●人を傷つけたくないといっても、何でもかんでも人が傷ついたら、僕は自分に呵責を感じるわけではありません。

以前の僕はその傾向が強かったのですが、人を傷つけたくない、というのに、人としての自分が含まれていないことに気付いたのです。

それは、つまり自分を人として見ていない、物としてみてしまっている、もしくは、自分に価値を見出していない証明でもあります。

ですから、自分を人として正当に価値を見出し、自信を深めるためにも、僕は自分自身も大切にしていかなければと思いました。

それまで理想に描いていた無私への憧れから、一転、無私に対する懐疑の念が生まれたのです。

僕は無意識に自分に罪を着せすぎるきらいがあります。
ですから、意識的にも自分の責と他者の責の峻別を行う必要があります。じゃないと、僕は罪を背負いすぎて、潰れてしまいます。

何か問題が起こったとして、どちらかが一方的に悪いということは、まずありえません。
どちらが悪い、というのではなく、両方に問題がある。
自分に問題がある部分に対してのみ責を感じ、また悩むなり修正するなりすればよいのです。

たとえば、誤解が生じます。
そのせいで、相手が傷ついたとします。
自分は相手が思うような意味合いでの行動や言動はしたつもりはありません。

しかし相手は悪意に取ってしまった。
それが明らかに一般的な総体的視野で見て、悪意に感じられるなら、そこに僕にそういった認識をさせる要素の行動や言動を選択してしまった責が発声します。

しかし一般的にみて悪意に見られないなら、その人個人の解釈によるものなので、僕には予測の仕様がありません。

これはつまり、コミュニケーションの齟齬が起こした悲劇の一例となります。
そして誤解なので、これはどちらの責ともいえません。

さて、ここで僕がこの誤解を解くために話し合おうとします。
しかし、相手は話し合おうとせず、聞く耳を持たないとします。

すると、今度は、聞く耳を持たなかった相手側に責が生じます。

仮にこういう形になったとして、僕が一般的に悪意と取られるような失言をしてしまって、相手を傷つけたらなら、僕はとても苦しむでしょうが、悪意と取られるような失言ではなく、かつ自分が話し合って誤解を解こうというモーションをかけたのに、話し合いを拒否し、相手が傷つき続けるとしたら、それはもう僕にはどうしようもありませんし、また僕の責にも当てはめられないと判断します。

こういった線引きは、完璧主義的な強迫観念のようであって、その僕の性質を利用して、逆に完璧主義による自分への負担(人を傷つけたくない)という縛りを緩くし軽くすることに役立っています。

また自分の問題と修正点を明確に把握するための客観性を持つことにも、有益だと考えています。

何か問題が起こったとき、自分が悪い、相手が悪い、の二元論ではなく、もっと多様な角度から自分の修正点を探ることができる、つまり
「学習」の土台が形作れるわけです。

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

日記内を検索