●境界性人格障害(ボーダー)のK君から毎日10通くらいメールが来る。
長文なので気力のあるときにメール送るようにしている。
最近は半身浴をしているとき。
K君はアスペルガーの二次障害のボーダーなので厄介だ。
メールの内容は、話すことは違っても、殆どが同じロジック。
つまり、全か無か思考による定義づけ。
例えば、医者は自分の子供には薬を飲ませない、とどこかから聞くと、医者は金のためになんでもする。全ての医者は、自分の子供に飲ませないような薬を金のために患者には飲ませる金の亡者だ、というレッテルを貼ってしまう。
だから医者は憎い、信じられない、となる。
他のことも全てこれと一緒。
こういう人間もいるが、全てじゃない。こういう価値観はあるが、みんなが持っている価値観じゃない。という認識にならない。
しかも定義づけがネガティブだから、それが憎しみへと向かい、ボーダーの精神的不安定の元となる。
自分の中で絶対的価値観を作り出し、周りの価値観を自分の中の常識の枠に当てはめようとしている。つまり、そこからはみ出るものは全て憎悪の対象になるのだ。
K君の精神性が理解できるやり取り。
熱中できるものが無いという話から質問してみた。
「K君は、障害を克服することに対しては調べたり勉強したり、あまり燃えて努力するタイプではないよね」
「確かにそれはあるね。他人は嫌いだから、僕が仕事について世の中の役に立ってると思うと腹も立つし。働かない原因に、単にお金のために働いてるだけであって、世の中の平和とかは望んでいないっていうのも本気になれない理由のひとつでもあるかな」
「だけど障害の苦しみは訴えたりひがんだりする。障害に依存している部分があるのかもね。本当に治したら世の中を恨む大義名分を失う」
「『本当に治したら世の中を恨む大義名分を失う』←良いこと言うね。自分が自分でなくなってしまう感覚だよ。執念の元みたいなのが無くなるというか」
「たぶんなんだかんだで障害であることは色んな責任から逃れる盾になるから、無意識に重宝してしまっているんじゃなかろうか」
「良い指摘だと思う。怒りとか憎しみをバネにして、受験時代も勉強頑張れたし」
「確かに今までその恨みがK君の生きる支え、アイデンティティにまでなっていたんだとしたら、障害を克服することは代わりのアイデンティティを構築しないと不安だろうね。自分が空っぽになりそうで」
以前から、障害の苦しみを訴えつつも、障害を治すことに本気になっていない印象を受けていたのだけど、それは、この憎しみというアイデンティティの喪失による恐怖なのだとすれば、これは、まさに僕のモラルに対する恐怖と同じなのでよくわかる。
僕の場合は、逆に高校時代に僕の障害の真似をするクラスメイトを見て、こういう人間にはけしてなるまいという厳しい善悪のモラルを自分に強いた。
しかし社会に出ると、そうしたモラルの枷が自分の柔軟性を奪い、結果K君と同じような状態に陥ってしまう。
つまり、この善悪のモラルの枷を緩めて自分のルールを一つでも破ってしまうと、一つ破られたルールはそこから瓦解しルールの意味を持たなくなる。
僕は今まで僕を支えてきたこのルール(アイデンティティ)を失って空っぽの人間になってしまうのではないか、はたまた真逆の人間になってしまうのではないかという恐怖に駆られた時期があった。
それは、今でも無いといえば嘘になるけど、プラグマティズムの考え方を学んで幾分柔軟になってきて不安も薄らいだ。
でも結局は自分が変わるしかないのだ。
だから、僕の経験則で
「でもそれをずっと繰り返していくこともできないのも薄々気付いてきてるはず。幼い頃、若い頃ならそれは武器になるかもしれないけど、歳を経るにつれて滑稽でしかなくなってくるからね」
とか、
「60歳になってまで、小さい頃のトラウマが、といっていても20代とは違い周りは相手にしなくなっていく。結局は自分が変わらない限り、恨みが自分だけを押しつぶしていく。変わりたいけど変わるのがこわくて不安。でも変わるしかないと思うよ」
みたいに変わる努力をする方向に持っていけないかと色々言ったけど、今回は決裂。
こんなやり取りを何度も繰り返しもう7年以上になる。。。
