僕は理想主義者であり、人間に対して過度のロマンチズムを抱いているけど、一方で、合理主義者、実用主義、プラグマティストでもある。
つまり、社会主義の名称を借りて言えば、空想的ロマンチストではなくて、科学的ロマンチストということになる。

本当の理想を追えば、果てしないものになるが、現実ではどうあがいてもその理想は完全たりえないことがわかっている、だから、それは一つのモデル、理念形であると考え、現実の世界で何をすれば、いかにその理想に近づけるかを模索する立場である。

ロマンチズムはもちろん自分にも当てはまる。
僕は矛盾が嫌いだが、自分ができない、やりたくないことを人に求めるのは最大の矛盾であり、理不尽だと思う。
しかし、現実的に考えて、人間は矛盾を抱える生き物だ。
僕自身に数え切れないくらいの矛盾がある。
だから、人間へのロマンチズムに向けての改善目標はまず自分に向けられる。
自分の中の矛盾を減らしていくことが僕の第一命題だ。

以前は、この思いが強すぎ、それが強迫観念となって、自分をガチガチに縛っていた。
僕はそれを「心の潔癖症」と言っていたけど、今現在は、「人間は過ちを犯す矛盾を抱えた脆弱な生き物である」という前提を置くことで、もっと柔軟に解釈することができるようになってきた。

つまり、以前の僕は現実を踏まえずに理想ばかりを追う、空想的ロマンチストであって、時を経て、経験を重ねる中で、徐々に科学的ロマンチズムへと移行してきたといえる。
そういう意味でも、空想的であった当時は必要な時期だったのであり、それを自分の中で断罪していたら今の自分はいなかっただろう。

柔軟な解釈とは、つまりこういう意味においてである。
現に、僕は今もって毎日矛盾だらけの人間であり、毎日自分の理想と真逆の間違いを犯している。
その中で看過しえる矛盾、というものも見極めて許容していかないと、この世界で生きていけないし、次なる自分の段階へも進めない、つまり成長していけない。
いろんなことを経験し、それを元に思考することで、わかる事実もあり、自分の中で頭でっかちに完全な理だと思い込んでいたことが、実際に経験すると看過しがたい矛盾を胚胎していたという事例もある。
だから、僕はプラグマティズム(実用主義)を取るようになった。
自分が現在所持している論理や価値観を覆すことができるだけの理を持って反駁されたら、僕はその、それまで持っていた信念という形をしたものをいともたやすく転換させるだろう。
いわばそれが僕の「現在」の信念と名乗るべきものであるのかもしれない。

自分自身を合理化していくことで、自己の中の理不尽な規制から開放する。ロマンチズムへの理想それ自体が自己の価値観を固定させるのでは、それは僕のロマンチズムに対する弊害となるばかりである。
そして、そのことがそのまま矛盾ではないか。

人間へのロマンチズム、を抱く僕にとって現実主義であることはその出発点において必然なことなのだ。

現実的な立脚点で最善の道を探る。それこそが僕ができる限りで最高の、目指す理想の具現した姿になるだと思う。

自己の合理化。自分の抱いている信念めいたものがはたして本当に必要なものであるのか、同じように自分の持つプライド(自尊心)がはたして真なるものなのか。
それが(自分にとって)納得できる理を持って明確に形作れるかどうか掘り下げてみる。
そしてできないものは捨象していく。

そういう作業が、僕の科学的ロマンチズム、ひいては倫理観の基底をなしている。

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