不思議な掟

2011年10月25日 日常
彼にも然しもっと卑小な問題があった。それは驚くほど卑小な問題で、しかも眼の先に差迫り、常にちらついて放れなかった。それは彼が会社から貰う二百円ほどの給料で、その給料をいつまで貰うことができるか、明日にもクビになり路頭に迷いはしないかとう不安であった。彼は月給を貰う時、同時にクビの宣告を受けはしないかとビクビクし、月給袋を受取ると一月延びた命のために呆れるくらい幸福感を味わうのだが、その卑小さを顧みていつも泣きたくなるのであった。彼は芸術を夢見ていた。その芸術の前ではただ一粒の塵埃でしかないような二百円の給料がどうして骨身にからみつき生存の根底をゆさぶるような大きな苦悶になるのであろうか。生活の外形のみのことではなくその精神も魂も二百円に限定され、その卑小さを凝視して気も違わずに平然としていることが尚更情けなくなるばかりであった。
・・・眼のさきの全てをふさぎ、生きる希望を根こそぎさらい去るたった二百円の決定的な力、夢の中にまで首をしめられ、うなされ、まだ二十七の青春のあらゆる情熱が漂白されて、現実にすでに暗黒の曠野の上を茫々と歩くだけではないか。
・・・胸の灯も芸術も希望の光もみんな消えて、生活自体が道ばたの馬糞のようにグチャグチャに踏みしだかれて、乾きあがって風に吹かれ、飛びちり跡形もなくなって行く。爪の跡すらなくなって行く。・・・やりきれない卑小な生活だった。彼自身にはこの現実の卑小さを裁く力すらもない。
・・・俺は何を怖れているのだろうか。・・・怖れているのはただ世間の見栄だけだ。その世間とはアパートの淫売婦だの妾だの妊娠した挺身隊だの家鴨のような鼻にかかった声をだして喚いているオカミサン達の行列会議だけのことだ。そのほかに世間などはどこにもありはしないのに、そのくせこの分かりきった事実を俺は全然信じていない。不思議な掟に怯えているのだ。



坂口安吾「白痴」より抜粋。

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

日記内を検索