僕は高校時代にある理想を抱いていた。
【エゴは、欲求は、人を諍いの淵に落とす。
世の中で起こる問題はそのほとんどが人間のエゴによる帰結だ。
全ての人間がエゴを放棄し、他者への奉仕の心を持って生きるべきだ。
人が自己を放逐し、無私の人間となっても、無私となった各々が己以外の他者に奉仕することで、その他者の奉仕が一つ一つの断片となって己に集結して、結果的に自我は補填される。しかもそれは、己から発露されたエゴのように攻撃的なものではなく、もっと協調的な、平和的な、穏やかな自我となるはずである】
というものだ。
今考えればこれは、以前の日記に書いた空想的ロマンチズムの典型といえる。現実を無視した、机上の空論を実際に実現できると信じた幼い熱望である。
しかし、当時の自分にとってはまさに苦しみを除去する一つの希望であり、自己の価値観を一変するひらめきであった。
現在の僕は、「無私」、という立場に懐疑的だ。
「無私の人」とよく形容されるマザーテレサについて、先日鑑賞した映画『精神』の中の患者がいっていた言葉が印象的だ。
無私という言葉(表現)は、人間を救おうとする影で一人の人間(自己)を蔑ろにしている。
僕はこう思う。マザーテレサが、善行に生涯をささげたのは、まさにそれが他者の救済だけではなく、自己の救済でもあったからではないだろうか。
内に沸き起こる悪念に対する呵責を感じればこそ、自己の良心に従った善行に己の魂を浄化する贖いを求めたのかもしれない。
人の力になろうとすることは、「無私」では成し得られない。
完全なる利他主義は存在しない。同様に完全なる利己主義も存在しない。
利他はどこかで利己と必ず結びついている。
ゆえに人間はエゴを放棄できない。
善行もまたひとつのエゴの発露と捉える事ができるのだから。
表面上「無私」と映る行為であってもそれは、どこかで自己に還元されている。
自己の悪を認識するがゆえに、他者の悪を憎む。
他者の苦をともに分かつ苦しみは、自己の苦を他者と分かつ幸福となる。他者の憎しみの浄化に立ち会える喜びは、自己に渦巻く憎しみへの呵責に対する贖罪となる。
これが現時点での僕の立場である。
空想的ロマンチズムから科学的ロマンチズムへの変遷。
そこから導き出される行動が仮に同一のものであったとしても、己もまた救われるべき一人の人間であり、それはエゴを放棄することではなされない、という意味合いにおいて大きく異なっている。
関連日記
『科学的ロマンチズム』
http://37292.diarynote.jp/200910171253439632/
【エゴは、欲求は、人を諍いの淵に落とす。
世の中で起こる問題はそのほとんどが人間のエゴによる帰結だ。
全ての人間がエゴを放棄し、他者への奉仕の心を持って生きるべきだ。
人が自己を放逐し、無私の人間となっても、無私となった各々が己以外の他者に奉仕することで、その他者の奉仕が一つ一つの断片となって己に集結して、結果的に自我は補填される。しかもそれは、己から発露されたエゴのように攻撃的なものではなく、もっと協調的な、平和的な、穏やかな自我となるはずである】
というものだ。
今考えればこれは、以前の日記に書いた空想的ロマンチズムの典型といえる。現実を無視した、机上の空論を実際に実現できると信じた幼い熱望である。
しかし、当時の自分にとってはまさに苦しみを除去する一つの希望であり、自己の価値観を一変するひらめきであった。
現在の僕は、「無私」、という立場に懐疑的だ。
「無私の人」とよく形容されるマザーテレサについて、先日鑑賞した映画『精神』の中の患者がいっていた言葉が印象的だ。
マザーテレサの心には、人一倍の煩悩や、欲望、悪の思念が渦巻いていたはずです。自己の心のうちに悪を実感しない限り、人間は善の概念も描けないし、善行を実現しようがありません
無私という言葉(表現)は、人間を救おうとする影で一人の人間(自己)を蔑ろにしている。
僕はこう思う。マザーテレサが、善行に生涯をささげたのは、まさにそれが他者の救済だけではなく、自己の救済でもあったからではないだろうか。
内に沸き起こる悪念に対する呵責を感じればこそ、自己の良心に従った善行に己の魂を浄化する贖いを求めたのかもしれない。
人の力になろうとすることは、「無私」では成し得られない。
完全なる利他主義は存在しない。同様に完全なる利己主義も存在しない。
利他はどこかで利己と必ず結びついている。
ゆえに人間はエゴを放棄できない。
善行もまたひとつのエゴの発露と捉える事ができるのだから。
表面上「無私」と映る行為であってもそれは、どこかで自己に還元されている。
自己の悪を認識するがゆえに、他者の悪を憎む。
他者の苦をともに分かつ苦しみは、自己の苦を他者と分かつ幸福となる。他者の憎しみの浄化に立ち会える喜びは、自己に渦巻く憎しみへの呵責に対する贖罪となる。
これが現時点での僕の立場である。
空想的ロマンチズムから科学的ロマンチズムへの変遷。
そこから導き出される行動が仮に同一のものであったとしても、己もまた救われるべき一人の人間であり、それはエゴを放棄することではなされない、という意味合いにおいて大きく異なっている。
関連日記
『科学的ロマンチズム』
http://37292.diarynote.jp/200910171253439632/
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