気力はそこにあるものじゃなく作り出すものだとつくづく感じる
2009年11月26日 日常●この間見た映画『ポー川のひかり』の中にこんなシーンがあった。
主人公の哲学教授と女性が海辺の砂浜に寝そべっている。
沈黙が続いている中、女性が突然独り言のように語りだす。
「誰も本気で抱きしめてくれなかった。ずっと一人だった」
教授はただ女性に向かって微笑し、再び砂浜に視線を戻す。
女性には何も語らない。
女性も返答を期待していた訳ではないらしく、再び瞼を閉じる。
そこには何の気まずさもなく、自然な空間に温かく穏やかな空気が流れているように感じられた。
こういったシークエンスは、映画や小説でよく用いられるように思う。
でも現実でこういったやり取りをすると、きっとものすごく不自然で気まずいものになるだろう。
だとしても、僕はこういった人との関係を現実で求めている。
女性が語ったような言葉(の内容ではない)の形式を自然に発することができる間柄というものが理想の人間関係だと思っている。
●先日、O君の日記に紹介されていた鈴木亜美の歌『それもきっと幸せ』
http://www.youtube.com/watch?v=HpoApA1tuDs&feature
の歌詞
に対して、僕は「歌いたい歌があって描きたい明日がある。
それ自体が幸福なことだと思う。
その幸福を描いていく過程で様々な艱難はあったとしても、それは不幸とは呼ばない。彼女が不幸になるのはそれを見失うとき、歌いたい歌がなくなるとき。だから、例え経済的苦難があろうと、辛い境遇に見えようと、きっと彼女は本質的に幸せでいられると思う。」
というコメントを残したのだが、それに対するO君のレスを読んで、ハッとした。
「たぶんこの歌の彼女は、その本質的な幸福にまだ気付けていないんでしょう。
いや気付いてはいるけれど、好きな人に愛されたり、好きな服を着たりする幸福にもまだ未練があるのか。」
僕はもう一度彼女の歌詞を読んでみた。
彼女は、「これが幸せ」とは書いていない。
それは(も)きっと幸せと書いている。
それは(も)と書いてあるのは、ほかに幸せがあることに彼女自身気付いているからだ。
そしてそれが、つまりは彼女にとって歌いたい歌であり、描きたい明日であるのだ。
彼女は、自分の中の未練に気付いている。
片方の幸福(自分の描きたい明日)を叶えるためなら、もうひとつの幸福が叶えられなくても不幸ではない、ということを、未練を残している幸福のあり方の視点から「不幸になってもかまわない」と表現しているのだ。
これはO君の言うとおり彼女の決意の歌だと思う。
未練を自覚し、それでも自分の目指すべき本質的な幸福を選択した歌だとする僕の解釈があっているのなら、僕が最初にこの歌に抱いた印象は間違いだったといわざるを得ない。
未練を自覚している点において、鈴木亜美とこの歌は、僕のとってもっと意味深い対象となる。
●給料明細が届いた。新しい部署に移ってから残業が減った分給料が減ると思っていたのだが、あまり変わらなかった。これはうれしい誤算だ。来月の給料が派遣として最後の給料になる。どのくらいもらえるのだろうか。
主人公の哲学教授と女性が海辺の砂浜に寝そべっている。
沈黙が続いている中、女性が突然独り言のように語りだす。
「誰も本気で抱きしめてくれなかった。ずっと一人だった」
教授はただ女性に向かって微笑し、再び砂浜に視線を戻す。
女性には何も語らない。
女性も返答を期待していた訳ではないらしく、再び瞼を閉じる。
そこには何の気まずさもなく、自然な空間に温かく穏やかな空気が流れているように感じられた。
こういったシークエンスは、映画や小説でよく用いられるように思う。
でも現実でこういったやり取りをすると、きっとものすごく不自然で気まずいものになるだろう。
だとしても、僕はこういった人との関係を現実で求めている。
女性が語ったような言葉(の内容ではない)の形式を自然に発することができる間柄というものが理想の人間関係だと思っている。
●先日、O君の日記に紹介されていた鈴木亜美の歌『それもきっと幸せ』
http://www.youtube.com/watch?v=HpoApA1tuDs&feature
の歌詞
好きな人がいて愛されたのなら
それはきっと幸せ
着たい服を着て 言いたいこと言えば
それもきっと幸せ
夜と朝のあいだを 跳んで渡れば
この足音だけが 通りに響いて
迷いも消える
歌いたい歌がある
私には描きたい明日がある
そのためになら そのためになら
不幸になってもかまわない
に対して、僕は「歌いたい歌があって描きたい明日がある。
それ自体が幸福なことだと思う。
その幸福を描いていく過程で様々な艱難はあったとしても、それは不幸とは呼ばない。彼女が不幸になるのはそれを見失うとき、歌いたい歌がなくなるとき。だから、例え経済的苦難があろうと、辛い境遇に見えようと、きっと彼女は本質的に幸せでいられると思う。」
というコメントを残したのだが、それに対するO君のレスを読んで、ハッとした。
「たぶんこの歌の彼女は、その本質的な幸福にまだ気付けていないんでしょう。
いや気付いてはいるけれど、好きな人に愛されたり、好きな服を着たりする幸福にもまだ未練があるのか。」
僕はもう一度彼女の歌詞を読んでみた。
好きな人がいて愛されたのなら
それはきっと幸せ
着たい服を着て 言いたいこと言えば
それもきっと幸せ
彼女は、「これが幸せ」とは書いていない。
それは(も)きっと幸せと書いている。
それは(も)と書いてあるのは、ほかに幸せがあることに彼女自身気付いているからだ。
そしてそれが、つまりは彼女にとって歌いたい歌であり、描きたい明日であるのだ。
彼女は、自分の中の未練に気付いている。
片方の幸福(自分の描きたい明日)を叶えるためなら、もうひとつの幸福が叶えられなくても不幸ではない、ということを、未練を残している幸福のあり方の視点から「不幸になってもかまわない」と表現しているのだ。
これはO君の言うとおり彼女の決意の歌だと思う。
未練を自覚し、それでも自分の目指すべき本質的な幸福を選択した歌だとする僕の解釈があっているのなら、僕が最初にこの歌に抱いた印象は間違いだったといわざるを得ない。
未練を自覚している点において、鈴木亜美とこの歌は、僕のとってもっと意味深い対象となる。
●給料明細が届いた。新しい部署に移ってから残業が減った分給料が減ると思っていたのだが、あまり変わらなかった。これはうれしい誤算だ。来月の給料が派遣として最後の給料になる。どのくらいもらえるのだろうか。
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