●フロイトは、心の構造が三つの組織で構成されていると言っている。
その三つとは、エス・自我・超自我である。
エスとは、快感欲求に基づいて行動するもっとも本能に近い領域で、自我はそのエスを現実の社会の中で成り立つように調整する機能。
そして超自我とは、さらにその二つを監督する良心や道徳から成り立つ機能らしい。
その三つがパーソナリティーの大まかな構成要素である。
こう考えてみると、強迫性障害者や、抑鬱傾向のある人は、超自我の働きが強すぎ、エスを抑えこみすぎている傾向があると捉える事ができる。
この超自我を弱めて、エス(欲望や感情)の発露を促し、それを自我によって適切な形で表現できるようにバランスを整える作業が、精神分析療法である。
この療法を行うためには、患者本人の心の洞察が不可欠であり精神分析家(カウンセラーとか?)が、自己理解がうまく進むように援助し、導く役割を担う。
僕が功利主義、プラグマティズムでいようと心がけることは、即ち自分の強迫的な善悪、モラルに対する頚木(心の潔癖主義)からの脱却を目指したものであり、それはすなわち、超自我を緩めるということと同義である。
●心理学的に言うと、依存と甘えは構造が似ていても、明確な違いがあるらしく、依存は依存したものが依存されたものに操られる状態をいい、甘えは逆に依存されたものが依存するものに操作される状態をいうらしい。
では、境界性人格障害に見られる依存はどうだろう。
これは依存というが、依存されたものが依存する者に対して操作できてはいない。
依存(ターゲット)された者は、依存する者(境界性障害者)から常に命を人質(OD、リスカ、犯罪予告など)に操作されてしまうことが多い。
つまりこれは、心理学的にいえば甘えに定義されるのか??
そしてもう一つ、甘えの定義。
甘えは自分が正当なことをしていないと認識している状態でも、相手がそれを許容してくれると期待して、修正を加えない状態のことをいう。
例えば、夏休みの宿題を全てやり終えなかったが、教師はそれを許してくれるだろう、という期待をしているのであれば、その者は教師に対して甘えているということになり、学校はそのくらいで生徒を罰することはしないだろうと考えるなら、学校(の制度)に対してそのものは甘えている、ということになる。
ということは、この場合、自分が確実に正当なことをしているという認識の元に不正なことを行っていた場合、それは対外的には甘えに映ったとしても、心理学的には甘えという定義には含まれないということなのだろうか。
う~ん、よくわからない。
その三つとは、エス・自我・超自我である。
エスとは、快感欲求に基づいて行動するもっとも本能に近い領域で、自我はそのエスを現実の社会の中で成り立つように調整する機能。
そして超自我とは、さらにその二つを監督する良心や道徳から成り立つ機能らしい。
その三つがパーソナリティーの大まかな構成要素である。
こう考えてみると、強迫性障害者や、抑鬱傾向のある人は、超自我の働きが強すぎ、エスを抑えこみすぎている傾向があると捉える事ができる。
この超自我を弱めて、エス(欲望や感情)の発露を促し、それを自我によって適切な形で表現できるようにバランスを整える作業が、精神分析療法である。
この療法を行うためには、患者本人の心の洞察が不可欠であり精神分析家(カウンセラーとか?)が、自己理解がうまく進むように援助し、導く役割を担う。
僕が功利主義、プラグマティズムでいようと心がけることは、即ち自分の強迫的な善悪、モラルに対する頚木(心の潔癖主義)からの脱却を目指したものであり、それはすなわち、超自我を緩めるということと同義である。
●心理学的に言うと、依存と甘えは構造が似ていても、明確な違いがあるらしく、依存は依存したものが依存されたものに操られる状態をいい、甘えは逆に依存されたものが依存するものに操作される状態をいうらしい。
では、境界性人格障害に見られる依存はどうだろう。
これは依存というが、依存されたものが依存する者に対して操作できてはいない。
依存(ターゲット)された者は、依存する者(境界性障害者)から常に命を人質(OD、リスカ、犯罪予告など)に操作されてしまうことが多い。
つまりこれは、心理学的にいえば甘えに定義されるのか??
そしてもう一つ、甘えの定義。
甘えは自分が正当なことをしていないと認識している状態でも、相手がそれを許容してくれると期待して、修正を加えない状態のことをいう。
例えば、夏休みの宿題を全てやり終えなかったが、教師はそれを許してくれるだろう、という期待をしているのであれば、その者は教師に対して甘えているということになり、学校はそのくらいで生徒を罰することはしないだろうと考えるなら、学校(の制度)に対してそのものは甘えている、ということになる。
ということは、この場合、自分が確実に正当なことをしているという認識の元に不正なことを行っていた場合、それは対外的には甘えに映ったとしても、心理学的には甘えという定義には含まれないということなのだろうか。
う~ん、よくわからない。
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