たとえば、ある人が悩んでいて病んでいたとする。
僕はその理由も知っているのに、あまり話したことないゆえに助けようとする勇気を持ち得ないのであれば、やはり自分は最低の人間だと思う。
そうすることで、僕は過去の自分をも見放している。
そのような己の弱さに屈して、他者の痛みを、そのシグナルを無視して汲み取ることができないのであれば、それは他人事だと傍観視しているのと変わらない。そんな僕に「あの時誰も助けてくれなかった、とか理解してくれなかった」と言う資格などない。
もっと強くなりたい。

話は変わるが、僕は映画は生きるうえでの教材だという観点で見ている。娯楽の要素も含まれるがそれだけではない。
自分の辛さを忘れさせたり、軽くさせてくれるものだけでもない。
映画には、作者の訴えたいこと、考え、価値観、登場人物の人生、生き様、そういうものが詰まっている。
たとえば、ある映画を見て人のやさしさを知る。残酷さをしる。世の中のすばらしさを知る。世の不条理を知る。
自分もこうありたいと思う。自分はこうありたくないと思う。世の中に感謝する。世野中の不条理に憤る。
しかし、映画を見終わり、1日たつと、その作品で感じたことは忘却に帰し、平常の生活の中で、これまでと変わらぬ自分がいる。
それじゃあ、映画が報われない。監督の思いが、登場人物が報われない。

どんなに勉強ができる人も、それが勉強のためだけに留まっているのであれば無用の長物だ。
自分がこうありたいと思うなら、そうなるように努力する。
こうありたくないと思うなら、作品を教訓として、同じ轍を踏まぬようにする。
落ち込んだとき、映画で見た世の中のすばらしさを思い出し、まだまだ捨てたもんじゃないと思う。
憤るなら、その不条理と闘おうとする。

作中人物がかわいそうだった。そう思うだけで終わってしまうのではなく、なぜかわいそうなのか、なぜあの人物はそうならざるをえなかったのか。じゃあ、自分はどうすべきなのか。
そういう風に敷衍して考えていく。
映画から得られるものは、自分の人間性を高めてくれる。成長させてくれる。人生を深みのあるものにしてくれる。
僕は人間的に成長したい。
人生をより濃密に、そして、より正しいものを見極めて生きていきたいと思っている。

同じことは読書にもいえる。
他者の生き方、人生、考え、価値観から、自分の生き方を学ぶ。

だから僕は映画を見続けるし、読書をし続ける。

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

日記内を検索