「自分がない」、とはどういうことをいうのだろう、ということです。
僕は確かに中学生あたりまで、自分のない人間でした。
境界性人格障害の特徴はアイデンティティの欠如です。
しかし、僕は幼馴染に、障害ゆえ決別されたとき、障害を盾に取るのではなく、障害に立ち向かう形で、徹底的な内省を行い、自分自身と向き合ってきたつもりだし、自分なりのアイデンティティを作ってきたつもりです。
今では、完全ではありませんが、かなりの部分、境界的な兆候は改善できたし、自分の芯も持っている、という自負があります。
今までの僕の日記を読んでくれている人なら、僕が自分の考えを持たず、自分がないという風に捉えてはいないだろうと信じたいし、僕ももともとそういった目的、つまり自分の日常の透明化と、考えの発露の場としてここを利用しています。
しかしながら、言葉というものは難しいです。
僕はもともと言葉をよく間違えます。頭の回転がはやくないのだと思います。薬を飲んでるからか、もともとからかはわかりません。
注意が瞬時には行き届かない。だから車も事故を短期間で三回起こすし、物をよくなくすし、クイズの早押しも不得意です。
逆に家でこうやって文章を書くときは、見直しできるのでよいですね。
夢中で話しているとき、本人は至ってまじめなのに、言葉の間違いを注意されることが度々あります。
ゆえに、僕は適当だと思われることがあります。
しかしながら、僕はそれが自分のジョークとして周りを和やかにするのだったら、むしろうれしいし構いません。
それが誤解であったとしても、適当という言葉を否定する気もありません。むしろ自ら意図的に適当を装っているときも結構あります。
なぜなら、それは「瑣末」なことだからです。
人が自分の考えを貫くのは、自分の信念に抵触する事柄において最も重要であり、その他の瑣末な、世間話や、雑談においては、自分の考えを貫くことばかりが正しいことだとも思っていません。
人間はそもそも間違う生き物です。
言葉を間違ったからといって、それが自分がないわけではないと思っています。
言葉は難しい、それを痛感するのは、人によって、その言葉の受け取り方が千差万別だからです。
僕の意図したかったニュアンスが、その言葉によって、うまく伝わらないことは当然起こりえるわけです。
「気に入っている」という言葉一つにとっても、様々な意味がそこに含有されています。
会話の中で、間違いを犯したなら、その間違いを訂正しながら、相手にもっともうまく伝わるニュアンスに言い換えていく。そういう行為が必要になります。
そのときに、いかに今の会話の雰囲気を壊さずに相手に自分の意志を伝えるか、も重要だと思います。自分の人間性に抵触しない瑣末な会話に、わざわざ直接的な言辞を用いて、相手を不快にさせてまで自分の意志を伝えることを僕は良しとしません。
ですから相手の意見も肯定しつつ、自分の意見を相手に伝えるなかで、結果的に同じ言葉を相手のニュアンスにおいて使った場合、自分がさっき使った言葉を否定するという形をとる場合もあります。
それは、「こういうニュアンスで僕はこの言葉を使ったけど、あなたはこういうニュアンスでこの言葉を捉えているみたいなので、その意味においてなら、この言葉は適切でない」という僕の意志の表明でもあり、その後に代替されるべき言葉が付与されます。
しかし、その代替されるべき言葉を発する前の時間において、僕は、周りから、「自分のない人間」という風に映る危険性もあるのだということを学びました。
そういった危険性を避けるためには、やはりもっと言葉を知り、そして無意識にも言葉の誤りを犯さないようになっていくことが何よりだと考えています。
さて、瑣末なことは妥協があってもよい、ですが、自分や相手の人間性と対峙するようなときは、僕は自分の意志を妥協しません。
そういう部分に対しては、弱い心に屈したことがないとはいいませんが、努力し、貫いてきたつもりです。
