●書くことは色々あるのですが、被災した人たちの状況を考えると、書く気になれないので、自粛してました。
僕が僕の日常の日記書こうが書くまいが、被災地の状況はまったく関係ないんですけどね。
なんか自分の気持ちが書く方向に向かいませんでした。
地震のことを書こうにも、被災者との気持ちのギャップはどうしても免れないところです。
正直なところを言ってしまえば、心配や悲しみももちろんありますが、実際に被災していないので、リアルな感情としての危機感や悲壮感というものはやはり真に迫ってはいないと思います。
これが、おそらく多くの被災していない人の抱く正直な心情だと思うので、自分が冷たい人間とは思いません。
思いませんが、どうも釈然としないモヤモヤがあります。
たぶん、そうした自分への嫌悪感がどこかにあるんじゃないでしょうかね。
ちょうど地震のあった日は、潰れた工場の慰労会ということでホテルに宿泊して帰ってきた日だったのですが、そういった営みと、同じ国で起こった災害との隔絶感、違和感、日常の断絶感みたいなものに気持ち悪さを覚えて、対処しきれなかったので、日記を書かずにいました。
自分の矛盾を知ることは他者を受け入れる上において重要な事柄です。
理想という完璧性を求めてしまう先にあるのは対立です。
不完全であることに気付くことで初めて他者を許容できるのだと思うのです。
障害者である自分が、障害に向けられる無理解を受け入れらるとすれば、それは自分の被災者に対する無理解に気付くからです。
不完全であることこそ人間の完全な姿だと思います。
そして不完全であるからこそ、その先、があるんだと思います。
僕が今考えるべきことがあるとすれば、つまり「その先」のことについてです。
また日記書きます。
●「他人の内心をのぞくことが肉眼に許されるならば、人はその思想するところのものによってよりも、その夢想するところのものによっていっそう確実に判断さるるであろう。思想のうちには意思がある。しかし夢想のうちにはそれがない」(レ・ミゼラブル)
僕が僕の日常の日記書こうが書くまいが、被災地の状況はまったく関係ないんですけどね。
なんか自分の気持ちが書く方向に向かいませんでした。
地震のことを書こうにも、被災者との気持ちのギャップはどうしても免れないところです。
正直なところを言ってしまえば、心配や悲しみももちろんありますが、実際に被災していないので、リアルな感情としての危機感や悲壮感というものはやはり真に迫ってはいないと思います。
これが、おそらく多くの被災していない人の抱く正直な心情だと思うので、自分が冷たい人間とは思いません。
思いませんが、どうも釈然としないモヤモヤがあります。
たぶん、そうした自分への嫌悪感がどこかにあるんじゃないでしょうかね。
ちょうど地震のあった日は、潰れた工場の慰労会ということでホテルに宿泊して帰ってきた日だったのですが、そういった営みと、同じ国で起こった災害との隔絶感、違和感、日常の断絶感みたいなものに気持ち悪さを覚えて、対処しきれなかったので、日記を書かずにいました。
自分の矛盾を知ることは他者を受け入れる上において重要な事柄です。
理想という完璧性を求めてしまう先にあるのは対立です。
不完全であることに気付くことで初めて他者を許容できるのだと思うのです。
障害者である自分が、障害に向けられる無理解を受け入れらるとすれば、それは自分の被災者に対する無理解に気付くからです。
不完全であることこそ人間の完全な姿だと思います。
そして不完全であるからこそ、その先、があるんだと思います。
僕が今考えるべきことがあるとすれば、つまり「その先」のことについてです。
また日記書きます。
●「他人の内心をのぞくことが肉眼に許されるならば、人はその思想するところのものによってよりも、その夢想するところのものによっていっそう確実に判断さるるであろう。思想のうちには意思がある。しかし夢想のうちにはそれがない」(レ・ミゼラブル)
コメント
お久しぶりです。
北陸の方は地震の影響はどうだったでしょうか。
大丈夫だったでしょうか?
大分は、地震の影響はまったくありませんでした。
ニュースを見るまで知りませんでした。
同じ日本で起こっていることと思えないですし、同じ日本に住んでいる人で状況とともに感じていることの差が僕と被災者ではどの程度開いているのかのギャップさえ把握できずに、それがある種の気持ち悪さを誘発しているんだと思います。
気持ち悪さっていうのは、自分の感情や感覚をどういう風にもっていけばいいのかわからなくなるという意味です。軽い混乱だと思います。
募金は僕もします。罪悪感ていうのは、あっていいものだと思います。
僕達の心には、常に、どんな状況でも善の思い、悪の思いが湧き出ていると思います。どちらの選択をするかは僕達次第ですが。募金が被災者の助けとなるのなら、僕達は、内心にネガティブな思いがあるにせよ、ポジティブな善の気持ちを選択して外部に表出した、つまり善を成したと捉えていと思いますよ。