僕は、テニスオタクで、文学オタク(まではまだいってないかな?)、筋トレオタクで、映画オタクだ。
他にもオタク的要素の強い部分が沢山ある。
ノスタルジーオタクと言ってもいいかもしれない。
このオタクという言葉、否定的に使われがちで、それはこのオタクという言葉自体に自明性の暴力が潜んでいるからなのだが。
http://37292.diarynote.jp/200408300329140000/
オタクという言葉のそういった暴力性がなんなのかといえば、僕が考えるに「社会性の欠如」という部分に集約されているのだと思う。
これは、かの宮崎勤事件に端を発しているといわれているけど、メディアがオタクというものの定義を暴力的なものへと画一化させてしまった傾向が強いと思う。
僕はそういった暴力性を排除して、オタクという言葉を再定義して認識しているわけだけど、僕にとってのオタクとは、何かに夢中になっている人、没頭している人、程度の意味。
僕のように認識している人は、かなり増えてきていると思う。オタクという言葉の中で自明であったはずの暴力性が段々薄れてきているのだろう。
だから、昔は隠れオタクなどという言葉もあったけど、最近はオタクを公言する人が増えている。オタクであることがある種のステイタスに変容してきているのかもしれない(まだ萌芽期に過ぎないが)。
そもそもオタクの特性はこうだなどと一般化できるほどオタクは単純に括れるものではないと思う。社会性のあるオタクもいれば、無いオタクもいる。僕はやや欠如したオタクだけど。
僕の認識からすれば、オタクであることは人間として素晴らしいことではないかと思う。
何かに没頭できる、熱中できる、これは人間が発展してきた「知りたい」という好奇心が源泉なのだから、いたって人間的な感情だろう。
勿論、何事も行き過ぎれば毒となるが毒となるほどというのはパラノイアと定義できるくらいにならないと当てはまらないと思う。
普通に社会で生活できる程度にオタクであることは素晴らしいのだ。
今日、会社の同僚に一昨日「サマーウォーズ」というアニメ映画を見に行ったけど観れなかった、というと「アニメオタク?」と聞かれて、はて、自分ははたしてアニメオタクだろうかと思ってこんなことを考えた。
僕は現在テレビをほとんど見ない、だから一般の人が見てるナルトやコナン、クレヨンしんちゃんなども通して見たことは一度もない。見だしたら面白いかもしれないけど。
だけど映画のアニメは結構観るし、昔の、子供の頃熱中したアニメは最近よく観る。
前者は、僕はアニメという区別無しに映画の範疇で観ているし、後者はノスタルジーに起因する部分が大きい。
だけど、内因はどうあれ、僕はアニメを楽しんでいるという事実に変わりなく、アニメが好きだという事実に偽りない。
ということは僕はやはりアニメオタクということになるのかもしれない。とか何とか考えたけど、実際どうでもいい。
結論を言えば、いいものはいい。ということであり、そこに人道的なことや物を除けばジャンルの境などは無きに等しい。
僕は映画も小説も音楽も、ジャンルや年代を問わずに観たり読んだりするが、アニメもそう、面白ければ、自分が気に入ればSFであろうが美少女物であろうが萌え系であろうが熱中するのだと思う。熱中すれば知りたくなる、そして詳しくなる。そんな感じで、熱中したアニメもいくつかあるし、監督にしてもそう、ジブリも一時期ハマったし、押井守や今敏、そして今注目しているのがこのサマーウォーズの監督である細田氏なのである。
さて、こんなことを書いてはいるが、同僚に問われた「アニメオタク?」という問いにとっさに出た一言は「違いますよ」だった。
やれやれ、どうやら僕のなかにも「アニメオタク」に対してのネガティブなイメージという自明性の暴力が燻っているらしい。
これは由々しき問題である。
悪しき偏見である。つまり、再定義しきれていない。
とうことを自覚した問答であった。
他にもオタク的要素の強い部分が沢山ある。
ノスタルジーオタクと言ってもいいかもしれない。
このオタクという言葉、否定的に使われがちで、それはこのオタクという言葉自体に自明性の暴力が潜んでいるからなのだが。
http://37292.diarynote.jp/200408300329140000/
オタクという言葉のそういった暴力性がなんなのかといえば、僕が考えるに「社会性の欠如」という部分に集約されているのだと思う。
これは、かの宮崎勤事件に端を発しているといわれているけど、メディアがオタクというものの定義を暴力的なものへと画一化させてしまった傾向が強いと思う。
僕はそういった暴力性を排除して、オタクという言葉を再定義して認識しているわけだけど、僕にとってのオタクとは、何かに夢中になっている人、没頭している人、程度の意味。
僕のように認識している人は、かなり増えてきていると思う。オタクという言葉の中で自明であったはずの暴力性が段々薄れてきているのだろう。
だから、昔は隠れオタクなどという言葉もあったけど、最近はオタクを公言する人が増えている。オタクであることがある種のステイタスに変容してきているのかもしれない(まだ萌芽期に過ぎないが)。
そもそもオタクの特性はこうだなどと一般化できるほどオタクは単純に括れるものではないと思う。社会性のあるオタクもいれば、無いオタクもいる。僕はやや欠如したオタクだけど。
僕の認識からすれば、オタクであることは人間として素晴らしいことではないかと思う。
何かに没頭できる、熱中できる、これは人間が発展してきた「知りたい」という好奇心が源泉なのだから、いたって人間的な感情だろう。
勿論、何事も行き過ぎれば毒となるが毒となるほどというのはパラノイアと定義できるくらいにならないと当てはまらないと思う。
普通に社会で生活できる程度にオタクであることは素晴らしいのだ。
今日、会社の同僚に一昨日「サマーウォーズ」というアニメ映画を見に行ったけど観れなかった、というと「アニメオタク?」と聞かれて、はて、自分ははたしてアニメオタクだろうかと思ってこんなことを考えた。
僕は現在テレビをほとんど見ない、だから一般の人が見てるナルトやコナン、クレヨンしんちゃんなども通して見たことは一度もない。見だしたら面白いかもしれないけど。
だけど映画のアニメは結構観るし、昔の、子供の頃熱中したアニメは最近よく観る。
前者は、僕はアニメという区別無しに映画の範疇で観ているし、後者はノスタルジーに起因する部分が大きい。
だけど、内因はどうあれ、僕はアニメを楽しんでいるという事実に変わりなく、アニメが好きだという事実に偽りない。
ということは僕はやはりアニメオタクということになるのかもしれない。とか何とか考えたけど、実際どうでもいい。
結論を言えば、いいものはいい。ということであり、そこに人道的なことや物を除けばジャンルの境などは無きに等しい。
僕は映画も小説も音楽も、ジャンルや年代を問わずに観たり読んだりするが、アニメもそう、面白ければ、自分が気に入ればSFであろうが美少女物であろうが萌え系であろうが熱中するのだと思う。熱中すれば知りたくなる、そして詳しくなる。そんな感じで、熱中したアニメもいくつかあるし、監督にしてもそう、ジブリも一時期ハマったし、押井守や今敏、そして今注目しているのがこのサマーウォーズの監督である細田氏なのである。
さて、こんなことを書いてはいるが、同僚に問われた「アニメオタク?」という問いにとっさに出た一言は「違いますよ」だった。
やれやれ、どうやら僕のなかにも「アニメオタク」に対してのネガティブなイメージという自明性の暴力が燻っているらしい。
これは由々しき問題である。
悪しき偏見である。つまり、再定義しきれていない。
とうことを自覚した問答であった。
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