剣道をしている外国の子供達の道場にはるばる日本からやってきた剣道家が講習を開いたわけだが、一人の少女が泣き出した。
聞いてみると、一生懸命やっているのに怒られてばかりで一つも褒めてくれない、とのこと。
そこにいた他の日本人が、「怒られるということはそれだけ腕を見込まれているということなのだよ」と言い聞かせたというエピソードを、以前剣道マガジン(僕も幼い頃剣道をやっていて、今でも剣道を見るのがすき)か何かで読んだ。
そこに、日本と他の国々との文化というか精神の捉え方の違いを感じた。
日本は、褒めるということをあまりしないように思う。
厳しさが美徳、耐え忍び努力することこそ鍛錬だというふうにも取れる。
僕は幼い頃、両親から褒められたという記憶がほとんどない。
これは、母親が同じように褒められてこなかったことで、うまく褒めるということをできないのだと、母親が言っていた。
日本では、褒めるということがなにか偽善めいた、またはお世辞めいたことのように感じられて抵抗があるのだろうか。
褒めること以外にも、何かいいことを言ったりやったりすることに対して、否定的な見方や反抗を示す傾向も少なくないように思う。
「くさいことを言う」みたいに。いったい何がどうくさいというのだろう。
美の捉え方は様々で、どれが正しいとかは言えることではないが、僕はどちらかというと日本的な考え方ではない。
阿吽の呼吸だとか、ツーカーの仲だとか、日本人は、心や状況を察するということに重点を置きすぎている様な感がある。
確かに、言わずとも相手の心がわかることはいいことだと思うし、美しくもあるとは思う。
しかし、完全に相手の心を状況ややり取りのみで判断できる人間などそうそういるはずもないし、そんな関係性も早々あるはずがない。いるはずもない、あるはずがないからこそ、それを理想や美に置きたがる心理もあるのだろう。
だけど実際は、それを実践することによる弊害もまた目だってわかる。
言葉で伝えないことによる感情の相互間の読み違え、それによる関係性のこじれ、起こる必要性のない問題まで引き起こしてしまう。
それにより、いずれは阿吽の呼吸まで辿りつけるであろう関係性や、尊敬しあえるはずの関係性が途中で破綻し修復のできないところまで陥ってしまったりもする。
師が才能を見込んで、手塩をかけて育て、誰よりかわいがっていたつもりが、弟子は師にたいする尊敬の念をとっくに無くし、あまつさえ憎しみを募らせていたりすることだって起こりえる。
日本の精神は、心を見つめているようで、実は心を見落としているのではないか、とすら思える部分もあるのだ。
心の医学、精神の医学みたいなものの発達は、実は欧米の方が進んでいる。
自分の経験則のみで行動するのはうまくいけば強い絆を結べもしようが、非情に主観的で独善的な判断といわざるをえない。
メジャーリーグのコーチたちは、選手をあまり怒らないと聞いたことがある。どんなことでも諭すように、励ますように伝えるし、評価する部分は、しっかりと言葉で褒める。
専門的なカウンセラーなども専属でいたりする。
心も体も、厳しさだけではいつしか磨り減って卑屈になってしまう。
水泳の強化選手が、毎日数10キロ泳がされていて、その練習を一日おきにしたら、飛躍的に記録が伸びたという話もある。
厳しさを乗り越えたものだけが強い絆で結ばれるというのは、美しく感じる部分もあるが、多くの絆を結べる機会を自ずから潰してしまっているという意味では愚劣でもある。
今は、自分の親が自分を愛していると思えるようになったが、そう思えるまでに長い年月がかかった。
幼い頃にもっと褒められていたなら、自分の存在に自信が持てるようになっていたのかもしれないとも思う。
子供に以心伝心を求めるのは酷な話だ、たとえそれが親子であろうと。
自分の存在になかなか価値を見出せないというのは、苦しくもあるが良い面もある、周りの人間が自分に足りないものをたくさん持っている、立派に見える。周りの人たちを尊敬のまなざしで見ることができるようになるのだ。
もちろん、すべてがすべてというわけではないのだが。
自分が成長したい、学びたい、価値のある存在になっていきたいという好奇心や希求の想いが相手の良い部分、自分の持っていない部分を敏感に発見し、純粋に尊敬の念を引き起こしてくれる。
もちろん、自分に価値がないと思うことでひねくれ、人を妬むことだけしかなかった時期もあったにはあったが、そういう時期を経て、人に希望を持とうと思った現在は、その自己の価値を見出せないことが、相手を褒めることへの障害を取り除く鍵となってくれているのである。
僕は、今は相手を褒める言葉を躊躇なく言えるし、ひねくれていた昔と比べて、人をよく褒めるようになったと思う。
そこだけは、自分が成長できた、自負できる長所だと思っている。
相手を褒めるとき、そこにけれんも照れ隠しもなく、真正面から自分の思っている正直な賛美を伝える、完全にかどうかはわからないけど、今は昔に比べてそういうことを素直に簡単にできるようになったと感じている。
心を正確に伝えるために言葉がある。
そして、心には、厳しさと共に、それ以上に賛美が必要だ。
僕はこれからもっともっと人の良いところは褒めていきたいと思うし、それを言葉で伝えていきたいと思う。
そして僕に子供ができる日がもしくるのなら、母が、自分がしてこられなかった分だけ真正面からその子を褒めて、自分が存在することに自信を持たせてやりたいと思っている。
