僕は、自分の透明化を目指してるんですよ。
ほら、企業にしたって、財務状態とか、経営状態とか、全部ちゃんと公開してるとこの方が安心できるでしょう。
安心できれば株だって、買おうと思うわけです(笑)
だから、僕は日記に自分の日常や、考えを極力隠さずに書くように努めてるんです。(もちろん書けないことも若干ありますがW)
僕は性格上、説明のできないことはあまり好きではないので、なんとなく嫌だ、とか、そういう「なんとなく」って言うのは、自分のことではできるだけ持ち出したくないんです。
僕は物事には理由があると思っています。火のないところに煙はたたないって思っています。感情にしてもなんにしても、「理由はないけど~だ」、とか「説明できないけど~だ」、っていうのがありますが、それはつまるところ、本当に理由がないんじゃなくて、理由はあるけど、今の自分の語彙では説明できない、や、原因はあるけど、その原因が現状の自分ではわかっていない、原因を特定できていない、だけだと思っているんです。
人は秘密をたくさん持ちますが、確かに絶対に言えないようなことがないとは言いません。だけど、ほとんどのことは、言えないようなことではないと思っているんです。
「言いたくない」という感情の原因や理由を掘り下げて考えてみるわけです。すると、大体の物事は、自分のつまらない自尊心や虚栄心、または、自分で勝手にこれを言ったらみんなは自分を嫌いになるだろう、とかのネガティブな予想を立てて恐怖心から言えなかったりとかそういうことがほとんどです。
もちろん、自分にのみ関わることと、自分に関わることで他人にも関係してくることの境界は非常にあいまいで難しいので、慎重にその辺を見極めなくてはいけませんが。
でも、自分にのみ関係すると思われる物事で、秘密にしていることは、実際、自分の無駄な虚栄心や自尊心を捨て去れば、秘密にする必要のないことだと思うのです。
それでも秘密にしないといけない要因があるとすれば、それは外部的要因だと思います。
自分の考えを述べるにしても、価値観を述べるにしても、趣味を述べるにしても、そこに現在の時代や文化にのっとった大まかな基準というものが僕たちの意識の根底にあって、それが、偏見の壁を作っているのだと思います。そして、その偏見を自分自身も持っているからこそ、それに若干でも逸脱する価値観や考えを有すると自覚する場合、偏見の目にさらされることを予想し、恐れ、秘密というものを持ってしまうという場合が結構な割合を占めているんじゃないでしょうか。
そういった無自覚ではあるけど、厳然としてある偏見がほとんどの秘密を作り出しているんです。
僕は人と話しているときによく「なぜそんなことを秘密にしたがっていたのだろう?」と思うことがありますが、それは、それを話すと「僕が引いてしまうだろう」「僕が距離を置くだろう」「僕が嫌いになるだろう」「僕が軽蔑するだろう」などといった予見をしてしまっていたりするのだと思うのです。でも実は、そういう部分というのは、本当は、知って欲しい、わかって欲しいという願望の裏返しであったりもするんですよね。話すと恥ずかしい。恥ずかしいと思うのは自分の尊厳を、話すことによって否定され傷つけられることへの恐怖に基づくものがかなりの部分を占めているのだと思います。
だからそういう抑圧された感情を共感しあえる相手には、自分のすべてを出しても否定されない安心感と、今までの抑圧された感情によって生じたルサンチマンの解放によるカタルシスで、絆が深まる場合もあるのです。
実際、周りの人々が各自の価値観や考え、境遇に対して、もう少し柔軟に受容することができるならば、僕たちの持つ秘密なんてものはほんの一握りに減ってしまうだろうと思います。
僕たちは、自分達が育った中での文化、価値観、体裁などで築かれた偏見を無意識のうちに些細な表情や言動により、他者へ強制してしまっているのではないでしょうか。
政治学者のJ・S・ミルの『自由論』でも述べられているように
「人類は、自分にとって幸福に思われるような生活を互いに許すほうが、他の人々が幸福と感ずるような生活を各人に強いるときよりも一層得るところが多い」
のだと僕も思います。
僕は、できるだけ、その人本人だけに関わるようなことに対する価値観、思想などを、受け入れていきたいと思っています。
それは、自分自身が受け入れて欲しいからでもあります。
だから、自分の醜い部分や過ちなどもできるだけ開示していきたいのです。
