昨日の夜、情緒が不安定で、不遜な態度を取ってしまった同僚に勇気を出して謝罪し、状況と自分の考えを述べ、話し合った。

おかげで、いつもどおりの関係で、今日は気分よく仕事が出来た。

同じ作業場で作業する人間の数が多くなれば多くなるほど、人間関係というものは、複雑になっていく。
だけど、以前にも書いたけど、人間関係のいざこざは、そのほとんどが双方の認識のずれから来る、思い込みや誤解が原因だと思う。

それぞれの人が、他人の色々な思いを推測し、いつしかそれが真実のように感じられてきてしまう。
その思いをそれぞれ吐露しあう場を設けずに、それぞれが、自分の推測を推測のままに溜め込んでしまうと、自分自身の心も疲弊していってさらに思考がネガティブなものとなるし、それぞれがそれぞれの思惑を誤解しあったままで解けることもない。

誰も何も悪いことなどしていないのに、何故か関係が悪化していき、最後には憎悪に変わる、などという事態も、この思い込みと、自分自身だけで溜め込んでしまうことに起因しているのだと思う。

思えば、これほど無意味で、馬鹿馬鹿しくて、残念なこともない。
誤解が解ければ、たちどころに解決できることも、多くの人間(自分を含めて)は、なかなか誤解を解くための行動を実行する勇気を持ち得ない。

なぜ勇気を持ち得ないのか?

それは、自分の悩みや、弱さを人に知られることが恥ずかしい。といったような不必要なプライド(自尊心)と、人に悩みを相談すると、その人がその話題から話をそらそうとするのではないか、じっくりと向き合ってくれないのではないか?以後関係がさらに悪化するのではないか?という恐怖心と、逆に自分がそういった相談をされたときに、その悩みに付き添える覚悟が持てるか否かの確信がもてないことへの不安感、からではないだろうかと思う。

もともと人間は弱い生き物だから、無理に自分を強くあろうと見せるのではなく、弱いことを認めることが本当の強さだと思うし、思い込み(推測)というものは、そのほとんどがその時の心理状態を肯定する作用を持っているので、ネガティブなときは、そのネガティブな気持を正当化するように思い込むもので、それは負の連鎖を生む馬鹿らしい行為であることに気付かなければならない。

客観的、複眼的な視座を持ち、自己の考え方の矛盾や過ちを冷静に判別できる思考を持つことは一つの対抗できる武器となる。
だが、それだけでは十分でない。

このような人間関係のいざこざにおける思い込みや誤解を断ち切るために我々がするべきことは、何よりも、他人の悩みや相談に対して、真正面から向き合う覚悟、そして話し合いの中で、利己的な損得勘定を廃し、真実は何かを見極めようとする冷静な判断力、それに伴う、自分の過ちは過ちとして認めうる姿勢を持つことであり、そして何よりそういった考えを外部に表明することである。

自分は、相談や悩み、不安などにも真剣になって聞き、真剣に考えるし、お互い納得いくまでしっかり話し合うよ。そのことを話してくれたからといって、その後、あなたを受け入れないというようなことはないよ。人間は弱い生き物だから、間違いや弱さを恥ずかしいと思うことはないんだよ。

という自分のスタンスを鮮明にしておけば、相手も安心して、胸襟を開けるので、誤解や思い込みに至る前に不安になれば聞くことが出来るし、溜め込んで気分が打ちひしがれることも、感情が負の連鎖に陥っていくことも極力回避できる、と思っている。

上に述べたことは、僕のスタンスの表明でもあるわけだけど、誤解による無意味な溝などは、片方だけでなく双方が自分のスタンスを表明しない事にはその先の方向性は定まっていかない。
もちろん僕と違うスタンスの人間は、多種多様にいるわけで、それぞれの人の考えがわからない限り、その人に対する対処法も確実にはわからない。

「わからない」ということが、人が行動する際、勇気を強いるわけで、気持を自ら表明するということは、社会という中での人のしがらみを排除し円滑にするためには、まず最初に克服しなければならない僕たちの課題といえるのかもしれない。

という僕だって、ここ(日記)以外で自分の考えを表明できていないんだけどね。
それは、やっぱり、「周りの人のスタンスがわからない」事から勇気を持ち得ない弱さであるわけだ。

自戒の意味も込めて。

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