●昨日日記に書いた中島みゆきの「樹高千丈落葉帰根」という歌の歌詞だけど、そもそもこの言葉は中国のことわざで、
(どんな遠く、長く、ふるさとから離れても、いつか愛しいふるさとに帰りたい気持ちが変わらない)
という意味らしいけど、歌詞の中にはそのままの意味として書かれていない。
人それぞれで幾通りにも解釈できるように描写されている。
おそらくは中島みゆきの中にある「何か」を表現するために、この中国の諺を彼女の感性で再構築しなおして、もともとの諺の意味とは違う、彼女の「何か」の心情を表わすために用いているのではないか、と思う。
そして、その中島みゆきの「何か」がまた、歌詞において「何か」としてそのまま表現されていないで、諺に倣い樹木のこととして比喩的に表現されているので、これを聴く人の心に、それぞれが個人的にもつ「何か」への共感を喚起するという広がりを生むことになるのだと思う。
中島みゆきが「樹高千丈落葉帰根」という言葉から想像した樹木の描写から、僕が感じ取った「何か」はこんな内容である。
この歌の歌詞の一番目。
見知らぬ土地、とはまだ見ぬ世界や経験。
自分の将来を信じて、新しい自分を信じて、変わろうする自分の努力は、いつか報われるだろうか。
その変化は、努力は結局日の目を見ずに徒労に終わってしまうのだろうか。
そんなことはない。目に見える枝よりも遥かに深く長く、根は広がって樹を支えている。努力は見えないところで私をを支え、確かに私を成長させているし、挫折(落ちていく葉)も私の根に受け止められまた成長の養分となる。
二番目。
人生を歩む、成長していく人間は、様々な人と出会ったり別れたり、それが人生、それが運命とはわかりつつも、やはり別れは辛く、あきらめられない、未練も残る。
私は一人でいるのが寂しい。嫌いだ。
でも人と争いあったり、疑いあったり、傷つけあったり、そしてそれゆえに別れてしまうことはなお辛い。
だから、人と距離を置いてしまう。一人でいるのを選び、人間に望む温かさや希望が現実により損なわれるのを守ろうとしてしまう。
人生では、色んな事情により、友情であれ愛情であれ、それぞれの意思に反して離れざるをえない人もいる。
出合った人たちもまた別れてしまうのだろうか。
別れていった人たちは、私のことなど忘れてしまうのだろうか。
私も別れ人たちのことを忘れてしまうだろうか。
いいや、忘れるものか。
別れた人たちの思い出は、私の中に残り続ける。
別れは辛いけど、それは経験という養分となり、また枝を延ばし、新たな出会いという葉をつける。
特に二番の歌詞は、僕の対人不信の心理を代弁し、またその辛さを受け止め肯定してくれているようで、中国の諺の本意と違うことはもちろん、中島みゆきの解釈ともまた違っているかもしれないが、「樹高千丈落葉帰根」という言葉で比喩的に表わした中島みゆきの「何か」が、さらに僕に独自の感動を呼び起こさせたわけである。
情景であれ心理であれ、何かを描写するときに、それを比喩や暗喩によって表現できることは読み手の想像力の幅を格段に広げると思う。
(どんな遠く、長く、ふるさとから離れても、いつか愛しいふるさとに帰りたい気持ちが変わらない)
という意味らしいけど、歌詞の中にはそのままの意味として書かれていない。
人それぞれで幾通りにも解釈できるように描写されている。
おそらくは中島みゆきの中にある「何か」を表現するために、この中国の諺を彼女の感性で再構築しなおして、もともとの諺の意味とは違う、彼女の「何か」の心情を表わすために用いているのではないか、と思う。
そして、その中島みゆきの「何か」がまた、歌詞において「何か」としてそのまま表現されていないで、諺に倣い樹木のこととして比喩的に表現されているので、これを聴く人の心に、それぞれが個人的にもつ「何か」への共感を喚起するという広がりを生むことになるのだと思う。
中島みゆきが「樹高千丈落葉帰根」という言葉から想像した樹木の描写から、僕が感じ取った「何か」はこんな内容である。
この歌の歌詞の一番目。
見知らぬ土地、とはまだ見ぬ世界や経験。
自分の将来を信じて、新しい自分を信じて、変わろうする自分の努力は、いつか報われるだろうか。
その変化は、努力は結局日の目を見ずに徒労に終わってしまうのだろうか。
そんなことはない。目に見える枝よりも遥かに深く長く、根は広がって樹を支えている。努力は見えないところで私をを支え、確かに私を成長させているし、挫折(落ちていく葉)も私の根に受け止められまた成長の養分となる。
二番目。
人生を歩む、成長していく人間は、様々な人と出会ったり別れたり、それが人生、それが運命とはわかりつつも、やはり別れは辛く、あきらめられない、未練も残る。
私は一人でいるのが寂しい。嫌いだ。
でも人と争いあったり、疑いあったり、傷つけあったり、そしてそれゆえに別れてしまうことはなお辛い。
だから、人と距離を置いてしまう。一人でいるのを選び、人間に望む温かさや希望が現実により損なわれるのを守ろうとしてしまう。
人生では、色んな事情により、友情であれ愛情であれ、それぞれの意思に反して離れざるをえない人もいる。
出合った人たちもまた別れてしまうのだろうか。
別れていった人たちは、私のことなど忘れてしまうのだろうか。
私も別れ人たちのことを忘れてしまうだろうか。
いいや、忘れるものか。
別れた人たちの思い出は、私の中に残り続ける。
別れは辛いけど、それは経験という養分となり、また枝を延ばし、新たな出会いという葉をつける。
特に二番の歌詞は、僕の対人不信の心理を代弁し、またその辛さを受け止め肯定してくれているようで、中国の諺の本意と違うことはもちろん、中島みゆきの解釈ともまた違っているかもしれないが、「樹高千丈落葉帰根」という言葉で比喩的に表わした中島みゆきの「何か」が、さらに僕に独自の感動を呼び起こさせたわけである。
情景であれ心理であれ、何かを描写するときに、それを比喩や暗喩によって表現できることは読み手の想像力の幅を格段に広げると思う。
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