夏場頃から風呂はもっぱらシャワーなのだけど、秋口に入って風呂に入ることもしばしばになってきた。
昨日、母親が風呂に入ろうといったが、僕は眠くて仕方がなかったのでで、風呂を入れる時間さえも省きたい、ということで、僕がシャワーを浴びてから、風呂を入れて入りよ。という旨を伝えた。
これは、僕なりの配慮だったのだが、母親は何故か怒り出して、私もシャワーでいい、という。
母にしてみれば風呂に入ったほうがあんたの疲れも取れるやろうけんという配慮だったわけで、それを無碍にされたための怒りだったらしい。
自分の意思を伝えようとすると、「もういい」という。
「もういい」ならいいやとそのままシャワーを浴びるとさらに怒るわけである。

お互いの配慮がこういった諍いを起こすこともままあるわけで、ひじょうにめんどくさい。

何がめんどくさいかというと、話し合わず、自分の意思も伝えずに、お互いの思いを相手が汲み取っているものと解釈するからめんどくさい。
だから、起こる必要のないこういったつまらぬ諍いが起こる。

日本という国は、もともと、空気を読むということに重点を置いている国で、KYなどという言葉も跋扈するわけだが僕はこの空気を読む、という行為が、しばしば必要なことは認めつつも、あまり好きではない。
同族意識や、一方通行的な、閉鎖的な感じを受けるからだ。

以前にも書いたが、こと人と人の齟齬、諍いの大半は話し合おうとしない、自分の意思を伝え齟齬を解消しようとしない、この空気を読むという行為に重きを置いた風土のために発生する、お互いの相手の思惑の推量の思い違いに起因すると思っている。

だから、お互いが適切な言葉で話し合い、意思を伝え合えば回避できる問題も、お互いが勝手に互いの思いを邪推しそれを相手の考えだと断定してしまうことにより引き起こされる。

自分がこう思ったことは相手がその思いを汲み取ってしかるべきである、という思い込みが蔓延している。

あまりにも非常識なことなら、この空気を読むという行為が必要であることはわかるが、日本の場合ひじょうに微妙であいまいな状況においてもこの空気を読むという行為を要請されるため厄介だ。

僕はずっと前から、このことに懐疑の念を抱いていたので、できるだけ相手の言うことをそのまま信じるようにしている。
空気を読んで何かをしてあげたとして、それが正しく空気を読めていないときには、お世話したつもりが、「大きなお世話」だったりすることがままあるからだ。だから自分の相手の感情の推量よりも、相手の発した言葉の方を重視する。

空気を読むという能力は人それぞれで能力差がある。
アスペルガー気質の人などはそういう能力に長けていない。
長けていないものがそういう風土の社会に溶け込むのは、ひじょうに難しい。ゆえにこの空気を読むという行為に重点をおく文化は、閉鎖的、鎖国的な感を否めない。
つまり差別の源泉も、この風土に起因している部分が大きいだろう。

もちろん、空気を読むという行為が、相手の思惑と一致したときには、深い感情や人のぬくもり、絆を惹起させることも否定はしないが。

そもそも、阿吽の呼吸やツーカーの仲などは、長い時間の話し合いや付き合いの末に構築できるもので、さらに家族間でも最初に述べたような誤解が生じるのであれば、それを他者との間にいきなり求めることじたいに無理があるのだ。

自分の意思を伝え、齟齬が生じたなら話し合う、どちらかというと欧米型の風土を僕は好む。

意思を伝える際、日本語は表現が多岐に渡るため、伝える言葉の中にまた「空気を読む」ことを求めたりして、それは美しく響いたりもするが、意思や考えを伝えるという本来の言葉の役割をぼかし、あいまいにする。
結局意思を伝える言葉の中にまで「空気を読む」という行為を強く要請しすぎるのだ。
もちろん、相手に自分の意思を伝わりやすく、かつ相手に悪感情を起こさせない言葉を使うことは必要だが、それは技術の部分が大きく、空気を読むという感性の部分とはまた違うものだと思う。
日本人は、言葉や感情の感性を大切にしすぎ、技術をおろそかにしすぎた、といえるのかもしれない。いや、日本の言葉の技術は豊富だが、その技術もまた「感情を介して伝えるという技術」ばかりに傾斜しすぎた、というべきか。

心を重視することは美しく、また洗練されている、と映るのは確かだとしても、そういった風土にはどういった危険性があるのかも認識しておかなければ、美しさの中に棘を持つ薔薇である。

真に空気を読む、心を解するためには、一旦心から離れる、客観的な視座を持つことが大切なのだと思う。

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