寝る前に栄養ドリンクを飲んだ効果が表れたのか、普段なら10時間以上は目が覚めないのに、8時間ほどで目を覚ます。
起きだちのけだるさもなく、胃がすでに食物を欲している。
朝食にしては夕食的な献立を平らげたがそれでも腹の虫は鳴きやまないので、冷蔵庫にあったサンドイッチも詰め込んだ。
寝起きの読書ほど進むものはないが、寝転がって読むべきが座って読むべきかで思案しているうちに時間は経過し、結局、株相場の開始時間になった。
しかし株が思うように上がらずあまつさえ怒涛の下げを見せ、臍をかむ。本日も売買できる様子ではなかったので、仕方なく監視しながら座って読書をする。
株はまだしばらく売れそうにない。
いつまで持って置けばいいのだろうか。
昼に生活費を下ろしに近くのATMへ行ったついでにスーパーで刺身を購入。
768円と値は張るが、刺身を食いたいというここ数日の欲求に抗いきれず。
焼酎を浴びながら数人分の盛り合わせを平らげる。
程よく酔って相場も終了する頃、O君から連絡が入り、ジョイフルへ行く。
チキンドリアに大量のタバスコを振りかけながら、O君はおもむろに口を開いた。
「小説の表現には三つの技術があって、叙述、描写、そして会話です。叙述はあった物事を加速させて読者に伝える。描写は減速、会話は等速です」
「なるほど、僕達がリアルを感じる小説とは、その三つがバランスよく配置されていないといけないわけだね。確かに、古典の大長編などを読むと描写が驚くほど精緻だけど、その描写を省いてしまったら、長編を書くのはとても難しいものになるだろうね」
「表現形式の中で描写だけに特化して、たとえば椅子を違う説明方法で椅子だと表現しようとすることを異化というのですが、それを実験的に実践したのがフランスで起こったヌーヴォーロマンという流れなんです」
「それは一度読んでみたい。そういえば、最近流行の携帯小説は、等速の部分が大半を占めているような印象を受けるな。僕のことを言うなら、僕は叙述は出来るが描写ができない。これは仮に小説を書くとなると致命的な欠陥だね。僕の前にあるコップの中のストロー。このストローの状態を描写するだけで僕達のいるジョイフルがどのような雰囲気であるのかを読者に想起させる、そういうことができないと小説は書けないんだろうな」
「確かにそれは理想ですけど、そこまでこまかく描写しなくても良いでしょう(笑)」
「ハードボイルドは、叙述も描写も会話も可能な限り削ぎ落とし、読者の心象にそれらの具体を想起させる、それができればカッコいいのだけど、僕のスタイルとはまるで正反対でまずできそうにないなぁ、ううん、難しいもんだね」
「難しいですね」
僕達は数本目のタバコに火をつけ、ニコチンを体内に充満させ、深いため息とともに煙を吐き出す。
「まずはこのコップの形を詳しく描写してみる、そういうところから始めていかないといけないでしょうね」
「それすらもできそうにないから困る。O君のいつぞや書いていた日記にあった文章で、携帯を壁に投げつけた描写があったけど、あれは秀逸だった。僕だけではなくAさんもその描写の印象を覚えていた。例え断片的にでもそういう描写ができるだけでもO君のほうが小説的な文章をかけるのだと思うよ」
「そうですかねぇ」
「映画の話になるけど、黒澤明の映画は晩年になって叙述の部分が多くなった。映画で叙述をやると教条的に映ってしまう。たとえば『八月の狂詩曲』、あれは核の恐ろしさを滔々と(この場合は会話という等速の形で)叙述する。どこかの教材でも見ているような気分になる。でもあの映画は最後で黒澤らしい素晴らしい描写で幕を閉じる。だから僕の中で駄作を免れているんだけど、つまり、映画での描写は叙述以上の説得力を持っているってことだと思う。映画に叙述的な部分は可能な限りない方がいいよね」
「そうですね、映画で叙述をやっちゃいけない」
「でもいいことを聞いた。等速、減速、加速、この概念を頭に入れておけば、文章を書く際に全然違ってくると思う」
「はい、それを最終的に組み立てられるようになれるかなんですよね。日本が西洋の精緻な描写を組み入れた初めての小説は・・・なんだったかな、確か二葉亭四迷だったと思いますが、その小説の始まりは、意味の無い、物語に関連性のない描写ばかりで拙劣なものだったらしいのですが、でもそういうところから始めていかないと上達もありませんもんね」
三杯目のドリンクも底を付きかけようとした頃、ギャル風の新たな客の集団が僕達の隣の席に陣取り、にわかに騒がしく話しづらくなったのを頃合に引き上げることにした。
外は小雨で冬の寒さを漂わせていた。
O君にデカルトの『方法序説』とプラトンの『ゴルギアス』を貸して別れた。
僕は今、描写を取り入れようとしたにもかかわらず叙述と会話に終始した稚拙な文章を前に暗澹とした気持ちでいる。