長文なので気力のあるときにメール送るようにしている。
最近は半身浴をしているとき。
K君はアスペルガーの二次障害のボーダーなので厄介だ。
メールの内容は、話すことは違っても、殆どが同じロジック。
つまり、全か無か思考による定義づけ。
例えば、医者は自分の子供には薬を飲ませない、とどこかから聞くと、医者は金のためになんでもする。全ての医者は、自分の子供に飲ませないような薬を金のために患者には飲ませる金の亡者だ、というレッテルを貼ってしまう。
だから医者は憎い、信じられない、となる。
他のことも全てこれと一緒。
こういう人間もいるが、全てじゃない。こういう価値観はあるが、みんなが持っている価値観じゃない。という認識にならない。
しかも定義づけがネガティブだから、それが憎しみへと向かい、ボーダーの精神的不安定の元となる。
自分の中で絶対的価値観を作り出し、周りの価値観を自分の中の常識の枠に当てはめようとしている。つまり、そこからはみ出るものは全て憎悪の対象になるのだ。
K君の精神性が理解できるやり取り。
熱中できるものが無いという話から質問してみた。
「K君は、障害を克服することに対しては調べたり勉強したり、あまり燃えて努力するタイプではないよね」
「確かにそれはあるね。他人は嫌いだから、僕が仕事について世の中の役に立ってると思うと腹も立つし。働かない原因に、単にお金のために働いてるだけであって、世の中の平和とかは望んでいないっていうのも本気になれない理由のひとつでもあるかな」
「だけど障害の苦しみは訴えたりひがんだりする。障害に依存している部分があるのかもね。本当に治したら世の中を恨む大義名分を失う」
「『本当に治したら世の中を恨む大義名分を失う』←良いこと言うね。自分が自分でなくなってしまう感覚だよ。執念の元みたいなのが無くなるというか」
「たぶんなんだかんだで障害であることは色んな責任から逃れる盾になるから、無意識に重宝してしまっているんじゃなかろうか」
「良い指摘だと思う。怒りとか憎しみをバネにして、受験時代も勉強頑張れたし」
「確かに今までその恨みがK君の生きる支え、アイデンティティにまでなっていたんだとしたら、障害を克服することは代わりのアイデンティティを構築しないと不安だろうね。自分が空っぽになりそうで」
以前から、障害の苦しみを訴えつつも、障害を治すことに本気になっていない印象を受けていたのだけど、それは、この憎しみというアイデンティティの喪失による恐怖なのだとすれば、これは、まさに僕のモラルに対する恐怖と同じなのでよくわかる。
僕の場合は、逆に高校時代に僕の障害の真似をするクラスメイトを見て、こういう人間にはけしてなるまいという厳しい善悪のモラルを自分に強いた。
しかし社会に出ると、そうしたモラルの枷が自分の柔軟性を奪い、結果K君と同じような状態に陥ってしまう。
つまり、この善悪のモラルの枷を緩めて自分のルールを一つでも破ってしまうと、一つ破られたルールはそこから瓦解しルールの意味を持たなくなる。
僕は今まで僕を支えてきたこのルール(アイデンティティ)を失って空っぽの人間になってしまうのではないか、はたまた真逆の人間になってしまうのではないかという恐怖に駆られた時期があった。
それは、今でも無いといえば嘘になるけど、プラグマティズムの考え方を学んで幾分柔軟になってきて不安も薄らいだ。
でも結局は自分が変わるしかないのだ。
だから、僕の経験則で
「でもそれをずっと繰り返していくこともできないのも薄々気付いてきてるはず。幼い頃、若い頃ならそれは武器になるかもしれないけど、歳を経るにつれて滑稽でしかなくなってくるからね」
とか、
「60歳になってまで、小さい頃のトラウマが、といっていても20代とは違い周りは相手にしなくなっていく。結局は自分が変わらない限り、恨みが自分だけを押しつぶしていく。変わりたいけど変わるのがこわくて不安。でも変わるしかないと思うよ」
みたいに変わる努力をする方向に持っていけないかと色々言ったけど、今回は決裂。
こんなやり取りを何度も繰り返しもう7年以上になる。。。
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