ジャイアニズムと強迫観念
2010年5月9日 僕について僕の強迫観念の中に、理不尽に対する許容の狭さがある。
理不尽の中でも、もっとも許容できない部分が、ジャイアニズム(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0)である。
ジャイアニズムっていう用語は、専門的にはないけど、ドラえもんのジャイアンのキャラクターから、「お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの」的な独善性を言い表す言葉として雑誌かネットかで見かけた。
僕は、これは人の行動や心理においてよく陥る無意識の撞着を表現するのに適切だと思ってよく用いている。
僕がこのことに非常なこだわりを持つようになったのは、高校時代に障害の真似をされ続けたことが原因だけど、その頃の僕は、障害を真似る相手を憎んでばかりいた。
だけど、障害を真似する、という行為を純化してその原理だけを見てみると同じような原理で働く行動を、僕も同様にたくさん行っていることに気付いた。
自分がやっている行為には無自覚なのに、他者が自分に向けてくる(同じ原理の)行為に対して憎しみや不満を持つのは、フェアではない。
僕は障害を真似していた人間に不満を持ったり非難したりする権利を有していない、と思った。
だったらどうするか、僕には、その人たちの行為と同じようなことを自分もやっているから、相手を憎まず、その行為を受け入れ、そして、僕もこれから同じような行為をしても良いのだと(つまり人間はそういうものだから)、罪悪感にも呵責にも駆られず人を傷つけることを是とする人間になるか、もしくはその逆に自分の中からそういった原理を排除し、彼らに対して抗弁権を持てる人間になっていくか、の選択に迫られることになったわけである。
そして、どうやら僕は、障害を真似する彼らの行為を是とすることも憎しみを取り去ることもできそうにないと悟ったとき、では、彼らの行為に対して抗弁権を保持するためにも、自分の中のそういった部分を自覚できる限りにおいて取り除く努力をしていかなければならないという結論に至らざるを得なかった。
もちろん、人間は不完全だから、自分の中からそういったジャイアニズムを完全に取り去ることなんて理想論だ。
だから、僕はそうしようと努力し続けることが、自分が理不尽を被ったときの抗弁権を正当化しうる、というように譲歩して定義した。
ジャイアニズムの中でも、僕が特にこだわるのは、人を傷つけることへのジャイアニズムだ。
というか、僕にとって最重要事項は人の心に関することだ。
それ以外のことなら、理不尽だろうが、ジャイアニズムだろうが、そこまでのこだわりなく許容できる。
自分がされて、ほんの少しでも嫌だとか、不満を感じたりとか、怒りや憎しみを覚えることを他者に向けて行うべきではない。
戦争や差別、また犯罪のニュースで眉をひそめたり非難する気持ちが沸き起こる者は、私生活のレベルでそれらと同じ原理の行動を取るべきではない。現象は違っても、マクロとミクロの違いでその原理は同じというものは多い。私生活において自分のジャイアニズムを肯定(もしくは重要視しない)している人は、戦争や犯罪に対して嫌悪を覚える資格を有しない。
人の辛い部分や、悩みを聞きたがらない、向き合おうとしない、自分の気分を守るために違う話に振ろうとする。相手の悩みがどんなものであるのかを考えたくない。そういう人は、自分が悩むときも人に相談する権利はないし、相談して、相手が親身になってくれなかったとして、誰もそれを解ろうとしてくれない、などと不満を漏らす資格はない。
自尊心ゆえに自分の非を受け入れられない人間は、たとえ自分が正当なことを言っている場合であったとしても、相手がそれを認めなくても、たとえ逆切れしても、それに対して不満を持つべきではない。
もちろん上記の例は極論中の極論だけど、こういった思考が、私生活上の様々な行動に制約を与える、自分の性質やモラルを著しく縛り付けるのが、強迫観念というものである。
厄介なのは、僕のこの強迫観念は、感情的なでたらめなものではなく、理論武装されているということ。
苦しいが、この考えが間違っているとは思えない。
間違っているとは思えないが、極論だとは思う。
極論ではあるが、ならば、人間は、妥協できるジャイアニズムと妥協すべきでないジャニアニズムの境をどこで区切っているのか?
何によって区切るのか?
そしてその区切りこそが人間の独善的なジャイアニズムではないのか?
また妥協できるジャイアニズムの中で傷ついた人々の救済は、また罪の贖罪はどのように成しえるのか?