たとえば、相手が僕に真剣に悩みを相談してきたときには、僕は問題をうやむやに受け流したりはしません。真剣に聞き、真剣に考え、相手にちゃんと自分の考える自分の意志を伝えます。もちろん、相手の性格や伝わりやすいと僕が考える言葉を使ってですが、伝えるべき内容に変わりはありません。
きつくいうのが効果的な相手、諭すようにいうのが効果的な相手、僕なりに判断して、じっくり話し合います。
そのときは、僕の考えが否定されても、納得のいく論理的根拠を持って僕の考えの矛盾を暴かれない限り、僕は自説をけして曲げません。
そしてもう一つ、自己の意志の発露としていうなら、僕は高校を卒業してから、ほとんど、人に対して、抽象的に相手の人間性を否定する言葉を使いません。
それを僕は中傷と解しているのですが、具体がない非難、「バカ」や「アホ」や「マヌケ」などの言葉は、ここ数年間、ジョーク(これもほとんど使いませんが)で多少使うことはあっても、まじめな場では、使ってはいないし、その方針を変えるつもりもありません。
この中傷に関しては書いている日記がありますので、折を見て載せようと思っています。
もし僕が自分がない人間であったなら、こんなことをここには書かないでしょう。
これは僕がどういった人間であるかの僕の意志の表白であり、僕の自分というものの示し方です。
僕の行動において誤解を生じる事があるなら、僕の文章をちゃんと読んでもらえればその誤解は解けるものだと思っているし、そういった誤解を生じさせないためにも僕はここにこうやって自分の意見を書くことを辞めるつもりもないし、そしてそのこと自体が、僕という個性の表明だと考えています。
瑣末なことに妥協するのは、コミュニケーションを円滑にするために僕が考え導き出した僕の意志だし、何も考えずに適当に妥協しているのでもなければ、適当に言葉を発しているつもりも毛頭ありません。
また、当然ながら僕は自分の意見を持っているし、この日記に書いたがごとく、意志を発露しているし、自分では、普通の人が持っている程度には「自分がある」という意見を持っています。
僕は確かに中学生あたりまで、自分のない人間でした。
境界性人格障害の特徴はアイデンティティの欠如です。
しかし、僕は幼馴染に、障害ゆえ決別されたとき、障害を盾に取るのではなく、障害に立ち向かう形で、徹底的な内省を行い、自分自身と向き合ってきたつもりだし、自分なりのアイデンティティを作ってきたつもりです。
今では、完全ではありませんが、かなりの部分、境界的な兆候は改善できたし、自分の芯も持っている、という自負があります。
今までの僕の日記を読んでくれている人なら、僕が自分の考えを持たず、自分がないという風に捉えてはいないだろうと信じたいし、僕ももともとそういった目的、つまり自分の日常の透明化と、考えの発露の場としてここを利用しています。
しかしながら、言葉というものは難しいです。
僕はもともと言葉をよく間違えます。頭の回転がはやくないのだと思います。薬を飲んでるからか、もともとからかはわかりません。
注意が瞬時には行き届かない。だから車も事故を短期間で三回起こすし、物をよくなくすし、クイズの早押しも不得意です。
逆に家でこうやって文章を書くときは、見直しできるのでよいですね。
夢中で話しているとき、本人は至ってまじめなのに、言葉の間違いを注意されることが度々あります。
ゆえに、僕は適当だと思われることがあります。
しかしながら、僕はそれが自分のジョークとして周りを和やかにするのだったら、むしろうれしいし構いません。
それが誤解であったとしても、適当という言葉を否定する気もありません。むしろ自ら意図的に適当を装っているときも結構あります。
なぜなら、それは「瑣末」なことだからです。
人が自分の考えを貫くのは、自分の信念に抵触する事柄において最も重要であり、その他の瑣末な、世間話や、雑談においては、自分の考えを貫くことばかりが正しいことだとも思っていません。
人間はそもそも間違う生き物です。
言葉を間違ったからといって、それが自分がないわけではないと思っています。
