●公務員専門学校時代に、法律の講師に、本を何も考えずにただ字面を追うのは意味ありますかと問うたところ、意味はない、との返答を頂いた。
脳を使うと、僕の場合平均30ページほどで読むスピードが遅くなる。
もちろん本の種類にもよるが、どんな面白い本でもそこいらで飽きてくる。
必然的に併読が常になる。
それも4、5冊。
内容を混同しないかと聞かれることもあるが、基本、ジャンルはそれぞれ違うものを選んでいる。
学術物、エセー、小説。
理解できる簡単な読み物、理解しづらい難しい読み物。
フィクション、ノンフィクション。
古典小説、現代小説。
のような感じで。
いかに脳を疲れさせずに読書をするか、それをずっと考えている。
僕が本を読み始めた当初は、本を読む、という行為自体に慣れてなく、文字を目で追うことが苦痛でたまらなかった。
一文字一文字にこだわり、それだけで、脳がへとへとに疲れてしまっていた。
一度で理解しようとか、一文字でも逃したらその本の内容がつかめないとか、そんな誤解もあったのだと思う。
それまで本をほとんど読まなかった青年が、ドストエフスキーや古典の学術書に挑戦しようとするとき、上記のような意識だと、最初の時点で、乗り越える壁が高すぎる気がしてしり込みしてしまう。
僕は前述の講師の言葉を信じない。
サブリミナル効果に見られるように、人間は自覚しない瞬時の映像ですら認識していたりする。
その深度を増していけばいいのだ。
脳にそのような深度に達するポテンシャルがあるかといわれれば、ある。サヴァン症候群の例をとっても、人間は、一目見ただけでその映像を完全に記憶する能力を充分に持ち合わせている。
脳の使い方をどう意識するか。
それを意識することで脳の働きは変化するはずだ。
扁桃体をうまく刺激し、右脳を鍛え上げることで活動領域を拡大する。
記憶と理解は並列に進んでいくわけではなく、記憶した後、理解を時間をかけて行う。
記憶とともに理解しなければならないという意識が脳を疲弊させる要因の一部だと考えている。
ドストエフスキーを読むとき、僕は理解することを意識せずに読む、という方法を試みた。
古典の長編や、学術、哲学を読むときは、今でもそういった読み方で臨んでいる。
熟読とはいえないかもしれないが、こうやって読んだ本は僕に影響を与えている、それは確信できるので、考えずに読むことは「意味のない」行為ではない。
脳は考えようとせずとも勝手に考え理解しようとするので、ただ字面を追うだけでも、いつの間にかかなりの情報を取得している。
ただ、僕が併読が多いのは、やはり理解しようとする意識が依然として強過ぎるからなのだろう。
特に小説の類になると、ストーリーを吟味し感動を味わいたいという衝動は、やはり初見の時がもっとも大きいので、その呪縛(一回で大方を理解したいという気持ち)を剥ぎ取ることが難しく、感情の感覚に拘るがゆえに、理解する読み方を優先させがちになるので、脳が疲れるのだ。
感情の起伏よりも情報の摂取に重きを置いた読み物の方が、比較的理解を意識せずに読む、という方法に適している、少なくとも僕にとっては。
理解に重きを置いて、自分にとって荷が重そうな本に「挑戦」しようとするとき、熟読吟味を意識して途中で挫折したり放棄してしまうよりは、理解に意識をおかずにただ字面を追うだけで二度三度読み返すほうが、脳にとっても効率がいいし、遥かに広い情報を摂取できるのではないかと思う。
脳を使うと、僕の場合平均30ページほどで読むスピードが遅くなる。
もちろん本の種類にもよるが、どんな面白い本でもそこいらで飽きてくる。
必然的に併読が常になる。
それも4、5冊。
内容を混同しないかと聞かれることもあるが、基本、ジャンルはそれぞれ違うものを選んでいる。
学術物、エセー、小説。
理解できる簡単な読み物、理解しづらい難しい読み物。
フィクション、ノンフィクション。
古典小説、現代小説。
のような感じで。
いかに脳を疲れさせずに読書をするか、それをずっと考えている。
僕が本を読み始めた当初は、本を読む、という行為自体に慣れてなく、文字を目で追うことが苦痛でたまらなかった。
一文字一文字にこだわり、それだけで、脳がへとへとに疲れてしまっていた。
一度で理解しようとか、一文字でも逃したらその本の内容がつかめないとか、そんな誤解もあったのだと思う。
それまで本をほとんど読まなかった青年が、ドストエフスキーや古典の学術書に挑戦しようとするとき、上記のような意識だと、最初の時点で、乗り越える壁が高すぎる気がしてしり込みしてしまう。
僕は前述の講師の言葉を信じない。
サブリミナル効果に見られるように、人間は自覚しない瞬時の映像ですら認識していたりする。
その深度を増していけばいいのだ。
脳にそのような深度に達するポテンシャルがあるかといわれれば、ある。サヴァン症候群の例をとっても、人間は、一目見ただけでその映像を完全に記憶する能力を充分に持ち合わせている。
脳の使い方をどう意識するか。
それを意識することで脳の働きは変化するはずだ。
扁桃体をうまく刺激し、右脳を鍛え上げることで活動領域を拡大する。
記憶と理解は並列に進んでいくわけではなく、記憶した後、理解を時間をかけて行う。
記憶とともに理解しなければならないという意識が脳を疲弊させる要因の一部だと考えている。
ドストエフスキーを読むとき、僕は理解することを意識せずに読む、という方法を試みた。
古典の長編や、学術、哲学を読むときは、今でもそういった読み方で臨んでいる。
熟読とはいえないかもしれないが、こうやって読んだ本は僕に影響を与えている、それは確信できるので、考えずに読むことは「意味のない」行為ではない。
脳は考えようとせずとも勝手に考え理解しようとするので、ただ字面を追うだけでも、いつの間にかかなりの情報を取得している。
ただ、僕が併読が多いのは、やはり理解しようとする意識が依然として強過ぎるからなのだろう。
特に小説の類になると、ストーリーを吟味し感動を味わいたいという衝動は、やはり初見の時がもっとも大きいので、その呪縛(一回で大方を理解したいという気持ち)を剥ぎ取ることが難しく、感情の感覚に拘るがゆえに、理解する読み方を優先させがちになるので、脳が疲れるのだ。
感情の起伏よりも情報の摂取に重きを置いた読み物の方が、比較的理解を意識せずに読む、という方法に適している、少なくとも僕にとっては。
理解に重きを置いて、自分にとって荷が重そうな本に「挑戦」しようとするとき、熟読吟味を意識して途中で挫折したり放棄してしまうよりは、理解に意識をおかずにただ字面を追うだけで二度三度読み返すほうが、脳にとっても効率がいいし、遥かに広い情報を摂取できるのではないかと思う。
コメント
私は併読はせいぜい2冊までしかした事ないけど、ジャンルが違えば混同はしないよね!
毎日色んなドラマ見てても混同しないのと一緒。
私もキタム君のまねしてみよう。
さすがにそれは内容把握できるのか不思議です(笑)
ただ、僕は飽き性なので、一冊だけを続けて読むのはできませんね。
併読は常に新鮮な気持ちでいられますよ^^
アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」もせっかく事件が起きて面白くなって来たのに、「先を早く読みたい!」っていう気持ちにならないから。
でも途中で止まって数年たつのはあります(笑)
でもこれ見方を変えたら最後まで読まなかったともいえますかね^^;