物心(ぶっしん) (2)
2010年5月26日 僕について●心が肉体から分離し、自分を外側から見るのは面白いものです。
何をされていても、遠くから、自分ではない「物」を眺めているのです。
自分には関係がないことのように感じられます。
でもこれは感覚なので、実際には自分の意思と肉体は繋がっているのです。
離人症に陥ってから、それまで自分ひとりの感情の制御で精一杯だったのが、初めて全体を客観的に俯瞰することができる余裕が生まれてきました。
さっきも言ったように、例え離人症になっても、肉体と意思は繋がっています。
僕は自分の肉体をあたかも人形のように捉え、操ってみようと思うようになりました。
たとえば、それまで僕は笑うことや話すことができませんでしたが、それは何故でしょう。
原因は一つではないですが、大きな要素の一つに、自分が周りと違う、違う自分を見せることで、さらに変に思われ阻害されてしまう、という恐怖感があったのだと思います。
ですが、物になった自分は、もう人間ではないのです。
遠くから客観的に自分を見れるようになると、当時の僕の肉体は、(僕がそのとき想像できた範囲において)人間として見るならもっとも過酷な扱いを受けていました。
じゃあ、自分の笑っている姿をみられていったいどうなる?
今以上に酷くなることはない。
人と話してそれがどのように転んだとしても、そう、今と現状は変わることはない。
相変わらず、僕は阻害され続け、毎日(人間としてみた場合)酷い扱いを受け続けるだけの話です。
じゃあ、僕はいったい何を恐れているのだろう?恐れていたことはとっくに経験済みだし、恐れていたことはそのまま現状であって、変わることはなく継続されていくだけの話です。
僕にはもう恐れる理由は存在しない、ということに気付いたのです。
どうせ現状は変わらないのだから、物である自分の肉体を好きなように動かしてみよう。
僕は、当時おそらく人間としての心情でいうなら、(当時の自分のキャパシティーにおいての)絶望、とでもいうべき心境まで追い込まれて離人症に陥りました。
今思い返すと、落ちるとこまで落ちたのだから、これ以上落ちることはない、物である肉体を眺めながらそう感じたのは、確かにまだ僕に人間としての心が残っており、また戻りたいという未練があったからなのだと思います。
なんにせよ、皮肉にも、そこまで追い詰められたことが、僕に恐れていたものの正体を気付かせ、その抑圧を取り除き、そして初めて人前で自我を発露させるきっかけとなったのでした。
僕は、人前で、顔を隠すことなく笑い、そしてぎこちないながらも人に話しかけることができるようになっていきました。
※関連日記
『物心(ぶっしん) (1)』
http://37292.diarynote.jp/201005291322311869/
何をされていても、遠くから、自分ではない「物」を眺めているのです。
自分には関係がないことのように感じられます。
でもこれは感覚なので、実際には自分の意思と肉体は繋がっているのです。
離人症に陥ってから、それまで自分ひとりの感情の制御で精一杯だったのが、初めて全体を客観的に俯瞰することができる余裕が生まれてきました。
さっきも言ったように、例え離人症になっても、肉体と意思は繋がっています。
僕は自分の肉体をあたかも人形のように捉え、操ってみようと思うようになりました。
たとえば、それまで僕は笑うことや話すことができませんでしたが、それは何故でしょう。
原因は一つではないですが、大きな要素の一つに、自分が周りと違う、違う自分を見せることで、さらに変に思われ阻害されてしまう、という恐怖感があったのだと思います。
ですが、物になった自分は、もう人間ではないのです。
遠くから客観的に自分を見れるようになると、当時の僕の肉体は、(僕がそのとき想像できた範囲において)人間として見るならもっとも過酷な扱いを受けていました。
じゃあ、自分の笑っている姿をみられていったいどうなる?
今以上に酷くなることはない。
人と話してそれがどのように転んだとしても、そう、今と現状は変わることはない。
相変わらず、僕は阻害され続け、毎日(人間としてみた場合)酷い扱いを受け続けるだけの話です。
じゃあ、僕はいったい何を恐れているのだろう?恐れていたことはとっくに経験済みだし、恐れていたことはそのまま現状であって、変わることはなく継続されていくだけの話です。
僕にはもう恐れる理由は存在しない、ということに気付いたのです。
どうせ現状は変わらないのだから、物である自分の肉体を好きなように動かしてみよう。
僕は、当時おそらく人間としての心情でいうなら、(当時の自分のキャパシティーにおいての)絶望、とでもいうべき心境まで追い込まれて離人症に陥りました。
今思い返すと、落ちるとこまで落ちたのだから、これ以上落ちることはない、物である肉体を眺めながらそう感じたのは、確かにまだ僕に人間としての心が残っており、また戻りたいという未練があったからなのだと思います。
なんにせよ、皮肉にも、そこまで追い詰められたことが、僕に恐れていたものの正体を気付かせ、その抑圧を取り除き、そして初めて人前で自我を発露させるきっかけとなったのでした。
僕は、人前で、顔を隠すことなく笑い、そしてぎこちないながらも人に話しかけることができるようになっていきました。
※関連日記
『物心(ぶっしん) (1)』
http://37292.diarynote.jp/201005291322311869/
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