自分を可能なかぎり表現できたなら、相手も安心して僕と接することができるのではないか?相手も自分自身でいられるのではにか?という希望があるんです。僕を開示していれば、僕という人間がわかりますから、嫌な人は接してこないでしょうし(笑)
疑問に思った部分があっても、僕という人間、考え、価値観がわかっていれば、それを相手が一人心に秘めて、思い悩んだり、悪い予想を立てたりすることも少なくなるんじゃないかと表います。
自分を透明化する、そうすることで、信頼は生まれもするし、強化もされていく、そう思っています。
でもこれはあくまでも僕の考えであり、価値観であるのですよ(笑)
そういう方向を目指すにおいて、僕にはまだまだ自分の中に、無意味な自尊心、矜持、虚栄心を捨て切れていませんし、強固な偏見も巣食っています。
日記を書くという行為自体、そういうものを克服する訓練でもありますね。
この日記でも、たとえば、自分の強迫の症状がどういうものであるとかそういうことを臆することなく書くことがでるようになれればいいなと思うようになれればいいなと思います。
ほら、企業にしたって、財務状態とか、経営状態とか、全部ちゃんと公開してるとこの方が安心できるでしょう。
安心できれば株だって、買おうと思うわけです(笑)
だから、僕は日記に自分の日常や、考えを極力隠さずに書くように努めてるんです。(もちろん書けないことも若干ありますがW)
僕は性格上、説明のできないことはあまり好きではないので、なんとなく嫌だ、とか、そういう「なんとなく」って言うのは、自分のことではできるだけ持ち出したくないんです。
僕は物事には理由があると思っています。火のないところに煙はたたないって思っています。感情にしてもなんにしても、「理由はないけど~だ」、とか「説明できないけど~だ」、っていうのがありますが、それはつまるところ、本当に理由がないんじゃなくて、理由はあるけど、今の自分の語彙では説明できない、や、原因はあるけど、その原因が現状の自分ではわかっていない、原因を特定できていない、だけだと思っているんです。
人は秘密をたくさん持ちますが、確かに絶対に言えないようなことがないとは言いません。だけど、ほとんどのことは、言えないようなことではないと思っているんです。
「言いたくない」という感情の原因や理由を掘り下げて考えてみるわけです。すると、大体の物事は、自分のつまらない自尊心や虚栄心、または、自分で勝手にこれを言ったらみんなは自分を嫌いになるだろう、とかのネガティブな予想を立てて恐怖心から言えなかったりとかそういうことがほとんどです。
もちろん、自分にのみ関わることと、自分に関わることで他人にも関係してくることの境界は非常にあいまいで難しいので、慎重にその辺を見極めなくてはいけませんが。
でも、自分にのみ関係すると思われる物事で、秘密にしていることは、実際、自分の無駄な虚栄心や自尊心を捨て去れば、秘密にする必要のないことだと思うのです。
それでも秘密にしないといけない要因があるとすれば、それは外部的要因だと思います。
自分の考えを述べるにしても、価値観を述べるにしても、趣味を述べるにしても、そこに現在の時代や文化にのっとった大まかな基準というものが僕たちの意識の根底にあって、それが、偏見の壁を作っているのだと思います。そして、その偏見を自分自身も持っているからこそ、それに若干でも逸脱する価値観や考えを有すると自覚する場合、偏見の目にさらされることを予想し、恐れ、秘密というものを持ってしまうという場合が結構な割合を占めているんじゃないでしょうか。
そういった無自覚ではあるけど、厳然としてある偏見がほとんどの秘密を作り出しているんです。
僕は人と話しているときによく「なぜそんなことを秘密にしたがっていたのだろう?」と思うことがありますが、それは、それを話すと「僕が引いてしまうだろう」「僕が距離を置くだろう」「僕が嫌いになるだろう」「僕が軽蔑するだろう」などといった予見をしてしまっていたりするのだと思うのです。でも実は、そういう部分というのは、本当は、知って欲しい、わかって欲しいという願望の裏返しであったりもするんですよね。話すと恥ずかしい。恥ずかしいと思うのは自分の尊厳を、話すことによって否定され傷つけられることへの恐怖に基づくものがかなりの部分を占めているのだと思います。
だからそういう抑圧された感情を共感しあえる相手には、自分のすべてを出しても否定されない安心感と、今までの抑圧された感情によって生じたルサンチマンの解放によるカタルシスで、絆が深まる場合もあるのです。