といった問題に明確な解答を引き出せない。
引き出せない以上は、今の自分の強迫観念を論破できない。
自分にとってもっとも正当性のある倫理観になってしまっている。
もしこの強迫観念を放棄するとしたら、僕は選択肢のもう一つの、「罪悪感にも呵責にも駆られず人を傷つけることを是とする人間」という真逆の存在になってしまう、という恐怖がある。
これが、僕の強迫性障害の一部分、一般の行動に明確にあらわれる強迫行為ではなく、内面で起こっている(僕が心の潔癖症と呼ぶ)強迫観念である。
理不尽の中でも、もっとも許容できない部分が、ジャイアニズム(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0)である。
ジャイアニズムっていう用語は、専門的にはないけど、ドラえもんのジャイアンのキャラクターから、「お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの」的な独善性を言い表す言葉として雑誌かネットかで見かけた。
僕は、これは人の行動や心理においてよく陥る無意識の撞着を表現するのに適切だと思ってよく用いている。
僕がこのことに非常なこだわりを持つようになったのは、高校時代に障害の真似をされ続けたことが原因だけど、その頃の僕は、障害を真似る相手を憎んでばかりいた。
だけど、障害を真似する、という行為を純化してその原理だけを見てみると同じような原理で働く行動を、僕も同様にたくさん行っていることに気付いた。
自分がやっている行為には無自覚なのに、他者が自分に向けてくる(同じ原理の)行為に対して憎しみや不満を持つのは、フェアではない。
僕は障害を真似していた人間に不満を持ったり非難したりする権利を有していない、と思った。
だったらどうするか、僕には、その人たちの行為と同じようなことを自分もやっているから、相手を憎まず、その行為を受け入れ、そして、僕もこれから同じような行為をしても良いのだと(つまり人間はそういうものだから)、罪悪感にも呵責にも駆られず人を傷つけることを是とする人間になるか、もしくはその逆に自分の中からそういった原理を排除し、彼らに対して抗弁権を持てる人間になっていくか、の選択に迫られることになったわけである。
そして、どうやら僕は、障害を真似する彼らの行為を是とすることも憎しみを取り去ることもできそうにないと悟ったとき、では、彼らの行為に対して抗弁権を保持するためにも、自分の中のそういった部分を自覚できる限りにおいて取り除く努力をしていかなければならないという結論に至らざるを得なかった。
もちろん、人間は不完全だから、自分の中からそういったジャイアニズムを完全に取り去ることなんて理想論だ。
だから、僕はそうしようと努力し続けることが、自分が理不尽を被ったときの抗弁権を正当化しうる、というように譲歩して定義した。
ジャイアニズムの中でも、僕が特にこだわるのは、人を傷つけることへのジャイアニズムだ。
というか、僕にとって最重要事項は人の心に関することだ。
それ以外のことなら、理不尽だろうが、ジャイアニズムだろうが、そこまでのこだわりなく許容できる。
自分がされて、ほんの少しでも嫌だとか、不満を感じたりとか、怒りや憎しみを覚えることを他者に向けて行うべきではない。
戦争や差別、また犯罪のニュースで眉をひそめたり非難する気持ちが沸き起こる者は、私生活のレベルでそれらと同じ原理の行動を取るべきではない。現象は違っても、マクロとミクロの違いでその原理は同じというものは多い。私生活において自分のジャイアニズムを肯定(もしくは重要視しない)している人は、戦争や犯罪に対して嫌悪を覚える資格を有しない。
人の辛い部分や、悩みを聞きたがらない、向き合おうとしない、自分の気分を守るために違う話に振ろうとする。相手の悩みがどんなものであるのかを考えたくない。そういう人は、自分が悩むときも人に相談する権利はないし、相談して、相手が親身になってくれなかったとして、誰もそれを解ろうとしてくれない、などと不満を漏らす資格はない。
自尊心ゆえに自分の非を受け入れられない人間は、たとえ自分が正当なことを言っている場合であったとしても、相手がそれを認めなくても、たとえ逆切れしても、それに対して不満を持つべきではない。
もちろん上記の例は極論中の極論だけど、こういった思考が、私生活上の様々な行動に制約を与える、自分の性質やモラルを著しく縛り付けるのが、強迫観念というものである。
厄介なのは、僕のこの強迫観念は、感情的なでたらめなものではなく、理論武装されているということ。
苦しいが、この考えが間違っているとは思えない。
間違っているとは思えないが、極論だとは思う。
極論ではあるが、ならば、人間は、妥協できるジャイアニズムと妥協すべきでないジャニアニズムの境をどこで区切っているのか?
何によって区切るのか?
そしてその区切りこそが人間の独善的なジャイアニズムではないのか?
また妥協できるジャイアニズムの中で傷ついた人々の救済は、また罪の贖罪はどのように成しえるのか?
といった問題に明確な解答を引き出せない。
引き出せない以上は、今の自分の強迫観念を論破できない。
自分にとってもっとも正当性のある倫理観になってしまっている。
もしこの強迫観念を放棄するとしたら、僕は選択肢のもう一つの、「罪悪感にも呵責にも駆られず人を傷つけることを是とする人間」という真逆の存在になってしまう、という恐怖がある。
これが、僕の強迫性障害の一部分、一般の行動に明確にあらわれる強迫行為ではなく、内面で起こっている(僕が心の潔癖症と呼ぶ)強迫観念である。
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