」(仮面の告白)

三島の死に対する憧れは幼い頃より一貫していたのだと思う。
それもただの死ではなく、何らかの形で英雄として、英雄の只中でなんらかに殉教することを望んでいたのではないだろうか。

彼は自分を凡俗から分け隔てるために、現人神たる天皇の復活を望み、日本を憂い、日本のために殉教し英雄になるという演出を着々と作り上げていたのだと考えている。

三島の自分の人生に対する死生観は耽美主義が土壌にあると感じる。
そして至上の美とは彼にとって英雄の死である。
英雄の死は、英雄の状況の只中で死することではじめて美を構成する。
いかな英雄であっても老いさらばえ、英雄の状況を過去として追憶の中死するのは、美ではない。
つまり、殉死、殉教でなくてはならない。
英雄はそのさなかで死ぬのだから、つまりは老いさらばえ生きながらえるのではなく夭折が説かれる。
しかし、夭折の美を求めながら、三島は歳を取っていき焦燥感を募らせた。
だから、彼は、英雄として散った西郷隆盛の49歳を夭折といえる限界と定めた。

だから、三島は自分の人生を完成させるためには、死がなんとしても必要であったし、そのためには、天皇という宗教が必要であったし、盾の会が必要であった。
そして、49歳までに自分が死ななければ自分のストーリーは完全なものにはならないと考えていた、と僕は考えているわけであって。

三島にとっての生とはいかに死を迎えるかということに収束されていたのであれば、葉隠れに惹かれていったのもよく理解できる、そうした日本的な精神論は三島の死生観と良く合致したのだと思う。

そして、自ら死を決行する切腹はもっとも極限な美を作り出す殉教の形とも言えるんじゃなかろうか。

「誰も知るように、栄光の味は苦い。」(午後の曳航)


というようなことを日曜日にシネマ5であった若松監督の『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち」を観ながら考えた。

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