聞いてみると、一生懸命やっているのに怒られてばかりで一つも褒めてくれない、とのこと。
そこにいた他の日本人が、「怒られるということはそれだけ腕を見込まれているということなのだよ」と言い聞かせたというエピソードを、以前剣道マガジン(僕も幼い頃剣道をやっていて、今でも剣道を見るのがすき)か何かで読んだ。
そこに、日本と他の国々との文化というか精神の捉え方の違いを感じた。
日本は、褒めるということをあまりしないように思う。
厳しさが美徳、耐え忍び努力することこそ鍛錬だというふうにも取れる。
僕は幼い頃、両親から褒められたという記憶がほとんどない。
これは、母親が同じように褒められてこなかったことで、うまく褒めるということをできないのだと、母親が言っていた。
日本では、褒めるということがなにか偽善めいた、またはお世辞めいたことのように感じられて抵抗があるのだろうか。
褒めること以外にも、何かいいことを言ったりやったりすることに対して、否定的な見方や反抗を示す傾向も少なくないように思う。
「くさいことを言う」みたいに。いったい何がどうくさいというのだろう。
美の捉え方は様々で、どれが正しいとかは言えることではないが、僕はどちらかというと日本的な考え方ではない。
阿吽の呼吸だとか、ツーカーの仲だとか、日本人は、心や状況を察するということに重点を置きすぎている様な感がある。
確かに、言わずとも相手の心がわかることはいいことだと思うし、美しくもあるとは思う。
しかし、完全に相手の心を状況ややり取りのみで判断できる人間などそうそういるはずもないし、そんな関係性も早々あるはずがない。いるはずもない、あるはずがないからこそ、それを理想や美に置きたがる心理もあるのだろう。
だけど実際は、それを実践することによる弊害もまた目だってわかる。
言葉で伝えないことによる感情の相互間の読み違え、それによる関係性のこじれ、起こる必要性のない問題まで引き起こしてしまう。
それにより、いずれは阿吽の呼吸まで辿りつけるであろう関係性や、尊敬しあえるはずの関係性が途中で破綻し修復のできないところまで陥ってしまったりもする。
師が才能を見込んで、手塩をかけて育て、誰よりかわいがっていたつもりが、弟子は師にたいする尊敬の念をとっくに無くし、あまつさえ憎しみを募らせていたりすることだって起こりえる。
日本の精神は、心を見つめているようで、実は心を見落としているのではないか、とすら思える部分もあるのだ。
心の医学、精神の医学みたいなものの発達は、実は欧米の方が進んでいる。
自分の経験則のみで行動するのはうまくいけば強い絆を結べもしようが、非情に主観的で独善的な判断といわざるをえない。
メジャーリーグのコーチたちは、選手をあまり怒らないと聞いたことがある。どんなことでも諭すように、励ますように伝えるし、評価する部分は、しっかりと言葉で褒める。
専門的なカウンセラーなども専属でいたりする。
心も体も、厳しさだけではいつしか磨り減って卑屈になってしまう。
水泳の強化選手が、毎日数10キロ泳がされていて、その練習を一日おきにしたら、飛躍的に記録が伸びたという話もある。
厳しさを乗り越えたものだけが強い絆で結ばれるというのは、美しく感じる部分もあるが、多くの絆を結べる機会を自ずから潰してしまっているという意味では愚劣でもある。
今は、自分の親が自分を愛していると思えるようになったが、そう思えるまでに長い年月がかかった。
幼い頃にもっと褒められていたなら、自分の存在に自信が持てるようになっていたのかもしれないとも思う。
子供に以心伝心を求めるのは酷な話だ、たとえそれが親子であろうと。
自分の存在になかなか価値を見出せないというのは、苦しくもあるが良い面もある、周りの人間が自分に足りないものをたくさん持っている、立派に見える。周りの人たちを尊敬のまなざしで見ることができるようになるのだ。
もちろん、すべてがすべてというわけではないのだが。
自分が成長したい、学びたい、価値のある存在になっていきたいという好奇心や希求の想いが相手の良い部分、自分の持っていない部分を敏感に発見し、純粋に尊敬の念を引き起こしてくれる。
もちろん、自分に価値がないと思うことでひねくれ、人を妬むことだけしかなかった時期もあったにはあったが、そういう時期を経て、人に希望を持とうと思った現在は、その自己の価値を見出せないことが、相手を褒めることへの障害を取り除く鍵となってくれているのである。
僕は、今は相手を褒める言葉を躊躇なく言えるし、ひねくれていた昔と比べて、人をよく褒めるようになったと思う。
そこだけは、自分が成長できた、自負できる長所だと思っている。
相手を褒めるとき、そこにけれんも照れ隠しもなく、真正面から自分の思っている正直な賛美を伝える、完全にかどうかはわからないけど、今は昔に比べてそういうことを素直に簡単にできるようになったと感じている。
心を正確に伝えるために言葉がある。
そして、心には、厳しさと共に、それ以上に賛美が必要だ。
僕はこれからもっともっと人の良いところは褒めていきたいと思うし、それを言葉で伝えていきたいと思う。
そして僕に子供ができる日がもしくるのなら、母が、自分がしてこられなかった分だけ真正面からその子を褒めて、自分が存在することに自信を持たせてやりたいと思っている。
コメント