何んのそのどうで死ぬ身の一踊り
2012年1月31日 僕について●抑鬱症状が最悪のときは、私の場合人間恐怖や当の問題のことで頭が支配されて。他の事を考える余裕が無い。
希死念慮が現れるのは大概、思考の余地が生まれてくる治りがけのときだ。
薬で気分や体調は確実に改善に向かっている。
とくに予期不安も感じていないし、動悸が乱れてもいない。
不安定になっているとは思いがたい状態であるときに、突然、死にたいという思念が頭をよぎり、いつかほんとに自分は命を捨ててしまうのではないかと思い出す。
これは危険だと思って病院で相談したらSSRIが増えて100mgになった。今は薬のおかげかあまり希死念慮はあらわれてこない。
実は死への欲求というものをだいぶ昔から自覚している。
しかし不思議なもので、死を思うと心が楽になるのである。
辛いときに何よりの慰めは、「いつでも死ねるので、何も今日死ぬことは無い」というものだった。
もちろん、それは褒められるべき生への動機付けではない。
しかしながら、その当時の辛いと思われた状況の中で自分を生に繋ぎとめる、もしくは自己の崩壊を防ぎえるのに、足りない頭を捻って作り上げたもっとも強力な理屈がそれであったのは紛れも無いのだ。
それ以来、その理屈に勝る強力な理屈が思いつかなかったので、どんな講釈をたれようと、結局のところ根底で私はこの考えを寄る辺としてきたのだと思う。
世の中や、生に対する諦観めいた思念が、自己の生への執着へと結びつくのは面白い皮肉である。
私はこのことから、逆説的に自分の中にある生への強い欲求をも意識せざるをえなかった。
生と死の欲求に対して、私は死の欲求の方をこれまで公にすることをしなかったし、自分でも認めたくなかったのであろうから、私に通低する生への寄る辺が、死に対する希求であることを否定する文章をこの日記にも幾たびか書いてきたものである。
http://37292.diarynote.jp/200403231738270000/
http://37292.diarynote.jp/200410262241050000/
しかしこの度のことがあってから、再び死を思うことで楽になる自分を再認してしまった以上、楽になる限り、私の生への寄る辺が死への希求(生に対する諦観)にあることは、もはや(自分自身に対しても)隠しようが無いわけであるし、そういうところから、今思えば、上記の日記にある、苦痛も悲しみも生の醍醐味である、というマゾヒズム的解釈で生をある種アトラクションと捉えている発想も生み出されたとわかるのである。
芥川賞作家の西村賢太の作品を最近熱心に読んでいるが、作中に出てくるまた表題でもある藤澤清造の言葉、
「何んのそのどうで死ぬ身の一踊り」
はまさに私の根底の生に対する眼差しそのものであると言えよう。
しかしながら、ここまで胸襟を開いてからいうのもなんであるが、これはあくまでも私の観察によるところの現在の私の心情的土壌をできる限り客観的に表明したものであって、私自身が心地よいと感ずる、または是とするべき思念ではないと思っている。
なぜなら、そこには、常に、自分はいつかほんとに命を投げ出してしまわないか、という不安が付きまとうからである。
自覚的な死への欲求は、先天的なものというよりも後天的に苦しみへの防御本能の中で生み出された産物であると解釈しているので、生の執着の変質といえる。そうであるならば、私は生きたいという思いが本質でなければならん。
今は本質を支えるべきもの(寄る辺)が本質を失わせる危険性を孕んでいる撞着したものである。
もっとポジティブなところから発生した同じくらいに強力な寄る辺の論理が存在しうるとしたら、私はそちらにパラダイムシフトできるのではないかと考えるが、現在のところ、そのようなものはまだ見つかっていない。
希死念慮が現れるのは大概、思考の余地が生まれてくる治りがけのときだ。
薬で気分や体調は確実に改善に向かっている。
とくに予期不安も感じていないし、動悸が乱れてもいない。
不安定になっているとは思いがたい状態であるときに、突然、死にたいという思念が頭をよぎり、いつかほんとに自分は命を捨ててしまうのではないかと思い出す。
これは危険だと思って病院で相談したらSSRIが増えて100mgになった。今は薬のおかげかあまり希死念慮はあらわれてこない。
実は死への欲求というものをだいぶ昔から自覚している。
しかし不思議なもので、死を思うと心が楽になるのである。
辛いときに何よりの慰めは、「いつでも死ねるので、何も今日死ぬことは無い」というものだった。
もちろん、それは褒められるべき生への動機付けではない。
しかしながら、その当時の辛いと思われた状況の中で自分を生に繋ぎとめる、もしくは自己の崩壊を防ぎえるのに、足りない頭を捻って作り上げたもっとも強力な理屈がそれであったのは紛れも無いのだ。
それ以来、その理屈に勝る強力な理屈が思いつかなかったので、どんな講釈をたれようと、結局のところ根底で私はこの考えを寄る辺としてきたのだと思う。
世の中や、生に対する諦観めいた思念が、自己の生への執着へと結びつくのは面白い皮肉である。
私はこのことから、逆説的に自分の中にある生への強い欲求をも意識せざるをえなかった。
生と死の欲求に対して、私は死の欲求の方をこれまで公にすることをしなかったし、自分でも認めたくなかったのであろうから、私に通低する生への寄る辺が、死に対する希求であることを否定する文章をこの日記にも幾たびか書いてきたものである。
http://37292.diarynote.jp/200403231738270000/
http://37292.diarynote.jp/200410262241050000/
しかしこの度のことがあってから、再び死を思うことで楽になる自分を再認してしまった以上、楽になる限り、私の生への寄る辺が死への希求(生に対する諦観)にあることは、もはや(自分自身に対しても)隠しようが無いわけであるし、そういうところから、今思えば、上記の日記にある、苦痛も悲しみも生の醍醐味である、というマゾヒズム的解釈で生をある種アトラクションと捉えている発想も生み出されたとわかるのである。
芥川賞作家の西村賢太の作品を最近熱心に読んでいるが、作中に出てくるまた表題でもある藤澤清造の言葉、
「何んのそのどうで死ぬ身の一踊り」
はまさに私の根底の生に対する眼差しそのものであると言えよう。
しかしながら、ここまで胸襟を開いてからいうのもなんであるが、これはあくまでも私の観察によるところの現在の私の心情的土壌をできる限り客観的に表明したものであって、私自身が心地よいと感ずる、または是とするべき思念ではないと思っている。
なぜなら、そこには、常に、自分はいつかほんとに命を投げ出してしまわないか、という不安が付きまとうからである。
自覚的な死への欲求は、先天的なものというよりも後天的に苦しみへの防御本能の中で生み出された産物であると解釈しているので、生の執着の変質といえる。そうであるならば、私は生きたいという思いが本質でなければならん。
今は本質を支えるべきもの(寄る辺)が本質を失わせる危険性を孕んでいる撞着したものである。
もっとポジティブなところから発生した同じくらいに強力な寄る辺の論理が存在しうるとしたら、私はそちらにパラダイムシフトできるのではないかと考えるが、現在のところ、そのようなものはまだ見つかっていない。
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