言葉は難しい、それを痛感するのは、人によって、その言葉の受け取り方が千差万別だからです。
僕の意図したかったニュアンスが、その言葉によって、うまく伝わらないことは当然起こりえるわけです。
「気に入っている」という言葉一つにとっても、様々な意味がそこに含有されています。
会話の中で、間違いを犯したなら、その間違いを訂正しながら、相手にもっともうまく伝わるニュアンスに言い換えていく。そういう行為が必要になります。
そのときに、いかに今の会話の雰囲気を壊さずに相手に自分の意志を伝えるか、も重要だと思います。自分の人間性に抵触しない瑣末な会話に、わざわざ直接的な言辞を用いて、相手を不快にさせてまで自分の意志を伝えることを僕は良しとしません。
ですから相手の意見も肯定しつつ、自分の意見を相手に伝えるなかで、結果的に同じ言葉を相手のニュアンスにおいて使った場合、自分がさっき使った言葉を否定するという形をとる場合もあります。
それは、「こういうニュアンスで僕はこの言葉を使ったけど、あなたはこういうニュアンスでこの言葉を捉えているみたいなので、その意味においてなら、この言葉は適切でない」という僕の意志の表明でもあり、その後に代替されるべき言葉が付与されます。
しかし、その代替されるべき言葉を発する前の時間において、僕は、周りから、「自分のない人間」という風に映る危険性もあるのだということを学びました。
そういった危険性を避けるためには、やはりもっと言葉を知り、そして無意識にも言葉の誤りを犯さないようになっていくことが何よりだと考えています。
さて、瑣末なことは妥協があってもよい、ですが、自分や相手の人間性と対峙するようなときは、僕は自分の意志を妥協しません。
そういう部分に対しては、弱い心に屈したことがないとはいいませんが、努力し、貫いてきたつもりです。
たとえば、相手が僕に真剣に悩みを相談してきたときには、僕は問題をうやむやに受け流したりはしません。真剣に聞き、真剣に考え、相手にちゃんと自分の考える自分の意志を伝えます。もちろん、相手の性格や伝わりやすいと僕が考える言葉を使ってですが、伝えるべき内容に変わりはありません。
きつくいうのが効果的な相手、諭すようにいうのが効果的な相手、僕なりに判断して、じっくり話し合います。
そのときは、僕の考えが否定されても、納得のいく論理的根拠を持って僕の考えの矛盾を暴かれない限り、僕は自説をけして曲げません。
そしてもう一つ、自己の意志の発露としていうなら、僕は高校を卒業してから、ほとんど、人に対して、抽象的に相手の人間性を否定する言葉を使いません。
それを僕は中傷と解しているのですが、具体がない非難、「バカ」や「アホ」や「マヌケ」などの言葉は、ここ数年間、ジョーク(これもほとんど使いませんが)で多少使うことはあっても、まじめな場では、使ってはいないし、その方針を変えるつもりもありません。
この中傷に関しては書いている日記がありますので、折を見て載せようと思っています。
もし僕が自分がない人間であったなら、こんなことをここには書かないでしょう。
これは僕がどういった人間であるかの僕の意志の表白であり、僕の自分というものの示し方です。
僕の行動において誤解を生じる事があるなら、僕の文章をちゃんと読んでもらえればその誤解は解けるものだと思っているし、そういった誤解を生じさせないためにも僕はここにこうやって自分の意見を書くことを辞めるつもりもないし、そしてそのこと自体が、僕という個性の表明だと考えています。
瑣末なことに妥協するのは、コミュニケーションを円滑にするために僕が考え導き出した僕の意志だし、何も考えずに適当に妥協しているのでもなければ、適当に言葉を発しているつもりも毛頭ありません。
また、当然ながら僕は自分の意見を持っているし、この日記に書いたがごとく、意志を発露しているし、自分では、普通の人が持っている程度には「自分がある」という意見を持っています。
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