●何もかもぶっ壊したくなる、というか全てのことを放棄したくなるときがある。いろんな感情が渦巻いて苦しいから、全てを捨て去って抜け殻のようになりたいと思うときがある。
そういう時はままある。
特に不全感に苦しんでいるときはそうだ。
感情があるから人は苦しむんだ、猜疑心や嫉妬心、自尊心。そんなものがあるから人とのしがらみはいつまでたっても解消されないし、無駄な諍いも起こるんだ、と思ってしまう。
確かにそれは一面においては真実だ。
でもこれはその一面しか見ていないがゆえに歪んだ解釈なんだよね。
実際に感情を放棄したら、ますます不全感は募っていく。
抜け殻になった人間の姿が、人とのつながりに苦しんだ末の選択であるなら、その選択をした人は、誰より人との繋がりを求めるがゆえに、それがかなわず苦しんだ人なんだと思う。
感情の放棄は自分と人との繋がりを完全に断絶させる。
不全感の強い人は「よりよく生きる」事への願望の強い人だといえるから、本当は誰より孤独を恐れている。
しかしその強い願望のために、現実との齟齬に疲れ果て、最も恐れているはずの孤独に陥らざる得ないという皮肉。
それを自分で受け入れてしまったとき、その歪んだ解釈はさらに強固なものになっていく。負の底なし沼。
だから、不全感を埋めるためには、感情を放棄せずに、苦しみながらでも、人間関係の繋がりを保ち続けるほかに道はない。
できるだけ、感情のもう一つの面。
つまり共感だとか、信頼、思いやり、そういったポジティブな部分を感じていけるよう務めながら。
不全感を無くすために、不全感の影を周りに見せたくない。
不全感を見せたくないというのは、負の感情(猜疑心、嫉妬心、自尊心など)に支配されたくないということでもある。
人間なら誰でも、多少なりとも不全感を持っている。
じつは、猜疑心や嫉妬心、自尊心などは、完全に無駄なものではなく、コミュニケーションで重要な役割を演じていたりもするのが実際なのだ。多くの人は、相手が遠ざからない程度において、こういった感情を小出しにして、自分の心情を相手に伝えている。それは時として相手を理解するのに役立つ。そうやって不全感を埋めている。
だけど、僕はそのコントロールをしきらない。
負の感情に支配されてしまう。
一度そういう感情を出してしまうと、奔流のように噴出す。
それは依存へと変質する。
僕の場合、不全感の苦しみを表に出すと、自分の願いとは逆に人を遠ざける。
だから僕は平然を装う癖がついた。
でもだからこそ、僕の不全感は理解されがたい。
それに、猜疑や嫉妬などを向けられることで自分の存在を確かめる人もいる、そういう人にとっては僕は冷酷な人間に映るかもしれない。つまりそういう部分を隠すことでまた自分から遠ざかる人もいるのだ。
理解されない不全感は、自分の中で抑圧され、肥大し、ときに感情を放棄したいと思わせるまでにいたる。
僕の好きな言葉に
「あなたが素晴らしいのは、愛されようとするときでなく、あなたが素晴らしいのは、ただ、愛そうとするとき」
というのがあるが、そうすることがいかに難しいことか。
人間なら誰でも、愛されたい、という願望を持っていることを偽ることはできないだろうから。
そういう時はままある。
特に不全感に苦しんでいるときはそうだ。
感情があるから人は苦しむんだ、猜疑心や嫉妬心、自尊心。そんなものがあるから人とのしがらみはいつまでたっても解消されないし、無駄な諍いも起こるんだ、と思ってしまう。
確かにそれは一面においては真実だ。
でもこれはその一面しか見ていないがゆえに歪んだ解釈なんだよね。
実際に感情を放棄したら、ますます不全感は募っていく。
抜け殻になった人間の姿が、人とのつながりに苦しんだ末の選択であるなら、その選択をした人は、誰より人との繋がりを求めるがゆえに、それがかなわず苦しんだ人なんだと思う。
感情の放棄は自分と人との繋がりを完全に断絶させる。
不全感の強い人は「よりよく生きる」事への願望の強い人だといえるから、本当は誰より孤独を恐れている。
しかしその強い願望のために、現実との齟齬に疲れ果て、最も恐れているはずの孤独に陥らざる得ないという皮肉。
それを自分で受け入れてしまったとき、その歪んだ解釈はさらに強固なものになっていく。負の底なし沼。
だから、不全感を埋めるためには、感情を放棄せずに、苦しみながらでも、人間関係の繋がりを保ち続けるほかに道はない。
できるだけ、感情のもう一つの面。
つまり共感だとか、信頼、思いやり、そういったポジティブな部分を感じていけるよう務めながら。
不全感を無くすために、不全感の影を周りに見せたくない。
不全感を見せたくないというのは、負の感情(猜疑心、嫉妬心、自尊心など)に支配されたくないということでもある。
人間なら誰でも、多少なりとも不全感を持っている。
じつは、猜疑心や嫉妬心、自尊心などは、完全に無駄なものではなく、コミュニケーションで重要な役割を演じていたりもするのが実際なのだ。多くの人は、相手が遠ざからない程度において、こういった感情を小出しにして、自分の心情を相手に伝えている。それは時として相手を理解するのに役立つ。そうやって不全感を埋めている。
だけど、僕はそのコントロールをしきらない。
負の感情に支配されてしまう。
一度そういう感情を出してしまうと、奔流のように噴出す。
それは依存へと変質する。
僕の場合、不全感の苦しみを表に出すと、自分の願いとは逆に人を遠ざける。
だから僕は平然を装う癖がついた。
でもだからこそ、僕の不全感は理解されがたい。
それに、猜疑や嫉妬などを向けられることで自分の存在を確かめる人もいる、そういう人にとっては僕は冷酷な人間に映るかもしれない。つまりそういう部分を隠すことでまた自分から遠ざかる人もいるのだ。
理解されない不全感は、自分の中で抑圧され、肥大し、ときに感情を放棄したいと思わせるまでにいたる。
僕の好きな言葉に
「あなたが素晴らしいのは、愛されようとするときでなく、あなたが素晴らしいのは、ただ、愛そうとするとき」
というのがあるが、そうすることがいかに難しいことか。
人間なら誰でも、愛されたい、という願望を持っていることを偽ることはできないだろうから。
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