苦しさ、悲しみ、苦悩、そういった「辛さ」をどうやって克服するか、という方法は、様々ありますが、森田療法は「受け流す」部類に入ると思います。
考えない、ということではありません。
一旦自分のうちにある苦悩を、人間は苦悩を持つ生き物だ、と受け入れる。つまり、苦悩の存在価値を認めることにあるのだと解釈しています。
苦に対する一般の人間の姿勢は、抗い、です。苦しみに抗い、忌避しようとするから、人間は辛さを感じる、ということでしょうか。
森田療法は、苦と共存するわけです。飼いならす、といってもいいかもしれませんが。
苦に抗うことを止め、身を委ねることで、それは、「当然のこと」となり、辛さという感情の変化を発生させないということだと思います。
苦が辛くなければ、それはもう「苦」ではなくなります。
それが、森田療法のいう「あるがまま」ということだと思います。

これは、非常に日本的な療法だと思います。

一方、多く見られる克服方法といえば、「辛さ」に抗うという方法だと思います。
論理的に「苦」を掘り下げ、「辛さ」にいたる思考の歪みを発見し、または矛盾を暴きだし、矯正していくという僕がよく使う方法も、この抗う部類に属すと思います。

この二つの方法には、良い部分と悪い部分が両方ともに存在します。
何かしらの障害や問題に対して、この双方のどちらが絶対的に正しいとか適切であるとか、そういうことはありえないと思っています。

どちらの方法も、個々人によって合う合わない、また一個人においても状況や問題、症状によってそれぞれ効果のある方法が異なってくる、これが僕の見解です。

ですから、「苦」に対する克服を目指すのであるなら、どちらかの方法に固執したり盲信したりするのではなく、双方を様々な苦に対して試してみて、それぞれの問題に対して適切な対応を見出し、使いこなしていく、それが正しいやり方だと思っています。

ある問題に効果がなかったからといって、それはたまたまその方法がその問題に対して適切でなかった、ということであってそれが故にその方法が全般的に「効果がない」訳ではありませんから。

一つの方法に支配されるのではなく、柔軟な姿勢で両極端、相反するような方法も自分の中の手段として保存しておくことができれば、それだけ自分の「苦」に対する克服の可能性を広げることができるというものです。

最終的な目的が、自分が楽になる、幸せになる、ことであるなら、その過程に発生することやもの(対処法も含む)にたいして、自ら新たな「苦」をこしらえる必要もないでしょう。すべてことは、「幸」に通じるための養分とできるはずです。自分の姿勢次第で。

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