映画 『闇の子供たち』
2008年10月7日 映画〔邦画〕日本新聞社バンコク支局で、幼児人身売買を取材する記者、南部は、日本人の子供がタイで心臓の移植手術を受けるという情報を得る。知人に金を握らせ、臓器密売の元仲介者に接触した南部は、提供者の幼児は、生きたまま臓器をえぐり取られるという衝撃の事実を知る。取材を続ける南部は、ボランティアの少女、恵子と知り合う。純粋すぎてすぐ感情的になる恵子に苛立つ南部だが、善悪に対する感覚が麻痺している自分を恥じてもいた。
(ネタばれあり)
人間とて、所詮は動物に過ぎない。
野生の動物と人間を分かつのは、理性を身にまとっているか否かの違いに過ぎない。
人間の文化において、多くの野性的本能は、悪やタブーと看做される。
そのため、人間は、人間の社会で生き残るために理性を駆使し、道徳に恭順とすることで、自らの本能から来る潜在的欲望に対して必死で抗う。自らの先天的本能を自覚するものにおいて、それは並々ならぬ努力を要するだろう。
そして、必然的に、そういった社会のモラルにはけ口を求めるものは存在してくる。理性をもってしても抗えない、本能とは、かように強力なのである。
本能のはけ口を求める人間がいるかぎり、それを利用して自らの生業とするものが現れるのもまた必然。
その一部がこの作品に示された「闇」である。
作品の登場人物たちは、皆リアルに人間的である。
人間としてのあらゆる醜愚が描かれているという点において。
本作の題材である、「子供の臓器密売」に対して僕は知識も情報も持ちえていないので言及はできない。真実な部分も、真実でない部分もおそらくあるだろう。ここまで酷くはなくても似たようなことは世界中で在りうるだろう。
だから僕はこの映画をそういった具体的な題材の観点ではなく、作品に描き出された漠然とした人間の行為や感情に注目して鑑賞した。
すなわち、この映画には、タイ人がとか何人が、とか、そういった括りはない。世界各国の人々が、幼児売春の店に集まり、いかがわしい行為を行うわけだし、そういった人間や店は世界のどこにでも存在する。
店をする側も行く側も、過去の記憶や、先天的な人間の闇に懊悩しているのであり、一概にその行為だけをとって断罪できるものでもない。
恵子の純粋さは美しくも映るが、違う見方をすれば、一途な情熱で何事もうまく行くと勘違いしている「無自覚の偽善」を胚胎しているという点で愚劣でもあるし、理性で常人を装う南部にしても、自分が先天的小児性愛という本能を隠しつつ真っ当らしくあることに苦悩している。
道徳心や、理性の強固な人間ほど、人間の社会規範と自己の本能の齟齬に苦しむだろう。
南部の「ここ(タイ)は天国だ、(東京に)戻るつもりはない」や、恵子に言った「俺はあんたを裏切ってる」という言葉の意味がラストで判然とするわけだが、南部の取った選択は、それこそが本能に抗う理性を持ってしまったが故の、人間だから選択しうる悲劇なのである。
本能を心に描くだけなら誰にでもあることだが、一度でもそれを外部に表出、つまり行為を行うと、それ(本能)は、自分の中の強固なモラル、理性と極北において対立することになる。
自分の意識に対極のものを置き、その矛盾が行為によって裏書されたとき、互いに引かれあった綱は、いつか千切れる危険を持つほどに張り詰める。
縄の真ん中には、自分の存在がある。存在(命)を継ぎ目として両極に(本能と理性という)意識が対置されるとき、存在は身動きが取れなくなる。
南部はおそらくそういう状態にあった。
そして最後には縄は千切れてしまったのだ。
子供だから命は尊い、などという理屈は嫌いだ。
命は誰であれ、どのような存在であれ尊い。
我々は、人間社会という世界で生きていくのであれば、道徳や理性は必要だ。
この作品は、自分達が生物として個々もつ様々な先天的本能(欲望)に対して、どのような理性を持ってコントロールしうるのかというという問いかけである。
そして、その本能、モラル、理性にしても、慣習にのっとった見地からではなく、今一度、白紙にして、それらの定義を見直してみるべきではないかという事を強感じた。
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