実際、周りの人々が各自の価値観や考え、境遇に対して、もう少し柔軟に受容することができるならば、僕たちの持つ秘密なんてものはほんの一握りに減ってしまうだろうと思います。
僕たちは、自分達が育った中での文化、価値観、体裁などで築かれた偏見を無意識のうちに些細な表情や言動により、他者へ強制してしまっているのではないでしょうか。
政治学者のJ・S・ミルの『自由論』でも述べられているように
「人類は、自分にとって幸福に思われるような生活を互いに許すほうが、他の人々が幸福と感ずるような生活を各人に強いるときよりも一層得るところが多い」
のだと僕も思います。
僕は、できるだけ、その人本人だけに関わるようなことに対する価値観、思想などを、受け入れていきたいと思っています。
それは、自分自身が受け入れて欲しいからでもあります。
だから、自分の醜い部分や過ちなどもできるだけ開示していきたいのです。
自分を可能なかぎり表現できたなら、相手も安心して僕と接することができるのではないか?相手も自分自身でいられるのではにか?という希望があるんです。僕を開示していれば、僕という人間がわかりますから、嫌な人は接してこないでしょうし(笑)
疑問に思った部分があっても、僕という人間、考え、価値観がわかっていれば、それを相手が一人心に秘めて、思い悩んだり、悪い予想を立てたりすることも少なくなるんじゃないかと表います。
自分を透明化する、そうすることで、信頼は生まれもするし、強化もされていく、そう思っています。
でもこれはあくまでも僕の考えであり、価値観であるのですよ(笑)
そういう方向を目指すにおいて、僕にはまだまだ自分の中に、無意味な自尊心、矜持、虚栄心を捨て切れていませんし、強固な偏見も巣食っています。
日記を書くという行為自体、そういうものを克服する訓練でもありますね。
この日記でも、たとえば、自分の強迫の症状がどういうものであるとかそういうことを臆することなく書くことがでるようになれればいいなと思うようになれればいいなと思います。
コメント
その方向は「パワーゲーム」と同じです。
所謂、
プラスないしマイナスと言うのは単純に基点に拠って変動します。
隠す事と晒す事は、別の自我にとっては全く同義です。
で、
力技に力技で対抗すれば、素体のポテンシャルが勝っている方が(集中力、持続力、更には圧倒的な「何か」ゲームの主導権を握ってしまいます(^_^;)
大きな御世話な御節介でしか無いのは百も承知ですが(私自身を投影して見てしまっているのも理解しています)それではルールが変わってしまいます。
私は「お気に入り」を失いたくないかなぁ。
...だって、
貴方は私のCALLに最初に応えてくださった方のお一人なんですから。
kajさんのおっしゃられることを的確に捉えられているかどうかわかりませんが、自分なりに解釈してみました。
自我には様々な面があり、角度によっては隠すことと晒すことがまったく逆の意味合いにもなりうるということでしょうか。
僕もそう思います。
僕も難しく書いてますが、ようは、自分が抑圧されている、という個人的に心地の悪さを感じる感覚にたいして、それらを開放したほうが心地よくなるかなと思っているんです。
そして、他の人もそういう風に感じている人が多いんじゃないかと個人的に思っています。もちろんそう感じない人もたくさんいると思います。
ですから、個人的に望むことを書いてますが、事実これが再現されなければならないとは思っていません。
まあ、僕と同じように感じている人がいたら、もしこの日記をたまたま読んで、僕と同じように抑圧された部分を解放してみたら楽になるかな、抑圧しているのはプライドなのかな~とか感じて、それで実際に開放されれば幸いだな、くらいに思ってます(笑)
僕個人としては、経験則で、そうしてきてかなり救われた部分があるので。
共感できればうれしいなって感じで、僕の考えが正しいわけではありませんから、あくまで共感できる人が何かの足しにしてくれるならうれしいって感じです^^
要は、極力人に迷惑かけず、楽に慣れればいいなあということです。
人のそういった部分を見ても安心しない人もまたいるでしょうけど、結局人は主観でしか物事を図れませんから、僕も自分にとって良いと思えることを実践し、他の人にとってもそれが良いものであって欲しいと願うしかないですね^^;