映画 『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』
2008年6月30日 映画〔邦画〕1972年2月、日本中がテレビに釘付けとなった。5人の若者たちが、長野県軽井沢の「あさま山荘」に立てこもり、警察との銃撃戦を展開したのだ。彼らは、革命に自分たちのすべてを賭けた「連合赤軍」の兵士たち。その後、彼らの同志殺しが次々と明らかになり、日本の学生運動は完全に失速する−。ベトナム戦争、パリの5月革命、文化大革命、日米安保反対闘争、世界がうねりを上げていた1960年代。学費値上げ反対運動に端を発した日本の学生運動も、三里塚闘争など、農民や労働者と共に、社会変革を目指し、勢いを増していった。活動家の逮捕が相次ぐ中、先鋭化した若者たちによって、連合赤軍は結成される。
革命で世の中が変えられると日本でもまだ信じられていた時代、その先導を切ろうと情熱に燃える学生たちが沢山いたのだと思うと、この映画に示された危険性を認めてもなお、憧憬を抱かずにはいられない彼らの真剣さがある。
他者と分け隔てないという共産主義的理想が、自己の総括へと向かい、あまりにも人間性を無視した稚拙とも受け取れる論理がまかり通ってしまった悲劇は、それだけ彼らが真剣であった証左でもある。
彼らは自ら自己の矛盾に気付きながら、それでも自家撞着の蟻地獄から抜け出せずに、結局は最悪の、自分たちの理想と真逆の結論を導いてしまう。
これ自体が、共産主義の典型の小規模な顕現といえるのではないだろうか。
それは、人間の限界を露呈している。トップに立つものは腐敗する。
腐敗すれば、あとは瓦解するのみだ。
しかし彼らは狂気なのではない。彼らはまさしく人間らしいのだ。普通の人間だからこそ、一途な真剣さに自己を見失い、集団の中で異常さに気付きつつもそのことに確信を持つ勇気を持ち得なかった。
この作品に描かれたことで、僕が同じ状況であったならば、彼らと同じようにならなかったといえる自信は僕にはない。
誰でも、彼らのようになってしまう危険性をはらんでいる、それが人間というものだと思う、
これは、その真剣さが非情な時代の波によって飲み込まれてしまった悲しい実話だ。
しかしこの作品では、彼らを否定しているわけではない。
この映画で、僕たちが突きつけられるのは、彼らは、このように真剣に生きた、君たちはどうなんだ?ということなのである。
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