●ニーチェ(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7)は自分を救ってくれるのではないか。
以前からそんな期待を抱いている。
しかし僕はまだ彼の著作を一冊しか読んでないけど。
『この人を見よ』は正直あまり共感する部分がなかった。
これは、彼が発狂する直前に書いた総括的な、自伝的な本なので、よくわからなかったというのもある。
何故彼の思想が、僕の中のパラダイムシフトと成りうるかもしれないという期待を抱いているのかといえば、彼の思想は、現在の僕の思想とはまさに極北の立場からの人間開放を目指しているからだ。
僕の思想、価値観は強固に理論武装されていて、それゆえにそれを崩すだけの明確な論理性をもって僕の思想の矛盾を暴きだし、論破されないことには、自己変革を潜在的なレベルまで推し進めることは難しい。
現在の思考が僕を形成し成長させたのも事実だが、それゆえに僕がその桎梏から逃れられず、苦しんでいるのもまた事実だ。
ニーチェの思想には、その桎梏を破りうるだけの力があるのではないか、なぜなら僕が今まで接した事のない、僕の中に全く存在しなかった思想だから。
それを理解し、また納得し、また賛同することができたなら、今までの僕の思想は、自己の開放というベクトルは同じまま、全く趣を変えることになる。
ニヒリズムの先にある、人間の実存への全肯定。
それは、僕の強固なモラルを破壊し、善悪の彼岸へと導いてくれるかもしれない。
僕を苦しめる桎梏を取りさり、僕の心の奥深くにある、潜在的な苦しみを開放してくれるかもしれない。
彼の著作を読んでみることは、今までの僕の価値観を壊そうとする試みであるから、期待もあれど、恐ろしさもあるのだ。
実際それが僕が考えたとおりに影響を自分に与えるかはわからないけど。
すぐには変わらなくても、彼の思想を理解すれば、僕の中にその思想の残滓が残る。その残滓がジリジリと気付かないうちに培養されて、いつしか、自分の思想を侵食してしまうかもしれない。
それが自分にとっていい風に作用するのか作用しないのかすらわからない。
でも自分が一番変わりうる可能性を強く感じる。
それがニーチェだ。
ニーチェ的に言えば、彼の思想で僕がどのように変貌したとしても、その(現時点での結果を)承認し続けることができれば、絶対的原理から開放された、流転する真理の中で戯れることができる存在となる。
まさに究極の生の肯定となるはずだ。
以前からそんな期待を抱いている。
しかし僕はまだ彼の著作を一冊しか読んでないけど。
『この人を見よ』は正直あまり共感する部分がなかった。
これは、彼が発狂する直前に書いた総括的な、自伝的な本なので、よくわからなかったというのもある。
何故彼の思想が、僕の中のパラダイムシフトと成りうるかもしれないという期待を抱いているのかといえば、彼の思想は、現在の僕の思想とはまさに極北の立場からの人間開放を目指しているからだ。
僕の思想、価値観は強固に理論武装されていて、それゆえにそれを崩すだけの明確な論理性をもって僕の思想の矛盾を暴きだし、論破されないことには、自己変革を潜在的なレベルまで推し進めることは難しい。
現在の思考が僕を形成し成長させたのも事実だが、それゆえに僕がその桎梏から逃れられず、苦しんでいるのもまた事実だ。
ニーチェの思想には、その桎梏を破りうるだけの力があるのではないか、なぜなら僕が今まで接した事のない、僕の中に全く存在しなかった思想だから。
それを理解し、また納得し、また賛同することができたなら、今までの僕の思想は、自己の開放というベクトルは同じまま、全く趣を変えることになる。
ニヒリズムの先にある、人間の実存への全肯定。
それは、僕の強固なモラルを破壊し、善悪の彼岸へと導いてくれるかもしれない。
僕を苦しめる桎梏を取りさり、僕の心の奥深くにある、潜在的な苦しみを開放してくれるかもしれない。
彼の著作を読んでみることは、今までの僕の価値観を壊そうとする試みであるから、期待もあれど、恐ろしさもあるのだ。
実際それが僕が考えたとおりに影響を自分に与えるかはわからないけど。
すぐには変わらなくても、彼の思想を理解すれば、僕の中にその思想の残滓が残る。その残滓がジリジリと気付かないうちに培養されて、いつしか、自分の思想を侵食してしまうかもしれない。
それが自分にとっていい風に作用するのか作用しないのかすらわからない。
でも自分が一番変わりうる可能性を強く感じる。
それがニーチェだ。
ニーチェ的に言えば、彼の思想で僕がどのように変貌したとしても、その(現時点での結果を)承認し続けることができれば、絶対的原理から開放された、流転する真理の中で戯れることができる存在となる。
まさに究極の生の肯定となるはずだ。
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