起きだちのけだるさもなく、胃がすでに食物を欲している。
朝食にしては夕食的な献立を平らげたがそれでも腹の虫は鳴きやまないので、冷蔵庫にあったサンドイッチも詰め込んだ。
寝起きの読書ほど進むものはないが、寝転がって読むべきが座って読むべきかで思案しているうちに時間は経過し、結局、株相場の開始時間になった。
しかし株が思うように上がらずあまつさえ怒涛の下げを見せ、臍をかむ。本日も売買できる様子ではなかったので、仕方なく監視しながら座って読書をする。
株はまだしばらく売れそうにない。
いつまで持って置けばいいのだろうか。
昼に生活費を下ろしに近くのATMへ行ったついでにスーパーで刺身を購入。
768円と値は張るが、刺身を食いたいというここ数日の欲求に抗いきれず。
焼酎を浴びながら数人分の盛り合わせを平らげる。
程よく酔って相場も終了する頃、O君から連絡が入り、ジョイフルへ行く。
チキンドリアに大量のタバスコを振りかけながら、O君はおもむろに口を開いた。
「小説の表現には三つの技術があって、叙述、描写、そして会話です。叙述はあった物事を加速させて読者に伝える。描写は減速、会話は等速です」
「なるほど、僕達がリアルを感じる小説とは、その三つがバランスよく配置されていないといけないわけだね。確かに、古典の大長編などを読むと描写が驚くほど精緻だけど、その描写を省いてしまったら、長編を書くのはとても難しいものになるだろうね」
「表現形式の中で描写だけに特化して、たとえば椅子を違う説明方法で椅子だと表現しようとすることを異化というのですが、それを実験的に実践したのがフランスで起こったヌーヴォーロマンという流れなんです」
「それは一度読んでみたい。そういえば、最近流行の携帯小説は、等速の部分が大半を占めているような印象を受けるな。僕のことを言うなら、僕は叙述は出来るが描写ができない。これは仮に小説を書くとなると致命的な欠陥だね。僕の前にあるコップの中のストロー。このストローの状態を描写するだけで僕達のいるジョイフルがどのような雰囲気であるのかを読者に想起させる、そういうことができないと小説は書けないんだろうな」
「確かにそれは理想ですけど、そこまでこまかく描写しなくても良いでしょう(笑)」
「ハードボイルドは、叙述も描写も会話も可能な限り削ぎ落とし、読者の心象にそれらの具体を想起させる、それができればカッコいいのだけど、僕のスタイルとはまるで正反対でまずできそうにないなぁ、ううん、難しいもんだね」
「難しいですね」
僕達は数本目のタバコに火をつけ、ニコチンを体内に充満させ、深いため息とともに煙を吐き出す。
「まずはこのコップの形を詳しく描写してみる、そういうところから始めていかないといけないでしょうね」
「それすらもできそうにないから困る。O君のいつぞや書いていた日記にあった文章で、携帯を壁に投げつけた描写があったけど、あれは秀逸だった。僕だけではなくAさんもその描写の印象を覚えていた。例え断片的にでもそういう描写ができるだけでもO君のほうが小説的な文章をかけるのだと思うよ」
「そうですかねぇ」
「映画の話になるけど、黒澤明の映画は晩年になって叙述の部分が多くなった。映画で叙述をやると教条的に映ってしまう。たとえば『八月の狂詩曲』、あれは核の恐ろしさを滔々と(この場合は会話という等速の形で)叙述する。どこかの教材でも見ているような気分になる。でもあの映画は最後で黒澤らしい素晴らしい描写で幕を閉じる。だから僕の中で駄作を免れているんだけど、つまり、映画での描写は叙述以上の説得力を持っているってことだと思う。映画に叙述的な部分は可能な限りない方がいいよね」
「そうですね、映画で叙述をやっちゃいけない」
「でもいいことを聞いた。等速、減速、加速、この概念を頭に入れておけば、文章を書く際に全然違ってくると思う」
「はい、それを最終的に組み立てられるようになれるかなんですよね。日本が西洋の精緻な描写を組み入れた初めての小説は・・・なんだったかな、確か二葉亭四迷だったと思いますが、その小説の始まりは、意味の無い、物語に関連性のない描写ばかりで拙劣なものだったらしいのですが、でもそういうところから始めていかないと上達もありませんもんね」
三杯目のドリンクも底を付きかけようとした頃、ギャル風の新たな客の集団が僕達の隣の席に陣取り、にわかに騒がしく話しづらくなったのを頃合に引き上げることにした。
外は小雨で冬の寒さを漂わせていた。
O君にデカルトの『方法序説』とプラトンの『ゴルギアス』を貸して別れた。
僕は今、描写を取り入れようとしたにもかかわらず叙述と会話に終始した稚拙な文章を前に暗澹とした気持ちでいる。
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