本を読むという行為は、どういうことなのかを考えていました。
本の中にはさまざまな価値観が含まれています。
たくさんの価値観を知る、そういう意味においては本をたくさん読むことは読まないよりも有用であるとがいえると思います。

しかしながら、一般に言われる、本を読むと感受性が豊かになる、とか、人間性が培われる、というのは、一概に言えることではない、と思っています。

確かに、長い年月を経ていまだ読み継がれている古典といわれるものは、最終的には、人間がどう生きるか、善に根ざした人間の普遍性といったものに収束されていっているように思います。

だけど、たとえそういった本を読んでいたとしても、その本に書かれているようなことを実際の生活上において実践している人は少ないでしょう。
僕が学生時代に疑問に思ったことは、すごく成績のよかった人でも、僕の強迫を真似していたということです。
そのころの僕は、成績がよい=国語などにおいても読解力がある、読解力がある人=物事の真偽、善悪を見分ける能力(道理)に優れている、そしてそういう意味で感受性が豊かである、と思い込んでいました。

しかしながら、実際は、成績のよかった人であっても、僕の強迫を真似するという行為に罪悪感を感じなかった(感じていたとしても止めることはなかった)。

だから、僕は現在学問ができる人が必ずしも頭のよい人ではないと思っています。
「頭がよい」と一言で言ってもさまざまな解釈がありますが、僕が思う頭のよい人というのは、つまり「学んだことや物事を多角的に捉えることができ、そしてそこから得たことを実生活において実践できる、している人」のことです。

同様の意味において僕は、「哲学者」と「哲人」を分けています。
哲学者は、哲学を学問する人、哲人は哲学を実践する人です。

哲学者は世の中にたくさんいますが、哲人はそういるものではありません。ソクラテスは、そう考えると真の「哲人」を目指したのだと思います。

それを踏まえた上で読書という行為を考えてみると、やはり読書にも同じことがいえるのだと思います。
読書を読むにも、そこから何かしらを得るにも、読む人の嗜好、また志向に偏るということです。
学問の学問のためにだけ読書をする人、倫理観を高めたり感受性を養うために読書をする人、自分の考えを正当化し強化するために読書をする人、純粋に楽しむためにだけ読書をする人、というように。

まあ、きっちりと分けられる人というのもまた少なく、多くの人は、これらの志向性が混合している状態だと思いますが。

ただそこから言えることは、読書をしたからといって、必ずしも人間性が深まるというわけではない、ということです。

ヒトラーは読書家でしたが、自分の主張を強化する部分だけ拾い読みする、という読み方だったそうです。

つまり、本というものは、啓蒙や精神の涵養などは、そこに含まれる選択しうる特長の一部に過ぎず、他のメディアが氾濫する現在においては、そのメディアの一部を構成する、著者自身の考えた倫理や物語を効率よく伝える合理的な手段に過ぎない、といえるのかもしれません。

ですから、著者がその内容と正反対の行為を行っていても、彼は小説家、またはエッセイストであって哲人ではないのだから当然といえば当然なのかもしれないですね。

夏目漱石は、多読をするのではなく、一冊の本を熟読吟味し、思考する、そういった人物を低徊派と呼びました。漱石自身、低徊派であると思います。

ようは、何を読んだか、ではなく、どう読んだか、がその人の姿勢や得るものを決定すると思います。
それは何も読書だけのことではなく、生活、映画、すべてのことにいえるのかもしれませんね。
本を読む人の中に悪逆非道な人、道理に反する矛盾ばかりを胚胎する人がいると思えば、本をまったく読まない人に、驚くべき哲人を見出すこともあるでしょう。

本は、今やメディアの媒体の一つでしかなく、本を読んだからといって、頭がよくなるものでも、感受性が深まるものでも、人間的に成長するものでもない。博学になるかならないかすら本人の嗜好(志向)しだいである、というのが僕の出した結論です。(もちろん、また変わるかも知れませんが)

ですが、本(もしくは文章)には、他のメディアに勝るアドバンテージがあります。
それは、もっとも合理的に情報を詰め込むことができる、ということです。つまり最もたくさんの情報を短時間で伝達することに秀でているわけです。

だから、本を読んで感受性が養われる、もしくは道理に通じる、人間性が深まる、というのは神話に過ぎなくても、そうなりうる可能性を有した情報はもっとも含有されているわけです。

ここからは僕の独断と願望になるのですが、やはり、そういった特性を持つ本という媒体にせっかく触れるのであれば、生きるうえで、得たもの(知識、哲学、倫理、価値観等)を活用、実践させていかなければもったいないと思うのです。


僕自身のことで言うなら、僕はこれ以上人を傷つけたくはない、また自分の苦しみの解放を求めて本を読み始めました。
そういった目的で本を読み出したことは間違っていないと思うし、実際にたくさんの事を得て、人間的に成長しえたとも思っています。

もし僕と同じような目的で読書をする人がいるのだとしたら、「どう読むか」に意識を働かせてほしい、そして常に生きるうえでの実践を心に描いていてほしい、と願います。


(この日記を書いたのは、僕の中に依然として「文学が好き=道理に通じて感受性が豊か、人を傷つける理不尽な事によく気づき、行わない」だろうという固定観念が巣食っていて、それゆえに少しショックなことを経験して落ち込んだからですw)

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