(2005年11月8日、記述)
人はみんな価値がある。
基本的には、自分は自分のままでいいんだって、変わることないんだって思う。
だけど、そう思うためにはそう思えるようになるように変わらなきゃならない。つまり、人間の価値は殺人者でも、どんな人でも変わることなく尊い。人間の存在に、優劣はない。だからこそ、殺人者は等価値の命を奪った償いをどう取るかが問題となるのだ。
等価値の普遍性。
劣等感を持ちがちな人がいれば、等価値の普遍性を持つために、やはり努力して変わっていかなきゃならないと思う。
もちろん自己省察はしていったり、他の人の忠告を聞き、信念を変えることはある。でも、それは等価値の普遍性と矛盾するものじゃない。
存在としての立派な自分を自覚する。それ以外は相対的にとらえれば皮相的なことにすぎない。
なぜ不安になったり劣等感を抱えるのかといえば、等価値の普遍性に気づいていないからだと僕は思う。何かで失敗しても、その人の人間の存在としての価値はなんら変化しない。未来の自分が成長していたとしても、だからといって過去の自分よりも価値があるわけではない。
価値は一貫して普遍である。だから、この世に必要のない人などいるはずもないし、価値がない人などいるはずもない。
でも、皮相的な様様な偽価値が、本質的な人間性の皮をかぶって、視覚を通して顕現したりするもんだから、それら偽価値を人間の存在理由だと勘違いして、不安になったり劣等感に苛まれたりする。
偽価値とは、客観的な諸物である。学歴、金、経歴、性格、能力、文化、制度。それらはすべて皮相的な枝葉に過ぎない。だけど、等価値の普遍性に気づかないと、それらの枝葉が存在価値のペルソナを化粧し、人をたぶらかす。それらをステータスと思いこみ補おうとすることで、人は誰彼より、もしくは過去の自分よりも価値のある人間になったと、もしくは世界で有用な人間になったと安堵する。
だから、そこに見栄や、優越感、劣等感や不安が生まれる。
人は変わろうが変わるまいが、人に迷惑をかけず、幸せならば別にどっちでもいいと思う。だけど、劣等感や不安に苦しむことがあるとすれば、まず、人間は何者も人間であり、その価値はなにものによっても変わることはないという、「等価値の普遍性」に気づく努力をしない限り、いくら皮相的な部分を変えたところで、その劣等感から抜け出せないだろうと思う。もしくは、その努力をせずに安堵することもあるかもしれないが、それは誰かや何かを基準にした自己の価値順位の変動として見ている限り、誰かを蔑み、苛み、そしていつかまた自分がそういった立場に落ちることに恐々としつづけることになるだろう。
自分を成長させるのは、優越感や劣等感のためではなく、自分がいかにより幸福でいられるかや、理想や信念に近づきたいがためだろう。
まず土台に、「等価値の普遍性」があり、その上に成長に繋がる様様な(偽価値というペルソナを脱ぎ、まさに自分自身のための)枝葉がある。そういう場合、初めてそれら枝葉は有益に資するのだと僕は思いたい。
人は、自分自身のままでいい。その為に、等価値の普遍性を持ちえる努力を放棄してはならない。
人はみんな価値がある。
基本的には、自分は自分のままでいいんだって、変わることないんだって思う。
だけど、そう思うためにはそう思えるようになるように変わらなきゃならない。つまり、人間の価値は殺人者でも、どんな人でも変わることなく尊い。人間の存在に、優劣はない。だからこそ、殺人者は等価値の命を奪った償いをどう取るかが問題となるのだ。
等価値の普遍性。
劣等感を持ちがちな人がいれば、等価値の普遍性を持つために、やはり努力して変わっていかなきゃならないと思う。
もちろん自己省察はしていったり、他の人の忠告を聞き、信念を変えることはある。でも、それは等価値の普遍性と矛盾するものじゃない。
存在としての立派な自分を自覚する。それ以外は相対的にとらえれば皮相的なことにすぎない。
なぜ不安になったり劣等感を抱えるのかといえば、等価値の普遍性に気づいていないからだと僕は思う。何かで失敗しても、その人の人間の存在としての価値はなんら変化しない。未来の自分が成長していたとしても、だからといって過去の自分よりも価値があるわけではない。
価値は一貫して普遍である。だから、この世に必要のない人などいるはずもないし、価値がない人などいるはずもない。
でも、皮相的な様様な偽価値が、本質的な人間性の皮をかぶって、視覚を通して顕現したりするもんだから、それら偽価値を人間の存在理由だと勘違いして、不安になったり劣等感に苛まれたりする。
偽価値とは、客観的な諸物である。学歴、金、経歴、性格、能力、文化、制度。それらはすべて皮相的な枝葉に過ぎない。だけど、等価値の普遍性に気づかないと、それらの枝葉が存在価値のペルソナを化粧し、人をたぶらかす。それらをステータスと思いこみ補おうとすることで、人は誰彼より、もしくは過去の自分よりも価値のある人間になったと、もしくは世界で有用な人間になったと安堵する。
だから、そこに見栄や、優越感、劣等感や不安が生まれる。
人は変わろうが変わるまいが、人に迷惑をかけず、幸せならば別にどっちでもいいと思う。だけど、劣等感や不安に苦しむことがあるとすれば、まず、人間は何者も人間であり、その価値はなにものによっても変わることはないという、「等価値の普遍性」に気づく努力をしない限り、いくら皮相的な部分を変えたところで、その劣等感から抜け出せないだろうと思う。もしくは、その努力をせずに安堵することもあるかもしれないが、それは誰かや何かを基準にした自己の価値順位の変動として見ている限り、誰かを蔑み、苛み、そしていつかまた自分がそういった立場に落ちることに恐々としつづけることになるだろう。
自分を成長させるのは、優越感や劣等感のためではなく、自分がいかにより幸福でいられるかや、理想や信念に近づきたいがためだろう。
まず土台に、「等価値の普遍性」があり、その上に成長に繋がる様様な(偽価値というペルソナを脱ぎ、まさに自分自身のための)枝葉がある。そういう場合、初めてそれら枝葉は有益に資するのだと僕は思いたい。
人は、自分自身のままでいい。その為に、等価値の普遍性を持ちえる努力を放棄してはならない。
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